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出席番号二十五番 夕月琴音

 遅れてしまって非常に申し訳ございません。この一週間、私としては小説連載してから初めての出来事に直面してしまい……まぁ卒業式ですけれども、更新が途絶えておりました(言い訳)。

「和菓子の夕月」という和菓子店をパパが経営しているのが、私の密かな誇りだった。小さな誇りだったとは思うけど、「お前にもやるぞ」と姉ではなく私にくれる和菓子が、私にとっての密かな楽しみだったから。


 夕月家は、結構なお金持ちで、周りからは「琴音ちゃん、いいなぁ。お金持ちだから、何でも買ってもらえるし、お家も大きいでしょ?」と羨ましがられることも多いが、それほど楽しいことばかりではない。

 確かに家は普通の家よりかは大きいと思うし、ほしいと私が言えば何でも買ってもらえる。だけど、それでも辛いことと言えば沢山あるのだ。


 私には、年が離れた姉がいる。

 響子(きょうこ)という落ち着きのある名前で、成績も良ければ運動神経も良い、となると顔も良い。飛びぬけて美人という訳ではないが、品のある顔だ、と見れば分かってしまう、行儀の良い、と言っては何だが、損な顔だ。

 だがしかし、響子には、妹を思いやる気持ちがない。


 姉妹喧嘩の末、私は元々は自分の分だったおやつのプリンを響子に奪われてしまったのだ。「私のものなのに」と反論する私に、響子は「はぁ? 貼り紙もなくて、私の物ですって自己申告しなかったのに、お父様がたかが二つ買ってきただけで、何で琴音のものになるの?」と酷い暴論で私のプリンを奪ってきやがった。

 他にも姉にやりきれない思いを胸に、やられてしまったことは今までの人生の中に数え切れないほどある。それが一番多かったのが、このおやつのやり取り。

 私が小さい頃、毎日喧嘩の末に姉の威圧と暴論に押しとおされて泣き崩れているのを、パパが気の毒に思ったのか、隠れて私に「うちの和菓子だから」と持ってきてくれた。

 その和菓子が小さいながらとても美味しくて、これならプリンよりも和菓子の方が食べたい、と思っていたのだ。


 響子は性格がとてつもなく悪い。だから自分の通っている私立の中学校では、「外見がすごくても性格が駄目だ」と評判がすこぶる悪いらしい。

 響子の通う私立中学校は、頭がそれほど良いという訳ではない。ただ授業料とって、そこに通っていれば「お金持ちなんだね、すごいね」と羨ましがられるレベルの、ただの普通の中学校と変わりない。


 そこで頭が良くても、全国模試一桁に入れるとか、そんなわけではない。

 まぁ、全国模試一桁は、聖ハスカ生が占領しているんだけどね。



 そんな姉が、私は随分と前から嫌いだった。

 自分が一番だと思い込み、自分の妹をまるで人形のように扱う。

 何でこんな人が私の姉なのだろう。学校でも性格が悪いと評判の姉が何とも恥ずかしくて、私は絶対こうはならないぞ、と踏ん張りに踏ん張って、人のお菓子は勝手に食べない、人を暴論で言い負かしてはいけない、と学んだ。

 おかげでパパからは「琴音は響子と違って、暴力を振るわないし、人を脅したりしない優しい子で、本当に良かったよ」と言われている。

 多分、響子を真っ当な人間にしようとは、両親とも思っていないのだろう。諦めに近い何かが漂っている。

 お金持ちだという自分の立場に酔いしれて、他人を見下す響子。もう最早尊敬というものも出来ない。


 だが、響子に影響された点と言うのも少なからずある。


 それはピアノだ。


 独学から始め、本格的にピアノを習い始めて、いつの間にか楽しいと思うようになっていた。

 ピアノを弾くためには楽譜をずっと見なきゃいけないとか、そんなわけではない。独学時代は、動画サイトのピアノ動画を見て弾きたい曲を弾いたりしていた。

 昔から自分の好きな曲とか嫌いな曲とか、そう言うのを分け隔てなく幅広い曲を、パパやママのクラシック好きの影響で、沢山聴いていた。それを踏まえて、初めてピアノを習いたいと強く思ったのだ。


 そして始めてみたら、「琴音ちゃんは才能がある」と褒められる毎日だった。

 コンクールでは見事に優勝。都内だけではなく、国内にまでコンクールの規模が及ぶことが多くなった。

 そこで良い成績を暁には、心が丘小の話題は私で持ちきりだった。よく頑張った、とパパからはスマホを買ってもらった。もちろん自室には持っていってはいけない、というルール込みで。

 そのスマホで、私はよく奈名子ちゃんや秋枝ちゃんとLINEのやり取りをしている。奈名子ちゃんは一週間ごとにアイコンを変える。お父さんと散歩に行った公園の写真とか、三人で撮った自撮り写真とか。あの写真は、アイコンを変えても定期的に戻ってくるアイコン写真で、奈名子ちゃんがどれほど私達を大切にしてくれているかが手に取るように分かる。多分奈名子ちゃんは情が厚いのだろうが、ちょっと馬鹿っぽいのでその良さが薄れるときがある。


 そんな友達との思い出が、ときに演奏に反映されるときがある。

 その曲の情景を思い浮かべると、不思議と自然に綺麗になることがある。この前奈名子ちゃんや秋枝ちゃんにそれを聞いたら、「それは感情移入だ」と二人とも同じ答えが返ってきた。流石、何かを表現することに特化している二人はすごい。


 そんなことを以前二人に言ったら、「琴音ちゃんもスゴイ」と言われたのだが。

 自分がそれほど良い存在だとは思わない。自分が表現した世界が表現されるのは、誰かに認めてもらえてすごく嬉しいし、何しろ「琴音ちゃんって、何でも買ってもらえるよねー。羨ましい~!」と奈名子ちゃんが駄々をこねたほどだ。

 しょうがないじゃない、奈名子ちゃんは父子家庭でしょ、と秋枝ちゃんがなだめても「でも羨ましいよ~」と笑っている。

 あぁもう、何だか、二人といると、響子への恨みがふわんって浄化される気がする。

 奈名子ちゃんは一人っ子で父子家庭だし、兄弟喧嘩なんてしないけど、正直秋枝ちゃんは私と同じで姉がいるはずなのに、何故私と同じような状況にならないのか、不思議でしょうがなかった。

 彼女いわく、「お母さんに褒められ続けるお姉ちゃんが、羨ましくてしょうがなかったんだ」という話らしい。姉を嫌いと思わない人もいるんだと、私は初めて感じた。学年の男子は「姉ちゃんマジウザい」「早く社会人になって家出てってくれないかな」とボヤいているばっかりだ。そう思っていない人もいるのだろうか。


 正直言うと兄弟姉妹よりウザったい人物と言うものはいないと思う。一人っ子の奈名子ちゃんが羨ましいが、当の本人は「家に帰ると、学校とは全然違うなぁって感じるから、寂しいよ。お父さんは夜遅くまで働いているから、ご飯も一人で食べなきゃいけないし」と本当に寂しそうに言っていた。

「それに比べて、琴音ちゃんは賑やかだよね。羨ましいよ、すごく」と笑っていたものだ。うーん、賑やかとかそういう問題じゃないと思うんだよな。響子という恨めしい存在がいるから、日常もあんまり楽しめないというか。


 もちろん学校で楽しいことはある。


 その一つが、友達の存在。

 人を和ませるような存在、奈名子ちゃんと、大人っぽくて周りをハッとさせるような存在、秋枝ちゃん。壮大な過去を隠している真面目な夏実ちゃん。最近からよく一緒に行動するようになった、前世も天使、今も天使の実織ちゃん。


 五人でいることが、今いる状況の何より楽しい。

 もちろん好きな人だっているし、好きな人が「夕月っていいよな」と褒めてくれたことだってある。けれど、友達の方がやっぱり困った時に分かりあえるってもんだ。


 ピアノをやっているときも、何かを想像できて、広い湖へ足を踏み出し過ぎて溺れて、そこで何かを掴み取っていくような感じで、楽しい。何かを失うことなく誰かを笑顔に出来たり、自分が満足するようなことをしていることが嬉しい。


 ちなみにその好きな人とは大田君である。人気者の人に恋をするだなんて、また想像以上に厄介なこととか起こるのだろうけど、今のところ身近な人達は、大田君のことを何とも思っていないらしい。少なからずホッとする。

「ピアノ弾ける女子、本当に女子って感じがするよな~」と大田君が言っていた。私はそれで密かに自信を持てるようになったし、それを聞いていた女の子達は、翌日からピアノ習っていますとアピールしていて、女の子っていうものは面白い。


 ◆◇


「あら~。琴音ちゃん、久しぶりぃ」

 和菓子の夕月に立ち寄ると、後ろから声がかかった。


 嫌だ。聞きたくない声が聞こえる。

「は、はい……?」

「嫌だ、ちょっと、そんな険しい顔しないでよー。ウチと琴音ちゃんの仲でしょう?」


 冬坂然闇(ふゆさかさくら)


 私とは違う小学校に通っているけど、前に通っていた塾が同じだった子。

 高い位置で結んだツインテールを、輪を作ってまた結んだ位置に、シュシュで留めている。そして前髪はパッツン。アニメや漫画でしか見たことないよこの髪型。

 ボーダーのシャツにレースの黒いキャミソール、デニムのタイトスカートに猫のタイツ、靴はピンクのパンプス。

 つくづく冬坂さんの女子力の高さが感じられる。


 っていうか、ウチと琴音ちゃんの仲って、何それ。

 私、冬坂さんに()()()()()()()()()()()()()

「ここのお菓子、チョー美味しいよね! 琴音ちゃんも買いに来たの?」

「……まぁ」

 私の家がやっているお店だから、たまには買おうかなと思って……とは言えずに。

 私が口ごもっていると、冬坂さんは「ウチは、絵糸(えいと)君にあげるの!」と何故か自信満々に言っている。

 恐らく彼女は絵糸君という人が好きなんだろう、と私は感じ取ることが出来た。でも、いじめをしてくる彼女の恋を応援することが、私にはどうにも出来ない。


 ◆◇


 私が塾のトイレから教室に戻ってくると、シャーペンが一本盗まれていることがあった。

 元々私の通っていた塾が個別指導の塾で、一人の先生が二人の生徒を担当している塾だった。私と一緒に勉強していた人と言うのが絵糸君だったのだ。

 彼は頭も良く、というか生まれつきの知性っていうのかな、溢れ出るカリスマ感が、先生をも圧倒していた。

 しかし、喋らない。圧倒的喋らなさ。クラスでも目立たない方の瀬戸口君の方がまだ喋る。とにかく必要最低限のことしか喋らない。

「宜しくお願いします」とか「先生、質問です」ぐらいしか喋らない。

 授業が終わると、「夕月さん、さようなら」と会釈をしてさっさとバッグを肩にかけて言ってしまう。


 一度自習時間のときに、私は授業が行われる席で勉強していたのだが、絵糸君が「夕月さん、分からない問題あるの?」と急に私に尋ねてきたのである。

 普段私に声をかけてこない絵糸君が話しかけてくるのは、非常に珍しいことだった。

 私は頷き、「ここなんだよね」とプリントを指差す。

 絵糸君は「そこかぁ」と言いながら席に座り、自分の筆箱から鉛筆を取り出した。人の持っている鉛筆を勝手に取る男子とは大違いである。スマートな男子だな、無口だけど。

 普通の鉛筆に、ちゃんとしたキャップが付いている。うーん、きちんとしているな、絵糸君。無口だけど。

 しかも書く字が綺麗。私達がよく書く小さな文字よりも、しっかりしているしきっちりしている字だ。無口だけど。


 無口だけど、と最後に付ける私も、響子に負けず劣らず意地悪で最低な奴かもしれない。


 でも、絵糸君の印象が変わったのは事実だった。

 無口で話しかけづらい印象だったけれど、このことがあって、私は絵糸君の印象が変わった。


 だけどその時、偶然塾に来ていた冬坂さんに見られてしまったのだ。

 絵糸君と冬坂さんが幼馴染みだということは、雰囲気で感じていたけれど、絵糸君のことを冬坂さんが好きなことは気付いていなかった。

 無口な絵糸君と話している私が気に食わなかったのだろう、と今になっては思う。

 翌日から私が塾に行くと、持ち物が消えるようになっていた。

 初めはシャーペンが一本なくなるだけで、私がおろおろするだけだった。それを遠くからこそっと見て笑っている、冬坂さん。形の整っている髪の毛が揺れる。


 まぁ、絵糸君がシャーペンを貸してくれたんだけど。今思えば、絵糸君から遠ざけるためにいじめを行っていたのに、こうなってしまっては逆効果なんじゃないかと思うが、当の私は、誰がやったかも、誰が何のためにやったのかも分からないから、悩むばっかりだったんだけど。

 誰にも話せず、唯一私の異変に気付いてくれるのは絵糸君だけだった。私をいじめている人が、彼にも想像できなかったらしい。

「確かに夕月さんのシャーペンはさっきまであった」と彼が言うと、何故だか妙な安心感があったから不思議だ。


 次第に、私の筆箱からどんどん物がなくなっていくようになった。

 シャー芯、消しゴム、ボールペン。それら全て、授業が終わったタイミングで返って来ていたから、実際には害はない。ただ塾の授業中、絵糸君にいちいち貸してもらうのも少々気が引けるものだ。


 絵糸君が私を思いやってくれていることは、心底有り難かったし、いじめの実行犯が誰だか分からない分、安心も出来た。

 もちろん、いじめと決まったわけではない。ただ単に私が超絶うっかりだっただけっていうこともあるし、誰かが私のと間違って入れて、それが返ってきたというだけでもあるかもしれない。それが何人も積み重なって……って、それはただのいじめか。


 絵糸君には悪いし、本当に無くなってしまうものまであるから、学校用の筆箱から鉛筆を拝借していくこともあった。

 一度絵糸君が、「それ、良いブランドの鉛筆だね。俺も使ってる」と自分から話しかけてくれたのだ。私と仲良くなってくれるのか、と嬉しかった。こんな、いつもシャーペンを借りるような人と。

 絵糸君には心から感謝しているし、塾に行くときに襲われる不安から守ってくれるような存在だったと言ってもいい。


 だけどその一方で、不安は積み重なっていくばかりだった。

 いくら絵糸君がシャーペンを貸してくれたからって、こんな状況がいつまでも続くとは限らない。筆箱を隠しておくのはどうだろう、そうしよう。


 そう思って、塾のバッグの奥底に筆箱を仕舞い込んで、私は塾のプリントを取りに戸棚の方へ向かう。

 そこで絵糸君が塾の扉を開けて入ってきたため、私は「こんばんは、絵糸君」と会釈をした。

 絵糸君はすぐに顔を赤らめて、「うっす」と会釈をしてくれた。

「……何やってるの? プリントを取りに?」

「うん、あ、今日は大丈夫だよ? 筆箱バッグの下に隠しておいたから。見られないよ、絶対!」

 自信満々に胸を張ると、絵糸君は何故か噴き出した。

「な、何で笑うの?」

「何でもないよ」

 絵糸君が笑いを引っ込めて、でもなお笑顔で言う。

 初対面の時とは違い、明るくなった顔で笑う絵糸君を、私はいつの間にか好きだったのかもしれない。

 大田君と絵糸君。二人を好きな私って、ちょっと人間としてクズレベルだと思う。正直響子よりも最悪なレベルだな、と自分でも自負しながら、笑顔でそれを隠し通す。


 それから私と絵糸君は、戸棚の前で色々と話した。

 絵糸君は塾の噂では「必要最低限のことしか話さない」性格らしい。そんな人が私とよく話してくれる、ということは、心を許してくれている証拠、なのだろうか。

 そうだったらいいな、と思いながら、私は絵糸君と話す。

 セミが鳴く夏の夕方。心地よいほどのクーラーが効いている塾の教室の中、この心地よい、まるで親友と過ごすような時間がずっと続けばいいのに、と密かに思った。


「じゃ、自習、やっとく?」

「うん」


 私は絵糸君と並んで歩いて、席に座った。塾の席にかけてあるバッグから筆箱を取り出す。


 はず、だったのに。


 筆箱が、どこにもなかった。



「嘘っ、ない!?」

「はっ? 夕月さん、確かさっき隠したって……」



 今回はまさかの事例。これまではちょこちょこと一点一点なくなっていくものだった。シャーペンがなくなった。じゃあ鉛筆で。消しゴムがなくなった、じゃあ修正テープで。どうせ授業が終わる頃には、まぁたまになくなる物もあるけど、戻ってくるんだから大丈夫だよね、と補うことが出来た。

 だけど今はどうだ。補おうにも文房具が何もない。絵糸君も困ったような顔をしている。そりゃあそうだよね。絵糸君、シャーペンは二本、消しゴムは一個という、必要最低限の物しか持っていないもの。授業中、他人が自分の文房具を触るわけだ。自分が使えないのは、結構地獄だろう。


 私は絵糸君に謝って、慌ててバッグの中を探した。もし、もし文房具がなくっても、鉛筆の一本ぐらいは、と思っても、何一つ、一本もなかった。

 ……一つ、一つだけ何かあったとするならば、粉々になった触り心地の、何か。暗くて何も見えなかったけど、そんな何かがあった。

 きっと私、消しカス溜め過ぎたんだろうな。あー、塾のとき、塾の床も筆箱も汚したくなくて、バッグの中に入れたんだっけ。ちゃんと、掃除しなきゃな。

 背筋がスーッと冷たくなるのを感じた。


 これはあれだ、五年生の頃の運動会と同じ感じだ。借り人競争のとき、まさかの「好きな人」というお題が出てしまい、大田君を連れていくか行かないか、葛藤したあの瞬間と、同じ感じだ。

 皆から責められ、罪悪感で心はいっぱい。奈名子ちゃんや秋枝ちゃん、夏実ちゃんが助けてくれて、少し気持ちは和らいだけど、あの時の後悔やら申し訳なさやらは、今でも思い出すと死にたくなるレベルだ。

 そして今、絵糸君にも、そんな申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまっている。あぁ、ごめんなさい。本当にごめんなさい。どうしてなくなってしまったんだろう。やっぱりこれは誰かの意地悪でしかない。


 絵糸君は「いいっていいって。夕月さんが困るぐらいなら、俺が困る方がまだマシだ」と笑いながら、消しゴムとシャーペンを渡してくれた。


 ◆◇


 バッグの中にプリントをしまおうと、バッグを机の上に置いたところで、私の目は大きく見開かれた。



 消しカスだと思っていた物は、粉々になった鉛筆の破片だった。

 鉛筆だけではない。シャーペンやらシャー芯やら、私の持っている文房具ばっかりだった。



「……どうしたの? 夕月さん」

 絵糸君が、目を見開いて何も言えない私を見て、怪訝そうに眉をひそめる。

 絵糸君の声で我に帰った私は、「……ううん、何でもない」と言い放ち、「じゃあね、絵糸君」と言いながら席を立ち、小走りで玄関に向かう。

「ありがとうございました」

 受付の人と視線も合わせずに、私は玄関の扉を開ける。


 蒸し暑い気温とセミの鳴き声が、やけに遠くに聞こえる。



 その日から私は、一度たりとも塾に行くことがなかった。

 そして、塾をやめることにした。


 ◆◇


 全てはこの冬坂さんが原因だと、塾を辞めた後、誰かから聞いた。

 冬坂さんは絵糸君のことが好きで、絵糸君と仲良さげに話す私が邪魔でしょうがなかった。

 絵糸君に疑われないように、冬坂さんは盗んだ文房具は必ず授業が終わり際に返して、「実害はない」ように見立てた。

 だけど塾に行った最後の日、「必要最低限のことしか喋らない」絵糸君と話している私を見て恨みを持ち、バッグを漁って筆箱を奪い取り、中に入っていたシャーペンやら鉛筆やらをバラバラに裂いたのだという。


「絵糸君、マジ格好いいし、ウチに超お似合いだよね!? ね!?」

「……うん」


 いじめていた女子に、よくそんなことが言えるよね。

 何で貴方は絵糸君が好きなの? それで私を貶めるの?

 あぁ、分からない。冬坂さんは分からないよ。奈名子ちゃんのように分かりやすい素直な性格じゃなければ、秋枝ちゃんのように大人っぽく周りを見渡すようなクールな人でもない。夏実ちゃんのように真面目で人のことを考えるような人ではなければ、実織ちゃんのように裏表のない優しさがあるわけでもなかった。

 ただ可愛さがあるだけ。そこに何も人を思いやる心はない。

 心がどこか空っぽのような気がする。そんな目が彼女の瞳に広がっている。


 この子、本当に人間なんだろうか、と思ってさえしまう。

 無口だけど、けど確かに瞳に温もりがある絵糸君とは大違いだ。この子が本当に絵糸君の幼馴染みなんだろうか。

 普通に男子から可愛いと言われたい女子だって、こんな同性への思いやりを知らない瞳をすることなんかないと思うけれど。


「じゃあ、ね、琴音ちゃん」

「うん、じゃあね」


 結局何がしたかったんだろう。


 ◆◇


 どうして塾を辞めてしまったんだろう。

 今の時間帯、一年前の私ならとっくのとうに塾に行っている時間だ。

 なのに何故今、こんなことになっているのだろうと心底不思議でならなかった。置かれている状況が理解できない。


 私達は今、殺人ゲームの最中、必死で逃げている。

 随分と外は暗いのに、一向に終わる気配がない。



 こんなときに大田君の下駄箱に手紙を入れるだなんて、正直自分でも何てバットタイミングなんだろうと絶望したほどだ。

 絵糸君への想いを断ち切ろうと手紙を書いたのに、結局今一番助けて、と思っているのは絵糸君だ。

 

 絵糸君と冬坂さんが付き合ってしまえば、この想いは消えるのだろうか。

 ……いや、いやいやいや。

 何で私の筆箱をぶっ壊した女子が、私にシャーペンを貸してくれた男子と付き合わなきゃいけないの?

 あんな奴、今の私のように絶望の淵に立たされて、友達も誰もいない場所で一人泣き叫んでいればいいのに。


 ……あぁ、今私、響子よりひどいこと思っているんだろうな。響子もさすがにこんな風には言わない。「琴音マジ死ね」とか「キモい、ウザい」と言っているだけだ。こんな風にむごいことを言ったことは一度たりともなかっただろう。



「来たよ、先生」

「……っ」

 六年三組のベランダから六年三組の様子を覗いていた秋枝ちゃんが、そんなことを言うもんだから、私は思わず、息を呑んでしまった。


 どうか先生が、ここを探し当てませんように。

 お願いします、どうか、どうか。


 こんなに願ったのは初めてかもしれない。自分が救われたいから、これほどまでに願った。

 今までピアノを沢山頑張ってきた。皆から才能があると言われた。ピアノコンクールで、何度も金賞を取ったことがある。

 金賞を取るとき、すごく祈った。何度も何度も祈った。金賞が取れなかった時もある。


 そんなのとは比にならないほどに私は今、願っている。

 ただ、私って、運が悪いからな。こういう時に限って、先生に見付かっちゃう……。



 パンッ! バンッ! バンッ! バンッ! バンッ!



「おやおや。君達は、馬鹿かな? まぁ、馬鹿ならしょうがないですねぇ」


 先生が不気味な笑みを向ける。

 あぁ、この瞳はあれだ。響子が人を陥れるときの瞳と同じ。


 とんでもないぐらいの激痛が私の体を襲う。

 今まで何度も怪我したことがあるけれど、それとは比べ物にならないほど、痛みが全身を背中からはいずり回ってくる。


 嫌だ、何だこの痛さ。指を反らせるだけで痛い痛いと叫ぶ私にとっては、この痛さは未知数過ぎる。

「先生……何で、こんな……ことを?」

 夏実ちゃんが悲痛そうな声をあげて、先生を見やる。

 夏実ちゃんの後ろには、弾丸を受けていないはずなのに、夏実ちゃんの数倍傷付いたような表情の一誠君。

 一誠君、人が自分をかばったのを見て、すごく嫌だったんだろうな。自分がかばっていくようなタイプだったから。

 サッカーのときの一誠君、すごくかっこいいもんね。


 あぁ、駄目だ、私すっごく目移りしちゃうなって、こんな状況でも思う。

「……可哀想に、綺麗な顔がぐしゃぐしゃですよ?」

 それは一体、誰に言っているのだろう。私は泣いてはいない。涙でぐしゃぐしゃなのは、二発弾丸を受けた夏実ちゃんだけ。

 ……ってことは、夏実ちゃんに言っているのか。

 確かに、夏実ちゃんは涙もろい。一年の頃から知っているからよく分かる。

 両親を亡くし、親戚の家で弟と暮らす彼女は、運動が大の苦手で、怪我にも弱い。一緒に登校しているとき、彼女が転んで大号泣したことは何度あったか。

 けれど芯の強さは人一倍だ。いくら惨たらしいことがあっても、立ち直れる力を持っている。

 真面目で柔らかな印象を与えるけれど、実は人一倍、涙もろくて人情と思いやりに溢れた人なのだ。


 一誠君の分の弾丸をかばって、さぞかし痛かったことだろう。けれど、「何で撃たれなかったんだ!」とは決して思わない。

 ただそこに、優しさがあるだけだ。


「お前が言うな、クズ教師めが!」

 秋枝ちゃんが思いっきり牙を剥く。先生にこんなに歯向かったのは、最初で最後なんじゃないだろうか。

 秋枝ちゃんが牙を剥いたのが面白かったのかそうでないのか、何故か先生は「あはははっ」と笑いだす。

「面白い、実に面白い。……君達のような、お人好しで良い人の中に、こんなに人に向かって罵詈雑言を吐く人がいるとは。

 僕はね、人が壊れていく姿を見るのが好きなんですよ」

「ざっけんな、この異常クズ教師!」

 秋枝ちゃんが叫ぶ。私はそれに反応することも出来ずに、ただ先生を見つめることしか出来なかった。


 信じられない。この人が先生だっていうの。

 あんなに優しかった先生だっていうの。生徒のことを親身になって考えてくれた、あの先生だというの。

 一体この短期間で何が彼を変えさせたのか。先生を、何が豹変させたのか。

 それを知るのは、最早出来ない望みとなった。



 最後にもう一度だけ、大田君……は、死んじゃったけど、絵糸君に会いたかった。

 また、シャーペンを貸してほしかった。夕月さん、と名前を呼んでくれるだけでいい。

 笑ってくれなくてもいいから。


 もし願いが届くのなら、もう一度、絵糸君に会わせてほしい。

 友達と死ぬことが出来るのなら、それは本望だ。でも、絵糸君に伝えたかったことを伝えきれないでいる。

 最悪だ。いや、これはもう最悪を通り越して、運が最高に悪かったとしか言いようがない。

 ニヤニヤ笑いながら銃口をあっちこっちにずらしている先生を見ると、イライラが止まらなかった。


「そうだよ! 秋枝ちゃんの言うとおりだよ! 何で先生は人を殺しちゃうの!? 最低ですよ、異常ですよ、クズです!」


 最低限、それしか言うことが出来ないけれど。



 その瞬間。

 先生の目が、一瞬、笑っていなかった。

 だが、またさっきの瞳に戻す。……けれども。

 その目が、さっきとは違う。全くもって、変わっている。



「……おやおや、君達は、どうやら死にたいようだね」



 これって、私が先生を激怒させちゃった……のかもしれない。


 今すぐ皆に土下座したい。ごめんなさいと謝って、私が全部、弾丸を受けたい。

 だが、自由の利かない鈍痛の走る体では、土下座することも、体を張ることも出来ない。


 心が絵糸君を前にする時のドキドキとは違い、氷のように冷やされた感覚を覚える。


「さようなら、貴方達は、才能を持っていながら、実にアンラッキーガールだったようだ」


 先生が笑っていない目で、銃口を向ける。

「ざけんなよっ」

 奈名子ちゃんが、叫ぶ。


 あぁ、こんなことになってしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。



 ごめんなさい。



 お願い、撃たないで。私だけにして。



 この願いが届けばいいのに、その想いだけはどうしても届かなかった。

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