出席番号一番 天海実月
「ねぇ、そう君、私達、どうなっちゃうの?」
「しっ、静かにして、実月」
そう君は、私の口を塞いだ。そして、思いっきり私を抱き寄せていた。
自分が殺されるのを心配しているのか、心臓がドキドキ鳴っている。
先生が「殺人ゲーム」を計画して、今逃げてから早数分。
私、天海実月と、そう君は、理科室の棚の中に隠れている。
◆◇
今年のホワイトデーの日、私はそう君に告白された。
そう君とは、水川想樹のことだ。
四年の終わりに声変わりを経験した彼は、私と同じくらいの身長だった。「俺、もう身長伸びねぇのかなぁ」と嘆いているのを、何度か見たことがあった。
そんなある日、私の下駄箱に、小さな箱が入っているのが見えた。パッと見たら全然気付かないような。
その中には、手紙が入っていて、「裏門に来てください」と、ただ一言だけ書かれていた。
裏門には、水川想樹君という、意外な人物が立っていた。
そして、「付き合ってください」と真剣な告白をされた。初めはただ驚いて、頷いていた。そこから、そう君は「よっしゃああ!」と叫んで、それから……は、よく覚えていない。
ただ、そう君と一緒にいる日々は、想像以上に楽しかったことだけは覚えていた。
教室で折り紙を折ったり、一緒に登下校するだけの仲だけど、それだけでも幸せで。
いつしか、そう君が好きになっていた。両想いだな、と思って、いつかそれを伝えようと思っていた。
でも、それを伝える日は、もっと遅くなるんじゃないかなって、六年三組で過ごすうちに、思っていた。
優しい代表委員長、神楽藍花ちゃん。一年からずっと一緒の大親友、七恵と香奈枝。ちょっとうざったい、けれども可愛い美玖ちゃん。苦手な春日君。明るいカリスマ女子三人。
そんな六年三組と、そう君が、私はとっても大好きだった。
だから、卒業式に想いを伝えようだなんて、機会を後回しにしていた。
◆◇
だけど、それを伝える日なんて、なかったんじゃないかって、今は思う。
先生が突如企画した「とっても楽しいこと」。初めは大田君が、「マジで!?」とお祭り騒ぎしただけだった。
だけどそこで春日君が「テニスがある」とキレて、そこから先生がおかしくなってしまった。
自分の教え子の春日君を、撃ち殺してしまったのだ。
教室には、琴音ちゃんを初め、沢山の悲鳴が上がって。先生の不敵な笑みは、見れるものではなかった。
最初は冗談かと思った。先生と春日君が手を組んで、騒いだ教室の中心で、「ドッキリ大成功!」と叫ぶものかと思っていた。そうであってほしかったし。
でも、いつまでも起き上がらない春日君を見て、ついに冗談ではないことを誘った。
ゲームスタートの合図が奏でられると、私は急いで教室を飛び出した。そう君の腕を掴んで。
本当は、一刻も早く、七恵と香奈枝の安否も確認したかった。でも、怖かった。理科室に逃げ込み、息をつくと、瞬く間に心臓の音が、響いていた。
「大丈夫か、実月」
かすれた声で、そう君が尋ねてきた。
「……そう君……」
「絶対、逃げ切ろうな。マジで、約束だからな」
狭い棚の中で、そう君の細い小指が差し出される。私は、そう君の小指よりも更に細い自分の指を、巻き付けた。
「うん……」
本当は、一刻も早くこんなゲームなんか放り出してやりたかった。いつもの日常に戻りたい。私、何か悪いことしたのかな? 皆が何か悪いことをしたの?
そんなことを思っていると、私の視界が歪んできた。自分が泣いているんだと気付く前に、そう君が人差し指で私の涙を拭いてくれた。
「実月、泣くな……」
そう言うそう君の声も、微かに震えていた。
「だって、……先生、おかしいよ。いつもの先生じゃないよ。……あんなに優しかったのに……」
私は、また泣きそうになる。先生の優しい笑みと、春日君を殺してしまった時の、あの笑みが、全然マッチしなかった。マッチしなかっただけで、それも全部先生の表情なんだと分かると、一気に悲しさが込み上げてくる。
「あぁ、そうだ。……今の先生は狂っている。まともだったら、あんな真面目な先生が、春日を撃ち殺したり、こんな馬鹿げたゲームを企画したりはしない」
そう君が言う。自分の考えを理解してくれた人がいた、と、変なところで感動してしまった。
「だから、俺達が生き残って、生きて、先生を説得するしかないんだよ」
そう君は、私に、語りかけた。
こんな非常事態のはずなのに、そう君は、先生のことを、周りのことを、きちんと考えているのだ。
それなのに、私は。そう君や、自分のこと、七恵と香奈枝のことだけしか、考えていない。
後先のことを考えるそう君は、立派だ。
だからこそ、私も成長しなければいけないのに。
何故、涙が出てしまうのだろう。
「……あのね、そう君」
前向きなそう君の考えとは反対に、私の頭の中には、暗い考えが浮かんでいく。
撃ち殺された春日君は、テニスを習っていて、身軽な男子だった。そんな人が、撃ち殺されてしまうのだから、きっと、水泳しか習っていない私なんか、簡単に撃ち殺されてしまうだろう。
そう君はどうなるんだろう。分かんない。けれども、私よりは生きるはずだ。
だったら、今ここで、そう君が好きだと、想いを伝えてしまおうか。
死ぬ前に、好きな人には、想いを伝えておきたい。
両想いなら、早く告白して、残り短い人生を、幸せに暮らしたい。
だけど、私達は、ここでじっとしているしか方法はないのだ。
「何だ?」
かすれた声が、すぐ近くで聞こえる。
「あのね……」
周りに誰もいないことを確認する。このときに、先生が来てしまったら、一大事だ。
「私も、そう君のことが、大好きだよ……」
間を置いて、そう君の頬が赤くなった。
「なっ、えっ。それ、今言われても……」
口元を押さえて、私から視線を逸らす。
告白してしまってから、何だか私の方も恥ずかしくなってしまう。思わず後ろに体重をかけると、ビーカーとぶつかって、派手な音をたてた。
「!」
大失態をしてしまい、私の顔は思わず赤くなる。
「馬鹿、何してんだよ! 気付かれちゃうだろ?」
珍しくそう君が怒る。
「ごめん……」
私は、ぺこりと頭を下げる。
「……そんなことより、ここじゃ見付かるからな。……もっと安全な所を探そうぜ」
そう君は、赤い顔を引っ込めて顔を強張らせる。
「でも、開けたら気付かれるんじゃ……」
「大丈夫だ。今は人の気配はない」
私の反論を、そう君は押さえて、引き戸を恐る恐る開けた。
「……よし、大丈夫だ。理科室には誰もいない」
そう君の言葉に、私は安堵して、そっと棚を出る。
「あ、ちょっと待って」
私は、少しだけ考えて、そう君に言った。
「何?」
そう君は理科室の引き戸を開けようとしている。
「ちょっと、先生が来たときに、あれかけようと思って」
「あれって、何だよ」
私は、理科室の棚を片っ端から開けて、「水酸化ナトリウムの水溶液」と書かれた瓶を持ってきた。
「これだよ。この前私達、酸性とかアルカリ性とか中性のやつやったでしょ?」
「あぁ、水溶液のやつな。……まさか、それで……?」
そう君は顔を青白くさせる。元々の小麦色の顔とあんまり変わらないけど。
「そう。それで先生、パニック状態でしょ」
「ま、まぁな」
何だか少しだけ引かれた気がする。
私とそう君は、理科室を出た。私の手には、水酸化ナトリウムが入った瓶。
「……それで先生を本気でやっつけられると思うか?」
「思う」
これはマジで本気なんだけど。だって普通水酸化ナトリウムを顔にぶっかけられたら、パニクると思わない?
去年の六年生の男子が、実験中にふざけてたら、水酸化ナトリウムの入った瓶を、女子の目の前で割ってしまって、その女子の皮膚が大変なことになった、って話をされた気がするから、つまりそれほど水酸化ナトリウムって大変なものなんでしょ?
それでそう君は何でこんな呆れた顔をしているんだろう。
「やっぱ、実月って天然だな」
「て、天然? そんなことないよ」
そう君、それは違うって。というか、男の人の中にも肌を気にしている人だっているんだよ。だったらさぁ、と頭の中で勝手な持論を述べる。
「可愛いってことだよ」
「っ」
不意打ち禁止だ。そう君、結構侮れないんだよな。しかも声がまさに男って感じだから、すぐキュンとあしてしまう。いつも合唱のアルトパートを歌っているかのような、そんな声なんだもん。
「な~んてな。非常事態に実月をもてはやしてる暇ないもんな」
「は~? それ、ど~いう意味ですかぁ~?」
私は思いっきりぶー垂れる。その時間が、とっても幸せで。
まるで、殺人ゲームなんだということを、忘れてしまうような感じで。
◆◇
それから間もなくして、藍花ちゃんと麗羅ちゃんが、渡り廊下を歩いてきた。
家庭科室から持ってきたのか、藍花ちゃんは、包丁をハンカチに包んで持っている。
麗羅ちゃんは、不審者が来たとき用の、大きな取っ手みたいな物を持っている。名前はよく分からないが、低学年の頃、先生がよく説明していたものだった。
「藍花ちゃん」
私が呼び掛けると、藍花ちゃんではなく、麗羅ちゃんが手を振った。そして、たったった、と私達に向かってくる。
「ここにいたんだ。二人とも」
「うん」
麗羅ちゃんは、ポニーテールを揺らしながら微笑んだ。美人が笑うと、やっぱり美人のままで。綺麗だなぁ、と、同性ながらも感動した。
「私達、家庭科室から、包丁を、二年二組からこれを拝借してきたんだけど……そっちは、その瓶は?」
麗羅ちゃんは、大きな取っ手を天高く持ち上げる。そして、私の持っている瓶に目を向けた。
「理科室からパクってきました、水酸化ナトリウムの入った瓶です」
「何とまぁ、物騒ですね」
クスッと藍花ちゃんが微笑んだ。麗羅ちゃんほどではないけど、整った顔が、クシャッと歪んだ。
「これを先生の目にかければ、パニくると思って」
「でも、犯罪になりませんか? それ」
私の提案に、藍花ちゃんは不安そうな目を向ける。
「大丈夫よ、先生既に春日君を殺してる時点で犯罪者だもん、しかも未成年だもん。罪は軽いよ。おあいこおあいこ」
麗羅ちゃんがたまらず噴き出した。続いてそう君も思わず噴き出した。
何よ~、と笑うと、更に二人は噴き出した。藍花ちゃんは、「どうかされたのですか?」と首を捻っている。真面目な藍花ちゃんは、この二人のノリが理解しがたいようだった。大丈夫、ここにも仲間はいるよ。
「っていうか、春日、マジムカつかね?」
突然、そう君がそんなことを言い始めた。
私は、突然の言動に戸惑いながらも、頷いた。確かに、春日君は、嫌いだから。
「あぁ、まぁね。私、ムカつくというか、人の悪口をイジイジ言う人が嫌いなんだよね」
それは、春日君だけにではなく、美玖ちゃんにも言えることだった。
美玖ちゃんは、麗羅ちゃんの親友の、美少女優等生、藍花ちゃんが嫌いだから。
肩から一センチほど離れたおかっぱの髪型に、美人に、青い眼鏡。算数の問題はスラスラ解ける。持久力がないため、体育は大の苦手だと言う欠点持ち。だけど、それを充分にカバーできるほど、魅力にあふれた少女だった。更に性格もすごく可愛い。嫌いな人は作らない主義で、しっかりしていて、優しい。それに、笑顔がすごく可愛くて、学校でもモテモテだった。
そんな子は、目立つ女子の間で嫌われるのは、目に見えている。
しかも、美玖ちゃんは麗羅ちゃんのことも嫌いらしかった。
サラサラつやつやの髪の毛を、ポニーテールで結んでいる麗羅ちゃん。体育が大の得意科目で、ヤンキー家庭から生まれた美少女。活発で明るくて、親しみやすい女の子で、親切な良い人だった。彼女の親は運動会に来ては子供を泣かせる筋金入りのヤンキーらしいが、彼女からはそんな雰囲気は微塵も感じさせない。
「私も、嫌いです」
藍花ちゃんが、ボソッと言った。
「えぇ、マジィ?」
私は意外な発言に、思わず叫んでしまう。そして、そう君に口を押さえられる。少しだけ顔が赤くなった。
「……人の悪口言う人は、本当に、嫌いなんです。……自分のことを棚に上げて、人に酷いことをする人が」
彼女は真っ当なことを言っている。
こんな、「リスペクト出来る人物」を、最大限まで突き詰めたような美少女優等生を、何でこんな狂ったデスゲームに巻き込んだのか。
やっぱり、あの教師は異常だ。
「……神楽の言うとおりだ。俺は、あいつのああいうところが嫌いだ」
きっぱりと言い放つそう君。
「それにあいつは、橘にも、鈴木にも嫌われてるから」
「はぁ? マジで?」
これに一番驚いたのは、麗羅ちゃんだった。
「充と雄樹、巧嫌いなんだ」
意外~、と納得できなそうな麗羅ちゃんを見る。美人は、どんな顔をしても美人なんだな、と遅れて理解する。
と。
バンッ!
そんな音が鳴り響いた直後、「キャアアアアア!」と女の子の悲鳴が聞こえた。
バタッ、と何かが倒れる音。
それは、階下から聞こえた。
「遼平っ、目を覚まして、遼平!?」
「この声……、華菜さんの声?」
一番最初に気付いたのは、藍花ちゃんだった。
遼平、ということは、倒れたのは、上原遼平……?
「嘘ッ」
このゲーム、最初の被害者が出てしまったのかもしれない。
「キャアアアアァァァァッッッッ! 撃たないで! お願いしますっ」
必死で懇願する、華菜ちゃんの声。
私は、急いで下の階に降りようとする。
だが、私が階段までたどり着いた時、被害が起きてしまった。
バンッ!
ビシャァ、と何かがはじける音。
私は手すりから下を覗いた。
華菜ちゃんと上原君が、倒れていた。
そばに、赤い血を滴らせながら。
「ひっ」
華菜ちゃんの長い髪が、上原君の額に絡まっている。
先生は、「あらら……」と言いながら、華菜ちゃんと上原君をそっとくっつけた。
「良かったですねぇ。田中華菜。念願の上原遼平と、一緒に走っていたのですから。……叶わない恋と知っていながら、健気なものですねぇ」
はっ? 嘘。華菜ちゃんって、上原君が好きだったの?
……死んだあとにこんなことを言うのもあれだけど、全然気付かなかった。
……でも、上原君が藍花ちゃんに恋をしていたのは知っていた。
藍花ちゃんが気付かなかっただけで、数々の男子が彼女に好意を寄せていたのだ。
橘君だって、藍花ちゃんが好きだと言っていた。春日君に嫌われるのが怖くて、悪口を言うことしか出来なかったけど。
「まぁ、彼女の恋は、もう終わったも同然ですね」
クスッと笑うと、先生は手を合わせた。
「さようなら、上原さんと、田中さん……」
そう言って、先生は階段を上ってきた。
「!!」
私は音を立てないように階段を駆け上がって、藍花ちゃん達に告げた。
「先生来てる!」
すると一気に三人の顔は青白く染まり、ダッシュで逃げだした。
私も、思いっきりダッシュで逃げようとした。
が。
思いっきり転んでしまう。
「いやっ」
その声で気付かれたのだろう。先生が階段を駆け上っていく音が聞こえた。
息をのみ、私は立ち上がった。
「実月っ」
そう君が、私の元へ駆け寄ってくる。藍花ちゃんと麗羅ちゃんは、先に行ってしまった。
「ごめんなさいっ、そう君、私なんかの為に……」
そう君が命を懸けてこちらに向かってきたんだと分かると、思わず涙が出てきてしまう。
「泣くんじゃない。生きれる道はいくらでもある」
そう君は私の手を握ると、ありったけの力を振り絞って走る。
走ったつもりだった。
「イチャつくのは、そこまでですよ」
何も感じさせないような声が、後ろから聞こえた。
「せっ、先生……?」
そう君が声を上げる。
私は、思いっきり後ろを振り返る。
左手で前髪をかきあげ、みぎてで拳銃を構えている渡辺碧先生が、そこに立っていた。
「まさかこんなときでもイチャつくとは、いやいや、我が教え子ながら立派ですね。せめて、TPOを考えたらどうですか?」
長い髪の毛を、拳銃でくるくると巻いていく。女子っぽいさらさらした髪の毛は、拳銃からするすると抜けおちていく。
「……少しいいか?」
そう君が、先生を睨みつけて、言った。
「おや、死ぬ前に質問と言うことですか。そうですか」
「は?」
私は声を上げる。だが、そう君は怯まず、先生に問いかけた。
「何で俺達を、こんな狂ったゲームに巻き込んだ?」
常時アルトパートを歌っているような声だからか、更に険しさが感じられる。
「狂った? 何を言っているのですか。六年三組の方が、よっぽど狂っているんですよ?」
「あぁ?」
そう君は舌打ちする。
「お前、俺はともかく、実月まで狂っていると言いたいのか?」
ものすごい形相で、先生を睨みつけるそう君。
「それだけじゃない。代表委員長や、カリスマ三人組も、皆狂ってるって言いたいのか?」
その言葉を聞いた先生は、たちまち笑い声をあげた。
「まぁ心外な。何を言っているのですか。神楽藍花や遠藤奈名子、近藤秋枝らは狂ってはおりません。狂っているのは、春日巧と、渡辺彩未の方なのです」
「はぁ?」
私は、素っ頓狂な声を上げる。
「彼らの両親は、「この新任ゆとりに、ウチの子供は任せられない!」と毎日毎日クレームを押しつけてきましてね。こっちこそ、あんな狂った生徒……特に春日巧は、生理的に受け付けていないのですよ」
それが先生の態度ってものなのか。
「もちろん、真面目な生徒達……。神楽藍花や、遠藤奈名子、近藤秋枝、夕月琴音、有村夏実……。そして、今年集った、君、天海実月と、松原七恵、佐藤香奈枝も、立派で真面目な生徒ですよ。大人しい子は、皆大好きです。そして、立派に成長してほしいと思います」
「だったら、何でこんなキチガイじみたゲームなんか計画したんだよ! 春日巧と渡辺彩未だけ殺してしまえば良かっただろうが!」
さらっとそう君が酷いことを言う。でもそれはそうだ。いくら先生があの二人を殺したいほど憎んでいたとしても、何で私達も殺すと言ったんだろうか。
「でも、楽しくないですか? 教師に裏切られた絶望。友達にも裏切られるでしょう。そこでその人が迎える結末は、孤独で、悲しい死……。美しくありませんか?
春日巧や渡辺彩未は、皆の嫌われ者です。そんな嫌われ者がいると、いつしか皆心を閉ざしてしまうでしょう。でも、その人だけは死んで、他は生きる……。そんなの、平等ではないじゃないでしょう。
だから、この殺人ゲームを計画したと言っていいでしょうか」
嘘だ。絶対嘘だ。
この人の目は、そんな屁理屈を通り越して、最早私達しか写していない。
教え子を殺して、それで快楽を味わいたいだけの。
クレイジーで、サイコパスな先生だった。
「ふざけんなっ」
私は、声を荒らげた。
そして、先生に突進する。
だが先生は、びくともしなかった。小柄な私が押したからだろう。
「おやおや、私に懐くとは。……今の、押し倒そうとしたんですか?」
尚も平然とする先生に、私は唖然とした。
「先生にふざけんなとは失敬な。……それじゃあ、春日巧と同等ですよ?」
「え……?」
春日巧と同等……?
ってことは……。
突然、下腹部に激痛が走った。
私は倒れこんだ。水酸化ナトリウムの入った瓶が、廊下に転がり落ちる。
恐る恐る下腹部を見ると、包丁が突き刺さっていた。水色のTシャツに、赤黒い染みを作っている。
「……っ、ひっ……」
声を上げることにも痛みを伴う。そう君の方を見ると、そう君は私を汚いものでも見るかのような目で見降ろしていた。
だがそれも一瞬で、すぐ廊下の向こう側へと逃げて行った。
「そ、そう……君っ」
ありったけの力を振り絞って声を出したが、出てきたのは微かな囁きだった。
「おやおや、自分が死ぬと思って、逃げたのですか。彼女を置いて」
実に楽しそうな声が、頭上から聞こえた。
「残念ですねぇ。天海実月さん。どうやら貴方は、大事な彼氏に裏切られてしまったみたいだ」
裏切り……?
それが、今の私には信じられなかった。
「私を、そう君が……?」
「はい。死ぬのが怖かったんでしょうね。人間、好きな人よりも自分が大切なんですよ」
「…………」
心に穴が開いたかのような気持ちだった。
秋だというのに、冬のように冷たい風が、窓から入ってくる。
「そんな、だって、そう君は……私を……」
「おやおやぁ? まさか、水川想樹は、貴方を一番に考えているなんて、思ってはいないでしょうね」
言い返せなかった。
そうだったらいいのに、なんて思いで、私はそう君を考えていた。
まるっきり、そんなことなんてなかったのに。
「まぁ、これが運命ってことでしょうか。……水川想樹も、結構良い目をしていましたがね。……貴方は、勝手に思い違いをしていたんじゃないでしょうか」
「っ!」
現実を直視できない私にとっては、それが最大の痛手だった。
下腹部の痛みとも相まって、今までとは比にならないほどの激痛が全身を襲った。
「おや、これは何でしょうか」
先生は、私のすぐそばに落ちている、水酸化ナトリウムの入った瓶を、持ち上げた。
「まさか、これを、僕にやろうと思っていたんでしょうか」
私は、何も答えなかった。頷いたら、早速ぶっ殺されてしまうから。
「理科室の備品を勝手に持っていくだなんて、何て無礼な生徒なんでしょう」
かぱっと、先生は瓶のふたを開ける。
「そんな生徒は、この世にいてほしくありませんね」
「えっ」
私が戸惑いの声を上げた瞬間。
私の頭上から、液体が降ってきた。
それが水酸化ナトリウムだということは、見なくても分かった。
「ぎゃあああああああああああ!!!」
私は思い切り叫んだ。熱い。皮膚が焼けただれている。髪の毛も、シャワーを浴びたかのように、濡れている。
「熱いっ!」
私は、ただこれにひたすら耐えるだけだった。
やがて水酸化ナトリウムが全部なくなると、先生は窓を開けて、瓶を放り投げた。
そして、手鏡を取り出して、私の目の前に鏡を置いた。
最早簡単に目も開けられなくなった私は、それでも必死に目を開けようと頑張った。
だが、そこにいたのは、化け物だった。
皮膚がベロンベロンに剥けていた。角質なんてもんじゃない。赤茶色の肌が見え隠れしている。カーディガンとTシャツは、びしょぬれになっていた。
「いやあああぁぁぁぁっっっっ!」
私は、ゆっくりと倒れこむ。
嫌だ、こんな顔、誰にも見てほしくない。
「残念でしたねぇ。貴方は、皆から愛される人気者だったのに。……これじゃあ、ボロボロお化けだって、皆から笑われて。……そうですねぇ、春日巧より数倍、皆から嫌われるんじゃないでしょうか?」
かかか、と先生は笑い声をあげた。
そして、かちっ、かちっと何かをしていた。
バンッ、という音が鳴った瞬間。
私はそれっきり、何も分からなくなってしまった。