出席番号十八番 瀬戸口颯
遅くなってすみません。
瀬戸口家のリビングは、いつも、騒がしくて。
瀬戸口家のリビングは、いつも、沢山の声が響いていて。
瀬戸口家のリビングは、いつも、弟の笑い声が、僕の頭にこだまして。
瀬戸口家のリビングには、いつも怒鳴り声が響いている。
僕は、家族に暴力を振るわれていた。
◆◇
「お前は、いっつもいっつも、家族に迷惑ばかりかけている!」
ばしっ。ばんっ。
足もとに、割れたビール瓶が転がり落ちる。僕は、それを見下ろす。
「あんたがいるだけで、ウチは大変なのよ! あんたのせいで、あんたのせいで!」
お母さんの、平手打ち。それでも、僕は、痛いとは、思わない。
何しろ、そんなことが、三年間、ずっと続いていたからね。しょうがなかったんだ。僕がこれほどまでにお父さんやお母さんから暴力を振るわれることに何も思わず無心でいられるのは、時の流れというものだった。
「お前なんか、いなければよかったのに。死ねばよかったのに」
その言葉を投げつけられた当初は、殴られた痛みとも相まって、朝方まで泣け暮れたものだ。
だがいつしか、それにも慣れるようになってくる。
こんなに暴力を振るわれるようになったのは、忘れもしない、一年前の、この季節だった。
運動会が目前に迫っていても、僕は何の気持も持たなかった。運動神経が良いわけでもなければ、特別に足が速いわけでもない。朝に校庭で行われる選抜リレーの練習は、ただクラスの足が速い人が走っているのを応援するだけだし、組体操でも、リーダーから言われた体勢を行うことしか、やることがない。しかも、倒立が出来ずに、周りから笑われもしていた。
「颯、お前、倒立出来ないんだって? お父さんが、教えてやろうか」
お父さんが、ゲームをしていた僕に、そんなことを言う。正直、教えてほしい気持ちもあったが、僕は、ゲームに熱中してしまい、「いい」と返事を拒否したのだった。
あんなことを言わなければ、僕は平和だったのに。
「いいじゃないか。お父さん、昔は倒立が中学校に入るまで出来なかったんだけどな、出来るようになったんだ。教えてやろうか。多分、颯の学校の、古山先生よりも、上手だと思うぞ」
「ふーん」
古山先生は、体育が大得意で、バック転も教えてくれる熱血先生である。だが、そんなことも正直どうでもよく、今はゲームの戦闘に夢中になっていた。
「おい、聞いているのか、颯。ゲームをしてないで、運動会の練習、やったらどうだ」
「学校で頑張ってるから」
本音を言ってしまうと、僕一人が倒立出来なくたって、大丈夫だって、思ってたから。ペアの子が、僕と素早く入れ替わって倒立をやれば、大丈夫だから。
僕一人が格好悪くても、僕のことを見てくれるのは、僕の家族しかいないんだから、きっと大丈夫、そう思っていた。
「本当か? 本当に、大丈夫なのか? お父さんは、一年に一度の運動会、悔いのない運動会にしてやろうと、頑張っているのに」
別にいいよ、お父さんが頑張ってくれなくたって。
「いいってば。僕より、努の方、手伝ってあげればいいじゃん」
「あいつは、運動神経抜群だし、リレーの選手だろ? 四年生の中で三番目ぐらいに運動が出来るらしいな」
僕の弟の努は、何故か僕に似ておらず、運動神経が抜群で、外見が猿みたいで、眼鏡をかけて図書館に通うような弟ではなかった。そのことを、お父さんは心の底から誇れるらしく、運動会では毎年、僕ではなく、努の方を精一杯応援していることを、僕は知っている。
「運動会は、ほら、借り物競争? みたいなのもあるんだろう? 運動会は、楽しくて、努が毎年盛り上がってるんだぞ。颯も、頑張ったらどうだ」
余計なお世話だ。あっ、戦闘終わった。やっと動けるようになった。
そのままフィールド内を散策していると、お父さんがため息をつくようになる。
「お前、そのままゲームの中、いつか入っちゃうんじゃないか?」
いい加減、しつこい。
大体、何で僕の名前が颯で、弟の名前が努なんだ。運動神経抜群の弟の名前が、颯じゃなくて、努なんて。風のように速く走ることも出来ない、運動も駄目な僕の名前が颯なんて、名前負けもいいところじゃないか。クラスの皆に、「お前の名前と弟の名前、交換したらいいのに」って言われてること、お父さんは知っているんだろうか。
「あっ、うわっ、こいつ強いわ~」
僕がぼやいていると、お父さんは舌打ちをした。
「お前、人が話してる時にゲームなんかするなよ」
「いいじゃん」
テレビから一時も目を離すことが出来ない。
「うわっ、魔法使い、死んじゃった! よし、僧侶、復活魔法だ!」
完全にテレビゲームから目が離せない、といった様子の僕を横目に、お父さんはコーヒーを飲みながら、苦い顔をした……ように思えた。お父さんの顔は、あまり見えない。
「……なぁ、颯、そんなに本ばっかり読んでないで、運動したらどうだ」
「嫌だ」
ふふっ、とお父さんは笑う。まぁ、苦笑い、といったところだろうか。
「太るぞぉ」
「太らない。僕、お菓子食べてないから」
何で、太る太らないに問題を運んでいくんだ。僕は女子みたいな外見をしているけれど、女子じゃない。しかも、おやつを食べるって言っても、朝ご飯の残りの果物だぞ。
「颯って名前なんだから、もっと、風を切るように、運動しないとさぁ」
こいつ、まさか、僕がクラスで「名前負けしてる」って言われてること、知ってんのか……?
ヤバい、心の声が漏れた。こいつじゃないわ、お父さんだわ。
ってか、何なんだよ。さっきから、僕が楽しみにしていたゲームを、邪魔してきて。僕が誕生日プレゼントに、お父さんに買ってもらったやつなんだよ。「お父さんが子供の頃、ハマってたゲームの続編なんだよ。楽しいぞぉ」と言っていたのに。
あぁ、もう、ホント、ウザい。
そう思って、僕はポロッと、言葉を漏らしてしまったのだ。
「うっせぇな、マジ、死ねよ」
あ。今、何か僕、ヤバいこと、言っちゃったかも……?
そう思った矢先のことだった。
ひゅんっ。
爽やかに風を切る音と共に、僕の頬に、鋭い痛みが走った。
「…………たっ」
頬を押さえる。コントローラーから手が離れて、フィールドを歩いていた敵とぶつかり、戦闘モードになってしまった。
お父さんは、ただ無言で、僕を見下ろしていた。
テレビから、戦闘BGMが流れる。戦闘BGMを背景に、僕とお父さんは、何も言葉を発さない。ただ時間だけが過ぎていく。
やがて、一分を過ぎた辺りから、お父さんは、小声で何か呟いていた。
「お前、何父親に向かって死ねとか言ってんだよ」
いつもの温厚なお父さんからは想像もつかない、低くくぐもった声だった。ところどころ掠れていて、目には、ぎらぎらと怒りの色が輝いている。
「絶対許さないからな。お父さんは、颯や努やお母さんに、一度だって死ねって言ったことがないからな。お母さんも、努も。お前だけだ、家族に向かって死ねなんて言ったのは」
すたすたと、台所に向かって、おもむろに冷蔵庫を開ける。麦茶を取り出して、コップに注ぐ。
そして、コップを、僕に向かって投げる。
コップは、床に落ちて、割れる。僕の顔からは、麦茶の香ばしい香りと茶色の液体が、ぽたぽたと流れ落ちていった。
◆◇
その日からだ、温厚だったお父さんが、暴力を振るうようになって、それに怯えてお母さんも僕を殴るようになって、弟の努から、笑われるようになったのは。
あの僕の発言で、僕は、自分自身を痛めつけることになってしまったのだ。
何度も謝ったが、決して許してはくれない。いつも、僕を殴る蹴るの繰り返し。こんな家、家出したいと何度も思ったが、そんなことを許してくれる親ではないし、父方の祖母も母方の祖母も、どちらも遠く離れた県に住んでいる。おまけにどちらも一人っ子だったらしく、いとこの家に泊めてもらうことなんて、出来そうにない。
自分の言葉で自分の家庭を崩壊寸前まで引き寄せているだなんて、傍から見れば、笑える話だ。児童相談所に相談しようかと思って、子供が相談できる電話なんてものも掛けてみたが、一度だって繋がったことがない。なるほど、それほど、悩んでいる子供がいるってわけだ。
痛みなんて、とっくのとうに枯れ果てているはずなのに、誰にもすがりつけないと知った途端、寂しさに襲われる。
クラスメートにも、何も言われない。僕の両親は、外面だけはいい。家に友達が遊びに来た時も、「仕事増やすとか、バッカじゃねぇの!?」とはっ倒されるかと思ったが、友達がいる間は、全然そんなことはなかった。友達が帰ったら、急にそう言われてはっ倒されたけれど。
空気のような存在で、家では要らないもの扱いされる。こんなに生きている価値のない人間に、逆に気遣うような優しい人が現れたら、それこそまさに奇跡のような出来事なのだ。
だけど、そんな僕に優しくしてくれる、天使のような人が現れた。
◆◇
一学期の初め、四月のこと。
「颯、お前、クラスどうなの。え?」
「努」
背中を二三発殴られた。振り返るとそこに、にっこり笑顔の努がいる。
家族に暴力を振るわれて、早半年。もはや努も、僕に暴力を振るうようになってきている。
「……別に、そんなに、悪くはないと思う」
いや、結構悪い。
何しろ、学年で一番性格悪い奴、と噂される春日君と同じクラスになってしまったのだ。僕より先にクラス名簿をもらったカリスマ三人組が、「マジ!? 春日?」と絶望に塗れた表情になっていたから、クラス名簿を見なくても、あぁ、五年間春日君との接触を免れてきたけど、ついに来てしまったか、と理解出来る。
「へぇ、悪くないんだ。悪くなればいいのに」
「そうかい」
全く、努は口が悪い。
「颯、入学式に出席するんだろ? 早く行け」
お父さんが、僕にしか見せない険しい目つきで言う。
新一年生が入る入学式に、僕ら六年生は参加することになっている。それに、僕の家族も見ることになったのだ。他の六年生の保護者も見に来る、と聞いて、僕は心底安堵したものだ。家での暴力に加え、学校での晒し物同等の精神的ダメージも与えるのだ、お父さんは。
「お父さん、私、六年三組になったよ。ほら、見て」
「おぉ、本当だ。奈名子の担任は、……渡辺碧か。へぇ、聞いたことのない先生だな」
「私も聞いたことがないな。多分、新任の先生なんじゃないかな」
あ。この声は。
カリスマ三人組の一人である、遠藤奈名子さんではないか。
我が学年が誇るカリスマ三人組は、数々の受賞歴を誇るグループである。彼女達三人は親友であり、そして得意分野で才能を発揮している人達なのである。
遠藤奈名子は文の才能、近藤秋枝は絵の才能、夕月琴音は音楽の才能がある。三人ともキャラが確立しており、最近は有村さんや及川さんとも仲が良い。
その中で僕が一番気にしているのは、遠藤奈名子さんである。
母親が三年の頃、取材先のテロに巻き込まれて殺されてしまった、可哀想な被害者である。……と言ったらあれだけど、正直、僕は羨ましいな、と感じる。それこそ不謹慎かもしれないけれど、いや、本当にそうだ。
親の黒く、深く、脆い部分を知らずに済んだのだから。
僕は、遠藤さんの父親を、じっと見つめる。
たれ目がちなところが遠藤さんとよく似ている。爽やかな髪は、スポーツをしてきた後のように、無造作に立っていて、カッコいい。少なくとも、今の僕のお父さんよりずっと、お父さんぽくて優しい。それもそうだ、男手一つで、才能溢れる少女を育てたのだから。
それに比べて僕は、何とひ弱な家庭で生まれたひ弱な子なのだろう。
家族に用無し扱いされ、弟にも暴力を振るわれて、学校でも空気扱い。こんな僕は、両親に支えられて生きているっていうのに、遠藤さんは、たった一人の男の人に支えられて、生きているのだ。
「何見てんだよ、気色悪い颯」
「行くぞ。入学式、もうそろそろだろう」
お父さんと努が、僕を体育館へ連れて行こうと手を引っ張る。
その瞬間、遠藤さんと目が合った。
ビー玉一つ分ぐらいの大きな目に、僕が映っている。
あ、今、髪に留めているピンが、光った。
下らないことを考えていると、彼女は僕から自身の父親に視線を戻し、また笑顔で話し始めた。
何故か僕は、無性に心に何かが刺さった感覚を覚える。
今まで、遠藤さんのように、一瞬でも純粋な瞳で見つめられたことがなかったから。
僕と目が合った時、今まで人は「お前いたんだ」という奇異の視線と、「お前なんかいなければよかったのに」という憎悪の視線だけで。
彼女のように、純粋に見つめた人は、今まで一度だって見たことがないように、思えたから。
◆◇
入学式が終わり、学校が始まる。
カリスマ三人組は、僕と同じクラス。当然、僕と遠藤さんは同じクラスなわけで。
五年の頃、運動会で、「家族」と書かれた借り物競争のお題で、一番に父親を連れてきた遠藤さん。父親を愛しているという彼女を、僕は少しだけ、信じられなかったけれど、父親を見れば、納得出来る。
自分の娘を、これでもかって程愛している遠藤さんの父親。それほどまでに細められた瞳には、自分の娘を大切に育てることしか、映っていない。他の女性に恋しようなど、一瞬でも思ったりはしないのだろう。娘を立派に育てることしか目にないような、真っ直ぐな人なんだ、と一目で分かった。彼女も同様に、綺麗な汚れなど知らない瞳で、皆のことを見ていたから。
彼女は、人を見下すようなことをしない。その人の傍にいて、その人が泣いたら一緒に泣けるような、感受性の強い人だ。だからなのか、皆は「カリスマ三人組」やら「お人好し集団」やら言うけれど、遠藤さんは「お人好しかぁ。嬉しいなぁ」と恥ずかしげに言ったのだった。それほど優しいのだ。
「颯君、この問題って、どうやるの?」
隣の席にいる、遠藤さんが僕をつつく。席替えで偶然隣の席になってからというもの、彼女は毎日僕に尋ねてくる。僕は、またかよ、と少しばかりため息をつきながら、「どこをですか?」と遠藤さんの教科書を見やる。
何しろ彼女は、とんでもないおバカキャラなのである。空気の僕が言うのも何だが、彼女は「あれ~? ピンどこ~?」とか言いながら既に髪につけているような典型的なおバカなのである。
「ここは、Xが何を求めているか、を聞いているんです」
「そっか、なるほど!」
まだ説明もし終わってないというのに、彼女はノートに鉛筆を走らせる。ガタガタしていて、妙にリズミカルで字が綺麗なのか汚いのか分からない字だ。
「……分かりました? 今の説明で」
「うん、分かった。超分かったよ、ありがとう!」
彼女は、満面の笑みを僕に向ける。
一瞬、心の中にふんわり、と何かが優しく覆いかぶさったような気がした。
だが、それも一瞬で、遠藤さんが再び教科書とにらめっこをしていると、元に戻った。
……あれ? 今のって、一体……?
「せ、と、ぐ、ち~」
甲高い声が、僕の後ろから聞こえる。
あぁ、今、聞きたくない声だ。僕の、嫌いな女子の声。
振り向くと、そこにはやっぱり、渡辺さんがいる。って、席が僕の斜め後ろだから、しょうがないのかもしれないけれど。
「さっきの問題、分かる? 私、ぜんっぜん分かんなくってさー。教えてほしいなぁー? ね、あんた、成績が良いことしか、取り柄ないもんね~? あっ、てかてか~、上原よりも成績悪いじゃん? サッカー出来る本田よりも成績悪くってさ~、マジ、成績も取り柄じゃないかもねー?」
あぁ、まただ。
渡辺さんと話しているだけで、胸がモヤモヤする。たったの数秒話しかけられただけなのに、遠藤さんと会話するよりも、しんどい。
「は、はぁ……」
「瀬戸口、空気だしさ、成績も中の中ぐらいで、何も取り柄ないもんね、え、しかも? 顔も良くないし、気遣いも出来ない? だから空気なんじゃないの? ねぇ」
「ま、まぁ……」
確かに、彼女の言っていることは、ごもっともだ。でも、もうちょっと伝え方に工夫してほしい。結構傷付く。
「ねぇ、颯君、今度も、教えてください!」
横から、またも遠藤さんの声が響く。僕は一瞬、渡辺さんから目を逸らせる幸福で「よしっ」と呟きそうになったが、何とかそれを飲み込み、遠藤さんの方を向いた。
「何ですか?」
しかし彼女は、何も質問をしない。不思議そうに思って彼女を見ると、彼女は肩をすくめて、ノートに何かを書く。
僕はそれを覗き、書かれていた言葉を見る。
『ヤだねぇ、彩未ちゃん』
彼女は、ふふっと笑うと笑うと、急いでその言葉を消しゴムで消す。僕も少し笑みを浮かべると、彼女もまた笑った。
何故だか、胸が軽くなった。
ありがとう、と遠藤さんに言う間もなく、彼女は教科書とにらめっこを再開した。
◆◇
そんな中で、僕は彼女を好きになっていった。
別に、何か特別な何かがあったわけでもなければ、重大な事件があったわけでもない。ただ僕は、日々の中で、いつの間にか遠藤さんを好きになっていったのだ。
空気のような僕に、毎日暴力を振るう家族。学校でも、渡辺さんから、いじられていた。いじりではない。僕は、彼女の言動に、いちいち傷付いていたのだ。
でも、そんな僕を、遠藤さんはいつも元気づけてくれて。
理由なんて、そんなもんだ。今まで僕は、結構色んな人を好きになってきた。その人は、可愛い可愛いと男子の間に噂されてきた女子で、僕もその話に乗っかって、その人を好きになってきた。一年生の頃、津田さんが好きになり、そこから三輪角さんを好きになり、それから神楽さんが好きになっていって。どの人も、女子からも男子からも評価を受けている女子ばかりだった。
でも、遠藤さんは違う。遠藤さんだけは、のびのびと生きている少女だった。男子の話題に上りつめてくるのは、「遠藤って、たまに真面目だよな。いっつもすっげぇ馬鹿じゃん」というものばかり。空気みたいな僕は、スパイみたいな役回りだって、出来るのだ。
席替えで席が離れても、毎日欠かさず挨拶をしている。僕が彼女を好きだってことに、遠藤さんは気付かない。もちろん誰にも気付かれていないだろう。それに加えて、彼女はおバカキャラだし。
きっと気付かない。
うん、それでいいんだ。
彼女は、きっと地元の公立中学校に進む。僕も、受験の予定なんてないから……っていうか、受験なんて、許してくれないから、きっと、公立中学校に進む。
その時まで、中学を卒業するまで、彼女の笑顔が見られるなら、それでいい。
それでいいって、思っていたのに。
先生が放った、あの一言で。
平穏な日常が、音を立てて崩れ去った。
辺りは混乱に陥った。心が丘小学校の校長先生が直々に、校庭で雪遊びをしましょう、と計画した時の何十倍も、辺りは騒々しくて。
僕は必死に胸を押さえた。何が、どうして。どうしてこうなってしまったんだ。僕は、何も悪いことなどしていないのに。何で。どうして。
空から槍が降ってきて、先生の頭に落ちてくればいいのに。
そうしたら僕らは、きっと、いつも通りの日々に戻れることが出来るのに。
……いや、先生が死んでも、日常には、もう、戻れない。戻れはしない。
春日君が死んだ。美少女の栗沢さんも、超優等生の神楽さんも、ギャルの田中さんも、そして。
カリスマ三人組が、死んだ。
その情報を知ったとき、心が、一気に空っぽになって。全身に何かが逆流しているような、立つこともままならないような感じになって、頭に、遠藤さんの笑顔が、張り付いてばっかりで。
思わず倒れこんで、僕は、本田君に支えられた。本田君に、僕が遠藤さんのことを好きということは察されなかったようで、本田君は「ごめんな、ごめんな……。俺がもし、守ってやれたら、もしかしたら……」と泣きながら、謝られた。本田君のせいじゃないのに。悪いのは、あの先生なのに。
信頼出来ると思った先生に、裏切られた。
その事実が頭の中を駆け巡って、どうしようもない、行き場のない感情に駆られて。
悪夢なら、早く覚めてくれ。僕は、何度も何度も頬をつねった。だけど、僕の取り巻く凄惨な出来事は、変わる様子もなく、そこに存在し続けた。
戦争なんてした、昔の人達。巻き込まれた人の気持ちが、今なら分かる気がする。もうこれから一生、立ち直っていけないような傷を負った、僕達は、もしかしたら、戦争を経験した人達と、和解することが、出来るのかもしれない。そんなくだらないことを考えながら、僕はただひたすら、頬をつねっていた。
傍から見れば、泣きながら何度も頬をつねっているだなんて、異様な光景だろう。でも僕達は、それよりももっと異様な光景を目の当たりにして、その現実から逃れようと、未だかつてない悲しさや苦しみから必死に逃げようとしているのだ。
人間って、いや、小学生ってそんなもんだ。自分に起きている出来事に、目を背けたくて、でも、背けられない現実ってものが、今ちゃんと、そこにあって。
人って、悲しみや苦しみから逃げないと、いつかは壊れてしまうんだって、僕は感じた。
もし、この狂った殺人ゲームが、誰かの耳に届くのなら。この残酷さに気付いて、先生を裁いてくれるなら、それでいい。社会で、もしかしたら、僕達と同じような生活をしている人達がいるのならば、その人達を保護してほしい。それでしか、僕達が殺人ゲームに巻き込まれた意味などない。ただ、そう思った。
◆◇
歩き疲れて、僕はふと佇む。
外はもう、真っ暗闇に包まれている。時刻は深夜三時。重たく、被さってくるような瞼を思い切り開ける。油断したら、もうそれでおしまいだ。こうやって、図書室の机の下に隠れていれば、誰にも見付からないで済むはずだ。先生が来たら、椅子を投げ飛ばして、逃げる。それでオッケーだと思っていた。
「あー、もう、マジ疲れたわ~」
うっ。
開け放たれた図書室の机から、聞きたくない声が聞こえた。
渡辺さんの声だ。僕にいつも絡んできて、僕に傷付くことを沢山言ってくる。そんな彼女が、僕は苦手だった。
「何か、本読もうかな~」
入ってきた。あぁ、入ってこなくてもいいのに。大体、余裕たっぷりすぎだろ。何でそんな感じなんだよ。
「あっ」
そこで渡辺さんは、何かに気付いたようだった。僕が隠れている机に近寄ってきて、机の下を覗いて、にっこり笑って。
「空気少年じゃん、何でこんな所に隠れてるわけ~?」
あぁ、やっぱり見付かった。大体、何で渡辺さんがここにいるんだ。
「……ど、どうしてここに……?」
僕は机から一歩も出ずに、彼女に視線を投げかける。渡辺さんはふふん、と笑い、自信満々にこう言った。
「決まってるじゃない、逃げてるだけよ。しかも、つまんないし。もうここまで生きているなら、勝ち確っしょ」
「あっ」
それフラグだ。と思った矢先。
銃声と共に、彼女は真正面に倒れていった。
真正面……つまり、僕の隠れている机に倒れこんで。
広い図書室に、ごんっ、という鈍い音が鳴り響く。
あぁ、渡辺さんだけではなく、先生も来てしまったんだ、と僕は気付いた。もう僕は、死んでしまう。生きれる保証なんて、どこにもない。
「うわあああぁぁぁぁっ」
先生がそう言うが早いか、僕は、図書室の椅子を、叫びながら先生に向かって投げ飛ばした。
先生は、それを喰らい、顔を押さえて銃を乱射した。
僕は、図書室から走って逃げ出す。パンッ、パンッという音がする度に、僕の心臓は大きく音を立てる。
もう渡辺さんは助かっていないだろう。助かっていたとしたら、奇跡だ。真正面から銃弾を喰らったのかもしれないのだから。
僕は、渡辺さんを助けない。自分が逃げ切ればいいと、本気で考えていたのだ。
早く、逃げよう。僕は瞬時に思い立ち、決して速くはない足を、未だかつて出したことない力を出して、廊下を駆け抜けた。




