出席番号十七番 鈴木雄樹
遅くなってすみません。遅くなったに関わらずこうやって文字数が少ないので謝りたいです。
「あぁ~、今日めっちゃコーチ厳しいなぁ」
「マジマジ、ゆうちゃん、何回もバタフライやらされたよな」
「いつものコーチじゃないよなぁ」
心が丘市内の市民プール。午後六時から七時まで、俺はスイミングを習いに来ている。小学一年生の頃に、水泳の検定が全然合格できなくて、ムキになって習い始めたのだ。
市民プールには、今誰もいない。スイミングで出来た、地元の私立校の友達、松浦雄之助が、更衣室のロッカーをしめ、溜息をつく。
「コーチ、今日、三輪角ばっかり見てたんだぜ」
「うわっ、気持ち悪!」
雄之助と話しながら、俺達は更衣室から出て、市民プールのフロントに向かう。
しかし、今日のコーチはおかしかった。
佐藤一彦コーチは、元々厳しいが、今回はとてつもなく厳しかったのだ。
俺にバタフライを何回往復もさせて、雄之介にもクロールを何回往復もさせた。それだけでバテた人もいたというのに、俺と同級生で、心が丘小学校六年二組で一番可愛いと言われる三輪角深幸が「疲れた~」と言うと、すぐさま飛んで行って「休んでいいよ」と言ったのだという。
「三輪角ってさ、可愛いって感じなんだよな。……ゆうちゃん、三輪角好きでしょ」
「好きなわけないじゃん。三輪角なんて。好きな人いますー」
「マジかゆうちゃん!」
雄之助と一緒に、俺はお金を払って外へ出る。十月の冷たい風が、俺の顔に当たる。
「三輪角、可愛いじゃん、俺、あぁいう女の子タイプだわぁ」
「ほぉ」
正直言っちゃうと興味がない。雄之助が三輪角を好きでも、全然興味がない。
確かに、三輪角は可愛い。アーモンド形の瞳に、細長い指。ピアノも習っているという彼女に、惚れる男子も少なくない。だけど、俺は正直言うと、あぁいうタイプは苦手だった。何でも出来ます、私お嬢様ですって感じの奴は、微妙に嫌いなのだ。そんなことを言ってしまうと、少々反発を買うのかもしれないけれど。
だって、俺には六年三組に、好きな人がいるから。
「……ねぇゆうちゃん、好きな女子って、誰なの? 誰なの?」
「は? いや、雄之助には絶対教えない」
何故か途端に恋バナを始める雄之介。俺はそれをかわして、帰路につく。
好きな人、か。
好きな人は、いる。けれども、そんな話題を、人と話したことがない。
大体、俺の好きな人のことを話したって、皆は、「お前、正気で言ってるのか?」と口を揃えて言うからだ。
だから俺はずっと、誰にも好きな人は言っていない。巧は論外だし、充は……うーん、もう少し大人になってから笑いあって話そうかな。
◆◇
一仕事終わった、といった様子で、父親が仕事から帰ってくる。
「お帰りなさい」
母親が父親に優しげな声で言った。いつもの「宿題をやりなさい!」とは大違いの声量だ。
「雄樹、学校はどうだ。楽しいか」
父親が鞄をおろしながら言う。小さな弟も、舌っ足らずな口調で「がっこはたのちいか、ゆうきにいたん」と言ってくる。姉も、「雄樹、学校はどうだ。楽しいか」と父親の口調を真似しながら言った。
「……まぁ、それなりに」
大っ嫌いな奴と一応友達だけど。そんなことは言わないでおいた。
「それなりって、何よ、それなりって」
姉が笑いながら俺のほっぺたをつついてくる。痛い。爪切れよ、ラメなんか入れちゃって。
女子って、皆そうだ。でも、そんな女子のことを、男子は好きだ。
女子なんて姉のように理解できない存在も沢山いるのだが、六年三組の女子達は、皆純粋って雰囲気なんだ。約数名を除いては。数名に入る藤川とか田中とか、つけてくるシュシュが異常にでかいんだもん。後ろに座っている奴らのこと考えているのかな。
でも、その数名を除いて、女子は本当に純粋って感じがする。
特に、俺の好きな人は、本当に、純粋で、そして時に天然なんだ。
俺の好きな人は天海実月。だから、こんな想い、誰にも話したくなかったのだ。
本当に、この想いだけは、消し去りたいと思う気持ちでいっぱいだった。
天海実月の好きな人、両想いの人は、俺の友達だから。水川想樹は、骨折しても、笑顔を忘れない、素敵な奴だから。
そんな奴しか、彼女を想う資格なんて、ないから。
天然で優しくて、女子力に満ち溢れている天海には、俺なんか、似合わない。……ううん、似合わない、なんてことじゃなくて、俺なんかじゃ、きっと、天海を守れない。
この想いだけは、消し去りたい。
だって、俺なんかが、天海を好きだなんて言ったら駄目なんだから。
「それなりはそれなりなんだよ。それより、爪、短くしてくれる? 痛いから」
「えぇ? 痛い? しょうがないじゃん、これが可愛いの!」
ほら出た、「可愛い」。女子って皆、可愛いって言う。可愛いって言えば、済むと思ってる。原宿や渋谷に行って、「これマジ可愛い、ウチに似合わない?」とか言うんだきっと。もっと色々な表現方法があるだろう。女子高生より神楽の方が表現力に長けていて優秀だよ。お前ら小学生に負けてるんだぞ。
「痛いっつーの。しょうがなくない、爪切ってよ。指先だけ綺麗でも、全身綺麗じゃなきゃ、絶対気持ち悪いから」
男の俺から見たら、姉の爪は本当に気持ち悪い。「何よー」と不満を漏らす姉も、また気持ち悪い。
「大体、あんただってすっごいやんちゃみたいな顔してるし。低学年の頃は女子はそんな男子が好きだけど、高学年になったら皆大人っぽい男子に釘付けになっちゃうのよ? モテるのは、もうちょっと大人になってから! あたしはバイト代でこういうの買ってるから迷惑かけてないけど、あんたは親に頼み込んでそれ買ってんのよ? 配慮というものを考えなさい!」
姉はぶーぶー文句を言ってくる。金銭の問題じゃないのに。
大体、俺がどんなに大人になったって、好きな人は、天海は、全然振り向いてくれないんだから……。
「こらこら、麻弥子も雄樹も、やめなさい」
母親に止められて、俺達の姉弟喧嘩は中止になった。
「……うん」
「りょーかい」
俺達は散らばって、姉は自分の部屋へと走り去る。
そして、彼女の部屋から、ロックバンドの音楽が聞こえてくる。
最近流行りのロックバンド。主に女子高生に人気で、姉は「チョーカッコいいよね!? 雄樹もそう思うでしょ!?」とまくし立てていた。以前は、ジャニーズが大好きで、CDも買い集めていたのに、いつの間にか姉の部屋にはそのジャニーズのCDはなかった。ホント、流行だけしか追い求めない奴だ。
おまけに彼氏もコロコロ変わる。つい二ヶ月前に背の高いイケメンをつれてきたと思ったら、つい昨日には猿っぽい男を連れてきた。つまり、かなりの肉食系女子なのだ。
充や巧を家に連れてくると、「お前の姉ちゃんって、結構派手なのな」とからかわれる。それほど恥ずかしい存在なんだ、姉は。
◆◇
「雄之助、今日、お前結構変だよ」
「え? 何が?」
水泳でタイムを計っている途中、俺は雄之助の態度が、昨日とどうも違うことに気がついた。
「何がって、色々と変だってば」
雄之助は、着替えているときもずっと下を向いたままだったし、練習時間も一緒にやることはなく、隅でじっと固まっていた。三輪角が近くにいても俯いたままだったし、俺と目が合っても笑いかけてはくれなかったのだ。
だが、俺が話しかけたら答えてくれた。でもどうも嫌そうな顔だ。
「どうしたんだよ、何かあれば、話せって」
「別に、何もねぇよ」
俺は雄之助の腕を掴む。雄之助は戸惑った表情を浮かべ、それから顔を引きつらせた。
「……だって、お前、目が合っても笑ってくれないし、三輪角がお前の前通っても俯いたまんまだし、自由練習の時間も、一緒にやってくれないし」
「だから、それは……」
「俺、何か嫌なことしたか? 俺、こんなの嫌だよ。全然元気ない雄之助見るの、嫌だし」
俺がそこまで言うと、雄之助は俺をキッと睨み付けて、叫んだ。
「何でもねぇって、言ってんだろ! うっせぇなっ!」
何でもねぇって、言ってんだろ! うっせぇなっ!
広い市民プールに、雄之助の大きな声が響いて、ぼわんぼわんと反響する。皆が一斉に振り返る。
「……お、おう」
皆に注目されては、逆にこちらも面食らってしまう。一旦下がって俺は、雄之助を見やる。
「お前が何でもねぇって言うなら、こっちだって深追いはしない。……俺、タイム計るから」
本当は理由が知りたかった。だけど、それを無理に知るのは、雄之助の願いではない。俺は知りたいけれど、雄之助の願いではないんだ。だから、俺は深追いはしない。
雄之助がもし友達じゃなくなってしまったら、俺は、水泳の間中、誰と話せばいいのか、分らなくなってしまう。
それだけは、避けたかった。与えられた幸せな日々。それが消えてしまったら、もう元の生活には戻れなくなってしまうのだろう。
「あっち行ってろよ、ゆうちゃん」
ゆうちゃん、と言ってくれた。ということは、まだ、友達だと思われているのだろう。
「……後で、話すから」
周りの人の意識が、雄之助と俺から離れた数秒後、雄之助はボソッと俺に言った。
俺は頷き、佐藤コーチに向かって「俺、タイム計ります!」と叫んだ。
◆◇
「雄之助、何があったんだよ」
俺は夜道を歩く。十月の午後七時は、結構暗い。
雄之助は今もなお、俯いたままだ。下を向いて、目の前に電柱があっても華麗に避ける。周りを気にかけているのかな。
「……あのな」
「おう」
やっと雄之助が口を開いてくれた。俺と目を合わせて、口を開く。悲しいような、儚いような、今にも消えてしまいそうな、そんな声だ。
「三輪角、好きな奴がいたんだって」
「へぇ。誰?」
不思議と、驚きはしなかった。
「……いや、言わない」
「って、何でだよ」
雄之助がまた俯く。「でも」と呟く。
「俺じゃ、なかったんだ」
あ。
何かが、ふつん、と途切れた音がした。
そっか、雄之助、失恋したんだ。好きなタイプ、直球ど真ん中の三輪角を好きになるのは、決して不思議なことではない。なのに。
雄之助、失恋、したのか。
そっか。
三輪角の好きな人が誰なのか、全然分からないけれど。雄之助がこんなに悲しんでいるということは、相当辛い人だったんだろう。雄之助の嫌いな人なのか。もしかして佐藤コーチだったりして。
なんて。
「あと、もう一つ」
「は? もう一つって何がだよ」
雄之助の失恋と、あともう一つ。それが、雄之助の元気のない理由?
「……言っていいのか分かんないけれど」
そう言って、雄之助は話し始めた。
「俺の兄ちゃん、つい一週間前まで彼女がいたんだ。だけど、その彼女が兄ちゃんのサッカー仲間に告白されちゃって、彼女がオッケーする前に、サッカー仲間が兄ちゃんから彼女を奪い取ったんだ。
それがトラウマになっちゃって、兄ちゃん、学校に行くことも一苦労でさ。
でも、そのあと、元カノが兄ちゃんのサッカー仲間と、兄ちゃんの前を通りかかってさ。そのとき、元カノが、兄ちゃんをチラッと見やったあと、そのあとどっか行っちゃったらしくて、それが、恐怖になっちゃったみたいで……」
そう、だったんだ。
雄之助も、また、雄之助の兄も、失恋しちゃったのか。それにしても、雄之助って、兄の失恋で自分さえもショックを受けるような、兄が大好きな奴なんだなぁ、と実感してしまう。
「……その彼女、ひでぇな」
「だろ? だろ? 兄ちゃんが毎日言ってるんだ。麻弥子、許さない。何であんな猿みたいなあいつがって」
「え?」
麻弥子? 麻弥子って。
俺の、姉?
そんな、まさか。
だとしたら、さっきの話、全て辻褄が合う。
彼氏が変わって家に連れてきたのはつい先日のことだし、サッカー好きな猿みたい……って間違いなくあの人のことだ。
雄之助の兄を傷付けて、更に雄之助のことも傷つけたのは、他でもないこの俺の姉だ。俺じゃないのに、涙が出てきて。あぁ、ごめんな、雄之助。本当にごめん。
「それ、俺の姉だ」
俺がひとたび言うと、涙が一滴、流れ落ちた。
「ゆうちゃん? ゆうちゃんは、何も悪くないよ!?」
雄之助が、そう言って、俺を慰めてくれる。俺は雄之助の顔を見た。そして、はっきりと分かった。
雄之助の顔には、悲痛な表情がこびりついていた。
◆◇
雄之助のあの悲痛そうな表情。
あれは、目の前にある、かつての好きな人の死体にも、ひっついていた表情だった。
天海と雄之助の表情。あれが何の表情なのか、俺にはやっと分かった。
大切なものを何か一つ失ったような、そんな表情なのだ。
恐らく雄之助は、俺の姉が雄之助の兄を不幸にしたことで、何か一つ、大切なものを失ったのだろう。
そして、雄之助と同じように、天海も。
「天海、お前、どうしてそうなっちまったんだ?」
何故か俺は、誰もいなくなった理科室前で、そう、動かなくなった天海に言っていたのだ。
「……天海は、俺が、天海のこと、好きだったって、知ってるか?」
そう言っても、天海は何も答えなくて。ただ、俺じゃないどこかを見つめていて、もう一生、その視線が俺に向くことはなかった。いつもと同じように、雄樹、と呼びかけてくれる天海は、もう一生涯、俺の目の前には現れることはない。
「いっつも着飾ってヘラヘラしてるような奴だけどさ、人のことを信じて、まっすぐ突き進んでいく天海が、俺、誰よりも好きだったんだぜ。水川が告白してきた時も、俺、天海を取られたくなくて、正直、嫌だったんだよ」
天海は、ぴくりとも動かない。肌がはがれ落ちて、もうあの純粋な天海は一欠けらも残っていなかった。だけど、そこにいる、絶望に歪んだ表情をしている彼女も、天海なのだと、現実が押し寄せてくる。
突然、今まで直視できていたはずの天海が、どうしようもなく気味悪いものに見えて、俺は思わず目を逸らした。本当は、そんなことなんか、したくなかったけれど。
学校の廊下の仄かな明かりが、彼女を照らす。夜真っ只中な、今この頃。
気がつくと、天海の肌は何故だか光っていた。
でも、そんな天海が、俺は大好きだったんだ。
◆◇
あれは四年の頃。
気分屋の姉が、「弟と喫茶店に行きたい!」と何故かねだり始めたのだ。俺が理由を聞くと、「ツイッターで『弟と喫茶店なう』って投稿したいの!」と何とまぁ下らない理由が返ってきた。俺が女子に呆れていると、姉は「パフェ奢るから!」と何度も必死に懇願していた。俺が快く承諾すると、それでよし、と千円札を渡された。
姉が行こうとしているカフェは、近所でも中々有名で評判なカフェで、テレビにも紹介されたカフェである。流行スポットとして、姉としては流行を押さえておきたいのだという。
「いただきます」
俺が手を合わせ、パフェを口に運ぶと、姉が早速自分のパフェを写真で撮り始めた。続いて、俺のパフェを撮影。
俺は、その写真に載りたくなくて、フッと視線を外に移す。今頃姉は高速でツイッターに投稿しているのだろう。
「あっ」
カフェと道路を挟んで反対側の塾から、水川と一人の美少女が並んで歩いてきていた。赤信号の横断歩道で、二人は並びながら、笑い合っていた。特に水川の顔が赤くて。あぁ、恋してるんだな、と一目で分かった。
いいな、俺も恋したいな。と思っていた矢先。
信号が、青信号になる。
水川と美少女が、歩き始める。
キキーッ、キュルキュルキュル、ガアーーンッ!
激しい轟音と共に、赤い血が舞う。
一部始終を見ていたとはいえ、心臓が高鳴った。
青信号を無視したトラックが、水川を轢いた。
気がつくと、目の前では、凄惨な出来事が起こっていた。
水川の姿が、どこにも見当たらない。水川の隣で笑い合っていた美少女が、目を見開いて、何かを叫んでいる。
道路に、トラックの運転手が転がり出てきて、水川の安否を確認しているような行動をしている。
カフェの中はもちろん騒然としていて。「マジ、交通事故!?」とはしゃいでスマホで写真を撮っているクソ不謹慎な奴らもいた。姉は、そんなことはしなかった。
俺はと言えば。
目を見開いて、ただ呆然とすることしか出来なかったんだ。
そして。
がたんっ、とカフェ内で大きな音がする。
俺が振り向くと、一人の少女が、血相を変えて道路に飛び出していった。
飛び出していった後ろ姿は、自分が知っている後ろ姿で。
「天海っ!?」
天海が、顔を青白くさせて、カフェを飛び出した。っていうか、天海、ここに来てたんだ。そう思う暇もなく、俺は彼女の行動をガン見していた。
彼女は、血相を変えて通行が出来ない道路に飛び込んで、トラックの運転手に掴みかかった。その眼には、涙が滲んでいる。続いては、懸命に周囲に呼びかけている美少女に掴みかかって、何かを言っていた。
そして、泣きながら、水川を探し出す。やっと探し出したのも束の間、彼女はかつてないほどにワンワン泣き出した。周りの人が戸惑い、美少女の顔が歪んでも、彼女はただひたすらに泣き続けていた。
俺も、カフェを飛び出て、ダッシュで通行止めの道路に向かう。
同級生が、目の前で死んだかもしれない。その重みに、天海は耐えきれなかったのだろう、泣き腫らして、顔全体が赤くなっている。
周囲がザワザワしていたのに、初めて気がついた。天海がいきなりカフェから飛び出してきたことに、驚きを隠せなかったのだろう。
「天海、何でお前飛び出したんだ!?」
俺は号泣している天海の肩を掴む。天海は、震えながら「あ、あのね……」と俺に語りかけた。その間にも、幾度となく涙が溢れ出していて。俺ももらい泣きしそうになった。
「想樹君はね、優しくてね、初めて出来た男の子の友達なんだよ。そんな子がね、血を流してるって思ったら、どうしても、我慢できなくってね……」
そう言いながら、天海は泣き出している。最後の方も、よく聞き取れなかった。天海は水川をチラチラと見やりながら、それでも俺をまっすぐに見つめている。
どきん、と心臓が高鳴った。目の前に死にそうな同級生がいるからでもなければ、目の前で女子が大号泣しているからでもなかった。
天海が、可愛い。そう思って、胸が高鳴ってしまったのだ。
おいおい、ざけんなよ。こんなんじゃ、交通事故現場で写真を撮るあの女達に負けず劣らず、不謹慎じゃないか。
天海は、俺がそう思っているとはつゆ知らず、尚も泣き出している。ふと見ると、美少女が「早くこの女をどうにかしてくれ」と言っているような目で俺を見てくる。それは決して、天海を迷惑だと思っているわけではなくて、今目の前で起きている凄惨な出来事に耐えきれなくて、少しでも彼女を安全にしてやりたい、と思った配慮なのだろう、と思う。
「と、とりあえず、天海、あっちに移動しようぜ。な?」
俺が天海の背中を擦りながら促す。天海は、「うん、うん」と泣きながら頷く。
歩道に連れていくと、俺は天海に聞いた。
「危なすぎるだろ、通行止めの道路に走っていって、それで泣き崩れて。馬鹿みたいだよ、お前。何で飛び出して行ったりなんかしたんだよ」
俺、心配したんだぞ。
そんな言葉が口から出かかりそうになっている俺に、俺自身が心底びっくりした。
今、俺、天海を心配しているんだ。
目の前で人が死にそうになっている。それが同級生だから尚更。天海は、こんなに、人が心配するぐらい壊れそうになりながらも、想樹を心配しているんだ。
ぴしり。
胸の奥が、何かで打ち付けられたかのように、痛くなる。
おかしい。誰にも、何にも打ち付けられてなんかないのに。
何かに打ち付けられたのは、天海のはずなのに、何で俺の心が、痛くならなくてはならないのだ。
水川を何度も見て、泣きそうになっている彼女。
やがて、救急車が到着し、美少女が水川と一緒に乗り込むとき、彼女は突然、俺にしがみついてきた。
どきんっ、ぴしり。
甘いような、正体が分からない気持ちと、胸に何かが打ち付けられたような、そんな感覚が、俺の前進を駆け巡って。
泣きながら、生死の境を彷徨っている水川を、ただひたすら想い続けている、そんな天海が、今までにないくらいに、儚く、脆く、触れたらすぐ壊れてしまいそうなほど弱い存在に思えた。
そこに存在しているのに、まるで透けているような、そんな不思議な存在、それが今の天海だった。
彼女は震えている。泣き叫ぶことは、もうなくて。そこには、か細く震える天海しかいなかった。
「どうしよう……ねえ、どうすればいいのかな? どうすればいいのかな? 私。想樹君に、どういう顔して会えばいいのかな?」
「…………」
何でそんなこと、聞くんだよ。そんなの、俺にも分からないよ。
こんなに心配しているんなら、それを伝えればいい話じゃないか。
なのに、何でそんなこと、俺に聞くんだよ。俺にも分からない。
女がどう思っているかなんて、そんなの全然分かんないよ。
俺は水川みたいに優しくないから。俺は水川みたいに、女子にこんなに大切に想われることなんて、不可能だから。
だから、そんなこと、知るわけねぇよ。
それでも。
今、これほど俺を頼ってくれる天海が、どうしようもなく愛しい存在に思えてきた。
今、この一時だけ、天海は守らなくてはいけない存在のように思えて。
誰も見ていなくてよかった、と、俺はホッと胸を撫で下ろす。傍から見れば、カップルのように思えるだろうこの関係は、実はただのクラスメートなのだ。ただ偶然通りすがっただけで、ただ偶然、同級生あ交通事故に遭ってパニックになっただけで、友達思いの温かい少女が、俺にしがみついてきただけなのだと。
なのに、これほどまでに胸を高鳴らせている俺は、あまりにも場違いだと、誰かが知らせてくれなかったのも、まぁ、あれだけど。
俺が、天海を好きになったのは、紛れもなく、この時で。
高鳴った胸の鼓動を抑えてくれたのは、天海の清潔な髪から漂う、レモンの香りだけだった。
◆◇
「天海、さようなら」
俺は、あの四年生の日を思い出して、天海に手を合わせる。
思い出の日の天海は、いつまでもあの友達思いで優しい天海のままだけれど、今の天海は、絶望に打ちひしがれながら死んでいった少女だった。
手をおろして、立ち上がり、一人、怒りに身を震わせた。
水川だって、所詮は、人。ただの少年でしかないのだ。天海を一生守っていくと誓った新郎でもなければ、恋愛ドラマに出てくる彼女を一途に想い続ける青年でもない。
ただの、小学校六年生の男子なんだ。成長が早かろうが、中身はただの少年。
そんなこと、分かりきっていたはずなのに、怒りがこみ上げてくるのは何故だろう。
天海を裏切り、天海を絶望の淵へと追いやった水川が、どうしても許せない。俺なら、俺なら、天海と一緒に最期を共にするのに。
水川。聞いているか。
お前が死んでいても、俺はお前を許したりはしない。
もし生きていたら、お前を絶対とっちめたい。天海を裏切った理由を、問いただしたい。
俺は、天海が好きなんだ。天海が死んだ今、水川を問い詰めようが、どうってことはないのだ。
俺だったら、天海を最期まで守ってやれたのに、なんて、正直、そっちの方が裏切りなんじゃないかって、思う。
だけど、俺は。
サイコパスな先生も、天海を見捨てた水川も、許せない。
六年三組殺人ゲームなんて計画した先生も、許せないけれど、好きな人を信じさせた挙句、裏切らせた。
そんなあいつに、何か一言、言ってやりたくて。
俺は、理科室前から、一歩歩きだした。




