第一話 (2)
”楽園”とは、その名の通りの場所だ。
危険な魔物が蔓延る外界からは隔離され、なに不自由なく生涯を全うすることが出来るのを約束された場所、そこが”楽園”である。
そこに苦しみや痛みは無く、”楽園”に住まう資格を得た人ならばだれでも、各々に与えられた寿命まで幸福に生きることが出来る。
人間にとっての理想郷であるから、ここは”楽園”と呼ばれていた。
”楽園”が”楽園”である為には、そこを管理するものが居なくてはならない。管理するものが不在の無法の地が”楽園”となることはあり得ないのだから。
ただし干渉もほどほどで無くてはならない。住人を完全に管理した世界もまた”楽園”とは程遠い。あるいはそんな世界を理想郷と考えるものもいるであろうが、少なくともこの楽園を造った”彼女”の考えは違った。
この”楽園”の創造主は、住まう人々が不自由なく暮らせるだけの保障を請け負う、ただそれだけの管理者であればいいと考えた。
だから管理者は住人への過度の干渉は無く、普段は”楽園”の住人は管理者を意識することはあまりない。しかし住人に表立って干渉しない一方で、管理者たる”彼”は”楽園”を存続させるための監視と管理は徹底的に行っていた。
”楽園”の中央には、空高く建つ巨大な煉瓦造りの時計塔がある。
”楽園”のどこに居ても見ることが出来るその大きな時計塔は、日々一時間ごとに鐘を鳴らして楽園中に時を知らせている。しかしこの時計塔の役割はそれだけではなく、楽園の管理者が管理を行う場所でもあった。
「ローズさんはどこでしょう」
「知らん」
窓から”楽園”を眼下に見渡せる時計塔の最上階の部屋で、二人の男女がそんな会話を交わす。
一人は色白で眼鏡をかけた神経質そうな美女、もう一人は細身でありながら筋肉質である褐色肌の寡黙そうな男。
どちらも美貌の男女で、そして同じように無表情だった。
「……そうですか」
最初に問いを投げかけた長身の美女は、緩くウェーブのかかった薄い金髪をかき上げてそう答える。その表情は問いかけた時と変わらず無表情だったが、僅かに細められた翡翠色の瞳からほんの少しの不愉快そうな感情が見受けられた。
一方で女性の問いに短く答えた男も、端整な顔立ちの無表情を崩さず、見た目通りの寡黙さでそれ以上の言葉は発さない。椅子に腰かけた男は、銀色の鋭い眼差しを手元の書物に向けて読書を続けていた。
「……ここにいないなら、書庫かしら」
女性はそう小さく呟くと、部屋を出て行く。その言葉の後も、やはり男は表情を変えずに読書を続けた。
天高くまで通ずるような時計塔だったが、その場所には地下も存在していた。地下のほとんどは書庫となっており、膨大な数の本が広い書庫内を埋め尽くす勢いで本棚に納められている。
先ほど時計塔の最上階の部屋で男と会話をしていた女性は、時計塔内の昇降機を使ってこの地下の書庫へとやってきていた。
なんとなく人を拒むような雰囲気を放つ巨大で厳重な書庫の扉の前で立ち止まり、彼女は抑揚の無い静かな声で扉に向けてこう告げる。
「セラです。イラ・セラフィム」
『イラ・セラフィム――承認しました、どうぞ』
どこからかそう無機質な声が反響しながら聞こえ、重い書庫の扉がゆっくりと開く。セラは高い踵のヒールを鳴らしながら、書庫の中へと足を踏み入れた。
書庫の中へと進んだセラは、入ってすぐの置かれたソファに探していた人物の姿を見つける。
「ローズさん、やはりここでしたか」
「あ、セラさん。どうしました?」
声をかけられて顔を上げた黒髪の青年は、読んでいたらしい分厚い本をそっと閉じながら笑顔でセラへ視線を向ける。その顔立ちは幼さを残す少年っぽさもあって、柔らかく優しい印象を与えるものだった。
しかしそんな笑顔を向けられたセラの表情は、無表情でありながらどこか厳しい。そのセラの表情を見て、ローズの優しい笑顔もすぐに何かを察して気まずそうなものへと変わった。
「あ、と、用があるんですよね、セラさんが俺に声かけたってことは……」
「えぇ。用が無ければ声はかけません」
「うぅ……」
ローズの大きな深紅の瞳は、今の短いやり取りで早くも涙目になっていた。しかし彼はぐっと涙をこらえ、いつでも氷点下の眼差しと表情のセラに向けてこう言葉を続けた。
「べ、別に用が無い時でも声かけてもらっていいんだよ?」
「なぜ」
「え、と……こ、コミュニケーション……」
「必要でしょうか?」
「……セラさんが必要無いなら、いらないです……はい……」
ついに涙をこらえきれなくなり、そっと目元を指先で拭いながら、ローズは小さくため息を吐く。そんなローズに、セラもまたため息混じりにこう言った。
「あなたは私の態度に不満のようですが、イシュオットよりはよほどマシでしょう」
ローズがあまりに悲しそうな顔をしていたからなのか、セラは珍しく困った様子でそんな言葉を彼に返す。あまり表情を変えず、感情も表に出さない彼女なので、それが精一杯の彼女なりの気遣いであったのだろう。それをわかっているからこそ、どん底まで凹んだ顔をしていたローズは、また少し笑顔となった。
「イシュさんは仕方ないよ。彼はそういうタイプなんだなって、俺もわかってますから」
「私も彼と大差ないように、自分では思うのですが」
「え、そうなの?」
「……いえ、やはり一緒にされると少し不愉快ですね。自分で言っておいてなんですが、彼と一緒にしないで下さると嬉しいです」
「え、は、はい……え、酷い」
「イシュオットと言えば、先ほどあなたの部屋に彼がいたので、あなたの居場所を聞いたのですが、知らないと言われましたよ」
セラは先ほどの部屋でのやり取りを思い出しながら、ローズへとそう告げる。するとローズは驚いた顔をした。
「私か彼のどちらかには、ご自分の居場所を告げておいてくださらないと、何かあったら……」
「え、俺、イシュさんに言ったんだけどな。ちょっと書庫に行くからって……」
「……」
ローズの独り言のようなそんな呟きを聞いて、セラの表情がまた氷点下へと変わる。いや、最初よりも彼女の表情は温度が下がりきっていた。
「ちっ」
「セラさん、今舌打ちしました?! 俺!? 俺がいけませんでしたね?! ごめんなさい!」
急に怖い顔で舌打ちをしたセラに怯え、ローズは涙目で謝る。それに対してセラは「いえ」と、冷静な表情を取り繕って否定した。
「今の舌打ちは、イシュオットに対してのものですので」
「ひえぇ……びっくりした……」
ほっと胸を撫で下ろすローズに、セラは厳しい表情でこう続ける。
「ローズさん、訂正します。部屋から出る時は、居場所を私に伝えてから出てください」
先ほどの部屋でのイシュオットの態度と返事を思い出し、若干苛立ちを隠せない様子でセラはそうローズへ告げた。そしてローズもセラの様子から何かを察し、素直に「わかりました」と頷く。
「よろしくお願い致します。あなたはこの”楽園”の管理者なのですから、何かあった時に居場所がわかりませんと困ります」
セラのその言葉に、ローズはどこか自嘲気味な笑みを返す。
「俺は彼女から預かっているだけだよ」
ローズのその一言に、しかしセラは眉一つ動かさずにこう返事をした。
「いいえ、管理者はあなたです」
ローズは困った笑みのまま、「そうだね」と頷く。彼はセラの言葉を受け入れたように、それ以上は否定的な言葉は返さなかった。
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