第一話 (1)
彼の目覚めはいつも最悪だった。埃をかぶった灰色のベッドは硬く狭く、十分に体を休められるような代物ではない。
それでもこの世界で体を休めて寝起き出来る場所があるだけ、自分は運がいいのだろうと彼は思いながら重い体を起こした。
破れかけたカーテンの隙間から見える外の景色は薄暗く、煌々と輝く二つの月が灰色の街を照らす。いつの時間も全く変わらぬいつもの景色を見て、思わず彼は呟いた。
「……相変わらず朝なのか夜なのかわかんねぇ……」
銀色の目を細めてそう呟く彼の言葉に答えるように、少女の小さな声が傍で聞こえた。
「どっちでもなく、昼です。いい加減起きてください、ユキ」
ベッドの真横の窓から視線を反対方向に向けると、声の主の少女が不機嫌そうに目を細めて青年――ユキを見ていた。
「起きて、ドーナツ作ってください。追い出しますよ」
薄いピンクの髪を両サイドで緩く結んだ少女は、ピンクのような青のような不思議な色合いの両目でユキを睨みながら、彼の座るベッドの横で仁王立ちをしている。
ユキはボサボサの銀髪を乱暴に掻きながら、少女に面倒くさそうな視線を返した。
「俺はドーナツ製造機じゃねぇぞ、アザレア」
「ドーナツ製造機以外の存在意義が無い癖に、何を言ってるのですか」
「ひでぇな」
アザレアと呼ばれた少女は不機嫌な表情はそのままに、ユキのベッドの脚をガンガンと蹴りだす。ユキは「やめろよ」と、慌ててベッドから降りた。
「人使いが荒いお嬢様だこと」
「居候のくせに、さっさとドーナツ作らないからです。寝起きする場所を提供する代わりに、私に家賃としてドーナツを献上すると約束をしたんですからね。ドーナツを作らないあなたにゆっくり寝る権利は無いのですよ」
アザレアは「早く作って持ってきてくださいね、もうぺこぺこです」と言うと、背を向けて部屋を出て行く。ユキはそんな彼女の後ろ姿を見送りながら、小さく溜息を吐いた。
”箱庭”には朝も昼も無い。
正確には太陽の光が射すような、明るい青色の空が無い。空は常に雲が覆っているような常闇であり、唯一闇の中の街を照らす明かりは白銀色の二つの月の光だけだ。
常に夜である世界に異常を感じるのは、箱庭に来たばかりの”花憑き”だけだろう。箱庭で暮らし続けると闇に包まれた日常を異常とは思わなくなり、気付いたらそれを日常として受け入れてしまう。この世界に住まう花憑きたちにとって、常に夜であることはごく普通のこととして認識されていた。
それでも常に夜闇であることは生活に不便を生じさせることも事実で、箱庭に住まう人々は街の中心に建つ巨大な時計塔の鐘の音を聞いて『昼と夜』を把握して生活をしていた。
「……十二回目の鐘の音。なるほど、ホントに昼なんだな」
灰色のシャツを羽織りながら、ユキは窓の外から聞こえた鐘の音を数えてそう呟く。十二回で鳴り止んだ鐘の音は昼の12時を示し、ユキは「寝すぎたわけじゃねぇんだけどな」と誰ともなく言い訳を呟いた。
「寝たのがそもそも、朝近くだったはずだし……」
「ユキ、なにブツブツ言ってるのですか! いい加減、早くドーナツ作りやがれ、です!」
部屋のドアが乱暴に開き、部屋の外では空腹をこじらせたアザレアが鬼のような形相でユキを睨んでいた。その彼女の剣幕に、ユキは「すぐ作るから!」と叫び、急いでドアを閉める。
「つーかお前、着替え中になにドア開けるんだよバカ!」
「行動が遅いユキが悪いんです!」
「だからってお前、まだズボン穿いてる途中……っ」
ユキは半端に穿いたズボンを慌てて引き上げ、乙女のように「変態!」と悲鳴をあげる。アザレアはドアの向こうでやや呆れた様子を見せた。
「失礼ですし、無能ですね……本気で追い出す時が来たかもしれません」
「止めろって! 作る! 今から作るから! ドーナツでもなんでも作りゃいいんだろ!」
急いで身支度を整えたユキはヤケクソにそう叫び、乱暴にドアを開ける。ドアの向こうで不機嫌そうに立っていたアザレアは、頭一つ以上高い位置の彼の顔を見上げながら「早急に」と念を押した。
ユキが狭い調理場でドーナツを揚げている頃、事務所兼住居であるここの家主であるアザレアは、空腹で不機嫌になりながらも仕事部屋で書類の整理を行っていた。
”箱庭”でライフラインがしっかり整った住居を持つことは通常であれば難しく、二十代前半の風貌のユキよりもさらに若い十代の少女であるアザレアが、事務所も兼ねられるほどの住居を持てることは異例であった。
住む場所や食べる等の生きる為に必要なものは何でも不自由なく与えられている”楽園”とは違い、ここは全てが自給自足である”箱庭”だから、当然住む場所を得る為には何かしらの行動を起こさなくてはならない。
なので当然アザレアも仕事をして生計を立て、その収入でこの事務所を兼ねた住居を借りていた。
ただ、彼女のような幼い少女が一人で家を借りれるほどの収入を得る仕事をしているとは、彼女をよく知らない人々にはにわかには信じてもらえず、『体を売っている』などと囁かれることも多い。
当然そんなことは無く、彼女は自身の持つ能力を使って、今のところは安定して生計を立てられるほどに普通の仕事をしていた。いや、普通と言うと語弊があるかもしれないが、しかし体を売るよりはよっぽと健全な仕事であると彼女自身は思っている。
「『贖罪屋』さ~ん!」
唐突に背後から少女の声がして、アザレアは作業の手を止めて顔を上げる。部屋には自分しかいなかったはずだが、アザレアは驚く様子も無く椅子に腰かけたままで背後を振り返った。
忽然と背後に現れて立っていた少女を見て、アザレアはどこか疲れたような表情となる。
「メイさん、勝手に部屋にテレポートしてこないでくださいって言いましたよね?」
メイと呼ばれた少女――メイディーンは、アザレアにジロリと睨まれて悪戯っぽく笑った。
「ごめんごめん!」
真っすぐ自分を見つめる彼女の金の眼差しに全く反省の色が見えず、アザレアは小さくため息を吐く。
「プライバシーの侵害で訴えたいです」
「いいじゃない、あたしとアザレアの仲なんだから~」
「どんな仲ですか」
「親友!」
「え? 初耳です」
「ひどい~!」
背後から抱きついて泣き真似をするメイディーンをあっさり払いのけ、アザレアは再び書類の整理を始めた。
「あ、何事も無かったかのようにまた作業をはじめた~」
「仕事中でしたので、当然です」
「ねぇねぇ、仕事なら、あたしが手伝うことは無いの? アザレアの為なら、どこでもテレポートしちゃうよ? ただし”箱庭”内限定だけど」
メイディーンは再び背後からアザレアに抱きつき、自分の右腕に巻きつくように咲く白い百合の花を見せる。漆黒に艶めく彼女の長い髪と対象的な純白のその花は、彼女の罪の証であった。
アザレアは少し考える様子を見せた後、再度メイディーンの腕をやんわりと振りほどいてから「今は結構です」と返す。それを聞き、メイディーンの表情は残念そうに歪んだ。
「ええ~」
「あなたのその花憑きとしての特殊能力はとても便利で頼りにしていますが、今はその力が必要な仕事が無いので大丈夫です」
アザレアのその言葉を聞き、メイディーンは再び嬉しそうな笑顔となる。コロコロと表情が変わる少女に対して表情がほとんど変わらないアザレアは、やや不機嫌そうな仏頂面のまま作業を続けた。
「あたし、頼りにされてるんだ♪ うれしーな」
「能力だけなら、トップクラスに便利ですから」
花憑きは花が寄生した瞬間から、皆何かしら一つだけ人ならざる特殊な能力を得る。メイディーンが花憑きとなって得た能力は、”転移”の能力だった。
とても便利なその能力は、箱庭の自分が一度訪れた場所という条件は存在するが、その条件下であればどこへでも一瞬で移動出来てしまう。また、手を繋いでいれば繋いだ相手も一緒に転移出来る能力なので、アザレアも度々彼女の能力のお世話になっていた。
「能力だけって……なんだか体目当てみたいな言われ方」
「嫌でした?」
「ううん、興奮した!」
嬉しそうにそう返事するメイディーンに、アザレアは苦い表情を浮かべたが何も言わなかった。
その後はしばらくアザレアは無言で作業を続け、メイディーンも大人しく後ろで彼女の様子を眺めていたが、やがて退屈になったメイディーンが口を開く。
「ううう~、暇だよぅ。アザレアが構ってくれないなら、アネモネさんのとこに遊びに行こうかな~」
メイディーンのその言葉に、アザレアは作業の手はそのままに言葉を返す。
「”時計塔の魔女”ですか。用も無いのに彼女のとこに行くの、あなたくらいでは」
「えー、だってアネモネさんもお友達だもの」
「そんなこと言うのもあなたくらいだと思うのです」
「そうかなぁ?」
メイディーンはいつの間にかまた座った姿勢のままのアザレアに後ろから抱きつき、アザレアはいい加減鬱陶しいという表情を浮かべる。そうして彼女がメイディーンに文句を言おうとした直前、部屋に焼きたてのドーナツを持ったユキがやって来た。
「おう、神出鬼没の百合少女、来てたのか」
「あ、ドーナツ屋さんだ、やっほー」
ユキとメイディーンは互いに親しげに挨拶をする。一方でアザレアはユキは見ておらず、彼が持ってきたドーナツだけを凝視して、「ドーナツ」と呟いた。
「おぉ、今日の家賃持って来たぞ」
ユキは揚げたてのドーナツが山盛りに乗った皿をアザレアが作業する机の上に置き、「揚げたてだから熱いかもよ」とアザレアに言う。しかし食欲に思考の全てを支配されたアザレアは、ユキの言葉など聞こえてない様子でドーナツをむさぼった。
「相変わらずよく食うよな」
口いっぱいにドーナツを詰め込むアザレアの食べっぷりに、ユキは呆れを通り越して関心した様子でそう言葉を呟く。
メイディーンも彼女の食べっぷりに惚れ惚れとした表情を向けつつ、「あたしも一つ欲しいなー」と言った。
「アザレア、一つちょーだい」
「嫌です」
「ひどい~」
即断られたメイディーンだが、元々ドーナツがもらえると期待していなかったのか、あっさりあきらめた様子でアザレアの食べる様子を見守る。
ユキはアザレアがのどを詰まらせないか内心で心配しつつ、彼女に問いを向けた。
「おい、それで今日は仕事ねぇの?」
「ふぁふぃいふふ」
「なにを言ってるのかわかんねぇから、食ってから答えてくれ」
アザレアは口の中のドーナツを一気に飲み込み、口の周りを服の袖で拭いながら「ありません」と答える。
「なんだ、ヒマなんか」
「由々しき事態なのです。私たちのお仕事は無いということは、花憑きたちの間で贖罪する気持ちが無いということですよ」
「お前が一番贖罪する気が無いと思うんだが、俺は」
「だって、楽園に戻ったらこんなふうに思いっきり好きなだけドーナツを食べるってことも出来ないんですよ? そんな場所、私にはちっとも”楽園”じゃありません。戻りたくなんてないです」
「ふぅん」
なぜアザレアがそこまでドーナツを食べることに執着するのかユキにはわからないが、興味もそんなに無いので彼は曖昧に返事を返す。
ただ何もしなければこの”箱庭”では、寄生した花に徐々に感情を奪われておおよそ二十年ほどで精神の死を迎え、やがて廃人と化した肉体も朽ちていくという。
だからこそここに閉じ込められた花憑きたちは贖罪をして”楽園”に戻ろうとしているのだが、アザレアは死を覚悟してでもこの場所を選んでいるということだろうか。
ならば自分はどうだろうと、不意にユキはそんなことをぼんやりと考えた。
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