プロローグ
この場所には、世界が二つあった。
一つは幸福だけに満ち、もう一つは禍を閉じ込める対極の世界。
二つの世界は同じ場所に存在しながら、決して交わることは無かった。ただ唯一例外の少女を除いては。
”たとえば”の話をしよう。
たとえば……あなたが色鮮やかな花と緑に囲まれた幸福の世界の住人で、なに不自由なく暮らしていたとしよう。
しかしなに不自由ない幸福は『物足りない』という感情と共に心に隙間を生み、やがてその隙間を埋める手段をあなたは求め始める。
あなたがその心の隙間を埋める為に求めた手段は道徳的に許されぬことで、それを理解しながらも衝動に駆りたてられたあなたは罪を犯した。
そう、これはあなたが『罪を犯した』場合の、”もしも”の話だ。
”たとえば”や”もしも”が可能性であるならば、心に隙間を抱えながらも、その隙間に気付かないふりをして不自由無い世界で生き続ける選択肢もあるだろう。あるいは……。
罪人となったあなたの話を続けよう。
罪を犯したものは禍とされ、罪を裁くものたちによって幸福に満ちた「楽園」の世界からは追放される。
追放されたあなたは牢獄に閉じ込められるように、もう一つの世界へとその身を囚われることになるだろう。
そこは常に夜に閉ざされた「箱庭」で、時が止まったような静寂と無機質な廃墟ばかりが並ぶ灰色の景色があなたを不安と孤独にさせる。
呆然と、あるいはすべて受け入れるように空虚に立ち尽くすあなたは、すぐに自身の異変に気付く。色の無い世界で、ただ唯一鮮やかな色を持つ”花”が自分の体から咲いていたのだ。
異質な花は肉体に深く根付き、不気味なほどに鮮やかに咲き誇っている。あなたは何かを思いながらその花を見つめ、やがて再び顔を上げた。あなたの前には巨大な時計塔が建つ。
その塔は頂上が二つの月がおぼろげに輝く黒い空に吸い込まれそうなほどに高く、屋根の下の巨大な時計は零時調度を差したまま動かない。その巨大さと動かぬ時計に不気味さを感じるのは確かだったが、何故かあなたは目の前の時計塔の扉に足を向けた。まるで塔に呼ばれているかのように、異質なこの世界でもっとも異質なものへとあなたは歩みを進めた。
木の扉を押し開けると、来訪者を拒むような外観とは裏腹に、時計塔の入り口は軋む音をたてながらあっさりと開く。そのことに少し拍子抜けしながらも、あなたは時計塔の中に足を踏み入れた。
外同様に黒く暗い内部を照らすのは無数に設置された燭台の上の蝋燭。その白い明かりを頼りに中を進もうとすると、上に続く階段を覆う暗闇の先から小柄な人影が現れた。
「ようこそ、新たな咎人さん」
階段の上から現れた人影は若い少女で、薄く微笑んだ彼女は深い青の瞳をまっすぐあなたへ向けてそう告げた。しかし直後に彼女は困った様子で小首を傾げ、腰まで届く水色の髪の毛先が揺れる。
「ごめんなさい、ええと、そうですね、咎人は失礼だったかな……でも、お名前で呼びたいんだけど、名前をまだ聞いていないから」
あなたの様子を見てそう言った彼女は、あなたが口を開く前に言葉を続ける。
「私はアネモネです。この『魔女の時計塔』を管理しているの。管理と言うより、ただここに住んでるだけなのかもしれないけど」
アネモネと名乗った少女は、また微笑みながらあなたにこう聞いた。
「では、あなたの名前を教えて? ううん、名前だけじゃなく、どうしてあなたがここに……『箱庭』にきたのか、私は興味がある」
アネモネが右手を一振りすると、何もない空間からまるで手品のように一冊の本と羽ペンが出てくる。彼女はそれらを手にし、右手にペンを持ち左手に持った本を開いた。
「新たな『花憑き』のあなたのこと、まずは教えてほしいな。きっと、私とあなたは長い付き合いになるだろうから」
『花憑き』と呼ばれ、あなたは自分の体に生えた”花”を思い出す。その花はあなたが犯した罪の形であり、あなたが贖罪しなければずっと咲き続ける魔性の花。
その花はあなたに一つだけ人ならざる能力を与える代わりに、あなたの精神をゆっくりと侵蝕して喰らい尽くす呪いでもある。
自分に咲くその花の恐ろしさを思い出した時、アネモネはそんなあなたの内心に気付いてか、あなたを安心させるように微笑んでこう言った。
「大丈夫、箱庭は永遠の牢獄では無いから。あなたが贖罪した時にその花は枯れ、あなたはまた楽園に戻ることが出来る」
”花”が忌まわしき罪の象徴であるこの世界で、花の名を冠する少女は微笑みを複雑に歪めてあなたを見つめた。
「長い付き合いになるだろうけど、なるべく早くあなたとお別れ出来るといいなと思っているよ。花憑きを楽園へと送って贖罪の手助けをすることが、私の役目でもあるからね」
返す言葉に迷うあなたに、アネモネもまた複雑な笑みのままでもう一度問うた。
「さぁ、あなたの名前を教えて。私は花憑きと楽園を繋ぐ者であり、花憑きを記録する存在でもある。花憑きとなったあなたの物語の行方はあなたしか知らないけど、その全てを私は記録する」
あなたの物語は、今、ここから始まる――