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歴史もの

洛水の女神

作者: しのぶ
掲載日:2015/07/06

魏の都。

曹植は独り、洛水の流れを眺めながら、そのほとりの東屋で、詩(うた)を作っていた。

乱世のこと、国の危うさのこと、兄に疎まれていることなど、憂いの上に、それをどうすることもできない憂いが重なって、こうして独り、詩を作るのがせめてもの心の慰めであった。


曹植は、歌詠みの集いにも出てはいたが、こうして独りで作る詩は、誰に聞かせるというあてもない、個人的な詩である。しかし、そんな詩でも、完成度を高めようと努めるのは、やはり歌詠みの性であろうか。


「二行目の語感がよくないな…やはり言葉を入れ換えたほうがいいか。しかし、そうすると押韻できなくなるしな…うーむ…」


などと考えながら、何度か詩を口ずさんで、黙っていると、突然、声がした。


「さっきの詩を、もう一度詠んでもらえませんか?」


「!?」


振り返ると、傍らに、女官のような出で立ちをした、美しい娘が立っていた。

はて、さっきまでは誰もいなかったはずだが、どこから現れたのか。神霊か、亡霊か、いや、ひょっとすると、自分を殺すために、兄が送り込んだ刺客かもしれぬ。


「あなたは、誰ですか?」


曹植は身構えつつ言った。


「そう身構えないでください。あなたに仇なすつもりはありません。私はただ、詩が好きなだけなのです。

ね、もう一度、さっきの詩を詠んでいただけませんか?」


「別に構いませんが…」



曹植がもう一度さっきの詩を詠むと、彼女は言った。


「なるほど、よい詩です。でも、二行目はまだ、改善の余地がありそうですね」


「そうなのです。私も言葉を入れ換えようかと思っていたのですが、適当な言葉が見つかりませんでしたので」


「それでは、こうしたらいかがですか?」


と、彼女は言葉を換えてさっきの詩を詠んだ。

語感もぴったり、押韻もぴったりはまり、曹植は膝を打って、


「なるほど、その手があったか。いや、あなたは詩を詠むのが上手いですな」


「いえ、そんなことはありません。下手の横好きですわ」


と、彼女は遠慮して、しかし明らかに嬉しそうに言った。

そこで曹植はふと思い返して、


「ところで、あなたは誰なのです?」


「別に、大した者ではありません。ただ詩が好きなだけの通りがかりですわ」


「嘘を言いなさい。あなたのその出で立ちは、宮仕えをしている方のように見うけられます。誰に仕えているのです?何を目当てにきたのですか?」


曹植は、無意識に剣に手をやりつつ尋ねた。


「私を斬りたいなら、斬って下さっても構いません。でも、その前に、私の手をとっていただけませんか?」


彼女は手を差しのべた。

曹植はためらったが、警戒してもきりがないと思って、思いきって手を取った。が、触れることはできない。まるで虹を掴もうとするように、その姿を通り抜けてしまう。曹植は驚いた。


「人は、私に触れることができないのです」


そう言うと、彼女は欄干を越えて、洛水の流れに足を踏み入れた。何事かと、曹植は身を乗り出して見ると、彼女は水の流れの上を、床の上を歩くように歩いていた。曹植は目を見張った。

彼女は、曹植のほうをかえりみて言う。


「それどころか、大抵の人は、私の姿を見ることも、声を聞くこともできません。人は私のことを、洛神…洛水の女神と呼んでいます」


曹植は居ずまいを正して言った。


「何と、あなたは神でしたか。これは失礼なことをいたしました」


「いえ、どうかそうかしこまらないで。神と呼ばれてはいても、私には大した力があるわけでもないし、生きていた頃のことだって、ほとんど覚えていないのです。


ね、それよりも、詩を詠んでください。あなたはきっと、あれ以外にも、詩を作っておられるのでしょう?」


「ええ、作ってはいますが…」


「でしたら、ぜひそれを詠んでください。私はとても詩が好きなのです。でも、もう永いこと、詠んでくれる人も、聴いてくれる人もいなかったものですから」


「そういうことでしたら…」


と、曹植は、この間歌詠みの集いで詠んだものを詠んだ。


“

独りで住まう佳き人の

花と見紛う顔(かんばせ)も

朝(あした)は北へ追いやられ

夕(ゆうべ)は南へ追いやられ


さまよい歩く身であれば

その歌を聞く人もなし

年は空しく過ぎ行きて

つかの間のこの輝きよ

”


「なるほど、よい詩です。ところで、これは誰について詠んだ詩なのですか?」


「これは、私自身が、世に用いられないのを嘆いた詩です。こういう隠喩の仕方は、屈原にならったものです」


「屈原、か…」


「ひょっとして、屈原を知っておられるのですか!?」


「いえ、会ったことはありません。でも、屈原の詩は私も好きです。特に、”離騒“の終わりのほう、”馬は故郷をかえりみて、もう進もうとしてくれぬ…“というあたりが」


「そうでしょう。そうでしょう。私も、あの部分が全体の肝だと思っていますよ」




さて、それからというもの、曹植は足しげく洛水のほとりに通って、詩を詠みあったり、作ったりして過ごした。

洛神は言った。


「歌詠みの集いでは、どういうことをやっているのですか?」


「別に大したことはやっていません。何かお題を出して、それに合わせて皆で詩を詠んだりする程度ですね。お題が“花”なら、皆で花についての詩を即興で作るわけです」


「ほう」


「最近は、お題の言葉を使わずに詠むということもやっていますね。お題が“花”なら、“花”という言葉を使わずに、花について詠むわけです」


「面白そうですね。私も出てみたいものです」


「そうでしょうか?私には、あまり意味のない遊びのように思えますが…」


「あれ、そうですか?それなら、どんな詩なら意味があると思うのですか?」


「そうですね…。私は、詩は自分の想いを述べるためのものだと思っています。孔子の言っているように、偽りなき心を詠む、というやつですね。

だから、あらかじめそれについて言いたいことがあるならともかく、お題に合わせて詠むというのは、私には合いませんね」


「なるほど。そういうことなら、私も、そういう想いで詩を詠んできたものですよ」


と言うと、洛神は古風な詩を詠んだ。


“

この園に桃のありせば

我もまたその実を取らん

憂いあらば憂いを歌わん

我が心人は知らずに

我をただおこがましいと

人々は咎めるばかり

人々はそれでよいのか

あなたならどう思うのか

この憂い誰が知ろうか

この憂い誰が知ろうか

もう何も語りはすまい

思いもすまい


この園に棗(なつめ)ありせば

我もまたその実を取らん

今はただこの国を去らん

我が心人は知らずに

我をただ勝手なものと

人々は咎めるばかり

人々はそれでよいのか

あなたならどう思うのか

この思い誰が知ろうか

この思い誰が知ろうか

もう何も語りはすまい

思いもすまい

”


「それは、“詩経”に載っている詩ではないのですか?」


「そうです。これは私が、ずっと昔に作った詩ですからね」


「本当ですか?それはすごい!」


「でも今は、当世風の詩も作っていますよ」


と言うと、また別の詩を詠んだ。


“

君ははるかな彼方にて

河と海とに隔てられ

渡って行けはしないのに

忘れることも叶わない


彼方を目指し飛ぶ鳥が

片時前にとどまれば

私の想い言付けて

ゆだねたいとも思うけど


彼らはすぐに飛び去って

応えてくれるはずもなし

行く鳥をただ見送って

打ちひしがれるこの心

”


曹植は、「これは誰について歌った詩なのですか?」とも訊きかねるので、言った。


「あなたは、ここから遠くへはいけないのですか?」


「私は、この洛水と、その周りまでしか行けないのです。それより遠くへは行けません」


「そうなのですか…」



曹植は、洛水に通いつめるうちに、身の上話もするようになった。


「あなたも知っておられるでしょうが、今は乱世なのです。私達のこの魏と、呉と、蜀とが、それぞれ天下を取ろうと争っているのです」


「戦なら、私も幾度か見てきました。痛ましいことですわ。このあたりにも、名も知られず死んでいった、古の人々の骨が多く埋まっているのですよ」


「そうなのでしょうね。しかし、誰かが天下を取らない限り、この争いが止むことはないでしょう。

私だっても、そのために働きたいと思っているのですが、兄に疎まれているせいで、それが果たせないでいるのです」


「そういえば、あなたのお兄さんは皇帝なのでしたね」


「そうです。私達の父は、最後まで皇帝は名乗りませんでしたが、ほとんど皇帝のような存在でした。兄の代になって、初めて皇帝を名乗るようになったのです。

しかし、兄は、自分が皇帝の位を奪ったものだから、自分もまたそれを奪われるのではないかと恐れているのです。それだから、私を疎んじているのです。一時の間、私が父の後継ぎに推されていたからというので」


「お兄さんとは、仲が悪いのですか?」


「そりゃ、私達だって、子供の頃は一緒に遊んだりもしたものですよ。しかし、世の中が乱れて、多くの争いを経るうちに、いつしかそんな情けも失われてしまったようです。

私を後継ぎに推していた人々は、もう何人か殺されてしまいました。私だって、いつまで生きていられるか…」


「植…」


「ああ、外に敵があるのはまだしも世の常と言えるでしょうが、身内の争いは、まことに耐え難いものです。こんな世の中は捨て去って、かつて憧れたように、仙人になって、天なり地なりに隠れてしまいたいとも思いますよ。

あなたのように、浮世を離れていられれば、このような争いに心を悩ますこともないだろうに…」


と言って、洛神の悲しげな顔を見て、曹植は言った。


「申し訳ない。無神経なことを言ってしまいました。私は、あなたの過去も、身の上も、何も知らないのに」


「いえ、いいのです。私だって、同じ立場なら、同じことを思うでしょうから。

ね、それよりも、もう一度あの詩を歌ってくださいませんか。私達が初めて会った時に、私達が合作した、あの詩を」


「いいですとも」


曹植が詩をうたうと、洛神は水の流れの上に降りたって、詩に合わせて舞を舞った。曹植が三度、声を長めて歌うのに合わせて、彼女も舞い踊る。

かすみのかかった洛水の流れの上で、詩に合わせて舞い踊る女神の姿は、まさにこの世ならぬ美しさである。

曹植は、その舞に見とれながらも、あとどれだけ、このように過ごせるのであろうかと、心の片隅で思うのであった。



終わりは突然に訪れる。ある日、曹植は浮かない顔でやってくると、洛神に言った。


「私がここにやって来れるのも、今日が終わりになるでしょう」


「どうしたのですか?」


「兄が私を呼んでいます。大事な話があるのだから、宮廷まで来るようにと言われました。ただで私を返すとは思えません。きっと殺すつもりです。


しかし、殺されるとわかっていて、どうしてわざわざ死ににいきましょうか。それよりはむしろ、この洛水に身を投げて死のうと思います。そうすれば、いつまでもあなたと共にいられましょうから」


「いいえ!どうか、そんなことはしないで下さい。あなたはここで死ぬ人ではないはずです。それに、ここがあなたの墓場になって、水底に、常にあなたの屍を見ることになるなんて、私はとても耐えられません」


「しかし、どうしたらよいのでしょうか?それでは、ここでなくとも、やはり別の所で死のうと思います」


「いいえ、あなたは今死ぬことにはならないでしょう。

これは私の予知です。私のなけなしの神通力が、私にそれを告げているのです。ただ…」


「ただ?」


「私達は、恐らく、再び会うことはできないでしょう」


「それでは、そんなことでは、一体何のために生きるのか」


「詩を…」


洛神は言った。


「詩をうたってください。私達が、今までに詠んできた、作ってきた詩を、一つ一つ、心に刻み込むようにして。

そうすれば、離れても、私達の心は、共にあることになるでしょうから」


「しかし、あなたはそれで…

…わかりました。歌いましょう」


二人は、これを最後とばかり、詩を詠み交わした。今までに詠んできた、作ってきた詩を、一つ一つ、心に刻み込むようにして。

そして、終わりに、洛神が言った。


「最後に、この詩を聞いてください」


“

豆がら燃やし豆を煮る

豆は煮られて泣いている

もともと同じ根から出て

また何ゆえに憎みあう

”


「これは?」


「これは、私が今作った詩です。この詩をよく覚えておいて、決して忘れないでください。また、時が来るまでは、誰にも聞かせないでください。

この詩は、あなたを助けてくれるでしょう。これは私の予知です」


曹植は、この詩を何度も繰り返し、心に刻み込んだ。そして、言った。


「私はもう、行かなければなりません。もうこれ以上は、延ばせないのです」


「いいえ、どうかそんなことは言わないで。ね、最後にもう一度、あの詩を詠んでください。私達が最初に会った時に、私達が合作した、あの詩を」


「詠みたいのです。詠みたいのですが、私はもう、胸がふさがってしまって、詠めそうにありません。どうか、あなたが代わりに詠んでくださいませんか」


「ああ、植よ、それは私も同じです。私ももう、言葉が出ません」


洛神は手を差しのべた。曹植はその手を取ろうとした。が、触れることはできない。まるで虹を掴もうとするように、その姿を通り抜けてしまう。

曹植は洛神を抱きしめた。しかし、やはり触れることはかなわず、腕は空を切るばかり。曹植は目を固く閉じて、われと我が身を抱きしめ…そして、目を開けると、すでに洛神の姿は消え失せていた。




宮廷に着くと、皇帝の左右には百官が立ち並び、背後には、武装した兵士たちの姿も見えた。

曹植は皇帝の前にやって来て、ひれ伏すと、皇帝は言った。


「植よ、ずいぶん遅かったではないか。私の命令など、聞いたところで、そう急ぐ必要もないということなのかな」


「いいえ、そのようなことはありません」


「聞くところでは、お前はよく歌詠みの集いに出ているということだが、そうやって人を集めて、何をしようというのかな」


「別に、何かしようというつもりはありません。私はただ、詩を好んでいるだけなのです」


「本当にそうかな?もしそうなら、このように国が危うい時に、そのような事にうつつを抜かしているべきではないし、そうでなければ、やはり何かしようとしているのではないか?」


「私だって、できることなら、国の役に立ちたいと思っております」


「すると何かな、私が邪魔をしているせいで、力が発揮できないとでも言うのかな?」


「いえ、そんなことは…」


「まあいい。本来ならば、お前のような者を放ってはおかないところだが、私にも骨肉の情というものがあるからな。お前にも、助かる見込みを与えてやろう」


「どういうことですか?」


「なに、大したことではない。私がお題を出すから、それに合わせて詩を詠んでほしいだけだ。お題の言葉を使わずに、な」


「そういうことでしたら…」


「ただし、条件がある。お前が本当に詩を好んでいるのなら、詩を作る術にも長けているだろう。

そこでだ。お前が今いるその場から…七歩!七歩、歩く間に、詩を作って詠んで見せろ。それができれば許してやるが、できなければ…、殺す!」


「!!」


「我らは兄弟であるから、お題は“兄弟”としよう。ただし、兄弟という言葉を使ってはならぬ。さあ、詠んで見せろ。今すぐにだ!」


皇帝は冷たく笑っていた。できるはずがない、と思っているのだ。

曹植だって、普段ならできる気はしなかっただろう。だが、今は違った。曹植は迷いなく立ち上がると、歩きながら一節一節、はっきりと詠みあげた。


“

豆がら燃やし豆を煮る

豆は煮られて泣いている

もともと同じ根から出て

また何ゆえに憎みあう

”


「おお!」


これには、居並ぶ者たちもどよめいた。皇帝も驚いていた。曹植は最後の一歩で立ち止まり、皇帝をかえりみて言った。


「兄上、私はただ、普通の兄弟が当たり前にやるように、兄上と仲良くやっていきたいだけなのです。私の心に偽りがないことは、天が知っておられます。それだから、私にこの詩を下されたのです。どうか、私の心を知ってください」


皇帝はしばらく押し黙っていたが、やがて言った。


「…確かに、この件では、私が悪かった。私はどうかしていたのだ。許してくれよ、植。

今日はもう下がってよろしい。また後日、お前にも何か仕事を与えようから」



結局、曹植は地方の領主を任されることになった。領地に赴く馬車の中で、馭者が言った。


「七歩の詩の話、聞きましたよ。あんな状況の中でとっさに詩が詠めるなんて、やっぱり曹植様はすごいですね」


「いや、あれはたまたま天の助けがあっただけだ。私だけで、どうしてあんなことができようか」


曹植は、去り行く都の景色を眺め、洛水の方を見やって言った。


「ああ、もう二度とこの地を見ることはできないのであろうか。さようなら、さようなら!あなたのことは決して忘れません。

これから私は、どこにいても、常にあなたを思い見ることになるのでしょう。そうすれば、私達の心は共にあることになるのでしょうか?あなたが言ったように…。

確かに、詩を詠むのは、つまらない技ではないようです。これほど深く心に残って、心を動かすものならば…」

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― 新着の感想 ―
[一言] 美しい物語でした。 七歩の詩に秘められた謎が解けました。 屈源の離騒は私も好きな詩のひとつです。 馬は故郷をかえりみて、もう進もうとしてくれぬ…というくだりは屈源の心境を表していて、胸に秘…
[一言] 面白かったです。 曹植には女神さまがついていたんですねw
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