洛水の女神
魏の都。
曹植は独り、洛水の流れを眺めながら、そのほとりの東屋で、詩を作っていた。
乱世のこと、国の危うさのこと、兄に疎まれていることなど、憂いの上に、それをどうすることもできない憂いが重なって、こうして独り、詩を作るのがせめてもの心の慰めであった。
曹植は、歌詠みの集いにも出てはいたが、こうして独りで作る詩は、誰に聞かせるというあてもない、個人的な詩である。しかし、そんな詩でも、完成度を高めようと努めるのは、やはり歌詠みの性であろうか。
「二行目の語感がよくないな…やはり言葉を入れ換えたほうがいいか。しかし、そうすると押韻できなくなるしな…うーむ…」
などと考えながら、何度か詩を口ずさんで、黙っていると、突然、声がした。
「さっきの詩を、もう一度詠んでもらえませんか?」
「!?」
振り返ると、傍らに、女官のような出で立ちをした、美しい娘が立っていた。
はて、さっきまでは誰もいなかったはずだが、どこから現れたのか。神霊か、亡霊か、いや、ひょっとすると、自分を殺すために、兄が送り込んだ刺客かもしれぬ。
「あなたは、誰ですか?」
曹植は身構えつつ言った。
「そう身構えないでください。あなたに仇なすつもりはありません。私はただ、詩が好きなだけなのです。
ね、もう一度、さっきの詩を詠んでいただけませんか?」
「別に構いませんが…」
曹植がもう一度さっきの詩を詠むと、彼女は言った。
「なるほど、よい詩です。でも、二行目はまだ、改善の余地がありそうですね」
「そうなのです。私も言葉を入れ換えようかと思っていたのですが、適当な言葉が見つかりませんでしたので」
「それでは、こうしたらいかがですか?」
と、彼女は言葉を換えてさっきの詩を詠んだ。
語感もぴったり、押韻もぴったりはまり、曹植は膝を打って、
「なるほど、その手があったか。いや、あなたは詩を詠むのが上手いですな」
「いえ、そんなことはありません。下手の横好きですわ」
と、彼女は遠慮して、しかし明らかに嬉しそうに言った。
そこで曹植はふと思い返して、
「ところで、あなたは誰なのです?」
「別に、大した者ではありません。ただ詩が好きなだけの通りがかりですわ」
「嘘を言いなさい。あなたのその出で立ちは、宮仕えをしている方のように見うけられます。誰に仕えているのです?何を目当てにきたのですか?」
曹植は、無意識に剣に手をやりつつ尋ねた。
「私を斬りたいなら、斬って下さっても構いません。でも、その前に、私の手をとっていただけませんか?」
彼女は手を差しのべた。
曹植はためらったが、警戒してもきりがないと思って、思いきって手を取った。が、触れることはできない。まるで虹を掴もうとするように、その姿を通り抜けてしまう。曹植は驚いた。
「人は、私に触れることができないのです」
そう言うと、彼女は欄干を越えて、洛水の流れに足を踏み入れた。何事かと、曹植は身を乗り出して見ると、彼女は水の流れの上を、床の上を歩くように歩いていた。曹植は目を見張った。
彼女は、曹植のほうをかえりみて言う。
「それどころか、大抵の人は、私の姿を見ることも、声を聞くこともできません。人は私のことを、洛神…洛水の女神と呼んでいます」
曹植は居ずまいを正して言った。
「何と、あなたは神でしたか。これは失礼なことをいたしました」
「いえ、どうかそうかしこまらないで。神と呼ばれてはいても、私には大した力があるわけでもないし、生きていた頃のことだって、ほとんど覚えていないのです。
ね、それよりも、詩を詠んでください。あなたはきっと、あれ以外にも、詩を作っておられるのでしょう?」
「ええ、作ってはいますが…」
「でしたら、ぜひそれを詠んでください。私はとても詩が好きなのです。でも、もう永いこと、詠んでくれる人も、聴いてくれる人もいなかったものですから」
「そういうことでしたら…」
と、曹植は、この間歌詠みの集いで詠んだものを詠んだ。
“
独りで住まう佳き人の
花と見紛う顔も
朝は北へ追いやられ
夕は南へ追いやられ
さまよい歩く身であれば
その歌を聞く人もなし
年は空しく過ぎ行きて
つかの間のこの輝きよ
”
「なるほど、よい詩です。ところで、これは誰について詠んだ詩なのですか?」
「これは、私自身が、世に用いられないのを嘆いた詩です。こういう隠喩の仕方は、屈原にならったものです」
「屈原、か…」
「ひょっとして、屈原を知っておられるのですか!?」
「いえ、会ったことはありません。でも、屈原の詩は私も好きです。特に、”離騒“の終わりのほう、”馬は故郷をかえりみて、もう進もうとしてくれぬ…“というあたりが」
「そうでしょう。そうでしょう。私も、あの部分が全体の肝だと思っていますよ」
さて、それからというもの、曹植は足しげく洛水のほとりに通って、詩を詠みあったり、作ったりして過ごした。
洛神は言った。
「歌詠みの集いでは、どういうことをやっているのですか?」
「別に大したことはやっていません。何かお題を出して、それに合わせて皆で詩を詠んだりする程度ですね。お題が“花”なら、皆で花についての詩を即興で作るわけです」
「ほう」
「最近は、お題の言葉を使わずに詠むということもやっていますね。お題が“花”なら、“花”という言葉を使わずに、花について詠むわけです」
「面白そうですね。私も出てみたいものです」
「そうでしょうか?私には、あまり意味のない遊びのように思えますが…」
「あれ、そうですか?それなら、どんな詩なら意味があると思うのですか?」
「そうですね…。私は、詩は自分の想いを述べるためのものだと思っています。孔子の言っているように、偽りなき心を詠む、というやつですね。
だから、あらかじめそれについて言いたいことがあるならともかく、お題に合わせて詠むというのは、私には合いませんね」
「なるほど。そういうことなら、私も、そういう想いで詩を詠んできたものですよ」
と言うと、洛神は古風な詩を詠んだ。
“
この園に桃のありせば
我もまたその実を取らん
憂いあらば憂いを歌わん
我が心人は知らずに
我をただおこがましいと
人々は咎めるばかり
人々はそれでよいのか
あなたならどう思うのか
この憂い誰が知ろうか
この憂い誰が知ろうか
もう何も語りはすまい
思いもすまい
この園に棗ありせば
我もまたその実を取らん
今はただこの国を去らん
我が心人は知らずに
我をただ勝手なものと
人々は咎めるばかり
人々はそれでよいのか
あなたならどう思うのか
この思い誰が知ろうか
この思い誰が知ろうか
もう何も語りはすまい
思いもすまい
”
「それは、“詩経”に載っている詩ではないのですか?」
「そうです。これは私が、ずっと昔に作った詩ですからね」
「本当ですか?それはすごい!」
「でも今は、当世風の詩も作っていますよ」
と言うと、また別の詩を詠んだ。
“
君ははるかな彼方にて
河と海とに隔てられ
渡って行けはしないのに
忘れることも叶わない
彼方を目指し飛ぶ鳥が
片時前にとどまれば
私の想い言付けて
ゆだねたいとも思うけど
彼らはすぐに飛び去って
応えてくれるはずもなし
行く鳥をただ見送って
打ちひしがれるこの心
”
曹植は、「これは誰について歌った詩なのですか?」とも訊きかねるので、言った。
「あなたは、ここから遠くへはいけないのですか?」
「私は、この洛水と、その周りまでしか行けないのです。それより遠くへは行けません」
「そうなのですか…」
曹植は、洛水に通いつめるうちに、身の上話もするようになった。
「あなたも知っておられるでしょうが、今は乱世なのです。私達のこの魏と、呉と、蜀とが、それぞれ天下を取ろうと争っているのです」
「戦なら、私も幾度か見てきました。痛ましいことですわ。このあたりにも、名も知られず死んでいった、古の人々の骨が多く埋まっているのですよ」
「そうなのでしょうね。しかし、誰かが天下を取らない限り、この争いが止むことはないでしょう。
私だっても、そのために働きたいと思っているのですが、兄に疎まれているせいで、それが果たせないでいるのです」
「そういえば、あなたのお兄さんは皇帝なのでしたね」
「そうです。私達の父は、最後まで皇帝は名乗りませんでしたが、ほとんど皇帝のような存在でした。兄の代になって、初めて皇帝を名乗るようになったのです。
しかし、兄は、自分が皇帝の位を奪ったものだから、自分もまたそれを奪われるのではないかと恐れているのです。それだから、私を疎んじているのです。一時の間、私が父の後継ぎに推されていたからというので」
「お兄さんとは、仲が悪いのですか?」
「そりゃ、私達だって、子供の頃は一緒に遊んだりもしたものですよ。しかし、世の中が乱れて、多くの争いを経るうちに、いつしかそんな情けも失われてしまったようです。
私を後継ぎに推していた人々は、もう何人か殺されてしまいました。私だって、いつまで生きていられるか…」
「植…」
「ああ、外に敵があるのはまだしも世の常と言えるでしょうが、身内の争いは、まことに耐え難いものです。こんな世の中は捨て去って、かつて憧れたように、仙人になって、天なり地なりに隠れてしまいたいとも思いますよ。
あなたのように、浮世を離れていられれば、このような争いに心を悩ますこともないだろうに…」
と言って、洛神の悲しげな顔を見て、曹植は言った。
「申し訳ない。無神経なことを言ってしまいました。私は、あなたの過去も、身の上も、何も知らないのに」
「いえ、いいのです。私だって、同じ立場なら、同じことを思うでしょうから。
ね、それよりも、もう一度あの詩を歌ってくださいませんか。私達が初めて会った時に、私達が合作した、あの詩を」
「いいですとも」
曹植が詩をうたうと、洛神は水の流れの上に降りたって、詩に合わせて舞を舞った。曹植が三度、声を長めて歌うのに合わせて、彼女も舞い踊る。
かすみのかかった洛水の流れの上で、詩に合わせて舞い踊る女神の姿は、まさにこの世ならぬ美しさである。
曹植は、その舞に見とれながらも、あとどれだけ、このように過ごせるのであろうかと、心の片隅で思うのであった。
終わりは突然に訪れる。ある日、曹植は浮かない顔でやってくると、洛神に言った。
「私がここにやって来れるのも、今日が終わりになるでしょう」
「どうしたのですか?」
「兄が私を呼んでいます。大事な話があるのだから、宮廷まで来るようにと言われました。ただで私を返すとは思えません。きっと殺すつもりです。
しかし、殺されるとわかっていて、どうしてわざわざ死ににいきましょうか。それよりはむしろ、この洛水に身を投げて死のうと思います。そうすれば、いつまでもあなたと共にいられましょうから」
「いいえ!どうか、そんなことはしないで下さい。あなたはここで死ぬ人ではないはずです。それに、ここがあなたの墓場になって、水底に、常にあなたの屍を見ることになるなんて、私はとても耐えられません」
「しかし、どうしたらよいのでしょうか?それでは、ここでなくとも、やはり別の所で死のうと思います」
「いいえ、あなたは今死ぬことにはならないでしょう。
これは私の予知です。私のなけなしの神通力が、私にそれを告げているのです。ただ…」
「ただ?」
「私達は、恐らく、再び会うことはできないでしょう」
「それでは、そんなことでは、一体何のために生きるのか」
「詩を…」
洛神は言った。
「詩をうたってください。私達が、今までに詠んできた、作ってきた詩を、一つ一つ、心に刻み込むようにして。
そうすれば、離れても、私達の心は、共にあることになるでしょうから」
「しかし、あなたはそれで…
…わかりました。歌いましょう」
二人は、これを最後とばかり、詩を詠み交わした。今までに詠んできた、作ってきた詩を、一つ一つ、心に刻み込むようにして。
そして、終わりに、洛神が言った。
「最後に、この詩を聞いてください」
“
豆がら燃やし豆を煮る
豆は煮られて泣いている
もともと同じ根から出て
また何ゆえに憎みあう
”
「これは?」
「これは、私が今作った詩です。この詩をよく覚えておいて、決して忘れないでください。また、時が来るまでは、誰にも聞かせないでください。
この詩は、あなたを助けてくれるでしょう。これは私の予知です」
曹植は、この詩を何度も繰り返し、心に刻み込んだ。そして、言った。
「私はもう、行かなければなりません。もうこれ以上は、延ばせないのです」
「いいえ、どうかそんなことは言わないで。ね、最後にもう一度、あの詩を詠んでください。私達が最初に会った時に、私達が合作した、あの詩を」
「詠みたいのです。詠みたいのですが、私はもう、胸がふさがってしまって、詠めそうにありません。どうか、あなたが代わりに詠んでくださいませんか」
「ああ、植よ、それは私も同じです。私ももう、言葉が出ません」
洛神は手を差しのべた。曹植はその手を取ろうとした。が、触れることはできない。まるで虹を掴もうとするように、その姿を通り抜けてしまう。
曹植は洛神を抱きしめた。しかし、やはり触れることはかなわず、腕は空を切るばかり。曹植は目を固く閉じて、われと我が身を抱きしめ…そして、目を開けると、すでに洛神の姿は消え失せていた。
宮廷に着くと、皇帝の左右には百官が立ち並び、背後には、武装した兵士たちの姿も見えた。
曹植は皇帝の前にやって来て、ひれ伏すと、皇帝は言った。
「植よ、ずいぶん遅かったではないか。私の命令など、聞いたところで、そう急ぐ必要もないということなのかな」
「いいえ、そのようなことはありません」
「聞くところでは、お前はよく歌詠みの集いに出ているということだが、そうやって人を集めて、何をしようというのかな」
「別に、何かしようというつもりはありません。私はただ、詩を好んでいるだけなのです」
「本当にそうかな?もしそうなら、このように国が危うい時に、そのような事にうつつを抜かしているべきではないし、そうでなければ、やはり何かしようとしているのではないか?」
「私だって、できることなら、国の役に立ちたいと思っております」
「すると何かな、私が邪魔をしているせいで、力が発揮できないとでも言うのかな?」
「いえ、そんなことは…」
「まあいい。本来ならば、お前のような者を放ってはおかないところだが、私にも骨肉の情というものがあるからな。お前にも、助かる見込みを与えてやろう」
「どういうことですか?」
「なに、大したことではない。私がお題を出すから、それに合わせて詩を詠んでほしいだけだ。お題の言葉を使わずに、な」
「そういうことでしたら…」
「ただし、条件がある。お前が本当に詩を好んでいるのなら、詩を作る術にも長けているだろう。
そこでだ。お前が今いるその場から…七歩!七歩、歩く間に、詩を作って詠んで見せろ。それができれば許してやるが、できなければ…、殺す!」
「!!」
「我らは兄弟であるから、お題は“兄弟”としよう。ただし、兄弟という言葉を使ってはならぬ。さあ、詠んで見せろ。今すぐにだ!」
皇帝は冷たく笑っていた。できるはずがない、と思っているのだ。
曹植だって、普段ならできる気はしなかっただろう。だが、今は違った。曹植は迷いなく立ち上がると、歩きながら一節一節、はっきりと詠みあげた。
“
豆がら燃やし豆を煮る
豆は煮られて泣いている
もともと同じ根から出て
また何ゆえに憎みあう
”
「おお!」
これには、居並ぶ者たちもどよめいた。皇帝も驚いていた。曹植は最後の一歩で立ち止まり、皇帝をかえりみて言った。
「兄上、私はただ、普通の兄弟が当たり前にやるように、兄上と仲良くやっていきたいだけなのです。私の心に偽りがないことは、天が知っておられます。それだから、私にこの詩を下されたのです。どうか、私の心を知ってください」
皇帝はしばらく押し黙っていたが、やがて言った。
「…確かに、この件では、私が悪かった。私はどうかしていたのだ。許してくれよ、植。
今日はもう下がってよろしい。また後日、お前にも何か仕事を与えようから」
結局、曹植は地方の領主を任されることになった。領地に赴く馬車の中で、馭者が言った。
「七歩の詩の話、聞きましたよ。あんな状況の中でとっさに詩が詠めるなんて、やっぱり曹植様はすごいですね」
「いや、あれはたまたま天の助けがあっただけだ。私だけで、どうしてあんなことができようか」
曹植は、去り行く都の景色を眺め、洛水の方を見やって言った。
「ああ、もう二度とこの地を見ることはできないのであろうか。さようなら、さようなら!あなたのことは決して忘れません。
これから私は、どこにいても、常にあなたを思い見ることになるのでしょう。そうすれば、私達の心は共にあることになるのでしょうか?あなたが言ったように…。
確かに、詩を詠むのは、つまらない技ではないようです。これほど深く心に残って、心を動かすものならば…」