【町田 行幸】
【まちだ みゆき】と読みます。
もしも、と思うことがある。
円満な円環ができる、しあわせな『もしも』だ。
そんな埒もないことを考えながら、俺は卑怯な手段でしか彼女のそばにいられない。
そんなバカなことを、もうずっと続けている。
「臣。おまえはまだ、あの人のことが好きなのか……?」
愕然とした藤の声が、薄い引き戸越しに聞こえた。
次いで、戸惑うような臣の声。ばさばさ紙が落ちる音と後ずさるような足音。
勢いよく開かれた出入り口から小さな体が飛び出して、ちょうどそこにいた町田の体にぶつかり、そのままバタバタと駆け去っていく。ちらりと見えたゆがんだ顔。
なびく黒髪を、見えなくなるまで目でで追いかけてから、開けっ放しの戸をくぐって生徒会室に入る。そこには散乱した書類と、これまた茫然とした臣。つっ立っていた臣は、町田の姿を見て、情けなさそうに顔をゆがめる。
ばかめ、と思う。実際声に出てた。
「僕もそう思う……」
「下の奴らは?」
「今日は僕と王野で生徒会室の私物を撤収するからって、昼休みを空けてもらったから、来ないよ」
「よかったな。こんな醜態みられなくて」
「そうだね……」
「そんな顔すんな。これは、藤の自業自得だろ?」
「でも、泣かせてしまったのは、僕だ」
悔いるように面を伏せる。町田は否定も肯定もせず、かがんで床にばらけた書類を拾い集める。のろのろと臣も一緒になって拾い始める。二人黙々と集めたら、あっという間に床はきれいになった。
開け放した窓から残暑の風が入り込んで、最後の一枚を舞い上がらせる。町田が追いかけて、捕まえた。しゃがんでうつむいた臣がぽつりとこぼす。
「……櫻井先輩が、歩いていたんだ」
「なんだ、遊びに来てたのか」
「ハルが、実家に帰ってきてるって言ってたよ。大学生はまだ、夏休みだから」
「したら、じきここにも来るだろうな」
「そうだよ、な……」
見下ろした臣がいつになく所在なさげにこたえるものだから、町田は『お前はすごむと本当に凶悪な顔になる』と藤に太鼓判を押された顔をしかめて、臣をにらんだ。
「おい、ばかなこと考えてるんだったら、一発殴ってやろうか?」
「殴られたほうがいいのかもしれない」
あんまりみじめな声でいうから、町田はぐいと胸ぐらをつかんで立たせ、その勢いのまま正拳を臣の顔面で寸止める。風圧でふわりと前髪がういた。目をぱちくりさせる臣をこづき、ふんと鼻白む。
「目ぇ覚めたか?」
「うん、覚めた。ごめん。さすが空手有段者。まじ怖かった」
「だったらその、フン詰まりのクマみたいな顔はやめろ。先輩にも藤にも、そんな顔見せるな」
「もうちょっときれいな表現してくれよ。……町田は、優しいな」
「……お前に対しては厳しいと思うんだがな」
苦笑ともつかない、少し困った笑い方。いつもの臣の笑顔。この笑顔で、人の言葉の裏側に潜むことばや感情を、そっとすくいあげてきた。
藤が惚れた、笑顔。
「なあ、臣。あの時、いつもどっちつかずなお前にしては、きれいに藤をふってやったと思うよ。だからその先は藤の問題で、お前が気にする余地なんざこれっぽっちもない。それはわかるよな?」
臣は今度こそ心底落ち込んだように深くため息をついて、机の上で集めた紙の角をそろえながらぼやいた。
「そうは言っても、三年……正確には二年半だけど、一緒に頑張ってきた仲間じゃないか。そういう意味では、王野は僕にとって大事な人だよ。だからとても気になるんだよ。他意はなく」
これを本気で言ってるからたちが悪い。ふん、と鼻で嗤って、手の中の紙束をそのままバサリと臣の胸につきつける。
「八方美人。大概にしないと、大事なもんを失うぞ」
臣の目を見ないまま言い捨てて、のそりと生徒会室を出る。行き先は“わかっている”。
「わかってるよ……」
追いかけてきた臣のつぶやきに気付かないふりをした。
案の定、藤は屋上にいた。
生徒会室のある旧校舎の屋上は、その古さからか誰もが立ち入り禁止と思い込んでいて、その実開放されている。きまじめで融通の利かない藤が好んで利用する、人気のない場所。
「あんまり正直も過ぎると自虐的だぞ?王野」
フェンスにすがりうつむく小さな後姿がふりむくことは、もちろんない。そんなことは慣れっこだった。
いつものように茶化して近づく。こんな風にしか近づけない。一人になりたいだろう藤には毎度いい迷惑だろう。
「うるさい。町田、立ちぎきなんて卑怯者がすることだぞ」
珍しく弱弱しい声で、でも返ってきた反論のほうがらしくて、町田は内心ほっとする。隣まで行ってフェンスに寄りかかる。錆びついたフェンスがギィとないた。
「生徒会室は公共の場だということを失念したお前が悪い。出てくとき俺にぶつかったの気づかなかったのカナ?藤ちゃんは」
「きもい。名前で呼ぶな」
「臣には、名前で呼べっつっても呼んでもらえないもんな」
「………うるさい」
「だから、俺にしとけよ、藤」
顔も見ないで言えば、隣の女がますますうつむくのが気配で分かった。
いつもいつも、こんな風にしか、藤に気持ちを告げられない。傷につけこむ卑怯者の自覚はある。
でもこの女は、いつだって、自分の期待を裏切る。いい方向に。
動揺を寸拍で立て直し、凛とした声で、いかにも藤らしい声で、空気を割いた。
「何度聞かれても、答えはノーだ」
視線を感じて見下ろせば、涙にぬれた真っ黒な瞳がきつく見上げてくる。不謹慎にもぞくぞくする。
「なあ、わかってるんだろ、町田。そんなことをしても、私も、お前も、傷付いて終わりだ。何の救いにもなりやしない」
百の言葉より雄弁な、この眼。
「お前がほしいモノを、与えてなんかあげられない。私が臣からもらえないのと同じように。お前はそれでは満足なんかできないよ。絶対」
そうだろう?とでも言わんばかりの強い視線にひるむことなく見返していた深い瞳は、数瞬そのまま、炯炯と輝く藤の黒瞳を焼き付けるように見つめて、自嘲まじりに顔をしかめる。
「お前は、これだから……」
何度、俺を堕としたら気がすむんだ。
つぶやいた言葉にきれいに笑ってみせた藤は、ひょうひょうと「お誉めの言葉と受け取っておこう」なんてかわす。憎たらしい。ずるずる、フェンスにもたれるように腰を落としてゆく町田は、頭痛がするとでも言いたげに片手で顔をおおった。
軽口のうちに静かに泣き出した彼女を、町田は憎いのかいとしいのかわからない。にもかかわらず、いついかなるときでも、そばにいたい。いなければと思う。この小さな体をかき抱きたい欲望を押し殺し、つかずはなれずの距離に思い悩み、苦しみしか覚えなくなっても、町田は藤のそばを離れようとは微塵も思わない。これは強迫観念に近い。
もしも、と思うことがある。
もしも、臣が藤をふらないで二人が恋人同士になったのなら、町田は二人を祝福し、『友人』としてこの先も二人のそばにあった。
もしも、藤が臣にふられてそのまま吹っ切れて新しい恋に踏み出したなら、町田はこんなに苦しい思いで自分の気持ちを押し付けたりはせず、地道なアプローチを続けた。
もしも、藤の意思がもう少し打算的であったなら、それにつけいってしまう自分を後ろめたく思わず、関係を進めていった。
もしも、もしも、もしも……そんな非生産的な仮定がいくつも生まれて沈んでいく。澱のような感情が沈んでいくたびに自覚する。
きれいなきれいな、強い意志を持った真っ黒な瞳。今は涙にぬれたこの眼に、何度だって恋をする。
卑怯な自分を自覚しながら、そんな手段でしか彼女のそばにいられない。
そんなバカなことを、もうずっと続けている。終わりの見えないこの攻防に、それでも負ける気がしない。
午後の授業が始まった。
きまじめな藤は、一時間だけ休んで、授業に出るだろう。
そうして放課後、臣と先輩に笑顔で話しかける。そこまで想像できて、町田は空を仰いだ。
町田 行幸 高三。生徒会副会長。長身大柄・強面に似合わないインテリメガネ。人を小馬鹿にした態度が多い。




