【王野 藤】
【おうの ふじ】と読みます。
バカで、格好悪くて、見苦しくて、しつこくて、もう本当におろかな。
恋を、している。
「臣。おまえはまだ、あの人のことが好きなのか……?」
息せきこんで人気のない階段を駆けあがり、重い鉄扉を押し開けて、まだまだ灼けつくような空気をいっぱいに吸い込む。勢いのまま錆びついたフェンスまで走り寄った。心臓がどこどこうるさくて、耳鳴りが遠のくのを息を整えながら待つ。
コンクリートの屋上から見上げた空は見事な快晴で、きしむフェンスにすがりつきながらこのまま午後はさぼってしまおうか、と真面目な藤にはらしくない考えが頭をよぎった。
昼休みの旧校舎の屋上なんて穴場を教えて下すったのは、二代前の生徒会の先輩方だった。
いつ崩れてもおかしくはないような寂れた場所に好んでくる人間は少数で、ほとんど知られていない。
あの個性的な先輩方はいまごろ何をしているのだろう。
なかでも群を抜いて有能だった生徒会長を思い浮かべれば、必然的にセットで思い浮かぶ顔。
臣が、今だ忘れられない、年上の、女性。
あの人と会長は、自分たちが入学した時からすでに公認の間柄で。
中学が同じなんだ、と照れくさそうに頭をかいた臣を覚えている。
そしてまぶしいものを見るように、彼の人への憧憬とも……いとしさともいえるまなざしを送っていた。
となりでまったく同じ視線で見つめている藤には気づかずに。
あの頃から、さほど時間は立っていないように感じるのに。
生徒会を通じて、藤は臣にとって一番気安いであろう女子である自負はあった。
しかし、それ以上に、なりたいと焦がれる藤に、臣は全く進展を許さない。すがすがしいほどに。
(あの人の姿を見ただけで、まだあんな顔をするのか、臣は)
あの人がよく通った第二保健室。久しぶりに遊びにきた彼女が、そこにあいさつに向かう。それはあの人が卒業してからこれまでもあった光景。
あの頃より大人びた姿を、小さな影を、その偶然を、三階の窓から臣はまちがうことなく発見した。
その顔は、二年前から何ら変わりなくて、藤は。
思わず聞いたのだ。
まだそんなに好きなのか、と。
言って後悔した。驚く反応があったから。だから藤は、手にした書類の束をぶちまけて、逃げ出した。
生徒会室からとびだし、そのまま教室に戻る気にはならなくて。
臣はまだあの人のことが好きで。
私はまだ臣のことを諦められない。
やるせなかった。
「あんまり正直も過ぎると自虐的だぞ?王野」
人を小馬鹿にした声に覚えがありすぎて、藤は振り向かない。振り向きたくもなかった。
「うるさい。町田、立ちぎきなんて卑怯者がすることだぞ」
「生徒会室は公共の場だということを失念したお前が悪い。出てくとき俺にぶつかったの気づかなかったのカナ?藤ちゃんは」
「きもい。名前で呼ぶな」
「臣には、名前で呼べっつっても呼んでもらえないもんな」
「………うるさい」
足音が藤の左隣でとまり、寄りかかった体重でフェンスがぎぃぎぃないた。
藤は深くうつむく。町田の大きな上履きがすぐ近くに見えて、心臓が縮んだ。
「だから、俺にしとけよ、藤」
いつからだろう。町田が、自分に対してこのような言葉を投げかけてくるようになったのは。
臣が好きでもいい、俺と付き合え。
看破されても不思議じゃなかった。
一年生の初めから三人、生徒会で一緒だった。そして藤は臣が好きになり、去年の秋に告白し、同時に失恋し、それでも好きでいた。
町田を好もしく思ってはいたけど、生徒会の仲間の枠から逸脱しない、その程度のものであった。
忘れなくてもいい。ただ、俺のそばにいればいい。
魅力的な言葉。
むくわれない想いに疲れていた藤に甘く響いた。
町田は、ムカつくが、いい奴だった。ぶっきらぼうなやさしさを示してくる男だった。
お人好しで苦労症な臣とは違い、要領がよかった。
でも、藤がほしいのはつけこむようなやさしさでなく、あの困ったような笑顔だった。
ここで流されることを、藤のこころは良しとしなかった。
「何度聞かれても、答えはノーだ」
顔をあげ、隣の人物の高い位置にある顔を、強いまなざしで見据える。
「なあ、わかってるんだろ、町田。そんなことをしても、私も、お前も、傷付いて終わりだ。何の救いにもなりやしない」
一時はよくても、時を重ねるにつれて、後悔する。必ず。
「お前がほしいモノを、与えてなんかあげられない。私が臣からもらえないのと同じように。お前はそれでは満足なんかできないよ。絶対」
そして藤だって、満足なんかできない。
共倒れになるのが目に見えてわかる未来に、希望なんか持てない。
そうだろう?とでも言わんばかりの強い視線にひるむことなく見返していた深い瞳は、数瞬そのまま、炯炯と輝く藤の黒瞳を焼き付けるように見つめ、呆れの混じった苦笑をもらした。
「お前は、これだから……」
ずるずる、フェンスにもたれるように腰を落としてゆく町田は、頭痛がするとでも言いたげに片手で顔をおおった。
ささやかれた言葉に、藤は微笑する。
「お誉めの言葉と受け取っておこう」
「けなしてんだよ、ばか。何であえていばらの道に進むかね。まったく俺もそうなんだが」
「かわいそうに。さっさとあきらめることをお勧めする」
「やだね。我が家はしつっこいのが家風でね」
「ばかだな」
「おう。ほっとけ」
「ほんとうに、バカだ……」
鼻の奥をツンと刺激する感覚に思わずうつむく。
髪がうまく顔を隠せばいい。いつのころからか願掛けのように伸ばした髪の毛は、もう腰に届くほどに長い。それすら、臣のため。
あの人がやわらかなウェーブをえがくロングヘアであるのを真似してのこと。
それを、おろかなことだ、と藤は思う。それでものばすことも手入れもやめられない。
おろかなことだ。
藤も、町田も、臣も。
バカで、格好悪くて、見苦しくて、しつこくて、もう本当におろかな。
恋を、している。
藤の頬から滑り落ちたしずくが一滴、コンクリートに染みを作った。
町田はそれに気づかないふりをして、藤の隣に黙って座っていた。
新校舎からは午後の授業の始まりを告げる鐘が鳴り終えた。
王野 藤 高三。生徒会書記。生真面目で利発。男勝りな言動が多い。小柄でくせっ毛ロングヘア。




