第三日目③
神社を後にして、
リツカとハクはゆっくりと坂を下った。
クロは最後まで見送ることもなく、
石段の上で丸くなっていた。
「自由ですね」
リツカが呟く。
ハクは振り返る。
何のことか分かっていない顔だった。
春の朝。
町はまだ静かだった。
どこかの家から洗濯物を干す音が聞こえる。
朝ご飯を作る匂いも流れてきた。
焼き魚の香り。
味噌汁の香り。
炊きたてのご飯の匂い。
異世界にも食事はあった。
けれど。
こんなふうに町全体が朝の匂いで満たされることは少なかった。
リツカは少し足を止める。
「良い匂いです」
ハクは興味なさそうだった。
もっと良い匂いを探しているらしい。
道を曲がる。
古い家が並ぶ通りへ出た。
木の格子窓。
瓦屋根。
庭先の植木鉢。
どこか懐かしい風景。
その時だった。
リツカが立ち止まる。
「……?」
ある家の窓の向こう。
赤い布が見えた。
その上に。
人。
いや。
人形。
何体も並んでいる。
リツカは思わず近付いた。
大きなもの。
小さなもの。
豪華な衣装。
金色の飾り。
静かに並ぶ人形たち。
まるでこちらを見ているようだった。
「……」
リツカはしばらく動かなかった。
知らない。
けれど。
何か意味があるのは分かる。
その時。
後ろから声がした。
「おはようございます」
振り返る。
町内会の女性だった。
犬の散歩帰りらしい。
ハクを見て笑う。
「ハクちゃん、おはよう」
ハクは嬉しそうに尻尾を振った。
そして女性はリツカへ視線を向ける。
「お人形見てるの?」
「はい」
リツカは頷く。
「綺麗ですね」
女性は嬉しそうに笑った。
「もうすぐひな祭りだからね」
「ひな祭り」
知らない言葉だった。
「女の子の幸せを願うお祭りなの」
リツカは再び人形を見る。
祭り。
祭りなのに。
音楽もない。
屋台もない。
踊る人もいない。
ただ静かに人形が並んでいる。
不思議だった。
女性は手を振って去っていく。
「じゃあね」
「ありがとうございました」
リツカは頭を下げた。
再び窓の向こうを見る。
赤い布。
美しい衣装。
穏やかな表情の人形たち。
気になる。
とても気になる。
結局。
家へ帰るまで。
何度もそのことを考えていた。
玄関を開ける。
「ただいま戻りました」
居間ではフミがお茶を飲んでいた。
「おかえり」
ハクは真っ先にフミの足元へ向かう。
リツカは座る。
少し迷ったあと。
口を開いた。
「フミさん」
「なんだい?」
「ひな祭りとは何でしょう」
フミの目が少し丸くなる。
「ひな祭り?」
「はい」
その時。
ちょうど二階から奈緒が降りてきた。
まだ少し眠そうな顔。
「どうしたの?」
リツカは真面目な顔で答える。
「窓の向こうにたくさんの人形がいました」
奈緒は一瞬考え、
すぐに理解した。
「ああ、雛人形か」
すると。
フミがふっと笑う。
「そういえば」
湯呑みを置く。
「うちにもあったねぇ」
奈緒が驚いた顔をした。
「あったね」
「押し入れの奥に」
何年も開けていない箱を思い出すように、
フミはゆっくり頷いた。
リツカの目が少し輝く。
「あるのですか」
「あるよ」
フミは立ち上がった。
「久しぶりに出してみようかねぇ」
春の朝の光が、
縁側から差し込んでいた。
その光の中で、
リツカは少しだけ胸を弾ませていた。
知らない世界には、
まだ知らない行事がたくさんある。
そして。
どうやら今日は、
その一つに出会えるらしかった。




