考察2
後輩は隣の給湯室で淹れたコーヒーをマグカップに注いで、先輩のデスクを置いた。
先輩はそれを受け取って礼を言ったが、後輩はそれに答えず「あ」と小さく声を上げる。
「どうした?砂糖を入れ忘れたか?」
甘くないコーヒーは泥水以下と偏った思想を持つ先輩は鋭く尋ねた。
後輩はいいえ、と否定して閉めたばかりの院生室のドアを見た。
すぐに消したが、手元が見えなくて廊下の電気を点けてしまった。
誰かが階段を上って来る足音が聞こえる。
この時間に学生は残っていないし、教授が院生室に雑用を押し付けに来る時間でもない。
構内を見回っていた警備員が廊下の電気が点いたのを見て、見回りの通路を変更して来たのだろう。
ドアの擦りガラスから見える暗い廊下に、懐中電灯の明かりがちらちらと差し込んでいる。
「隠れているから誤魔化してくれませんか?今は問題を起こしたくないので」
「ああ、就職が決まったんだって?君は優秀な私の助手であり研究者なのに大学を出るなんて、全く」
お願いします、と言い残して後輩は院生室に隣接した2畳ほどの書庫に隠れた。
隙間から耳を澄ませていると、すぐにドアが開けられて警備員の声が聞こえる。
「やっぱり、残ってたんですか?」
「こんばんは」
先輩は警備員に朗らかに挨拶をした。
夜が更ける程元気になる先輩が大学に遅くまで残っているのはいつもの事だ。何時家に帰っているのかわからない生活をしている先輩に警備員は毎度の事ながら呆れていた。
「1人ですか?」
警備員に問われて、先輩はああ、と答えた。
「さっきも院生が1人、門限ギリギリで出て行きましたよ。論文で大変なのはわかりますけど……」
警備員は、言ってしまってから慌てて口を噤む。
論文の締め切りを前にした研究者はガラス細工のように繊細で、どんなに温厚で聡明な生徒でも何をしでかすかわからない人種に豹変する。
問題に巻き込まれたくないのであれば、門外漢は論文を話題に出してはならない。
「キリが良いところで帰ってくださいね」
警備員は、胸のホルダーに入れた携帯電話を指差した。帰る時に連絡しろということだ。
「ああ、お疲れ様」
先輩も本の山に埋もれていた自分のスマートフォンを発掘して掲げて見せた。
夜中まで残っているか泊まり込むのがほぼ毎日の先輩は、既に警備員とメル友になっている。
警備員が部屋を出て、足音が聞えなくなってから後輩は書庫からそっと姿を現した。
「私を盾にして隠れるとは……それで。『D』を語る彼等の共通点とは。君はどう考える?」
後輩は書庫の埃を払ってから自分のデスクに腰掛けた。
「証言者の死因は『D』の証言に関連している。まるで、彼等の死が『D』に示唆されているように」
後輩の言葉に頷きながら先輩はマグカップを持ち上げる。
湯気を立てる中身に息を吹いて冷ましながらそっと口を付けたが、あちっ!と声を上げて唇を離した。
「そして、証言の中に、その時、とかあの時という言葉が登場します。証言を求めた人間が、何か特定の瞬間の『D』について尋ねた」
先輩は慎重にコーヒーを一口飲んだが、味が違う!とカッと目を見開いてデスクに入れていた角砂糖をぼとぼととマグカップの中に放り来んだ。
院生室では時折先輩のデスクの砂糖を目当てに蟻が行列を作っている。
「恐らく『D』が死にまつわる言葉を発した時」
「そうだ。『D』が年中死ぬだの殺すだの言っている過激な人間だとは思えない」
先輩は後輩の言葉と甘くなったコーヒーに満足して頷いた。
「『D』に出会った人間は、『D』が匂わせた死によって死んで行った。まるで『D』が彼等に死をもたらしているかのように」
『D』の言葉、場面、行動が、証言者の死に繋がっている。『D』が証言者の死を予言しているようでもあり、証言者の死を導いているようでもある。
そんな呪いのようなことはあり得ない。『D』が証言された自分に合わせて証言者を殺したとも考えられるが、千差万別の殺害方法を実行した可能性は限りなく低い。証言者には『D』ではない人間に殺された場合もあれば事故死もある。
「逆じゃないでしょうか?」
後輩はふと思いついた事を言おうとしたが、ちょうど先輩がマグカップを取り落とした。
陶器のマグカップは割れなかったが、半分ほど残っていたコーヒーがデスクの上に黒く広がり、床のカーペットに滴が零れる。
後輩は先輩がコーヒーを零した時専用の雑巾を手に取った。先輩が適当に拭くと本人は気にしないが周囲がべたべたになって蟻の行列と見た事の無い虫が発生する。
先輩が零したコーヒーを拭くのが、後輩の最大の仕事だった。
しかし、後輩は少し考えて雑巾を置いた。
「どうせ染みになります。話が終わってからにしましょう」
後輩はデスクに座り直して話を続けた。




