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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ムーンライトセレナーデ。

作者: よし

 高校の卒業式。

 担任の教師から、

 「君たちには明るい未来がある。夢を持って進めば、何でも出来る」

 と、ありがたいお言葉を頂いた。

 シーン。反応なし。

 みんなは静まり返り、頭を垂れていた。だけど、それは恩師から送られた励ましに感極まって言葉を発せなかったわけではない。

 みんなこう思っていたはずだ。

 明るい未来?

 どこに?

 おれが通った高校は男子校で、ヤンキーが集うような田舎の校風。卒業生の八割が、進路未定、行き先不透明。明るい未来をえがけないまま、社会に放り出されたわけ。

 卒業式の後、わずらわしい学校から解放されたことを喜ぶ声があちこちから聞こえた。

 「自由に暮らす」

 校則や年齢に縛られた不自由な生活からの解放。フリーターやらプータローとなって好き放題暮らすことを高らかに宣言する同級生たち。

 おれはそんな奴らのように、悠長にぶらぶらする余裕はなかった。うちにはおれと母しかいない。経済的余裕がない。食うために働く必要がある。


おれは高校を卒業して、すぐ働き出した。頼り甲斐のない高校の就職課を介さず、職業安定所で募集していた看護助手の仕事を見つけた。病院の住所をみたら家の近く。連絡を取って、面接を受けるために訪れた。

 病院は山の上にあった。鬱蒼と茂る木々の間にひっそり建っている。地元の人間しか知らないような古い病院で、患者さんのほとんどは寝たきり。ここに入ったら、後はもう死ぬのを待つだけ。知っているひとたちに病院の名前を出したら、そんな噂を聞かせられた。病院の敷地からカーブを描く湾が見えた。海が見渡せたのと、きれいに咲き誇った桜に迎えられたのが、暗い噂で沈んだ心の唯一の救いだ。

 面接を担当したのは、事務長と名乗る頭の薄いやせた髭面の男で、キザな蝶ネクタイをしていた。第一印象は、はっきり言って怪しい。

 汚い狭い個室で、一対一の面接。

 このおっさん、ホモじゃないだろうな。

 内心恐れていたら、

 「いつから来れる?」

 いきなり、働くことを前提できかれた。

 「ほら、うちは田舎の病院だから、人手が足りないんだよね」

 そう採用に前のめりの理由を説明した。

 求職しているおれも流石に「大丈夫か?」と不安になる。

 「おれ無資格なんですけど」

 知っていると思うけど、念押しのつもりで、大事なことだから前もって伝えた。あとあと聞いてないとか問題になったら困る。しかし、蝶ネクタイはフランクに、そしていくぶんオネエのように、

 「ダイジョーブ、ダイジョーブ。病棟での仕事は、掃除とか患者さんの食事介助やおむつ交換、看護師さんから指示されたことをやっていくだけ。簡単でしょ? おにいちゃん」

 へらへらして簡単に言う。本来なら、ふざけるなとか、馬鹿にするなと怒るところかもしれない。しかし、おれはこれを聞いて、

 これだ!

 と、ひらめいた。 

 やさしい、若く美人な看護師さんに囲まれて、楽しく仕事ができる。仕事仲間から恋愛に発展するドラマのようなことがあるかもしれない。しかも、仕事は簡単だという。

 ラッキー。

 やるしかない!

 おれはこの病院で働く覚悟を決めた。

 「がんばります」やる気を伝えた。

 「じゃ、採用。よろしく」と、蝶ネクタイ。

 拍子抜けするぐらい簡単に、その場で就職が決まった。まあ、いい。これで恋人も仕事も両方ゲットだぜ。幸運を神様に感謝した。

 おれは胸を高鳴らせて、仕事がはじまるのを待ち望んだ。しかし、看護助手として配属された病棟には、やさしい、若く美人な看護師さんなんか一人もいなかった。うちの母さんと同年輩で、常に命令口調の言動のキツいおばさん連中ばかり。

 「はやくやれよ」

 「やったの?」

 「ったく。使えねーな」

 看護師なんて肉体労働だから、口調も荒くておっさんみたいだ。仕事も忙しいし、散々こき使われた。なんか違う。思っていたのと違う。でも文句も言わず、おばさん連中に下手に出て仕事を教えてもらった。

 病棟での仕事は、運動訓練中の患者さんの、車いすに移る介助。半身麻痺や、重介助のひとだと力がいる。人間の身体は重い。身体の不自由なひとを車いすに移すのが、こんなに重労働だと、この仕事をするようになってはじめて知った。

 食事でさえ、筋力が衰えて自分で食べられない患者さんがいる。そういうときは、介助してスプーンで食事を口に運ぶ。食事介助、片付け。寝たきりの患者さんのオムツ交換など、やることはたくさんある。

 その他には、病室の掃除や物品の補充、こまごまと看護師の仕事の手伝いをしていく。休みなく動き回っている体力勝負の仕事だ。ハンパない量の仕事を押し付けられて、サービス残業だってした。給与もそれなりにあるだろう。期待して、初任給の給与明細を見たら、 

 総支給、11万8000円。

 無資格とはいえ、驚きの低さ。

 詐欺ッ!

 だけど、せっかく見つけた職場だ。もう少しだけ、がんばろうと誓った。ここで辞めたら負けだ。悔しい。そんな気持ちで働いた。先のことはわからない。目の前のことだけしか考えられない。就職して三ヶ月経つ頃には仕事にも慣れてきた。いつのまにか、季節は春から初夏へ移っていた。


コン、コン、コン。

 おれは病室を掃除するため、ノックをして、ドアを開けた。

 視線がばっちり合う。学生服の女の子が振り返って、おれを見た。

女子高生?

 部屋を間違えた?

患者さん以外に、誰もいないと思い込んでいたから驚いた。おれは思わず、「えーっと、Kさんの部屋ですよね?」と間抜けなことを口にした。

 「はい」

女の子は肯く。長い髪が揺れて、白い肌にかかる。きれいだと思った。

「すみません。一応、ノックしたんだけど」と、おれは断った。

「わたしこそ、ごめんなさい。ノックが聞こえたんですけど、急だったから返事できなくて」

曇りのない瞳をまるくして、彼女はそう言った。かわいい。控えめで抱きしめたくなる。うちの病棟の看護師とは、まさに雲泥の差。

病院の規則で接遇を厳しく言われてるけど、ドアなんか返事を待たず、つい勢いよく開けてしまう。性格がガサツなのだろう。こんなことだから、おばさん看護師に怒られるのかもしれない。使用済みの洋式トイレの便座を上げたままにするなと、さっきも注意されたばかりだ。

「ところで、どちら様ですか?」

おれの質問に彼女は「Kの娘です」と、にこやかにこたえた。

 娘さんか。なるほど。部屋にいても、おかしくない。

 Kさんはうちの病棟に入院した50代の男性。大きい企業で部長をしていたらしい。突然の脳梗塞で意識不明の状態になって、救急病院での治療でなんとか命をとりとめたものの、意識は回復することなく、いわゆる植物状態になったまま。

うちの病棟は療養病床で、在宅での生活が難しくて、なおかつ胃ろうや点滴など、医療度が高い患者さんが入院している。

 Kさんは半月前に、うちの病棟へ搬送されたばかり。

そんなことを思い返していると、

「学校が終わったので、父のところに来ました」と彼女は言った。

 「学校? 終わるのがはやいな」

 おれは時計を見る。まだ午後2時。

 「テスト期間中なので、はやく終わりました」

 「へー。何年生?」

 「高校3年」

 「じゃあ、今年受験生?」

 「はい」 

 白い頬をほんのり上気させて、こたえる。はきはきと返事をするから、利発な印象をあたえる。艶のある黒髪、白いブラウスが清涼感がある。まっすぐに伸びた姿勢が美しい。

学生服で病院のなかにいると目立った。古びた建物の薄暗い病室も、彼女のいる周りだけ強い生命力で明るく照らされた気がした。

これが青春というやつか。彼女と話していると、学生時代に戻ったような、どこか懐かしい気持ちにさせられた。おれが通った高校は、ヤンキーがド突き合う荒んだところだったから、女子と甘い話したことなど現実には皆無だったけど。

 「どこの高校?」

 高校の名前を聞いて確かめると、優秀な生徒の集まる進学高だった。賢そうなはずだ。

 「まあ、がんばって。おれは受験しなかったけど」

 「どうして?」

 意外そうに、たずねられた。

 「頭わりぃから、額に汗して働くほうが性に合ってるんだ」

 おどけてこたえると、彼女は笑った。笑顔がまぶしい。心拍数が上がって、ドキドキして胸の奥のほうがきゅーとなるような感じ。

 おれは照れた顔を隠すように、お辞儀して、部屋を後にした。住む世界が違う。汚れた格好で掃除する自分。毎日、血や汚物などと格闘している。思わず自分の身体を臭った。汗臭い。来年には大学生になる娘。たぶん、こういうきれいな娘と、今後も接点を持つことはないのだろう。淋しい気持ちがわいた。雑念を振り払うように、おれは仕事に戻った。



 海が見える。

 初夏の太陽が、海を輝かせていた。網膜に痛みを感じさせる強い光に、目がくらむ。眩しくて直視できない。ジリジリと皮膚が焼かれるような感触がある。

 おれは走る。

 ハッ、ハッ、ハッ。息を吐いて吸う。その一定のリズムを身体に刻み付けるように、両足を動かしていく。走る、走る、息をする。ただ呼吸を整えて、前に進む。行けるところまで。そう何度も同じことを頭のなかで反芻している。

 今日は仕事が休み。

 体力づくりではじめたランニング。苦しいけど、ある地点まで来ると楽しくなる。苦痛が快感に変わる。身体中から汗が出て、背中を流れる感触がわかった。汗が噴き出る感触が、全身にひろがる。不快な感情は芽生えなかった。強い光で周りの景色が、生き生きとした生命の力をくっきりと描き出す。不思議と高揚したような気分になっていた。

海沿いの歩道を走る。大きくカーブを曲がったら、青い空と海が遠くまで広がった。

 前方に長い髪の少女が歩いているのが見えた。まっすぐに背を伸ばして、しっかりした足取り。前へ、前へ。歩くことに集中している。

 その後姿に見覚えがある。

 気になりながら、走るペースを落とし、追い抜く。

 ふわっといい匂い。おれは振り返った。確かめようとして。

 やっぱりそうだ。 

 ふいに、心地よい風が吹いた。

 風が、彼女の長い髪をふわりとゆらした。

 ただ黙って歩いている。少し前で立ち止まったおれに気がついていない。まるで注意を払っていない。

長い髪、白い肌が印象的な女の子。

 たしか――

 深呼吸。息を整えて、おれは声をかけた。

 「Kさんの娘さん?」

 「え……?」

 彼女は怪訝そうな顔をする。

 「はい、そうです」

 彼女はやっと足を止める。少しのあいだマジマジとおれの顔を見て、ふいに「ああ、病院で働いている――」と、知っている顔だと記憶を合致させた。

 「気がつきませんでした」

 そりゃ、そうだろう。おれだって、こんなところで偶然会うなんて、思いもよらなかった。まったくの話。

 「何してるんですか?」と、彼女にきかれた。

 「ランニング。体力づくりのため。身体が資本の仕事だから」おれはこたえた。

 「きみは、なにしてるの?」と、たずねる。

 彼女はすぐにこたえなかった。しばらくして「考え事をしながら、歩いていました」と、ぽつりと呟いた。

 あまり表情が冴えない。よそよそしく感じる。どんなことを考えていたのか? 周りが気にならないほど? 聞こうかと思ったけど、言い出しにくいことなのかもしれない。無理に聞き出すこともない。ただの顔見知り。しかも患者さんの家族。接点は少ない。馴れ馴れしく声をかけたのは失敗だったか。迷惑かもしれない。 

 「それじゃ、また」と、おれが退散しようとしたとき、

 突然、

 「一緒に歩いて……少しお話してもかまいませんか?」

彼女から誘われた。

 そりゃかまわないけど。おれと? なんで? なんか様子が変だなと思いながら、深く考えずに「いいよ」と同意した。

 おれたちは海沿いの道を黙って歩いた。海からの風に、日差しで暑くなった肌を休めながら歩く。道端に浜辺に行く階段があって、そこを降りる。

 波打ち際の近くまで来た。

 波の音が大きくなった。海も、砂浜も、太陽の光で輝いている。深く息を吸い込んだら、潮の匂いがした。肌に風を感じて、耳を覆うように波の音がする。目を上げると、遮るもののない海。心が落ち着くような、深い青色がずっと遠くまで広がる。

 この景色が好きだ。

 日常の煩わしいことなど、ちっぽけなことのように思えて、自由になれる気がする。

 彼女は歩みを止めた。

 そして、やっと口を開いた。

 「父のこと、なんですけど」

 振り向いた表情は硬く、はじめて見るひとのようだった。

 「お父さん?」

 Kさんのことか。

 「はい」

 「どんなこと?」

 「いつも眠っているように見えます。たまに目を覚ましているとき、話しかけても目を動かすだけ返事もしないし……」

 寝たきりの状態のまま、回復する傾向が見られない。声がでないまでも話そうとするとか、指でなにかを訴えるような意思的な行動は見受けられない。

 「父は、どうなのでしょうか」

 こたえに迷った。

 下手に希望を持つのは良くないだろう。

 「残念だけど、おれはきみのお父さんと意味のあるやりとりをしたことがない。意識はあるけど、言葉を理解することは難しいのじゃないかな」

 「話しかけたら、目を合わすときもあるんです」

 Kさんが? 

 入院してから声を出すのを聞いたことがなかった。ただ、胃につながれた管から生命維持に必要な栄養を取っている、何も言わぬ姿しか思い返すことができなかった。

 「医師は、なんて?」

 「意識はあるのかもしれない。しかし、今の医学ではわからないし、回復の見込みは低いと」

 「なるほど」

 「その話をされて、母は寝込むようになりました。病院にも顔を出さなくなって。それで、わたしが代わりに」 

 彼女が、よく病院に来ているのはそのためか。

 「お父さんのような状態から回復した例は、聞いたことがない」

 おれは正直に言った。

 「でも、手を握ってと伝えると、してくれることがあるんです」

 本当に? 

 信じがたい。

 Kさんの手を握れば反射的に手が動いた――それを握ってくれたような気がしたというのなら、理解できるけど。

 奇跡が起こる。

 そう言いたいように聞こえた。

 それは誰にも否定出来ない。

 希望を捨てろとは言えない。

 彼女の顔を見ても、なにも言えなかった。

 「大学に行くのをやめようか……と思うんです」

 ふいに彼女は言った。

 高校3年受験生。大学受験を諦めようというつもりか。

 「どうして?」

 「父の収入もなくなっているし」

 経済的な負担をかけたくないという。

 「入院費やこれからのことも……」

 海辺の景色が陽炎で揺らめく。太陽の光で白く輝くような砂浜。足下に真っ黒な影ができた。

 額から汗が流れて、おれは拭った。彼女は強い陽射しにもかかわらず、青白い顔をしている。気になることを思案しているようで、周りの景色や暑さなど気にもとまらないようだ。

 先日は鮮やかな表情が印象的だった。しかし今は、思い詰めたようで、表情が硬く陰りがあった。まるで夏の光がつくりだした陰影のように。

 「迷います」

 彼女は大きく息を吐いた。

 「大学に行ってもいいかって」

 迷いますと、もう一度言って視線をそらす。

 「大学に行くためには家を出ないといけない。学費や生活費……今の状況で、そんなことをしてもいいのかな。お金もすごくかかるし」

 「そう言われたの? 経済的に進学は難しいって」

 彼女は首を振って否定した。

 「お母さんは、なんて言っているの?」

 「貯金もあるし、心配しなくていいから、大学に行ってもいいよって」

 心配しなくていいと言われても……と、沈んだ声音になる。

 「そう言ってくれるのは、考えがあってのことじゃないかな。だから気にせずに、自分がやりたいようにしていいんじゃないかな」

 と、おれは言った。

 返事はない。

 海辺によせる波の音が、やけに大きく聞こえた。

 この場所は人気がない。いるのは、おれたちだけ。静かなところで、落ち着いて話せて幸いだった。

 目の前に海が広がる。ずっと、ずっと遠くまで。まるで世界から二人だけが取り残されたかのような錯覚を覚えた。

 「余計なことかもしれないけど」

 そう付け加えて、話した。

 「気を使って、希望どおりに出来なかったと後悔が残るなら、きみにとっても、ご両親にとっても、お互いに不幸だと思う」

 彼女は小さな声で「はい」とだけ返事をした。

 「どうして、大学へ行きたいの?」

 おれは気になっていたことを質問した。 

 「学校の先生になりたい。そのために大学へ行きたい」

 はっきりした口調で、彼女は前を向いた。

 「すごいな。おれは学校の勉強は、もういいや」

 「学校でいろいろなことを学んで、世界にはたくさん素晴らしいことがあるって、わくわくして目の前が輝くようでした。わたしも同じように伝える立場になれれば、素敵だと思うんです」

 いい理由だ。進路についても真剣。自分とはデキが違う。

 「おれの学校じゃあ、先生が竹刀を振り回して、生徒を締め上げていた。あまり楽しい思い出はないな」

 ユーモアのつもりで言うと、彼女の表情が少しだけ、ゆるんだ。

 「きみのような先生がいたら違ったかもしれない」

 だから、と続けた。

 「先生になるために、大学に行ったほうがいいよ」

 彼女は少し考えて、目を伏せてこたえた。

 「行きたい大学は、家から通える距離にありません。アパートを借りて、授業料、生活費。お金がすごくかかります。苦労して大学を卒業しても、教師の採用枠は狭くて、なかなか就職も難しい」

 この町を離れて、遠くに行く必要がある。全然知らなかった。

 「お父さんも病気になって、わたしまで家を出ることになったら、また負担が増えてしまう。お母さんにそんな思いをさせてまですることなのかなって、最近よく考えてしまいます」

 返事ができなかった。

 (金なら、おれが出すよ。心配しなくてもいい)

 なんて言えるはずもなく、まったく力不足。ふがいない。

 役に立つような助言もできず、ただ黙って海を見つめた。

 海からの風が、おれたちの張りつめた空気をほぐすようだ。心配事さえなければ。海を見ていたら、遮るもののない風景に心も開放的になるのかもしれない。

 まばゆい光に海岸線は包まれている。重苦しい事柄などに関係なく、空も海もこれまで見たことがないぐらい澄んで輝いている。海風にはたはたと近くの草花が揺れる。強い光を受けた緑は鮮やか。もうすぐこの町にも夏が訪れるだろう。ピィーッと鳥が空高く鳴く声が聞こえた。

 「今日はこれから?」

 どうするのと、おれはたずねた。

 「病院へ行きます」

 「そう」

 「すみません」

 「なにが?」

「突然、付き合わせちゃって」

 「いや、全然」

 「ホントに?」

 「うん」

 「また話を聞いてもらっていいですか?」

おれはうなずいて、なにか気の利いたことを言おうとした。だけど、思いつかない。話は聞いたけど、なんの解決策も出なかった。おれが役に立つとは思えない。だけど、このまま別れるのは、なんだか—――

 どうする?

 おれは思い切って、たずねた。

 「連絡先を教えてくれないかな? ケータイとか」

 風が吹いて、彼女の髪が揺れた。 

 近くの道路を走る車の音が、大きく響く。

 「お願いします」

 笑顔で教えてくれた。

 「かすみって呼んでください」

 おれはドキドキして、自分の顔が火照るのが、わかった。



 翌日、出勤日。

 電話番号とメールアドレスを教えてもらったけど、まだ連絡をしないまま。なにを話そうか考えているうちに時間が過ぎた。

 病棟は、寝たきりの患者さんがほとんど。

 かすみのお父さんのように脳梗塞や、がんの終末期、重篤な疾患のため看取ることも多い。

 もう回復の手だてはなく、いわゆるターミナル期という死の間際の状態。意識状態は痛み刺激にも反応がなく、最も重い。

 すべての患者さんが時間の経過と共に、少しづつ、いのちは後退していく。まるでロウソクの火が消えて行くように。間違いなく。

 救急病院やリハビリ病院での治療を終えたけれど、元どおりの回復には至らなかった。今後も回復の見込みはない。そういう現実がたしかにある。

 Kさん――かすみのお父さんの個室に入った。今日は誰もいなかった。

 「失礼します」

 声をかけたけど、返事はない。Kさんは今日も寝てるだけのように見える。反応はない。目を閉じている。感情がうかがえない顔。自分で痰を出せないから、ゴロゴロと咽頭音が大きくなると機械で吸引される。そのときは本当に苦しそうな表情を見せる。変化といえば、それぐらい。苦しんでいるか、眠っているか。

 よくわからない。

 こういう状態で、生きているといえるのだろうか。

 元気だった頃。

 楽しいことがあったときに、どんな顔をして笑ったのだろう。今は無表情で言葉を発さない。

 動かない。意識がない。いや、あるのかもしれないけど、声を出したり、目を開けて動かしたりすることがない。夜も昼もずっと、ずっと眠っている。当事者以外のひとが傍から見たら、意識がないと判断せざるを得なかった。

 何もしてあげられない。

 回復したい。

 もし意識があって、Kさんが強く望んでいるとしたら、どんなに辛いことだろう。

 些細なこと、顔を拭いて話しかけたり、そういうことは出来ても、彼が本当に望んだことは叶えることができない。

 かすみのお母さんは病院へ来ない。

 現在の夫の姿を、受け入れることができない。家族が受け入れることを、他人は求めてはいけないのかも。それを求めることは、酷なことなのかもしれない。

 おれはKさんの身体を拭いた。きれいにして清潔を保つ。皮膚の汚れを落とし、感染症や、皮膚の炎症を予防するためだ。

 手足が浮腫んでいる。栄養状態が悪くなって水が溜っているから。

 病室の窓から見える外の景色は、まぶしいぐらいの日差し。白い建物や緑の木々が輝いて見えた。ガラスを隔てているだけなのに、外はすごく遠くの世界のように感じる。おれは暗い病室で、身体を拭くという作業をひとりで黙々としていた。それが、おれのするべき、与えられた仕事だから。

 意識がないひとの身体を拭いて、自分のやっていることに、果たしてどんな意味があるのかと自問しながら作業を終えた。

 片付けをして病室を去ろうとしたとき、

 ――ありがとう。

 小さな声が聞こえた。

 いや、聞こえた気がした。

 聞き間違いだったか?

 おれは振り返った。

 Kさんは目を瞑り、口を閉じていた。声を発したようには見えなかった。

 近づいて、まじまじと顔を見た。いつもと変わった様子は、まったくない。


仕事が終わって、更衣室で着替えて外に出た。夏の夕方はまだ明るい。緑の木々が夕日に照らされ、影をつくっている。昼間より暑さがやわらいでいるけど、まだ汗ばむぐらい蒸し暑い。アスファルトや建物、木々や土が炎天下の熱を含んだまま。病院内にいると、あまり意識することがないけれど、季節は確実に夏になっている。

 蝉のジジジジという鳴き声が聴こえる。夏の夕方。バイクを置いてある駐輪場に向かう。

 夕日が眩しくて、足下の影を見ながら歩いていた。前から足音と人の気配を感じる。目を上げたら、前から女の子が歩いていた。

 ――かすみ。

 学生服ではない。私服。学校帰りではないようだ。

 「今日は遅いね」

 おれは声をかけた。

 かすみは足を止めて、笑顔になった。 

 「学校から一度家に戻ってから来ました」

 「それで遅いんだ」

 「期末試験が終わって。もうすぐ夏休み」

 「へー、いいね。おれも夏休みが欲しいよ。ずっと仕事だ」

 今日のKさんの様子を話そうか、どうしようか。おれは迷う。口ごもって会話が途切れた。蝉が鳴く。すみれは会釈して、病室に向かうため歩き出そうとした。

 「今日――」

 おれは声を出した。

 「Kさんの身体を拭いたんだけど――」

 かすみと目が合う。まっすぐな、きれいな瞳。言葉につまる。今更、取り繕うようなことは言えない。

 「Kさんに――ありがとうって言われた」

 おれはそのとき思ったことを正直に伝えた。

 「本当に言ったのか、聞こえただけなのか、わからないけど」

 そう言いながら、暗い病室や、Kさんの浮腫んだ手足を拭ったことを思い返していた。

 「おれのやろうとしていることは、役に立っていることなのか。必要なことなのだろうか。そう考えながら、身体を拭いていた」

 かすみは、なにも言わなかった。おれはもう一度、同じことを繰り返す。

 「ありがとうと言われた気がして、感謝の言葉を特別に感じた。やってよかった」

 おれは言葉を続けた。

 「だれかの役に立ってる。この仕事を、もっと続けてみようと思った」

 かすみはじっとして言葉を発しない。蝉の鳴き声がやんだ。周りに誰もいない。物音さえ聞こえない。

 余計なことを言った?

おれは戸惑いながら、かすみを見た――

 えッ!!!

 泣いていた。肩を震わせて。

 小さな女の子が泣くような姿に、おれはショックを受けた。

 かすみは、かすれるような小さな声で言った。

 「父は、もう、よくならない」

 身体に触れたら、手を握った気がする。

 声が聞こえた気がする。

 ほんの少しだけ、回復している。

 わずかな変化に、望みを託している。

 でもそれは、きっと、叶わない願望――

 「もう、どうにもならない」

 そう言って、かすみは涙を拭う。

 言葉が胸に刺さる。

 「このまま、父は意識が戻ることもない。話したり会話をすることも。以前のようには戻らない。もちろん、気持ちはありがたいけど——」

  ありがたいけど?

 「わたしが父のことを相談したから、気をつかわせてしまって」

 「そんな……」

 そんなつもりじゃない。おれは言いかけて、やめた。なんて言えばいい?

 「わたしが希望を持っているのは、現実から目をそらした、夢みたいなことでしかない。起こるはずのないことを期待しているだけ」   

 なんだか、とても疲れた――、かすみは吐き出すように言った。

「父が元気なときは、わたしも好きな勉強をするつもりだったけど」

 もう聞くだけだ。なにも言えない。

 「今はやりたいことが見当たらない。楽しみにしていたことが、意味のない、つまらないことのような気がして――もう進学するのを、やめようと思うんです」

 かける言葉を完全に失う。おれは馬鹿だ。調子に乗って、いらないことを言う。良かれと思って。また蝉が鳴きはじめる。静寂を切り裂くように。蝉の鳴き声だけが、やけに大きな音量で響いた。



 おれは何も言えず、かすみの後ろ姿を見送った。そのまま、やりきれないような、モヤモヤする気持ちのまま家に帰った。外はもう暗くなっていた。自分の部屋に入って、電気も付けず、ベッドに仰向けになって携帯電話を取り出す。液晶のわずかな明かりだけでメールを確認した。

 ――あたらしいメッセージは、お預かりしていません。

 液晶に、愛想なく表示されるだけ。

 なにもない。

 連絡しようか。

 メールをしようと文面を考えた。いい言葉が思いつかない。書いては消し、書いては消し。何度も繰り返す。いろいろ考えた。ずっと考えていたら、結局最後にはわけがわからなくなって、諦めて枕元に携帯電話を放り投げた。

――おれにできることはあるのか? 

 そんなことを考えていたら、母さんに呼ばれた。

 「夕食ができたよ」

 母さんは居酒屋で働いている。主に夜働いている。基本的におれとはすれ違いの生活。仕事が休みの日で、おれが夜家にいるときに夕食をつくる。そういう機会はあまりなく、めずらしいのだけど。

 夕食は好物のハンバーグ。今でも好きなものは、ハンバーグ、とんかつ、カレー、焼肉。小さい頃と変わらない。食べていると、

 「病院はどう? 働き出して、もうすぐ半年ね」

 母さんに聞かれた。

「うん」

「あんたに患者さんのお世話なんかできるか不安だったけど、意外と続いてるね」

 感心、感心と母さんは言って、おれが食べ終わった食器を洗う。仕事柄か、化粧も格好も若作りで髪が長い。家事をしながらでも香水の匂いがする。昔は母さんのことを「お姉さんみたいだね」と、いろいろなひとに言われた。褒め言葉というよりも、チャラチャラしていると非難されているようで、子供心にも嫌だった。なんで、うちの母さんは友達のところみたいに、フツーじゃないんだって。

 「案外、合ってる気がする」

 おれはほおばった米を飲みこんで、こたえた。

 「どのへんが?」

 「だれかの役立つことをするのは、嫌いじゃない」

「意外」と、母さんは笑った。「あんたがそういうタイプだと思ったことは、なかったけど」

 母さんは上機嫌のようだ。ひとり息子が就職して、続いているんだから一安心か。

 「うちの病棟は、寝たきりの患者さんがメイン。言葉を出さなくても、身体拭いたり身の回りのことをしたら喜んでくれてると最近は思う」

真面目にこたえたつもりだったけど、

 「ふーん。やりがいを感じるなら、よかった」

 それ以上深く食いつくわけでもなく、フランクに返された。会話も、親子というより友達のようだ。

 「わたしもまだ40歳。一応独身だし、あんたが片付いたら、新しい恋でもはじまるかもなー」

 「新しい恋? だれが?」

 「わたし」

 母さんはハハハッと笑う。

 「好きにしろよ」

ホント、調子が崩れる。だけど、今はこの関係のほうが落ち着く。母ひとり子ひとり。うちはたしかに母子家庭だけど、母さんも自由にやっているし、おれも親に苦労をかけない孝行息子を気取っているわけでもない。だいたい、昔のドラマのような湿っぽい親子関係は苦手だ。

 「青年、まだまだ人生長いんだよ。迷ったら相談しな」

 そう母さんに言われた。おれが携帯電話を気にしながら、飯を食っているのに気がついたのかもしれない。女は勘が鋭いってホントか?

 かすみのことを話してみようか。

 迷ったけど、母さんが鼻歌なんか唄って、上機嫌そうなので、やめた。


 次の日は仕事だった。

 病室に入った。そこは末期の患者さんの個室。意識はなく、寝たきり。80代の高齢。同世代の奥さん――といっても、おれからしたらおばあさんの年代――が病室によくいる。小さく身体をまるめて編み物をしていることが多い。患者さんの呼吸状態が悪くて、いつ亡くなってもおかしくないと医師から説明を受けて、病室にいつもいるようになった。疲れるだろうに、日中ずっと寄り添っている。元気な頃は仲が良かったことを偲ばせる。心停止した場合、心臓マッサージや蘇生のための処置は行わず、そのまま看取ることが決定している。「もう充分に生きた。これ以上苦しまないように」という理由。

 おれがベッド周りを掃除していると、

 「今日はずっと起きているみたいです」

 おばあさんに話しかけられた。顔にシワが寄っているが、どこか可愛らしい表情。状態がいいとはいえないけど、いつもどおりの日常を過ごしている。これまでの人生経験がそうさせるのか。

 「え?」

 「ずっと目を開けている」

 患者さんは目を薄く開いて、宙をみつめている。視点が合うことはない。

 「ホントですね」

 おれはそっと、おばあさんに気づかれないように患者さんの瞼を触る。反応がにぶい。もう死は近い。通常ならば瞼に触ると反射的に閉じる。その生体反応が弱くなっている。

 「いつも寝ているだけだから、今日は調子がいいのかな」

 おばあさんは明るく言う。少しでも、いい兆候があると信じて?

 調子がいいのではない。

だけど、おれは事実を口に出すことができない。

 「そうですね。今は落ち着いています」

 おれは笑顔をつくって、こたえた。

 徐々に、ゆるやかに悪化しているため、変化がないようにみえる。落ち着いているともいえる。もう出来る医療処置もない。時間通りに血圧などが計られて観察されているだけで、いま亡くなっていないことを確認するだけだ。おれは部屋を出るため「失礼しました」とおじぎをして、背中を向けた。

 「お世話になりました。いつも、ありがとう」

 おばあさんに声をかけられた。

 なにもしていない。役立つことはなにも。

 ためらうように気持ちがゆれた。でも振り返らない。他に、やることは山積みだ。これから何人もの患者さんのオムツを替えたり、部屋を掃除し回らなければならない。鳴り止まないコール対応。立ち止まる時間なんてない。考えるのをやめよう。

 ステーションに戻った。

 「どこ行ってた?」

 いつも怒られる、苦手な看護師に呼び止められた。

 「あの、病室の掃除です」

 「さっきから探してたんだよ」

なぜか、すぐ怒られる。

 「すみません」 

 「事務長がアンタを呼んでるよ。行っといで」

 「へ?」

 「呼ばれてるから、はやく行きな」

 事務長? なんかヘマしたっけ?

 ヘマは日常的にしているけど、病院のお偉いさんに呼ばれるようなことをした覚えがない。覚えはないだけで、なにかやっているのかもしれない。クビか? 使えないから、辞めてもらうという話だったりして。

 おれは不審な面持ちで、事務長室のドアを叩いた。

 「失礼します」

 「どうぞ」

 事務長がこたえる。相変わらずの蝶ネクタイ。まるで似合ってない。事務長はおれをチラッとみて、手元の書類に手を戻す。

 「真面目に働いているようね」

 相変わらずのオネエみたいな口調。どういうつもりだ。

 「もうすぐ夜勤に入るらしいね」

 「はい。がんばります」

 とりあえず答える。変な様子はない。

 「あなたの仕事ぶりを、病棟のスタッフはみな評価しているみたいよ」

 おれは返事ができなかった。意外だ。ふだん怒られてばかりだから。

 「いろいろ言われても、へこたれずにやってると」

 評価してくれてるとは思わなかった。

 「もう働き出して、半年ね」

 「はい」

 「今後のこと、考えているの?」 

 質問の意味がわからず応えに窮していたら、

 「男がこのまま助手で、ずっと――というわけにもいかないでしょう」蝶ネクタイが続けて言った。「もし、あなたにやる気があるなら、病院に勤めながら看護学校に通うようにしてもいいわ」

 「はい?」

 よくわからなかった。

 おれがキョトンとしているのを蝶ネクタイは焦ったそうに、

 「つまり、うちで働きながら勉強して看護師にならないか、という誘いなのよ」

 「……はぁ」

 まだ、よく話が飲み込めない。

 「病院から奨学金というかたちで学費は出します」そこで事務長は一呼吸おいて「ただし」と言った。

 「ただし?」

 おれは聞き返す。

 「看護師の資格を取ったら、うちの病院に残って働いてもらいたい。どこかに転職するのじゃなくて。いわゆるお礼奉公というやつ。うちの病院も人員の足らない。ずっと働いてくれる人材が欲しいわけ」

 それが病院から学校に通わせる援助の条件だと、事務長は言った。

 おれは考える。学費を出してくれたうえに、生活するための給料も貰える。将来のキャリアを考えてもプラス。ずっと、この病院に勤めることになるけど、それも特に問題ない。

 いい話だ。

 「やります。やらせてください。お願いします」

 頭を下げて頼み込んだ。蝶ネクタイは持っていた書類をおれに手渡す。それはM看護専門学校の入学パンフレットだった。

 「M看護専門学校は定時制の看護学校。働きながら資格が取れるコースがある。授業は夜。昼間は病院で働いて、夜は学校に通いなさい。あなたみたいな働きながらの学生が多いはずよ」

 蝶ネクタイは宣言した。

 「病院から推薦はするけど、入学試験があるから、しっかり勉強してね」


 家に帰って、母に相談したら「いいね」と相変わらず軽く言われた。学費は病院が援助してくれるし、仕事もそのまま。資格を取るためのサポートをしてくれるから、ありがたい話だ。断る理由もないだろう。試験は年明け。まだ半年ある。

 自室に引き上げてベッドに寝転がる。試験か。そもそも参考書の部類もない。受験なんて考えたこともなかった。

 勉強をしなければと思いながら携帯電話を触っていた。かすみを思い出す。受験勉強しているのか? 大学に行くのを辞めようか悩んでいたけど……。

 かすみにメールしてみよう。

 この前別れてから、どう声をかければいいのかわからなかった。おれが受験することを伝えたら、なにか反応するかもしれない。話をするいいきっかけになるかもしれない。

 おれは文章を考え、何度も推敲を重ねた。夕暮で茜色に染まった部屋が、メールを書き終わったときには、真っ暗になっていた。

 「看護学校を受験しようと思います。もし合格すれば、働きながら看護師の資格が取れる養成学校に行く。養成学校は定時制コースだから、昼間は病院で看護助手として働いて、夜は学校に通う。今日、病院の責任者から提案された。病院に融通を利かせてもらって、学校に行かせてもらいながら働くつもり」

 読み返す。これでいいだろう。しかし、これだけしか書かないのに、どれだけ時間がかかっているんだ、と思いながら、送信。

 ふーっと息をつく。窓から外に顔を出した。夜風が気持ち良い。ふだん使わない頭を使って興奮した。上気した顔を外気にさらして、星のわずかな灯りを頼りに暗闇に揺れる草木を、なにも考えずに見ていた。

 ピロピロピロ。ピロピロピロ。

 電話が鳴る。暗闇に光るディスプレイを見て、着信を確認する。もしかして――?

 かすみ。

 驚いて電話を取った。

 「急に電話して、ごめんなさい」

 懐かしい声。振動が空気を通して伝わる。長いあいだ声を聞いてない気がした。おれはドギマギして心拍数が上がる。落ち着こう。自然に、自然に。

 「いま大丈夫でした?」

 「うん」

かすみの声に緊張感も違和感もない。考えすぎだったのか。ふっと、この前の会ったときの泣き顔を思い出す。流した涙や、この前の出来事には触れないでおこう。

 「メール見ました。受験するんですね」

 「ああ」

 「驚きました」

 「うん」

 「どうして、看護師になろうと?」

 男で看護師という選択は、めずらしくて、なにかしら好奇な関心を寄せられるだろう。

 「食いっぱぐれがないし」

 「大事ですね」

 かすみは笑った。おれは今日聞かされた事務長から提案を説明した。

 「資格があれば、失業しても困らないし」

 先行きのわからない時代。保証はあるにこしたことがない。

 それと――付け加えた。

 「だれかの為になる仕事にひかれたんだ」

 おれはこたえた。

 「だれかの為になる仕事ですか」

 かすみは、たしかめるように同じことを繰り返した。おれは気恥ずかしくなって「まだ未熟で何もできないけど」と断った。

 「そんな」

 「いや、まだ一人前じゃないから」

 「でも父もお世話になって、わたしも本当に助かってます」

 本当に――と、かすみは言った。

 「ありがとう」

 おれは礼を言った。認められているようで嬉しかった。

 「今みたいに感謝されることって、普通に生活していたら、あまりないことだろう」

 「ええ」

 「仕事として、お金をもらえて、だれかの役に立っていることを実感出来るのがいいと思ったんだ」

 成り行きでやりはじめたことだったけど、結果オーライ。おれには合っている気がする。必要とされる仕事はいやじゃない。

 「いい仕事ですね」

 「だろ?」

 「はい。お話が聞けてよかった。目標を持って、これからのことを考えていて、すごい」

 かすみもがんばれ。と言おうとして、声がくぐもった。言うのをやめた。泣いた顔を思い出したから。

勉強は? 受験はどうするの?

 聞きたいことはたくさんあったけど、不必要なことは、言わないほうがいいかな。

 「――父は、どうですか?」

なにか言おうと考えていたら、急にきかれた。

 「変わりない」

 良くも悪くも。

 「最近、病院に行けてなくて」

 かすみの姿を見てなかった。もうずいぶん会っていない気がする。

 「なにかあったら連絡する」

 「お願いします」

 声が弾んでいる気がした。ずっと落ち込んでいるのじゃないかと心配していた。だから安心した。少なくても迷惑そうじゃなくて、よかった。

 「明日、夜勤なんだ」

 仕事をはじめてもう半年。夜勤に入るようになったことを説明した。

 「夜勤?」

 「明日の夕方から、明後日の朝まで働く」

 「えッ」と驚いた声。「夜中もずっと働くなんて、すごい」

 「すごくないよ」

 「でも働きながら、これから勉強もあるし、大変でしょ?」

 「体力には自信がある」

 「がんばってくださいね」

 「おお」

 おれはまた連絡すると言って、電話を切った。話ができてよかった。満たされた気持ち。夜空を見上げたら、きれいな月。今夜はよく眠れそうだ。明日、夜勤をがんばろう。そして、かすみに連絡しよう。必ず。おれはそう決めた。


 

目が覚めて部屋のカーテンを開ける。あたりは明るい。時計を見た。もう昼だ。テレビを付け、正午のニュースを見ながらパンとコーヒーで食事をとる。家の中は静かだった。母は仕事に行っていない。

 今日も厳しい暑さになると報じられた。テレビの液晶画面には、強い日差しのなかをスーツ姿の会社員が汗をかきながら歩いている場面が中継されていた。

 夜勤の日は昼まで寝て、夕方に家を出る。外に出たら、乾いたような夏の香りがした。暑さは厳しい。日暮れまでに、まだ時間がある。おれはバイクのエンジンをかけて発進させた。

夜勤は夕方16時から翌朝9時までの勤務。日勤者から引き継ぎを受けたら、患者さんの夕食の介助がはじまる。それが終わって片付けたら、寝る準備をしていく。寝具を整え、患者さんの寝る姿勢を整えたる。身体が不自由でも、話せる患者さんは要望が多く気難しいこともあって、枕や手足の位置を、数センチ単位で納得するまで何度もやりなおす。

ナースコールの対応や30名以上の患者さんのオムツ交換を済ませて、やっと消灯。電気が消えて暗くなると、落ち着ぎがなくなる患者さんもいる。「家に帰る」と騒ぎ出したり、勝手にベッドから抜け出して、転倒でもして骨折したらえらいことだ。

 まだ勤務時間は12時間以上ある。夜勤は看護師1名、看護助手1おれの2名体制。昼間よりも少ない人数で仕事を済ませなければいけない。 

 午前零時が過ぎ、落ち着いている時間を見計らって、交代で休憩を取る。おれは看護師が休憩中に、ステーションで書類仕事をしていた。

 ビー、ビー、ビーッ。

突然、心電図モニターが鳴った。モニターを確認すると、心臓の動きをしめす電気波形がフラットになっていた。

 心拍停止。

 「ゼロになってますッ!」

 おれは大声を出して、看護師に知らせに走った。仮眠を取っていた看護師はむくっと起き上がった。おれはもう一度、

 「心拍がゼロになっていますッ!」

 勢い込んで報告したら、

 「慌てなくていい」

 看護師から冷静に返された。予測できていた。驚いたり焦る必要はない。

 DNR――do not resuscitate.

 その患者さんは、容態急変時も医療処置をしない看取りの方針であることが事前に決まっている。

看護師が院内PHSで当直医に連絡する。電話口で患者さんの名前を告げ、報告。

「先ほど心拍がなくなりました。呼吸をしていません」

夜勤がはじまるとき、当直医には状態が悪く心停止する可能性が高いことを伝えられている。医療処置の必要ない、看取りであることも。

「わかった」

 当直医は簡単に納得した。

 「すぐ行きます。家族は?」

「病室にいません。来てもらうように連絡します」

「お願いします」

おれは看護師から指示されて、カルテに載っている家族の連絡先に電話した。深夜だったが幸い数回のコールで繋がった。その患者さんは、昨日おばあさんが付き添っていて、おれに「いつもありがとう」と声をかけてくれたところだった。おばあさんの可愛らしい笑顔を思い出す。

 おれは病棟所属のスタッフであることを名乗り、患者さんの名前を確認した。

「先ほど急変しました。今から病院まで来ていただけますか」

そう簡潔に伝えた。

「えっ」

電話口で、相手が息をのむ。

「亡くなった――ということですか?」

うわずった声。しかし、おれは質問にこたえず、

 「厳しい状況です」とだけ言った。

少し間があいて、

「わかりました。すぐに行きます」

やはり昨日のおばあさんの声。電話口で質問攻めにされるか危惧したけれど、それはなかった。すでに死亡していることを伝えると後で問題になる可能性がある。だから、こういう状況では、心停止している事実は伏せるのが、うちの病院の習わしだ。

 看護師も、医師も淡々とことにあたる。患者さんは数日前から、呼吸をするだけの状態だった。

おれは時計を見た。深夜零時を回ったばかり。暗い病棟の廊下を歩く。病室に入り電気をつけた。顔が青白い。モニター端子の付いた患者さんの身体に触れた。ひんやりとして体温を感じない。血の気がない土色の肌。胸郭の動きがなく、呼吸が確認出来ない。頸部や手首で脈拍を探すが、わからなかった。目が薄く開いている。眼球は動かない。瞼に触れてみる。命があれば、反射的にわずかに動くけれど、それもなかった。

おれは患者さんの身体に触れた。

 冷たい。

 氷や金属などとは違った独特のにぶい冷たさがある。

 生きていない。

 改めて、そう納得させられる。手足は骨と皮ばかりで細く消えそうなのに、冷たさだけが圧倒的な存在感。窪んだ眼窩とこけた頬。もうなにも見ていない目が薄く開いたまま。おれは合掌して、指先でそっと死者の瞼を閉じた。

 

 連絡してから一時間ほど経って、電話口で話したおばあさんが到着した。50代ぐらいの男性――息子さんだろう――に付き添われていた。急いで来たのだろう、会釈した表情はふたりとも硬く、血の気がないように青白い。

 矢継ぎ早に質問することもない。急変したのは患者さんは脳梗塞で倒れてから、もう長いあいだ寝たきり状態だった。この日が来るのを、もうずっと以前から、待っていたといえるのかもしれない。

 「こちらへ」

 おれは、おばあさんと息子さんを病室に案内し、医師を呼ぶ。医病室に来た医師は、聴診器を患者さんの胸にあて、脈を取り、呼吸と瞳孔を確認。指で瞼を開けてペンライトで瞳孔に光をあてる。

心停止、瞳孔不動、生命の兆候がない――

「ご臨終です」

医師は深々と頭を下げた。

 おばあさんさんは泣かなかった。ただ事実を噛み締めているような表情をみせたのみ。息子さんも声を出さず、顔を赤くして、目を伏せている。

 医師が退室した後、おばあさんと息子さんに看護師から死亡時の手続き、寝台車の手配、ご遺体のお清めなど諸々の事務手続きの説明を行った。

 おれも荷物の整理などを手伝うため、病室に入った。

「おじいさんは長く入院していまして、最後までみなさまにお世話になりました。大変感謝しています」

 おばあさんさんから言われた。 

 「いえ」

 おれはそれ以上、なにも言えなかった。

 「おじいさんは、苦しくなかった、のでしょうか?」

 ふいに、きかれた。

 「はい。穏やかな最期でした」

 とっさにこたえると、おばあさんはほっとしたように、

「今まで本当にお世話になりました」

もう一度そう言われた。同じように。頭を下げられる。息子さんも頷いて頭を下げられた。涙を拭って、鼻をならす。

その姿を見て、疑問がわいた。

 そうなのだろうか?

 感謝されるようなことをしたのか?

 もう出来ることは、なかった。

 物言わぬ患者さんは不平も不満もなく、ただ死ぬときを待っていた。意識もなく、命を維持するだけで、果たして生きていると言えるのだろうか。まして、おれたちが患者さんの満足するケアをしたのか、甚だ疑問だ。

最後が苦しかったかどうかなんて、本人にしかわからない。だけど、「苦しまなかった」とこたえることが、せめて出来ることでしかない。

 死は、ある意味で救いのような気がした。

 おばあさんが、ご遺体の身体を何度もさすった。労るように。

 「がんばったね」

 そう語りかけて、病院に来てから、はじめて涙を流された。静かな涙だった。

 きっと元気な頃は、夫婦で寄り添うように暮らしていたのだろう。過ぎ去った時間を想い、おれは死者を悼んだ。


 夜勤が終わって、家に帰ったら午前10時過ぎだった。太陽は高く、夜勤明けの目にはギラギラ眩しい。カーテンを引く。部屋を暗くしてベッドに倒れこむ。汗臭い身体の匂いが、強烈に鼻腔につく。真夜中ずっと働いていた。ベトついた肌が気持ち悪い。だけど、もうシャワーを流す余力がない。大きく息を吸って、手足を思いきり伸ばしてリラックスする。疲れた。それから、すぐに意識が途切れるように深い眠りがおとずれた。

目が覚めたら薄暗くなっていた。

ひたすら眠っていた。夢も見ずに、傷を癒すように、ただただ眠った。家に戻ったんだっけ? 今いる場所がわからなくなるぐらい深く眠った。目は覚めたけれど、すぐに起き上がることができず、布団のなかでぼんやりしていた。カーテンの隙間から淡い光が見える。しばらくして、意識がしっかりしてから、のっそりと起き上がる。カーテンを開けると、窓から月と星々の光。世界が青白い光で照らされた。この世のものとは思えないような幻想的な美しさ。

 どこかで、かすみも同じ景色を見ているだろうか。

 電話しよう。

 声が聞きたい。

 話がしたい。

 おれは携帯電話を取り上げて、通話ボタンを押す。トルルルル、トルルルル。呼び出し音が鳴る。

 「はい」と返事。

 おれは名乗った。

 「こんばんは」

 「すぐわかった?」

 「わかりました」

 笑った声。

 「夜勤お疲れ様でした。どうでした?」

 「患者さんが――亡くなった」

 すぐに返事がない。一呼吸おいて、

 「——大変でしたね」

 「うん」

 ひとは必ず死んでしまう。誰しもが生きる時間は有限だ。だから伝えなければ。ずっと言い出せなかったことを、おれは思い切ってきいた。

 「教師になりたいって話」

 「はい」

 「迷っている?」

 「……」

 「おれにできることなら、なんでもする」 

 思わず口から出た。元気になって欲しくて。

 「なんでもするよ」

 なにもできることなくても。

 夜風が吹いて、カーテンを揺らす。乾いた夏の匂いがした。小さく虫の音が聞こえる。

 「ありがとう」

 かすみは、ぽつりと言った。続けてなにかを言った。とても小さい声。聞き取りにくい。

 「え?」

おれは聞き返す。

 「あの」

 「うん」

 なんの話だろう。

 「夏休みになりました」

 「ああ。もうそんな時期か」

 「病院に行きやすくなります」

 お見舞いか。それはそうだけど……。

 (でも、せっかくだから楽しめば?)

 そう言おうとしたら、

 「あの……、花火」

 「え?」

 「花火大会に、行きませんか?」

 「ん?」

 「一緒に」

 誘われた? おれと? なんで?

 「うん。行く。行くよ。もちろん」

 とまどいながら、舞い上がってそう返事をした。なにを言っていいのか、わからなかった。


 おれの住む地域は一年に一度、大規模な夏の花火大会がある。この辺りでは最大の祭り。港から打ち上げられる花火は10000発。夜空が花火の光で昼のような明るさになる。花火大会に合わせるように親族が帰省する家庭も多い。正月やお盆と同じで、遠くから親族が集まって交遊をあたためるのが習わし。通りを歩いていると、家の前にみんなが集まって、バーベキューをしながら花火が上がるのを待っているのが、おれの暮らす港町の夏の風景。

 花火大会の日、おれは希望休を取って、かすみと夕方待ち合わせた。ファミリーレストランの店内で、かすみが来るのを待っていた。夕食には、はやい時間。日曜日で花火大会もあるからか、客が多かった。ここで腹ごしらえをして、花火に行くつもりだろう。

 店内は若いカップルや友達同士、子どもと一緒の家族連れであふれている。直接関係はなくても、にぎやかな会話が聞こえてくると、自然と華やいだ気持ちになる。

 何食わぬ顔、涼しい顔で待っていよう。おれは入口が見える席に陣取り、そわそわと身体を動かしていた。昨晩はよく眠れなかった。思いと裏腹に、おれの姿は誰が見ても落ち着きがなく、いまかいまかと待ちぼうけの態。入店があるたびに首を伸ばして凝視。挙動不審になってしまう。まだ来ない。事故? なにかトラブル? 期待と失望を繰り返して、ため息をついた何度目かに、髪を結った浴衣を着た女の子が、おれに近づいて来たことに気づく。

 かすみだ。

 印象が違ったから、最初だれかわからなかった。

「お待たせしました」

「おう」

 夕暮れの太陽に、かすみの肌はしっとりと、なめらかに映える。若くて健康で美しい。電話やメールでやり取りはあったけど、実際に顔を見るのも、会って声を聞くのは久しぶりだった。大人っぽく見えて気後れした。顔をよく見れない。心拍数が上がって、息苦しい気がする。

 「だいぶ前から?」

 「いや、さっき来たばかり」

 どきどきと胸が高鳴り、ぜんぜん落ち着かない。気づかれないように、ゆっくり深呼吸する。

 「花火がきれいに見える場所、知っていますか?」

 かすみにきかれた。

 「うん。海からがよく見える」

 「海?」

 この前、ふたりで歩いた海沿いは人気がない。そこだと、花火もよく見えるし、ゆっくりできると、おれは提案した。

 「海の近くにある丘、知ってる?」

 「いえ」

 「よく行くんだ」

 かすみはくすっと笑う。

 「どうした?」

 「走ってましたね」

 「え?」

 「声をかけられたとき」

 「そうだっけ?」

 「走っている姿が印象的。声をかけられると思わなかったから。いま思い返すとおかしくて。でも、とてもきれいな海でした」

 「だろ? お気に入りのコースだ。静かで、景色がいいから」

 そこからだと港町を一望して、見下ろすことができる。小さな港町での暮らしや、自分のことを客観的に考えることができる。好きな場所だった。

 「車で行こう」

 おれが車を借りてきたことを伝えると、喜んでくれた。

 車を運転して、花火会場に向かう人混みの港町を抜ける。反対方向の静かな海辺へ向かう。車の窓から気持ちのいい風が入ってくる。かすみの髪が風に流れて、甘い匂いを運ぶ。

 いつも一人なので、女の子が隣にいるのが新鮮だった。移動中に、少しずつ暗くなって、街の明かりがポツポツ見えた。星も出ている。海岸に車を置いて、丘まで歩くことにした。

 濃く艶のある海。まるい月が映える。遠くに街の灯り。大きなカーブを描くように湾に沿って海が広がっている。浜辺は、花火の上がる場所から少し離れている。近くに小高い丘があり、そこまで上がれば、遠くを見渡せて、打ち上がる花火を見ることができるだろう。

 「満月が出てる」

 かすみが言って、おれは夜空を見上げた。

 月の明かりに照らされた彼女が幻想的で、夢の中にいるような気分になった。月明かりを頼りに小さな丘を上がる。誰もいない。静かで、おれたちの足音が響く。ゆっくり歩く。気がつくと、目の前に海がひらけた。

 港が見下ろせた。月夜の明かりで小さな町灯りが煌めく。あの光ひとつひとつに、それぞれの人生がある。不思議だ。

 祭りの会場からだいぶ離れている。聞こえないはずだけど、微かな賑わいが伝わってくる気がする。

 大きな音がして花火があがった。身体に響く、重厚な音。ずっと遠くから歓声の声が聞こえた気がした。キラキラと赤や青や緑、たくさんの彩りのある光が、パラパラと火が消える音とともに点滅する。風に吹かれて、火薬のこげた匂いが、風に乗ってくる。

 「ホント、きれい」

 かすみが感嘆の声をあげた。おれは横目で彼女を見てしまう。正直、花火よりもかすみに見惚れていた。しばらく黙って打ち上がる花火を味わいながら、ずっとこの時間が続けばいいと願った。

 「楽しいことがあると――」

 ふいに、かすみは前を向いたまま言った。 

 「追いかけてくる影のように、不安に囚われそうになる。恐いんです」

 月明かりに照らされた表情が、まるで彫刻のように冷たい。

 「わたし、楽しんでいいのかな? そんな立場なのかな? 家族はバラバラなのに。これからのことさえ、わからないのに。父にかかわろうとしない母を見ているとイライラして、心が真っ暗になる。なにもかも忘れてどこか遠くに行きたい」

 そう言って、ため息をつく。

 「だけど、離れたいけど、残してもいけない。お金のこと、将来のこと、考え出すと頭がこんがらがって、こたえがみつからない。どうしていいのかわからない。すべて終わったような気分。前のようには、もう戻れない」

 おれはなにも言わずに、かすみの話を聞いていた。

 「朝、父が会社に行く前、普段変わらず玄関で見送ったのが、最後に見た父の元気な姿。小さい頃から、いろいろなところに連れて行ってくれた。大好きだった大きな手も、声も、今は……」

 さっきまで元気だったひとや、平穏だった日常は前触れもなく急になくなってしまう。予想もつかないような、悲しいことが世界にあふれている。空から巨大な隕石が落ちたり、大地がわれるような地震が起こって、突然なにもかも変わってしまうように。気がつかないだけで、日常と不幸は薄い一枚の壁の違いでしかない。病気で倒れたひとたちを見ていたら、おれはいつも思う。このひとたちは、予想できない厄災に被災した被害者たちだって。おれだって、いつどうなるか、わからない。

 「がんばっていい結果を期待しても、失敗して失望するのが怖い。なんだか、わたし、なにもかもうまくいかない」

そう声を震わせたかすみは、まるで、ひとりぼっちな女の子のようだ。

 花火がやんだ。あたりは静かになって、華やかな色とりどりの火も消えた。沈黙のあと、かすみは謝った。

 「暗い話をしてしまって」

 「いや」

 「最近、わたし、おかしいんです」

 「おかしくない。みんな同じだ」

 そうかな、と彼女はつぶやく。そして改めて、

 「質問していいですか?」

 「いいよ」

 「働きながら受験勉強、大変ですよね」

 「ああ」

 「もっと楽な道もあるのに――なぜ?」

 まっすぐ目を見て問われた。黒い水晶のような瞳。きれいだ。気恥ずかしくて、いつもは顔を見て話していなかったから、気がつかなかった。

 「自分にとってプラスだし、職場が学費を出してくれるから」

 と、おれはこたえた。それだけでは説明が足りないか。かすみはまっすぐ真剣なまなざしで、もっと正直に話をしたほうがいい気がした。

 「うちは母子家庭なんだ。おれには母さんしかいない。母さんだけの稼ぎでは、学費をかけられなかった。学力がなくて大学の選択肢がなかったけど、経済的負担をかけたくなかったことも、今の道を選んだ理由のひとつだ」

 「お父さんは?」

 かすみにきかれた。

 「――死んだ」

 どうこたえようか迷ったけど、シンプルに事実を伝えた。

 「おれが3歳のときだから、父さんのことをよく覚えていないけど――かすかな記憶で、病院で泣いていた母さんを見た気がする。病室で叫び声をあげるように泣いていた。父さんが死んで、後を追うのじゃないかと周りのひとから心配されるなるぐらい、母さんはふさぎ込んでいた。母さんは、今はすごく明るいんだけど」

 息を継ぐため言葉を切った。かすみはなにも言わない。

 「そんな時期もあって、どうやって立ち直ったのか、気になって母さんに聞いたことがある。病院には、母さんと同じ立場だった若い奥さんがいた。旦那さんが重篤な末期の病気で、同じように小さい子がいる。だけど挨拶をするぐらいの関係だった。お互いに辛い気持ちで過ごしていたから、なにも話せなかったらしい。同じ立場過ぎて辛すぎて。だから父さんが亡くなったら、その奥さんとは全然関係なく過ごしていた」

 波の音が聞こえる。このあたりは本当に静かだ。

 「しばらく塞ぎこんで母さんは暮した。小さい頃のおれのことも相手にできないぐらいに。こどもを抱きしめたり、笑いあったり、そういうことができない。ある日、母さんは病院で一緒だった奥さんと公園でたまたますれ違ったらしい。すれ違ったといっても、遠くから見かけただけ。その奥さんが、こどもと笑って過ごしていたから、声をかけなかった。いや、かけられなかったと言っていた」

 そのときの母さんの気持ちに添うようにして、おれは話す。

 「その奥さんの旦那さんがどうなったのかはしらない。元気になったのか、亡くなったのか。ただ、その小さな子は、お母さんと一緒に笑っていた。母子は楽しそうに過ごしていた。その様子を遠くから見て、母さんは思ったそうだ。子供に不憫な思いをさせた。嘆き悲しむことだけが、悼むことじゃない。父さんのぶんも楽しんで生きる。そう思う、きっかけになった。家に帰って母さんは、おれのことを抱きしめた。もうできないと思っていたこと。でも、やってみたら簡単だった。気持ちが軽くなった気がしたって」

 かすみは目を伏せていた。 

 「余計なことを聞いてしまって」

 「気にしなくていい。もう昔の話だし」

 おれたちはいつの間にか、指先が触れるぐらい近くで話し込んでいた。かすみの肩にかかる髪から甘い香りがして、吸い込まれるような心地になった。

 「病院に勤めだして、たくさんの死を見るようになった。夜勤でも看取りがあった。人は死ぬ。おれも、きみも、今を生きているみんな、いつかきっと死んでしまう。死んだ後も、残されたひとたちに続いていく生活がある。なにもできなくても、看取ってもらって、ありがとうと感謝されることもある。それでいいんだ。気負わなくていい。くじけそうなときでも、もう一歩だけ、前に進もう」

 気持ちが届くように願う。

 「お父さんも、本当に望んでいることは、きみのことだよ。自分のことよりも。お父さんのぶんまで――というのは負担かもしれない。だから、お父さんが経験できないことを、きみがすればいい。楽しいこと、うつくしいこと、たくさん経験すればいい。そう思って、おれも過ごしている」

 おれは胸の高鳴り、脈拍と鼓動を自覚する。ドキドキして体温が上がるようだった。かすみと視線が合った。 

 「――わたし」

 かすみが口を開く。その続きを、耳をすませて待った。ここまで来るのに、ずいぶん時間が過ぎた気がする。

 「やっぱり最初の希望どおり、県外の大学に行こうと思います。受験がどうなるかわからないけど、その方向で動いてみます」

 顔をあげた表情。わずかな光が射すような、明るい兆しがあるように感じた。

「それがいいよ」

おれは力を込めた。

 「遠く離れても、また会えますか?」

 うなずく。もちろん。

 「おれはどこにも行かない」

 迷いなく、口から出た言葉。

 「お父さんのことは、おれにまかせて」

一呼吸おいて、彼女は言う。

 「もし」

もし?

 「わたしが帰ってこなかったら?」

 「迎えに行く」

 すぐにこたえると、かすみは声を出して笑った。

 「あなたといれば、わたしにも楽しいことある気がする」

 おれは手を伸ばして、彼女の手を握る。はじめて触れた身体、あたたかい、きみの体温を知る。

行こう。

 どこに?

 どこだっていい。

 一緒に行こう。

 約束の場所なんて、なくても。

卒業式の日、教室で聞いた話は本当だった。教師からの言葉を思い出す。きみたちには明るい未来がある。そう信じれば、どこだって光り輝くのかもしれない。 

月が輝く夜。青白い光で、砂浜にふたりの影が伸びる。その光は、未来を明るく照らすようだ。誰かに聞いてもらいたい話があって、ひとは語り合いながら生きている。きみがいれば、おれはどこまでも走れるだろう。

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