序章
辛く厳しい現実と、甘美で優しい夢。どちらを選ぶかと言われたとき、人は皆きっと後者を選ぶんだろう。
だけど人々は次の瞬間にはこう口にするに違いない。
「しかしそんなものは存在しない」と。
それはきっと大人になっていくにつれて皆が感じることなんだと思う。幸せな夢から覚めるたびに、嫌な思いをするたびに人々は厳しい現実を痛感する。そして夢や希望を失っていくのだ。
なんとも夢のない話である。人生はなんのためにあるか。人々は何のために生きるのか。これではまるで苦しみを享受するための訓練ではないか。
そして夢を捨て心を見失った者は、次に夢を追い希望を捨てない者を子どもだと蔑み、乏し、見下す。自分こそが正常だと、夢を捨てた自分は間違っていなかったのだと、まるで見えない亡霊にでも言い聞かせるかのように。
けど俺は諦めない。夢も希望も失った亡者どもには屈しない。例えどれだけ馬鹿にされようと、甘美で優しい夢を、温かく酔いしれるような光を求め続ける。
たとえそれが自身の命と引き換えであったとしても。
___________________________________________________
朝。窓から差し込む陽気に誘われ目を覚ます。
春の終わりの温かな光は寝起きの体には心地良く、俺はゆっくりと太陽に向かって体を伸ばした。
「ふあぁ~あ。眠い」
昨日遅くまで起きていたおかげで妙に気怠い。しかし俺は今日も今日とて学校に行くべく体に鞭を打ってベットから降りた。
目をこすりながらダラダラと歯を磨き、朝ご飯を食べ、制服に着替える。
そしていい時間になると、昨日既に準備をしていた鞄を手に取ろうとして、鞄の上に一枚の紙が置いてあることに気づいた。
「はぁ……」
ソレを見つけた瞬間おもわずため息が出てしまう。昨日忘れないようにと鞄の上に置いていたソレは現在俺を最も悩ませているものだった。
進路希望調査票。
忌むべき七文字を見つめ、再びため息を吐く。今日提出のソレは昨日一晩考えた末に書いた、草壁 真昼という自身の名前しか書かれていなかった。
第一希望、第二希望、第三希望まである項目は何か書いた跡があるわけもなくただただ真っ白で、自身の心とは裏腹に悩んだ形跡なんて一切見受けられない。これではまた先生に文句を言われるに違いなかった。
だが昨日一晩考えてこの有様である。今考えたところで答えなんて出るとは思えなかった。
そして俺はクシャッという音を無視して、進路希望調査票を鞄の中へと仕舞うと重い気持ちを振り切るように早足で学校へと向かった。
___________________________________________________
「なんで呼び出されたか分かるか?草壁」
威圧するように、しかしどこか諦めた様子で我がクラスの担任はそう尋ねてきた。
「さぁ……なんででしょうかね……?」
「あのなぁ……お前……」
すっとぼけたように答える俺に、今度こそ先生は完全に諦めた様子だった。
「確かにお前の年で明確な将来の夢を持っている奴は少ない。しかし皆がぼんやりとしながらもコレを書いて提出してるんだ」
そう言って白紙の進路希望調査票を突きつけてくる。もちろん俺のである。
「お前の成績ならどんな道でも自由に選べるだろう。適当でもなんでもいい。明日まで待ってやるから書いてこい」
先生が進路希望調査票を差し出してくる。
俺はそれをどこかぎこちない動作で受け取ると、職員室から退出した。
___________________________________________________
「…………」
誰もいない鍵もかかっていない旧校舎の1室で一人、真ん中にポツリと置かれた椅子へと座りポケットの中から進路希望調査票を取り出す。
(俺は何がしたいんだろうか……)
そう自分へと問いかけるも答えなんて出てこない。当たり前だ。いままでなんとなく生きてきた人間に未来のことを聞いたって答えられる訳がない。
進学か就職か。二択の選択肢でさえ俺には搾ることができなかった。適当に答えていいはずなのに。なんとなくでもいいはずなのに、どうしてかそんなもう一つの選択肢でさえ自分には選べなかった。
ふとまだ子どもだった頃を思い出す。あの頃、確かに俺は夢を持っていたはずだ。けどいつからだっただろうか。戦隊モノのヒーローなんて存在しない。喋る動物なんて存在しない。手からビームなんて出ないし、サンタだって存在しない。そんな現実を見るたびに自分の中の夢という存在は現実に浸食されていった。
「はぁ……」
もう何度目のため息だろうか。自分の夢に対する潔癖とも呼べる感覚に我ながら呆れてしまう。
もし……もし現実なんて感じず、純粋に夢を追い続けることができていたらこんなことを考えずに済んだのだろうか。
ただひたすらに人の言うことなんて耳を傾けずに、自分の夢に邁進し続けていたら俺は今違う道を歩めていたのだろうか。
そして……こんな意味の無い仮定に心悩ませずに済んだのだろうか……
--謎の魔方陣に俺が囲まれたのはその時だった。
「っ!?」
突如自身を中心にして拡がった幾何学模様の魔方陣に言葉を失ってしまう。
しかし戸惑う俺を余所に青白く発光したそれは徐々に光を強めていく。
何が何だか分からず、おもわず椅子から立ち上がると魔方陣の外へと駆け出す。
しかし魔方陣の端まで行くと見えない壁に阻まれているのかそれ以上進むことができなかった。
「クソっ!なんだこれ!」
無我夢中で見えない壁に拳を叩きつける。しかしそんな健闘も空しく、見えない壁はビクともしない。
そして時間切れなのか、魔方陣は先程と比べものにならない程の光を放ち始めやがて何も見えなくなってしまう。
あまりにも眩い光を前におもわず目を閉じると、やがて音さえも消え去った。
そしてどれぐらい経っただろうか。目の前も、頭も真っ白になってしまった俺の耳に、透き通った、それでいてあどけなさを感じさせる女性の声が響いた。
「成功……した。成功したわ!」
突然聞こえてきた女性の声に、ゆっくりと目を開け声のした方向へと顔を上げると、そこには見たことのない学生服を着た金髪の少女が立っていた。
そして何やら目の前ではしゃいでいる金髪の女の子は、俺と目が合うとハッとした様子ではしゃぐのをやめ顔を赤らめるが、やがてコホンッと一つ咳払いすると俺に向き直った。
「初めまして。私はあなたの主、アレルシャ・アーシャ・アリスベルよ。私の“翼”としてこれからよろしくね」
進路希望調査票が俺の手からするりと滑り落ちていった。