宝物庫
アキラが冷やし中華を食べ終えると、待っていたかのように夕輝が腰を上げた。
「時間ありますか、先生。よければ、今から行ってみませんか」夕輝は穏やかに微笑んで提案した。
腕時計を見やると、時刻はまもなく午後一時を迎える。
美雪のための資料作りがある。美雪のスケジュールはみっちりとしているが、教師であるアキラの日中の休憩時間も、そう多くあるわけではない。
だが、休憩がてら見せてもらうくらい、バチはあたらないだろう。心の中で呟いた。
「大丈夫です。お願いします」後ろ髪が引かれるのを振りきるように、アキラは答えた。
「よし。早速行きましょう」
そのまま、食器の片付けは全て桐生に任せ、夕輝はアキラを案内し始めた。
***
宝物庫は屋敷の地下にあるのだという。
階段までの道のりで、夕輝は説明する。
「もともと、父のものしか置いてなかったんです。祖父が亡くなる前に、僕ら兄弟に父の実家にあったものを色々と譲ってくれまして。せっかくだから、父の宝物庫を共用のスペースにして、飾ることにしたんです」
「どんなものが飾ってあるんですか」
「絵画や骨董……あとは、書物です」夕輝が中空を仰ぎ、指折りながら答える。「とは言っても、正直価値は分からないですけど」
「さっき、自分で素人だって言っていましたね」
夕輝はハハっと笑い声を出した。右手で後ろ髪を搔いている。
「高校生までは、ただの物置だと思ってたぐらいです」
「他の皆さんは?」
「兄が好きですね。妙に絵画に凝っていて、良さそうな絵を買い漁っているみたいです。どうやって資金を稼いでるのかは、知りませんがね」
藤堂朝陽は夕輝とさして歳は変わらないだろう。絵画収集とは、随分と渋い趣味をしているものだ。何より金がかかる。庶民のアキラには、信じられない感覚だった。
廊下を進んでいくと、突き当たりの曲がり角が、一部新しく塗装されているのが見えてきた。
「五年くらい前まで、あそこに窓があったのを埋めたんです」
「セキュリティの問題ですか」アキラは理由を言い当ててみせた。
「その通りです」
夕輝が答えたタイミングで、壁に突き当たった。左側には下へと続く階段がある。
「ここを降りてすぐが、宝物庫です。流石にこんな位置に窓があると、不安になるでしょうね」夕輝が補足した。
アキラは階段の上から地下を見下ろした。間隔は広めだが、短く急な階段だ。光が届かないせいで、先の方までは見えない。
夕輝が壁に取り付けてあるスイッチを押すと、地下の階の電灯が付いた。夕輝はそのまま階段を降りていく。手すりに掴まりながら、アキラもそれに従った。
階段を下ると、あからさまに分厚い扉が目前に構えている。ノブや錠前のようなものが見当たらず、普通の扉ではないとアキラは直感した。
「僕が高校を卒業した頃、父はここの警備について色々と考えていたみたいです。まあ、僕は全然モノの価値がわからないので、そこまで深刻な問題とは思ってませんでしたが」夕輝は冗談めかして言う。「ある日突然、業者が来て、扉を壊して交換し始めたんです。それがこのゴツい扉です。前の扉も頑丈だったんですけどね。父はただ頑丈なだけでは納得できなかったみたいなんです」
「何か特別なセキュリティが施されてるんですか」
「生体認証ってやつです」
夕輝は扉のすぐ右に取り付けてある、パネルに右の手のひらをかざした。
ピッという電子音が鳴る。
続いて、夕輝は眼鏡を外し、パネルの上に付いているスコープのようなものを右目で覗きこんだ。
ピピッともう一度電子音が鳴ると、仰々しい駆動音と共に、分厚い扉がゆっくりと横にスライドしていく。
アキラはその光景を、呆然としながら見ていた。映画でよく見る、ハイテクな施設の厳重警備そのものではないか。
やがて扉が開き切り、動きを止めると、中の明かりが自動で点いた。宝物庫の中の様子が露わになった。
いまだに硬直しているアキラに、夕輝が説明する。
「手のひら静脈認証と、網膜認証で開く仕組みになっています。それ以外の方法で、この宝物庫には入れません」
「いや、驚いた」アキラはようやく声を発することができた。
「ね。正直、僕は宝物庫の中身より、こっちの方が面白いと思います」夕輝は悪戯っぽく言ったものだった。
***
アキラは夕輝につづく形で、宝物庫に足を踏み入れた。赤い絨毯を踏みしめるたび、アキラの心拍数が上がっていく。気のせいではないはずだ。アキラは宝物庫に入ってから、圧力のようなものを感じていた。
空気が重苦しい。自分が震えているのではないかと錯覚した。
その正体は、時が経っても滅することのない、巨匠達の魂そのものだ。彼らが遺した渾身の作品達が放つ、圧倒的魔力。
「何と言うか、圧倒されますね」アキラはぽつりと呟いた。
宝物庫は広く、様々なものが飾ってある。中央には大きめの二つの棚が置いてあり、一方が骨董の棚、もう一方が書物の棚というくくりになっている。壁には絵画、掛け軸、さらに屏風まで置いてある。部屋の一番奥にあるショーケースには、宝石がずらりと並んでいた。
ここにあるものは皆、値打ち物ばかりなのだろう。アキラは考える。総額でいくらするのだろうか。畏れ多いというか、濃度の高い空間だ。ため息しか出てこない。
「僕もあまり詳しくないので、説明とかはできないんですが」夕輝はすまなそうに言った。
「いえ、なんか凄いというのだけは分かります」
壁に掛けられた絵を眺めていたが、一か所だけ気になるところを見つけた。
「ここだけ、スペースが空いてるみたいですけど?」アキラは不思議に思い、夕輝に尋ねる。
均等な間隔で並んでいた絵画だが、一つ分歯抜けたスペースがある。飾っていた絵画が外されたのだろう。
「ああ、そうみたいですね」夕輝は平然と言った。「ここら辺の絵は、兄が集めたものなんです。兄が持ち出したんだと思いますよ」
アキラは噴き出しそうになった。今、夕輝が『ここら辺』といって指差した範囲には、高級そうな絵画が十数枚ほど飾ってある。絵を集めているとは聞いたが、これほどまで値の張りそうな品を、一体どのようにして自力で手に入れたというのか。
「ああ……。『アリア』か」空いたスペースを見ながら、夕輝が小さく呟いた。
その呟きが、何故かアキラの耳に残った。
***
リビングに帰ってきたのが、十三時十分を少し過ぎた頃である。
十分過ぎではキリが悪い。十三時三十分から授業の準備を始めよう。謎のいい訳をして仕事を先延ばしにする癖は、大学に復帰を果たした頃からアキラの身に付いてしまった、悪癖である。そういったわけで、三十分になるまでは落ち着こうと思ったアキラは、夕輝と談笑していた。
「宝物庫の掃除とかは、どうしているんですか」
部屋が清潔に保たれていたことを思い出す。
「いや、そんなに頻繁には掃除とかはしてないですよ」夕輝がグラスに注がれた麦茶に右手を伸ばした。「たまに、昌子さんに手伝ってもらって、やってるくらいです」
「桐生さんも宝物庫に入れるんですか」
「いえ、あそこを開けられるのは、父と兄と僕、三人だけなんです」夕輝が答える。「別に、ほいほい持ち出さなければ、美雪達も入れるようにしてもいいと思うんですけどね」
美術品の幾つかは、兄弟の祖父が彼らに譲り渡したものだと夕輝は言った。夕輝があの宝物庫の認証を持たされているのは、兄弟の代表だからだろうか。アキラはそう推察した。
夕輝の様子からして、あの宝物庫に頻繁に出入りをしているわけではないだろう。認証を持っているのは、夕輝個人が必要だからではない。彼ら兄弟にとって、美術品が必要になったときのためだろう。夕輝が個人で美術品を持ち出したり、売却したりするためではないはずだ。
麦茶を一口飲んだ夕輝が続ける。
「まあ、美雪達は特別必要性を感じていないと思いますけど。美雪だって、僕と同じように美術品には疎いし、雨音はまったく興味無しって感じですから」
それが常識的な感覚だとアキラは思う。
「むしろ、俺達の年代で美術品を嗜むって、かなり希少なタイプだと思います」アキラは苦笑を浮かべる。
「ああ、朝陽……、兄のアレは一体何なんでしょうね」夕輝は腕組みをした。「ギター馬鹿って感じなくせに、絵に関しては並々ならぬ執着を持っているみたいです。アーティスト肌なのかな?」
アキラは朝陽を一目見たときのことを覚えている。夕輝とよく似た顔立ちだが、髪型が異なるせいなのか、ワイルドな印象を受けた。人柄はよく知らないが、ギターと言われれば違和感が無く、絵画と言われると意外であるといった外見だ。
「月並みですが、人間誰しも意外な一面を持ってるってやつですね」
「おっと」突然、夕輝が左手首をこする。続いて、ポケットから何かを取り出した。
アキラが意図がわからずぼんやり見ていると、夕輝はプチッと取り出したものを潰し、口に含む。そのまま、麦茶で流し込んだ。その動作から、アキラはようやく薬だと気が付いた。一時的なのか、常飲しているのか知らないが、夕輝は薬を飲んでいる。今日の朝食の際も、夕輝の席に薬の殻が置いてあった。
「失礼」夕輝はコップを置くと、仕切り直すように少し意地悪な笑みを浮かべた。「先生にもあるんですか。意外な一面というやつは」
俺か。アキラは一瞬考えを巡らせた。意外な一面と言われても、自分ではなかなかわからないものだ。それが普通だと思うが。
「本が読めない」アキラの答えだった。「と言うと、しょっちゅう意外がられます」
「ああ、確かに意外だな。読書家なイメージがあります」夕輝がご多分に漏れない反応をする。「結構、アウトドア派なんですか」
「いえ、趣味と言ったら、将棋を指すぐらいです」趣味ほとんど無いんです、とアキラは答えた。
「渋いなぁ」夕輝はけらけらと笑う。「けど確かに、かなり強そうだ」
「全然ですよ」アキラは謙遜してみせた。「本格的に始めたのは、大学からです」
高校のときは、二年生に進級してから、一切指していない。受験勉強に打ち込んだからである。
「そういえば、美雪さんから聞いたんですけど」アキラは思い出した。「皆さん、『道』のつく習い事をやっているそうですね?」
藤堂大地の方針で、藤堂の姉妹達は、皆『道』がつく芸を学ばされていたようだった。例えば、美雪は居合道をやっている。居合道は、真剣を使う武道だ。美雪は自前の真剣を持っていると言っていた。剣道とは違い、打ち合いではなく、演武する競技である。どうりで、美雪の佇まいや振る舞いが綺麗だとアキラは納得した。
蓮にしても意外なもので、弓道の腕前は全国でトップレベルである。ネットにアップロードされていた動画を見たことがあるが、よくもあんなに遠い的に中てられるものだと驚いた。そんな素人丸出しの感想しか述べられずにいると、蓮から『誰にでも言える感想、ありがとう』と大変喜ばれた。
「ああ、あれですか」と夕輝。「美雪は居合道。蓮は弓道。雨音は華道をやってますね。いや、雨音は早いうちに辞めちゃったな。僕も今ではほとんどやってないです」
「夕輝さんは何を習っていたんです?」アキラは尋ねた。
「茶道です」少し照れたように、夕輝は頬を?いた。
「渋いじゃないですか」そっちのほうが、よほど意外だとアキラは思う。
「いや、単に珍しいだけですよ。そもそもの人口比率が少ない上に、男がやる印象があまりないですから」
照れ笑いを浮かべながら、夕輝は麦茶に口をつける。右手の親指に嵌められている指輪が、きらりと光を放った。
飲みほしたコップを置いた夕輝が、顔を上げた。リビングの入口を見たようだった。アキラもつられて振り返る。
「やっほい。ただいまー」
ふわりとウェーブがかった、栗色の髪の女性が、片手を上げて立っていた。肩には大きめのショルダーバックを担いでいる。美しい目鼻立ちをした顔が、今は少々調子よさげな笑みをみせている。
「ああ、雨音。おかえりなさい」
藤堂家の長女にして、夕輝の妹、美雪の姉、藤堂雨音の帰宅である。後ろには桐生が立っていた。
「夕輝、家にいたんだね」
「節電中。入講制限」雨音の言葉に、夕輝は短く答えた。
「そっか、そっか。だから二人でいちゃついてたんだ」雨音がにやつきながら、アキラと夕輝の顔を見やる。
アキラは乾いた笑い声を上げた。
「夕輝。休みなんだから、昌子さんに構ってあげないと。昌子さん拗ねちゃうよ?」
「いえ、そんな……」桐生が焦って恐縮している。
「余計なお世話だ。子供じゃないんだから」夕輝は少し照れた様子で言う。
夕輝と桐生の関係は、美雪から聞かされているアキラである。次男と家政婦でありながら、そのような関係になっても、家族から受け入れられているようだ。微笑ましい光景だとアキラは思う。
「雨音は人のことより、自分の心配をしなよ」意趣返しのように、夕輝は雨音をからかう。
「いやいや。私には先生がいますから」雨音はそう言って、にっこりとアキラを見やった。
調子の良い雨音に圧倒され、アキラはもう笑うしかない。雨音は人懐っこい性格なのか、アキラが家庭教師に来た初日から、アキラに絡む。アイスブレイク早すぎだろ、とアキラは思ったが、特別変に緊張して接するよりもいいのかもしれない。もっとも、少し前までのアキラであれば、この手の人種は一番苦手なタイプであったが。
「雨音さん。今、冷やし中華出しますね。今日の冷やし中華は、ちょっと変わった麺を使ってるんですよ」桐生が上機嫌に言う。
「ありがとう。昌子さん」雨音は笑顔で答えた。「じゃあ、ライフル仕舞ってくるね」
雨音は大学三回生である。アキラや蓮と同い年だ。大学では射撃部に所属し、個人でも射撃で遊んでいるようだった。アキラが本人から聞いた限り、テニスや乗馬なども嗜んでおり、バリバリのアウトドア派とのことである。華道を習っていたと、先程夕輝から聞いたばかりだが、いまいちイメージが湧かない。
雨音がリビングから去った後、そろそろアキラも仕事に戻らねばならない頃合いだった。
席を立とうとしたとき、リビングに電話の着信音が鳴り響く。固定電話である。桐生が慌てた様子で、受話器を取った。
アキラが気にせず立ち去ろうと、夕輝に断りを入れたとき、電話に出た桐生の様子が尋常ではないことに気が付いた。
「はい、畏まりました。少々お待ち下さい」桐生は神妙な顔つきで、夕輝の元に受話器を持っていく。
そのまま、桐生は夕輝に耳打ちをした。小声ではあったが、その内容はアキラにも聞き取ることができた。
「……警察の方からです」
警察という単語に、アキラはぴくりと反応した。得体の知れない不安感が、アキラの背筋を走った。この悪寒を、アキラは過去二回経験している。
おぞましい気配が、三度アキラの背後に忍び寄る。
「朝陽さんの家で、死体が見つかった、と」桐生は静かに告げた。
嫌な予感は、的中したようだった。
***
警察との通話を終えたのであろう夕輝は、受話器を桐生に渡す。その表情は青ざめていた。
「夕輝さん」アキラは夕輝に声を掛ける。
夕輝は強張った表情で、アキラに顔を向けた。心の中で、必死に状況を飲み込もうとしているのがみて取れた。
「兄の家で、トラブルが起こったようです」夕輝は言った。「今から、ちょっと出なきゃいけません」
「……わかりました」アキラは、そう言うしかなかった。死体という言葉が聞こえた。藤堂朝陽が大きなトラブルに巻き込まれたに違いない。被害者か、加害者か。そうなると、これは藤堂家の問題であり、部外者のアキラが詮索するようなことではない。
「じゃあ、しばらく出かけるから」夕輝は桐生に言った。
「朝陽さんの家ですか」桐生が青い顔をして尋ねる。
「いや、新左野の大学病院だ」
新左野といえば、ここから少し離れた場所だ。
「皆さんには、何とお伝えしましょう?」
「……帰ってから、僕から話すよ」夕輝は静かに言った。
彼の意図は、アキラには推し量りかねるが、確かなこともわからないまま家族を不安にさせたくないのだろう。
「どうしたの?」
このタイミングで、雨音がリビングに戻ってきた。雰囲気を感じ取ったのか、いつもの笑みは消えている。
「雨音」夕輝が呟いた。「これから、ちょっと出かけてくるから」
「……車、出そうか」一拍置いて、雨音が提案する。
「……うん。頼んだ」夕輝は力なく微笑んだ。
そんな兄弟と家政婦の様子を、アキラはただ見ているしかなかった。
そういえば、地名とかは適当です。