藤堂家
一.
「時間だ」
きっかりと一時間半。アキラは腕時計の針を確認し、声を上げた。
「だめだ。最後の問題が間に合いませんでした」アキラの対面に座る彼の教え子が、がっくりと肩を落とした。
アキラは今しがたまで彼女が解いていた問題の解法を、ゆっくりと口にする。
「この問題は、バームクーヘン求積を思い付けるかどうかで、大分効率が変わってくる」
窓の外の蝉の鳴き声を、クーラーの稼働音が掻き消している。それほど冷房が利いた部屋の中では、真夏の日中の日差しなど無縁である。
円形の机を前にして、一時間ほど正座している状態になる。アキラにとっては長時間だが、何日もこんなことを続けるうちに慣れてしまった。
「バームクーヘン……求積ですか」聞き慣れない言葉だろう。アキラの教え子はきょとんと首を傾げる。形のよい顎を、シャープペンの尻でつつきながら。
「側面積なら簡単に求められるだろう? この場合、底辺と高さよりも、側面積と半径の組み合わせで積分する考え方を思い付けるかってことだ」
「へえ。それでバームクーヘンなんですね」教え子はうんと頷いた。
アキラの目の前の少女は、ノートにカリカリと数式を書き、計算を始める。背筋はぴんと伸ばされ、まさに彼女の性格を表しているかのようだった。そのひたむきさに、アキラは素直に感心していたものである。
彼女は藤堂美雪。アキラの初めての教え子である。
現在、美雪は高校三年生の夏休み。受験生にとっては勝負を分ける夏だ。
アキラは東京にある、高名な国立大学に通っている。夏休みで長野に帰省したとき、ヒカリからアルバイトの話を持ちかけられた。それがまさに、藤堂美雪の住み込み家庭教師の仕事である。
その話を聞いたとき、アキラはあまり乗り気ではなかった。しかし、その給料を聞かされて、普段クールな表情が一驚を見せたというのが、後のヒカリの話であった。ひどい変顔だったよ。そうヒカリに言われたが、アキラは決して信じない。
美雪の家、藤堂家は資産家だ。アキラが初めて藤堂家に訪れたとき、これほど大きな屋敷は、この先観光以外ではお目にかかれないだろうと思った程である。
そんな豪邸に、住み込みでひと夏過ごすというのだから、アキラはどう畏まってよいものか、柄にもなく緊張したものだった。
アキラの心配をよそにして、迎えた一家の態度は非常に丁重だった。
某メガバンクの大株主の一人にして、藤堂家の主である藤堂大地が放つオーラには、アキラも圧倒されたものの、当の大地本人は気にした様子もない。ひと月の間、よろしくお願いしますと、アキラに頭を下げてきた。
美雪の家庭教師を始め、二日と経たないうちに、アキラは藤堂家の中で『先生』と呼ばれるようになっていた。
「先生がずっといてくれればいいのにな……」
美雪の一言が、アキラの意識を引き戻す。自分のいきさつを回想し、ぼうっとしていた。
「いや、それは無理だよ」アキラは苦笑する。「俺の夏休みの間なら構わないが、十月までには東京に戻らないといけないからな」
「そうなんですよね」美雪は笑顔だが、若干寂しそうな様子が伺える。
美雪はこれまで、何人かの家庭教師を雇ったことがあると、アキラは聞いた。しかし、そのいずれも、彼女のレベルに応えられるものではなかったのだろうか。別に自分の教え方が上手いなど、己惚れるわけではないが。
美雪の志望校はアキラと同じ大学だった。日本一の超難関校である。そこの受験を経験したアキラから、多くのことを学べると思ったのだろう。
「私、受かると思いますか」美雪が真面目な顔で尋ねる。
「数理に関しては十分、勝負できると思う。数学にいたっては、この調子なら七割を狙える」アキラは答えた。「後は英国だが、そっちは俺の管轄外だ。ただ、話を聞く限り、余計な心配は無いらしい」
アキラは活字が得意ではない。大学での勉強がきっかけとなり、活字に対して異常なまでの苦手意識を持ってしまったのである。これは家庭教師として致命的だが、幸いとして彼の担当する分野は数理のみだ。英語や国語の長文問題を何問も教えるのは堪えるが、数理の問題文程度ならば、アレルギーは起こさない。
美雪は理系なので、アキラの仕事は多く、責任も重大である。だが、一番大変なのは美雪であるということを思えば、何の苦にもならなかった。
アキラは時計をちらりと見る。
「そろそろ十二時か」
「お昼の時間ですね」
「キリがいい。この辺で午前は終わりにしよう」
アキラがそう言うと、美雪はペンを置き、ぐっと伸びをした。呼吸を整えて彼女は言った。
「ありがとうございました」
アキラは珍しく、その口元をほころばせる。
「じゃあ、午後一は蓮に任せて、俺の授業は夕方からだ」
「はい」美雪は微笑んで答えた。
アキラは近頃、ついつい思うことがある。彼女のような素直さは、今の若者の中では希少であると思われがちだ。だが、実際のところは、その素直さを見る資格のある大人が、あまりに少なすぎるだけなのではないかと。他者を認めないことで、自分の優位性を保とうとする。人間とは不合理な生き物である。
美雪の自室を出て、長めの廊下を歩いた。彼女の艶やかな長い黒髪を追いかける。
三階建てのこの屋敷は、美雪ですらその全てを数えていない程、部屋が多い。藤堂家の者の部屋は大体二階にあり、アキラは三階にある客間を借りている。
アキラと美雪は二階から一階に降り、リビングへと向かった。
藤堂家の昼食は、美雪の夏休みが始まってから、この時間と決まっている。受験生である美雪の受講スケジュールに合わせたものだ。
アキラと美雪がリビングに入る際、家政婦と丁度すれ違いになった。
「お疲れ様です。美雪さん。先生」家政婦はにこやかに言った。
家政婦の名は桐生昌子。美雪から聞いた話では、アキラとそう歳は変わらない。海外生活が長かったらしいが、二年ほど前に日本に帰国し、縁のあった藤堂家で住み込みの家政婦として働くことになった。
「お昼の準備、もうできますから。お席で待っていて下さいね」
「はい」桐生の言葉に、美雪が元気良く答えた。
「ありがとうございます」アキラは軽く頭を下げる。
家にいる他の者を呼びに行くのだろうか、桐生は二階へと上がっていった。
リビングの入口でアキラがそれを目で追っていると、くい、と右の手首を遠慮がちに掴まれる。
「座りましょう。先生」美雪は綺麗な輪郭を屈託なく微笑ませた。
これだけ勉強漬けの夏休みで、よくこの明るさが無くならないものだと、アキラは尊敬すらしてしまう。自分が受験生の頃は、もっとぴりぴりとしていた筈だ。
リビングにあるダイニングテーブルに着き、アキラは麦茶を飲みながら美雪と話していた。
そこに一人、藤堂家の住人が加わった。
「お疲れ様です。先生」現れた青年は爽やかに微笑み、アキラに挨拶をした。「美雪もお疲れ様」
アキラは軽く会釈をした。
青年は藤堂夕輝。この藤堂家の次男である。その顔つきは、はっきりと知性的であり、黒縁の眼鏡がそれをさらに印象付けていた。
「家にいたんだね、夕輝君」普段ずっと大学なのに、と美雪が意外そうに言う。
「ああ。昨日と今日、キャンパスが計画停電でね。研究室がすごく暑いんだ」夕輝はにこやかに返事をした。
「そんなことあるんだ」
「節電だよ」夕輝が補足する。「この時期だと、冷房をかなり使うだろ? 大学が節電の為に、入講制限をかけて停電することがあるわけだ」
「先生の大学も、ですか」美雪がアキラを向き、首を傾げる。
「うちも同じようなことをするらしい」アキラが答える。「ただ、俺はまだ研究室に配属されてないから、夏休みに大学に行くなんてことないけど」
アキラは夕輝に向き直った。
「やっぱり、研究室に配属されると、夏休みだろうが休まる間もないですね」
「そうですね」夕輝は苦笑した。「まあ、研究室が居心地良ければ、別に夏休みでも大学にいるなんて普通のことです」
夕輝はここ藤堂家から少し離れた、国立C大学の大学院前期博士課程の二年生だ。既に大手企業から内定を得ており、これからますます自分の研究に没頭しようという、典型的な理系の学生院生である。
理系の中でも、近しい分野であるアキラと夕輝は、何かと気が合うものだった。ある夜に二人で酒を飲みながら、アキラは夕輝の話を聞かせてもらったことがある。夕輝の研究は、アキラにとって面白いものだった。夕輝の専攻は情報工学で、三次元バーコードをテーマに研究を進めているという。
「ああ、理系って、やっぱり大変なのかなあ」美雪が頬杖をつく。
「美雪は数理が得意なんだろ?」と夕輝。「それなのに、楽だからって理由で文系に行くのは勿体無いよ。実際僕も忙しいけど、研究って性に合ってるとクセになる」
クセになってるから、忙しいのだ。アキラは心の中で苦笑いである。
美雪の受験に理系の家庭教師を雇っては、と言いだしたのは、他ならぬ夕輝であったとアキラは聞いている。
夕輝は大学院に行く学力を持っている。当然、美雪の理系科目の教師を務めるほどの力はあった。しかしながら、研究で忙しい身の上であるため、美雪の面倒を見るのには不適切であったと判断したらしい。
さらに言えば、名門大学の学生から、美雪に生の声を聞かせることも、一つの狙いであるように思えた。アキラの他愛ない話が、これから大学生活を送ろうという美雪の刺激になれば、という意図があるようにアキラは考える。
家族思いだな。素直にそう思った。
五分としないうちに、藤堂蓮がリビングに現れ、ダイニングテーブルに着く。美雪、夕輝、蓮、そして桐生。アキラを除き、藤堂家に現在いる人間は四人だけだ。家の主である藤堂大地は海外に出張中であり、留守にしている。藤堂家には、他に長男と長女がいるが、長男は現在一人暮らし、長女は大学のサークル活動のため出掛けている。
配膳された昼食は、冷やし中華だった。
藤堂家では、桐生も共に食事をする決まりになっているそうである。揃った五人で昼食を取り始めた。
「ねえ、夕輝君。先生に宝物庫案内したら?」食事中、唐突に美雪が言う。「お昼からは、先生お休みだからさ」
「宝物庫?」あまり現実では聞き慣れない単語に、アキラは反応する。
「ああ。宝物庫か」夕輝が箸を置いた。右手の親指の指輪が光る。「うちには美術品のコレクションがあって、一階の宝物庫に飾ってあるんです」
「珍しいですね」
本当に、自分達の世界とはまるで違う。親しみやすさで忘れていたが、この人達は本物の上流家庭なのだとアキラは再認識する。
「良かったら、ご覧になりますか」
「是非見てみたいです」二つ返事で答えた。これを逃せば、このような経験は生涯できないだろう。
「意外じゃん」ずっと黙っていた蓮が水を差した。「アンタみたいな偏屈な人が、気に入るとは思えないけどね」
藤堂蓮。ヒカリと同じ、D大学に通う三回生である。今年の三月、D大学オープンキャンパスで起こった事件を介し、アキラは彼女と知り合った。そもそも、ヒカリがアキラに美雪の家庭教師の仕事を斡旋したのは、美雪が蓮の妹だからである。逆に、藤堂も蓮が保証する人物であるから、アキラを雇ったという経緯があるのだろう。
「おハイソぶった贅沢な趣味は、アンタも嫌いだと思ってたけど?」
蓮の毒舌はいつも通りにキレがあった。
「それは偏見だ」アキラは指摘する。「宝物庫なんて、滅多なことじゃ入れないだろ。そりゃあ、興味も湧くってものだ」
「モノの価値もわからないのに?」蓮がせせら笑った。
「蓮ちゃん」咎めるように、美雪が言う。
「いつものことだから、気にしないで」蓮は箸を置き、言った。
「それ、俺の台詞じゃ……」
「ごちそうさま」蓮はすました顔で立ち上がり、そのままリビングを出ていった。
夕輝と桐生はくすくすと笑っている。こうした陰険なやり取りも、蓮が相手なら冗談の範疇だった。
嫌味な皮肉屋だが、どこか味がある。綺麗に整った顔立ちが、ニヒリストとしての彼女の立ち振る舞いを、良い意味で引き立てていた。美しいから、かっこいいから、ある程度の嫌味を許されている。藤堂蓮はある種の特権を持っていた。
「まあ、あの宝物庫は結構雰囲気がありますよ」気を取り直すように、夕輝が口を開いた。「僕も造詣の欠片もない素人ですけど、独特な迫力を感じます」
「そういえば、ヒカリさんも宝物庫に入ったこと、あったんじゃなかったかな?」美雪が思い出したように言った。
「ヒカリが?」
目を輝かせて美術品を覗き込むヒカリの姿が、アキラの脳裏に浮かんだ。ヒカリは好奇心の妖怪だ。
「朝陽君がそんなことを言ってたような気がします」
「朝陽は友達となると、誰でもほいほい入れちゃうからな……」呆れ返ったように、夕輝は言った。その様子から、蓮のような軽口とは受け止められない。
藤堂朝陽。この一家の長男の名だ。自分の実の兄を、いかにも疎んでいるかのような言い方だった。普段の夕輝の印象からは、およそ想像もつかない。
「あ、私もそろそろ行くね」場が気まずくなってしまうのを避けたのだろう。美雪が立ち上がった。「ごちそうさまでした」
そのまま去っていく美雪の後姿を、アキラは麺をすすりながら見送った。