犯人
二十三日、午後九時半。
一旦、本部に帰った和泉と奥野が、再び藤堂家に顔を出した。藤堂の面々が注目する中、和泉は我が物顔でリビングのダイニングテーブルに腰かけ、蓮が淹れたコーヒーを飲んでいる。
ヒカリはテーブルから離れたソファに座り、その様子を眺めていた。隣に座るアキラは、しかめ面で前髪をいじっている。伝わってくる緊張感が尋常じゃない。
「奥野サン? アンタも座れば?」壁に背を預け、蓮が奥野に呼び掛ける。
「恐縮ですが、自分はこの態勢で失礼するであります」奥野は両手を背で組み、ぴしりと立っている。
「あっそ……」厚意を無下にされたと思ったのか、蓮はつまらなそうに明後日の方を向く。
「あの、晶子さんの様子はどうですか」和泉の正面に座る美雪が、恐る恐る尋ねた。
「取り調べを受けてもらっています」和泉はコーヒーをテーブルに置いた。「我々の一部の者は、桐生さんが夕輝さんの死体を切断しただけでなく、殺害したことまで疑っています」
「晶子さんにはアリバイがあるんでしょ?」蓮が冷たい声で言う。
「夕輝さんの死亡推定時刻は、薬の殻と彼が薬を服用する時間を考慮した上での、推測でしかありません。桐生さんのアリバイは絶対ではないのです」
「あぁ……」消え入りそうな声で、美雪が呟く。
蓮が大げさなため息を吐いた。
「よくわかんないけど、アンタ、またアタシ達の取り調べに来たの?」
「そうです。今回は桐生さんが夕輝さんの死体を切断したことについて、皆さんがどうお考えかも聞かせて頂きたい」
「どうもこうも、あたし達の方がまだ信じられないんですけど……」美雪の隣の雨音が言った。
「むしろ、アタシ達が昌子さんからホントのとこ訊いたら駄目なの?」蓮がじれったそうに、組んだ腕を指先で叩いている。
「残念ですが、それはできません」和泉はバッサリと拒否する。「夕輝さん殺害に関しては……」
和泉の言葉を振動音が遮る。奥野に着信があったようである。『失礼』と断りを入れ、奥野はスマートフォンで通話を始めた。
「は。お疲れ様であります。ええ、ええ。そうでありますか! 間違いなく『アリア』なのでありますね?」
『アリア』という単語に、全員に緊張が走った。
奥野は元気のいい挨拶で締め、通話を終える。そのまま、和泉の耳元まで顔を近づける。
「見つかったでありますよ」
内緒話よろしく、口を掌で隠して報告しているが、声が漏れて、一番遠い位置にいるはずのヒカリにまで丸聞こえである。
「そうですか」和泉はにやりと笑って、立ち上がった。
「ちょっと」蓮が和泉に呼び掛ける。「何? 今のは」
「詳しいことはお答えできません。が、捜査に進展がありました」
「いや、今『アリア』って……」
「私共は急遽しなければならないことができました。突然ですが、今日はこれで失礼します」
和泉と奥野は頭を下げると、リビングを後にした。
「なんだったんだろ……」
刑事二人が去り、静かになったリビングの空気に、雨音の呟きがぽつんと落ちた。
***
二十四日、午前一時。
輝陽落公園はその名を体現するように、遊びに来る子供、還暦を迎えた高齢者が夕方頃に集中する。そして、日が沈んだとたんに眠ったように静まり返るのだ。
散歩道を大きく外れると、高く細い樹木が密生した場所に出る。
ペンライトを使い、目印代わりの特徴的な木を探す。捻じれた二つの枝が絡んだ、奇妙な木を見つけると、犯人はペンライトを口で咥えた。持参したスコップを両手で持ち、柔らかい土を掘り返す。スコップは切断した死体の一部や、重要な証拠を埋めるために、斧と一緒に購入したものだ。
藤堂家とそう離れていない輝陽落に、重要な証拠を遺棄するのは、犯人にとって少々冒険だった。しかし、犯行において地理的に有利であることと、一切人が寄り付かないこと。この二つの条件を満たす場所を、犯人は他に思い当たらなかった。
地面にスコップを差し込み、てこの原理で持ち上げる。すくい上げた土を投げ捨てるというプロセスを繰り返すうちに、黒いごみ袋がライトの光で露わになった。膝を着き、投げ捨てたスコップの代わりに、軍手を装着した両手で土を掘り返していく。ごみ袋の上半身程までを露出させると、犯人は結び目をほどき、中に入った絵画を引っ張り出した。
ペンライトを右手に持ち、絵画から離して照らすと、それは間違いなく『アリア』だった。
『アリア』は見つけられていない。
では、先程の刑事の言葉は?
その瞬間、犯人の脳裏に一つの可能性がよぎる。
ガシャン。
それを思いついたとき、眩い光が犯人を照らし上げた。その鋭さに反射的に両腕で目を庇い、『アリア』を落としてしまう。
最悪の想定は、どうやら的中していたようだ。尾行されていたのだ。
「案内して下さって、ありがとうございます」先日から散々聞かされた声は、皮肉めいた口調を交え、犯人にまではっきり届いた。
僅かに両腕から瞳を覗かせるが、その強い逆光が犯人の視界を阻む。だが、この声の主は間違いなく和泉という刑事だ。
「『アリア』だけでなく、朝陽さんの頭部と右手もそこですね? わざわざ違う場所に隠すのは、合理的じゃない」
このまま顔を隠し、逃げるか。
「逃げても無駄です。ここら一帯は、既に警察官が包囲していますから」
犯人の思考を読んだように、和泉は言った。
それに続くように、今度は違う声が犯人に呼びかけた。
「それに、俺達はもう、あなたが誰かわかっている。ここで投降して下さい」
その声は、この夏から来た家庭教師のものだった。
犯人は口元をぐにゃりと曲げて、三日月を作る。
もう潮時か。そもそも、夕輝が自殺でないとバレた時点で、もう大失敗なのだ。
両腕をゆっくりと降ろし、素顔を晒す。目の前で、自分と対峙しているであろう彼に敬意を払い、犯人は投降することにした。余裕めいた動作で、髪型を隠すニット帽を脱いでみせた。
***
隣に佇むアキラの声が、静まり返った周囲に響く。犯人が素顔を見せた。
ドラマでよく登場する、サーチライトで照らされた犯人を見て、日向ヒカリは目を剥いた。多くの可能性を考慮し、その人物がもっとも疑わしいと思っていたが、事実として突き付けられれば衝撃だった。
犯人は追いつめられたとは思えないほど、余裕な表情を浮かべ、ただじっと立っている。その美しさすら感じさせる妖艶な笑みが、アキラの推理を待っていると言っている。
アキラもそれを挑戦と解釈したのか、一歩踏み出した。
――始まる。
ヒカリの心拍が、叩くように強くなる。
「切断された死体……。はっきり言って、かなり困惑しました。犯人にとって、どのような合理的選択が介在してそうなったのか。可能性が多すぎて、とても絞り切れなかった」ゆっくりとアキラは言う。「けれど、考えるべきところは、何故死体が切断されたかではなかった。傍らに転がっている、些細な謎だったんです」
犯人は応えない。首を傾げて、アキラの続きを促した。
「最初に疑問に思ったのは、誰が『アリア』を持ち出したのか、です」
『アリア』の行方。二十二日、朝陽の死体が発見された直後に注目された謎だ。ヒカリ達は犯人が『アリア』を宝物庫から盗み出す目的で、朝陽の頭部と右手を切断した可能性を疑った。
「二十二日昼。夕輝さんに案内され、俺は宝物庫を見せてもらいました。そのとき、『アリア』は無くなっていた。後の夕輝さん達の証言から、『アリア』は十日の時点では宝物庫にあった筈なんです。朝陽さんの切断死体が見つかり、俺達は何者かが朝陽さんの目と右手を使い、宝物庫の生体認証をクリアしたという可能性に至ります。しかし、それはあっさりと棄却された。宝物庫に入るために、まず藤堂家の鍵を入手しなければならないことや、宝物庫から『アリア』以外の美術品が盗まれていなかったことが、認証破りの仮説を否定しました。また、死体では生体認証に反応しないため、実際に『アリア』を持ち出すことは不可能なのです。つまり、海外出張中の大地さんを除外し、朝陽さん自身か夕輝さんのどちらかにしか、『アリア』を宝物庫から持ち出すことは不可能だ」
ヒカリは唾を飲み込んだ。
朝陽か夕輝、どちらかが『アリア』を持ち出した事実が、朝陽殺害事件のポイントになるとアキラは言っていた。
「そこで、電子錠の開錠履歴をセキュリティ会社に調べてもらいました。履歴によると、二十一日、朝陽さんが殺された夜の八時半頃に、宝物庫は開けられていたのです。それ以前の履歴は十一日のものが最新であり、夕輝さん達の証言を信じるなら、十一日は『アリア』が宝物庫に仕舞われた日だ。つまり、『アリア』が持ち去られたのは、二十一日の夜八時半頃ということになります」
重要なのは、ここだ。だから、アキラは和泉に『あのこと』を調べるように依頼したのだ。朝陽の死亡推定時刻に、『アリア』が持ち出されたという事実があったから。
「二十一日八時半、朝陽さんと夕輝さんの一方が『アリア』を持ち出したことを、もっと追及して考えてみましょう。まずは夕輝さんが『アリア』を持ち出したと仮定します。すると、夕輝さんは八時半頃に藤堂家に居たことが証明されます。アパートで死んでいた朝陽さんの死亡推定時刻は、八時から九時半の間です。藤堂家から朝陽さんのアパートまで、どんなに急いでも一時間かかるため、殺害の時間等を考慮すれば、夕輝さんのアリバイはギリギリで成立します。夕輝さんが『アリア』を持ち出したのなら、夕輝さんは朝陽さん殺害の犯人ではないということになります」
二十一日の八時半頃に宝物庫が開けられたと聞いたとき、ヒカリは真っ先に夕輝が宝物庫を開けたのだと考えた。だが、よく考えれば、それには矛盾が生じるのだ。
「しかし、夕輝さんが『アリア』を持ち出したという仮定は間違っているでしょう。『アリア』の消失を最初に警察に主張したのは、夕輝さんだからです。夕輝さんが『アリア』を持ち出したなら、『アリア』が宝物庫から無くなっていたことを警察に打ち明けるメリットが無い。夕輝さんは『アリア』を持ち去っていないのです」
そして、消去法で事実は次の可能性に帰結する。
「つまり、『アリア』を宝物庫から持ち出したのは、朝陽さんの方だということです。朝陽さんは藤堂家に居たんです。二十一日の八時半頃にね。当然、その後朝陽さんがアパートに帰っても、彼の死亡推定時刻に間に合いません」
死体の切断に気を取られ、ヒカリが辿り着けなかった新事実。
「朝陽さんは藤堂家で殺されたということになります」
アキラが和泉に頼んだ、『調べて欲しいこと』。それは、離れの洋室に血痕が無かったかどうか。警察がルミノール反応を調べたところ、その結果は陽性だった。離れの洋室がやけに綺麗に思えたのは、犯人が朝陽の血液を拭き取るため、掃除したからだったのだ。
「犯人は朝陽さんを離れで殺害し、深夜になってから死体をアパートに移動させたのです。朝陽さんの死体がバスルームにあったのは、死体をシャワーで洗い流し、少なくなった血液の量を誤魔化すためだったんです」
そうなると、次に疑問に思うのは、何故そこまでして朝陽の死体を移動させたのかだ。
「死体をアパートに運んだ理由は、一つしかない。犯行現場の誤認です。朝陽さんはアパートで殺されたと誤認させるために、死体を運び出したんです」
この推理から、二十二日夜、藤堂家にいた人物のアリバイは白紙に戻る。それどころか、門の鍵を考慮すると、藤堂家にいた者にしか朝陽殺害は不可能なのだ。しかし、このままでは犯人の特定には至らない。次の謎を解く必要がある。
「では、死体を切断した理由は何か」アキラは区切りをつけた。「桐生さんが先程証言したそうです。夕輝さんの偽の遺書には、こう書かれていたそうです。『宝物庫の窃盗が犯人の目的であると、警察を誘導するために死体を切断した』と。けれど、これは犯人の認知限界が夕輝さんの合理性を網羅しきれていない、全く出鱈目な文章だ。そもそも、犯人がそんなミスリードをする必要がありません」
昨晩、アキラは夕輝がミスリードのために死体を切断した可能性をヒカリに提示し、自ら却下した。犯人には、アキラが述べた否定材料を思い付くことができなかったのだ。
「この偽の遺書の文言は、明らかに計画的なものではありません。朝陽さんが宝物庫から美術品を持ち出したことを知らなければ、書くことができないからです。犯人は朝陽さんが持ち出した『アリア』を見て、この遺書の文言を閃いた。切断の本当の目的をカバーするために、宝物庫の生体認証を利用したんです。まあ、遺書が偽とわかった時点で、内容まで予想する必要などないですが」
では、切断の本当の理由とは?
「頭部を切断した真の目的は、朝陽さんの死因を隠蔽するためです」ここで、アキラは大きなため息を吐いた。「この可能性に至るために、随分と想像力を使いました。足掛かりになったのは、朝陽さんの死体に防御創らしきものが見当たらなかったことです」
朝陽の死体は頭部と右手以外に、負傷が無かった。つまり、致命傷は頭部か右手にあったのだ。
「最初は持ち去られた右手に防御創がある可能性を考えました。しかし、防御創があるとなると、犯人は朝陽さんを正面から頭部めがけて襲ったことになる。引っ掛かったのは、そこです。俺が知っている限り、藤堂家の皆さんは全員が右利きだ。右手で朝陽さんの頭を狙ったなら、防御創は朝陽さんの左側に出来る筈なんです」
つまり、朝陽の右手に防御創が出来たとは考えにくい。防御創自体が存在しなかったのだ。
「では、背後から朝陽さんを襲ったのでしょうか? それとも、朝陽さんが油断していた? いずれにせよ、犯人は朝陽さんとよほど親しくなければならない。しかし、朝陽さんは家族とは疎遠でした。まともに話をするのは美雪さんくらいです。朝陽さんの携帯から、他の家族の連絡先が一切なかったことから、それは信じていいでしょう。強いて言えば、桐生さんも候補に挙がります。朝陽さんは桐生さんと普通に会話をしていたそうですから」
そうなると、容疑者は美雪と桐生に絞られる。だが、頭部を切断した理由は依然として謎だ。
「では、二人が犯人だとして、凶器は何だったのでしょう。まず思いつくのは、小型のものです。大きな凶器を持っていたら、朝陽さんは警戒したはずですから。鈍器? 刃物? 頭部が持ち去られたことから、洋室にあったものでしょうか? 凶器は何か。死因は何か。想像力を使ったのはここです。ここまで考えて、もう一つ朝陽さんに防御創が無かった理由を思い付きました」
そこまで言われて、ヒカリは初めてもう一つの可能性が閃いた。自分が言い出したことだ。特殊な凶器を使ったため、犯人がその傷痕を隠蔽した。
「朝陽さんは遠距離から殺された。突拍子もない考えですが、これは非常に理に適っている。遠くから朝陽さんを狙えば、失敗して揉み合いになる心配が無い」
遠くから人を殺す方法となると、かなり限定されている。可能性があるのは二人だ。
「では、どうやったら遠くから朝陽さんを殺すことができたか。これには、特別な凶器を使う必要があります。そう考えると、犯人が何故頭部を持ち去ったかも説明がつく。傷を見られると、特定されてしまう凶器を使用したため、朝陽さんの頭部は切断されたのです。俺の知る限り、そんな凶器を持っているのは二人だけだ」
アキラは目を閉じ、やや顔を伏せる。
「一人は蓮。彼女の弓の腕なら、離れの窓から顔を出して煙草を吸っている朝陽さんを、母屋から狙うことが可能でしょう。そして、もう一人はライフルを所持している雨音さんです。ライフルの発砲音は、音楽室で使用することで消すことが出来る」
だが、犯人が朝陽の死体を移動させたことを考慮すれば。
「しかし、蓮にはアリバイが無い。朝陽さんをアパートに運ぶメリットがありません」
死体を移動させた目的は、犯行現場の誤認だ。つまり、朝陽の死亡推定時刻にアリバイが出来る人物でなければ、意味が無い。
「残った容疑者は、只一人」
アキラは顔を上げ、サーチライトに照らされる『彼女』を見据える。
「お前が犯人なんだろ?」
その名を、はっきりと告げた。
「藤堂雨音」




