和泉の哲学
六.
桐生を乗せたパトカーが藤堂家の門をくぐるのを、ヒカリと和泉は玄関から見つめていた。
切なさが胸に腫れもののように残るが、何が真実で、それにヒカリが何を感じようと、もはや意味はない。もう事件は収束を迎えるだろう。アキラと和泉には、犯人がわかっているのだから。
「ねえ、和泉さん」ヒカリには夕輝の偽装自殺について一つだけ疑問が残っていた。
「何でしょう」和泉が笑顔で応じる。
「真犯人は夕輝さんを、首吊り自殺に見せかけて殺したんですよね?」
「そうですね。桐生さんが認めてくれたので、間違いないと思います」
「でも、首吊りの偽装自殺って、わかっちゃうものなんじゃないんですか。よく推理ドラマとかで吉川線とか聞くんですけど」
「よくご存じですね」和泉はヒカリがその点に気が付いたことに、満足した様子だった。「確かに、死体に吉川線が残っていると、他殺であると判断されます。首を吊った場合、その衝撃で自殺者が気絶してしまい、首を掻きむしる暇もなく亡くなってしまうと考えられているからです。もちろん、他殺でも吉川線が残っていないケースも存在しますがね」
「今回、犯人はそのことを知らなかったか、吉川線が残らないケースに賭けたってことですか」
和泉はかぶりを振った。
「偽装自殺を試みるなら、その真偽を警察がどう検討するか、事前に調べる筈です。その上で、吉川線が残らないケースに賭けるとは考えにくいですね」
「吉川線を残さない方法を使ったってことですか」そんな方法あるのかと、ヒカリは首を捻る。
「私の勝手な想像ですが、夕輝さんは軍手をしていたのではないでしょうか」
「軍手?」
確かに夕輝が軍手をはめていれば、首を引っ掻くことはない。だが、どうして夕輝が軍手をしていたのかが、ヒカリにはわからない。犯人が夕輝に軍手をはめるように勧めたのだろうか。
「アキラさんが証言していましたでしょう。夕輝さん自身が『家ではずっと家電をいじっている』と言っていたと。犯人も夕輝さんの習慣を知っていて、夕輝さんが半田ごてを使っているであろうタイミングを狙ったんです」
ああ、そうか。これで一応の説明はつく。ヒカリは手をぽんと叩いた。
「まあ、あくまで想像ですので。その辺りも犯人から直接訊いてみたいものですね」
犯人から直接、という言葉に、ヒカリは思案する。現時点では容疑者でしかない犯人を、和泉はどうするつもりなのだろう。この事件を、どう終わらせる?
『あとは、どう締めくくるか』そうアキラは言っていた。
「どうするんですか、和泉さん」ヒカリは和泉に尋ねた。「やっぱり、犯人を尋問するんですか」
「まだ証拠がないので、自白させるのには時間が掛かりそうですね」和泉が答える。「手っ取り早く解決するには、『アリア』を見つけるのがいいでしょう。少々、ギャンブルになりますがね」
「そんなこと、できるんですか」
「上手くいけば……、ね」和泉は冗談めかして言う。「私としては、取調室でカツ丼出すよりも良いアイデアだと思うんです」
ヒカリにはまだよくわからない。『アリア』はまだ犯人が所持しているのだろうか。それならば、確かに『アリア』を見つけることが有力な証拠として挙げられるかもしれない。しかし、もし自分が犯人なら、そんな危険なものを身近に置いておくなど、絶対にしない。疑問が濁流のようにヒカリの口から吐き出されかけたが、それを何とか塞き止める。
もうこれ以上は、何も聞くまい。じきに全てが明らかになるのだから。
「アキラさんは、今頃色々と考えを整理しているのでしょうね。思考を言語化するのは、大変ですから」
和泉は最後の推理をアキラに任せた。アキラは独りで考えをまとめたいと言い、自分の部屋に戻っている。
「そんなこと、一般人に頼んでいいんですか」ヒカリは思ったことを和泉にぶつける。
和泉は笑った。
「まあ、貴女達に捜査情報を公開している時点で、本当はかなりアウトなんです。それに、市民の安全を守るのが警察の仕事です。犯人を推理で追いつめるような、危険な役目を任せてしまうなどもってのほかでしょうね。職務規定、職業倫理、そんな明確に文面にされている決まり事云々以前に、警察官の在り方として間違っている」
あっさりと自己否定をする不良刑事に、ヒカリは目を丸くした。
「なら、どうして?」
和泉はヒカリの目を見た。
「感謝しているのですよ」
「はあ?」
「お二人に感謝をしているのです」
それが、どうしてアキラを頼る理由になるのか、わからない。
「警察にはできないことがあります。何の義務も利益もなく、誰かを助けることです。誰かを助けようとしても、私には常に自分が警察官であるからという動機が付きまといます」和泉は自嘲の表情を浮かべる。「けれど、それでは困るんですよ。警察だから守る。警察だから防ぐ。警察だから解決する。警察側が自覚を持つのは大いに結構ですが、そういった意識は民間人の危機管理意識を腐らせていくのです。警察だから守ってくれる。警察だから防いでくれる。警察だから解決してくれる。警察なのに守ってくれなかった。警察なのに防いでくれなかった。警察なのに解決してくれなかった。そんなことでは困るのです」
「平和ボケですか」
「治安という観点で、わかりやすい言葉を使えば、そうです。もっと民間人の意識を分析するならば、厄介事は全て警察の仕事であり、自分がしゃしゃり出る幕ではないと考えているのでしょう。そして、それが合理的判断であると思い込んでいる。けれど、それは警察というシステムに治安を丸投げしているということです。それは大きな間違いだ。人には警察よりも、頼る人が居るべきなのです」
ヒカリは和泉の言葉を黙って聞いていた。何となく、彼の言いたいことがわかってきた。
「警察を頼ってもいい。しかし、警察の介入には段階を踏む必要があります。その間、民間人を守るのは誰ですか。あるいは、事件が起こった後、警察の捜査に協力するのは誰ですか」
「民間人です」ヒカリは答える。
和泉は頷いた。
「そうですね。すなわち、『隣人』です。もちろん、隣に住んでるなどという意味でなくね。そして、そんな隣人が居ることを、私は是とすべきだと思っています。これは救済という観点からです。警察は助けてくれたけど、知人、友人が知らんぷり。これはこれで、あまりに救いが無いと思いませんか」
「アキラに事件の捜査をさせたのは、和泉さんのそんな哲学からなんですか」
「その通りです。もちろん、ヒカリさんにもその目的で関わってもらいました。私は信じたいのです。人は隣人の問題に、もっと真摯に考え、悩むことが出来るとね」
そう言われると、後ろめたさが湧いてくる。ヒカリは正直、自分の好奇心に忠実に従っただけだ。
「いやぁ。わたしは興味半分ですよ。それに私は……」考えまいと目を背けてきた劣等感が、今になってヒカリを包む。「わたしはなにもできなかった。結局、アキラに任せきりです」
そんなヒカリのコンプレックスを払拭するように、和泉は言った。
「ヒカリさんは少なくともこの二日間だけは、この事件を他のどんなことよりも真剣に考えたのではないですか。本気で藤堂の人の力になりたいと考えませんでしたか」
確かにそうだ。ヒカリはたったの二日間で、藤堂の多種多様な苦しみの片鱗を、たくさん見てきた。事件の謎についても、今自分が抱えている悩みも忘れ、夢中になって考えた。
「興味は言い換えれば、関心です。ヒカリさんは人に強い関心が持てるのです。ときに、人の抱える問題に対し、強い関心をもって共鳴することが出来る」だから、誇っていいのだと和泉。「貴女がいなければ、アキラさんはただ傍観していたことでしょう。貴女のブレイクのおかげで、今この事件は解決を迎えようとしています」
和泉の言葉に、僅かに救われる。事件については、まるでわからなかったヒカリだが、少しは役に立てたのだろうか。自分なりの行動で、事件の解決に近づくことが出来ただろうか。
「だから、感謝しています。警察を代表してお二人にお礼を申し上げます。藤堂朝陽、夕輝殺害事件に立ち向かって下さり、ありがとうございます」和泉は恭しく頭を下げた。「この事件に真摯に向き合った隣人が居た。その事実そのものが、雨音さん、美雪さん、蓮さんにとって、かけがいのない救済になると信じています」
それが、和泉がヒカリとアキラを巻き込んだ本当の理由。警察には出来ないことがある、と和泉は言った。彼は警察官としてではなく、和泉智という人として、アキラの手で真実が白日の下に晒されることを望んだのだ。もちろん、彼も自分の仕事を成す気でいるだろうが。
「事件の解決まで、あと一息です」和泉は好人物めいた笑顔をみせる。「頑張りましょう。幕引きはアキラさんにお任せしますがね」
ヒカリは笑顔を返す。
「そんな人の良さそうな顔しても、もう信じてあげませんからね」
「手厳しいですね」和泉は笑い声を上げた。




