蓮の願い
桐生も解放となり、ヒカリはアキラ、和泉、奥野の四人で和室に戻った。
「あれから、『アリア』について調べてみました」和泉が切り出した。まだ、ヒカリ達に調査したことを教えてくれるようである。「朝陽さんの部屋……、藤堂家ではなく、アパートの部屋に絵画が数点ありました。しかし、いずれも無銘の作品で、『アリア』はありませんでした」
ヒカリはアキラが『アリア』が朝陽の部屋から盗まれた可能性を指摘していたことを思い出した。
「そこで、近辺のバイヤーを当たってみているのですが、残念ながらまだ見つかっていません」ですが、と和泉は続ける。「朝陽さんがどうやって絵画を集めているのかはわかりました」
ヒカリの肝が冷える。心臓がきゅっと萎んだ気がした。まさか、犯罪だろうか。そんなヒカリの懸念を打ち消すように、和泉は言う。
「藤堂空子さんの友人のバイヤーが、朝陽さんに絵画を相場よりもかなり割安な値段で売っていたようです。『アリア』もその一つであることを確認しました」
「空子さんの友人?」
「未森静奈さんという方です。空子さんとは美大の同期だったとか」
空子の友人とまで接点があるとは。朝陽は本当に空子と仲が良かったのだ。
「それにしても、資金はどうしていたんでしょう」
アキラの問いに、和泉は首を横に振った。
「それもまだはっきりとは。一時期、ナイトクラブに勤めていて、それなりに良いお給料だったようです。しかし、それも一年以上も前の話で、新部万里子さんと交際する時期を境に辞めてしまったらしいですね」
ヒカリは万里子が朝陽との馴れ初めを話したときを思い出す。確かに、よく行くクラブで従業員をしていた朝陽と親しくなったと言っていた。
「少なくとも、最近は居酒屋のアルバイトで、そんなに簡単にお金が入るような仕事はしていないはずなんですがね」和泉は人差し指でこめかみをつついた。「そして、他所で重大なトラブルを抱えていたという証言は、今のところありません」
「この家の兄弟達との接点は?」やはりというべきか、アキラの興味はそちらに向いたようだった。
「調べたのですが、それもわからないんですね。まず、朝陽さんの携帯には、美雪さん以外にご兄弟のアドレスがありませんでした。『call』についても同様で、ご兄弟のアカウントは美雪さんのものしか見つかりませんでした」
「緊急連絡先はどうしていたんです?」
「この家の番号ですが」和泉は首を横に振った。「携帯の連絡先には登録されていませんでした。記憶していたのでしょうね」
つまり、朝陽は美雪個人以外とは一切連絡を取ろうとしなかったということだ。では、逆に朝陽に連絡を取れたのも、美雪だけということだろうか。少なくとも、夕輝は法事の際に朝陽に電話しても、掴まらなかったと言っていた。
「通信会社に問い合わせ、最近の通話履歴を調べたのですが、所在のわからない怪しい者は一人もいませんでした。そして、藤堂家では美雪さん以外と連絡を取っていない」
この家でトラブルが発生しそうな人物は、必然的に美雪のみということになる。美雪の憔悴しきった顔が、印象として強く残り過ぎている。あんなに辛そうにしていた彼女が、朝陽や夕輝に対して殺意を抱いていたとは、にわかには信じられないヒカリである。無論、疑いたいとも思わない。しかし、推理小説ではむしろ彼女のようなタイプが犯人だったりする。ヒカリは首を捻った。
「朝陽さんのPCの履歴から、Facebook等の交友関係についても少しわかりました。やはり、疑わしい者はおらず、ご兄弟とのやりとりは無かったようですね」
「この家では、美雪さん以外とは問題の起こしようがなかったということですか」アキラはヒカリが黙っていたことを口にした。
「そういうことになりますね」と和泉は静かに肯定した。
「そういえば、近所の聞き込みで何かわかったことはないんですか」とアキラ。「斧を振りかぶって切断したら、結構大きな音がしそうなものですけど」
「有力な証言は、特に無かったようです」と和泉。「そこまで派手な音があったという証言はありません。まあ、部屋やご遺体に争った形跡もありませんし、斧で切断する際にしても音を小さくする方法はあります。流石に、犯人も音には気を遣うでしょう」
そのとき、奥野が一言断りを入れ、スマートフォンを取り出した。着信があったようである。
「はい、奥野です。はい。お疲れ様です」
電話で奥野はしきりに相槌を打っている。何かしらの報告だろうか。
「……そうでありますか。お疲れ様であります」
奥野はスマートフォンのボタンを押し、通話を終える。
「オギムラマートの防犯カメラでありますが、蓮さんと桐生さんが証言通りの時間に映っていたと、報告があったであります。蓮さんが五時四十分、五十分。桐生さんが六時十分、二十分にそれぞれ映っていたそうであります」
「証言通りですね」
「ちなみに、蓮さんの言っていた輝陽落公園に、防犯カメラは付いていないそうであります」
「そうですか」和泉は呟いた。
これで、どうなるのだろう。ヒカリはまだ整理がつかない。後でアキラと確認しよう。
「まだ調査が必要ですね」和泉は唸った。「お二人から、何かありますか」
そう尋ねられても、ヒカリにわかったことは無い。アキラの顔を見る。
「俺から報告出来ることは無いんですが、質問が二つ。ヒカリが発見した死体は、朝陽さんで確定ですか」
ああ、と和泉は頷いた。
「そうですね。DNA鑑定の方はまだですが、朝陽さんが事故を起こした際に、指紋を採取していました。それが朝陽さんの部屋にあった死体の左手と一致したので、間違いないでしょう」
やはり、死んだのは朝陽で決まりだ。
「俺が夕輝さんの死体から聞いた振動音は、何だったのです?」アキラが続けて問う。
「確信は持てませんが、それはおそらく腕時計のサイレントアラームです」
サイレントアラームとは、振動することで時間を知らせるアラーム機能だ。
「私の見たところ、夕輝さんの腕時計はウエアラブル端末のようでした。昼に夕輝さんに着信があったとき、彼は腕時計を見た。おそらく、Bluetoothでスマートフォンとリンクしているのでしょう」
昼に夕輝に着信があったといえば、車の中だとヒカリは思い至る。言われてみればそうだった気がするが、後部座席の夕輝に対して和泉は助手席に座っていた。恐ろしい観察眼である。和泉の前で悪いことは出来ない。
「今、夕輝さんの携帯を調べています。アラームが鳴る時間もわかるでしょう。結果によっては、夕輝さんの死亡推定時刻が狭まるかもしれません」
アキラは顎に手をやり、考える仕草をみせる。
「何か、お考えが?」
「いえ、色々まとめたいので、俺達もそろそろ休んでいいですか」
和泉は頷いた。
「はい。しかし、やはり明日以降も、お二人から証言して頂きます。死体発見時のことや、今晩のお二人の行動についてです」
「わかりました」アキラが答えた。
「我々は本部に帰りますが、何名か残していきますので、何かあれば遠慮なく言って下さい」
『何かあれば』か。ヒカリは心中で独りごちる。もう何事も無ければよいが。和室を出ると、少し疲れが出てきたようだった。自覚していた以上に、神経がやられていたらしい。
もう時刻は十時半になる。いつものヒカリは、必ず十一時には寝ているが、今日ばかりは簡単に眠れそうになかった。
***
ヒカリとアキラは三階へと向かって行った。ヒカリの部屋でディスカッションをするためである。いつものアキラなら辟易としているところだろうが、今はそんな様子はない。何かがわかったのではないかと、ヒカリは思う。
「何かわかったわけ?」
ヒカリの心を読んだような声に、一瞬どきりとした。三階の廊下に、蓮がいた。
「どうしたの? 蓮ちゃん」
「アンタらが戻ってくるのを、待ってた」蓮は冷たく答える。
蓮の部屋は三階にある。いつ戻るかわからないヒカリ達を待っていたとは、どういうことか。
「朝陽は死んだの?」蓮は率直に尋ねてきた。
アキラが一歩、蓮に近づく。
「それはわからない」
「嘘吐き」アキラの言葉を、蓮は一蹴した。「朝陽の指紋はとっくに採取出来てるはず。アイツ事故起こしてるし、部屋からだって指紋はいくらでも採れるでしょ。死体の左手と照合するのに、こんなに時間掛かるわけ?」
ヒカリは正直驚いた。蓮は蓮で、かなり考えている。
「『わからない』ってことは、朝陽で決まりだってこと、伏せてるんでしょ? 何で?」
「何でと言われても、わからないものはわからない」アキラは頑として認めない。
ヒカリには蓮の気持ちがわかった。ヒカリ達が自分の家族の生死を伏せているのが、気持ち悪いのだ。『何で?』というのも単純に理由を尋ねているわけではない。ヒカリ達に事実を言わせることで、ヒカリ達の隠し事を無くしてしまいたいのだ。蓮は焦っている。それは同時に、彼女が見た目以上に弱っていることを意味していた。
だが、ヒカリとアキラには守秘義務がある。だから、ヒカリの次の言葉は一択だった。
「蓮ちゃん。すごく大事なこときくね? 『もしそうだったら』、何かわかることない?」
「おい」アキラがヒカリを咎めた。
ヒカリにとってこの質問は、蓮に対する回答のつもりだった。
蓮はしばらく俯いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「そっか」
ヒカリの質問の真意は、伝わったようである。蓮はため息を吐いた。
「夕輝が殺された理由。一つだけ思い付く」
「本当か?」
「朝陽を殺した犯人は、夕輝が真相に辿り着くのを恐れたんだと思う。逆かもしれない。元々のターゲットは夕輝で、真相を暴きそうな朝陽を事前に殺しておいた」蓮は顔を歪めた。「アタシが犯人なら両方殺す。どっちかを生かしておけば、自分が犯人だともう一方にバレるから。犯人がアタシ達の誰かってのなら、きっと同じことを考える」
犯人の空恐ろしい思考。その可能性の一つを、蓮は提示してみせた。妙にヒカリの腑に落ちたその可能性は、心を蝕むかのように不快感を植え付ける。
蓮は俯いた。朝陽について彼女なりの答えが得られた筈であるが、去る気配はない。彼女がまだ何かを言いたそうにしているのが、ヒカリにはわかった。
「犯人を、見つけてほしい」蓮は顔を上げて、静かに発した。「アタシには無理。朝陽や夕輝ほど頭は良くないから。けど、アンタ達ならもしかしたらって思う」
蓮は瞑目する。ヒカリには涙を堪えているようにみえる。真相を知りたいという意志と、それを受け止める覚悟が、やっとの思いで彼女に振り絞らせた言葉だったのだろう。
「終わりにしてよ。ヒカリ、アキラ」
胸を引き千切るほどの恐怖と後悔。必死にそれらを乗り越えるように、蓮は初めて二人の名を呼んだ。
「わかった」そんな彼女の願いを、アキラは諾った。「約束する。俺達が終わりにする」
蓮は踵を返し、自分の部屋へと戻っていった。ヒカリとアキラに全てを託したことは、その後ろ姿が告げていた。




