雨音と蓮の再聴取
和泉の前に座る雨音は、流石に昼間のように軽い様子でこそなかったが、なお落ち着いているようにみえた。
「雨音さん」和泉が呼び掛けた。
「はい」
「おわかりかと思いますが、貴女方の中に夕輝さんを殺した人物がいることは明らかです」
「そうですか」雨音はあまり感情の読み取れない口調で答えた。
「今後、しつこくお話を伺うことになります。あしからず」
和泉の口調には圧迫感があった。夕方より遥かに空気が重たい。ヒカリは図太さに定評も自信もあるが、雨音達に同情してしまう。
「何を、話せばいいんですか?」雨音はしたたかに訊く。
和泉は頷いた。
「基本的に、昼と同じような質問になります。まず、夕方私達がこの家から出て行った後、何をしていましたか」
雨音は少し思い出すように、目線を横にやる。
「晶子さんと一緒に台所にいました。夕食の準備の手伝いです」
「ずっと一緒に?」
「いいえ」雨音は首を横に振った。「五時四十五分に自分の部屋に行きました」
「そうなんですね。仕度が終わったのですか」
「いえ」雨音は歯切り悪く言う。「ちょっと、気持ちが不安定になって……」
「朝陽さんの件が気になったのですか」和泉の口調が僅かに柔らかくなる。
「……四十分頃くらいかな。ヒカリさんがリビングに来て、五分くらい話しました」雨音は気まずそうである。「朝陽が死んだような話をして、ちょっと感傷に浸りたくなったんですね」
意外な雨音の言葉に、気の毒だったとヒカリは罪悪感が湧いた。彼女を傷つけてしまっていたのだ。もっとも、このような反省は過去に何回か経験しており、まったく後に活かされないヒカリであるが。
「いや、変だね。ごめんね。ヒカリさん」雨音は微かに笑った。
「いえ、謝るのはわたしです」
「その後は、ずっとご自分の部屋に?」和泉が遮るように尋ねた。
雨音はまたしても思い出すような仕草をした。綺麗な唇に、右手の親指を軽く当てている。
「七時半かな? もう少し遅いかもしれないですけど、リビングで食事をしました。それ以外は、ずっと部屋です」
「結構、遅くになりましたね」和泉が突っ込んだ。「五時半から作り始めていたんでしょう?」
雨音は首を傾げ、ううんと唸った。
「何でかな? 晶子さんから呼ばれないのに気が付いて、お腹も空いてたから、リビングに行ったんです。そしたら、誰もいなくて、台所に夕食が置いてあったから食べたんですけど」
あれ、と奥野が声を上げた。
「皆さん、夕食はご一緒では?」奥野がアキラを見た。
アキラが首を横に振る。
「少なくとも、あたしは独りだったな」雨音が言った。
ヒカリとアキラが八時頃にリビングに向かったとき、桐生が居た。確かに、そのとき出された食事は出来たてのものではなく、レンジで温められていたように、ヒカリは記憶している。桐生は夕食を作った後、そのままどこかへ行ってしまったということなのだろうか。八時頃の桐生の様子はおかしかった。夕輝の殺害と何か関係があるのか。どうにも怪しいとヒカリは感じる。
「他に、誰かと会いましたか」
「会ってないです」雨音は言い切った。「夕輝の部屋に行くまで、誰も見てません」
「そういえば」和泉が尋ねる。「夕輝さんに何の用事があったのですか」
言われてみれば、とヒカリは思った。
「昨日は邪魔せぬようにと、遠慮されたのですよね? 今日に限って、何か用事が?」
「急用ってわけじゃ、なかったんですけど」雨音は慌てる様子もない。「微積分の単位のレポートの提出があって、夕輝に解いてもらおうかと」
「レポート? この時期に?」和泉が顎に手を添える。
「救済レポートってやつです。不可取っちゃったんですけど、提出したら合にしてくれるかもしれないんです」
「それは、後で事実を確認させてもらっても構いませんか」
「もちろんです」雨音ははっきりと言った。
奥野がメモを取っている。
雨音の口調から、レポートの存在は嘘ではないだろうとヒカリは直感した。だが、大学生がレポートを兄弟に見てもらうだろうかと違和感を覚える。普通は同じ大学に通い、同じ講義を取った友達に頼みそうなものだ。サークルなどでも、様々な講義の過去の試験問題やレポートを共有しているとヒカリは聞いたことがあった。
「でも、もうレポートどころじゃないですね」
雨音は僅かに乾いた笑いを上げたが、気力が全く無く、ただ虚しさだけを感じさせた。
和泉が机の上で両手を組んだ。
「雨音さん。率直に伺いますが、犯人は誰だと思いますか」
和泉の問いに、雨音は沈黙した。
静寂が場を支配したが、数十秒程して雨音は口を開く。
「晶子さんの行動が、いつもと違って変だなって思います」雨音は俯いている。「流石に、夕輝を殺すなんてありえないと思うけど」
「では、美雪さんですか」和泉は言った。
雨音は驚いたように顔を上げる。
「美雪は、絶対に違う」
「では、蓮さんは?」
雨音は首を横に振った。
「消去法で、犯人は貴女となりますが」
「あたしがわかるのは!」雨音が大声を出した。だが、すぐに口を閉ざしてしまう。
「わかるのは、何ですか」和泉は静かに問う。「教えて下さい」
「……あたしがわかるのは、あたしは犯人じゃないってことだけです」雨音が力なく言った。「犯人が誰とか、そんなの知りませんから」
雨音は再び俯いてしまう。その両肩が震えているのが、ヒカリにはわかった。
「雨音さん」和泉はゆっくりと言った。「顔を、上げて下さい」
雨音は伺うように、和泉を見る。
「現場にあった斧に、見覚えはありませんでしたか」
「斧? 見てないですけど……」
奥野は懐から写真の束を取り出すと、中から一枚を選んで机の上に置いた。
「この斧なのでありますが」
ヒカリは写真を覗き込む。刃先が血塗られた赤い斧が写っている。
雨音も同様に写真を見たが、すぐにかぶりをふった。
「わからないです。うちの斧なら、物置部屋にあったと思いますけど。というか、工具類は全部物置部屋だから、あるとしたらそこしかないです」
「物置部屋ですか。ありがとうございます。調べさせて頂きます」
「あ、でも……」雨音は何かを言いかけたが、途中で黙ってしまった。拙いことを言ったという顔になる。
「何でしょう?」
「いえ……。案内は晶子さんにしてもらって下さい」雨音の目が泳ぐ。
「どういう意味ですか?」
雨音は観念したようにため息を吐いた。
「物置部屋には南京錠が……。鍵を持ってるのは、晶子さんだから」
「桐生さんにしか開けられない?」
「父がスペアを持っていますが、父の部屋にも鍵がかかっています」雨音はバツが悪そうにしている。「父の部屋のスペアキーも、持っているのは晶子さんだけです」
なるほどね。和泉は呟いた。
「ありがとうございます。お話はとりあえず、以上です」
「これだけでいいの?」雨音は訝しげに言う。
「今日のところは、ですね」ただし、と和泉。「明日以降もお話を伺うことになるでしょう。こちらからも、調査したことをご報告いたします」
「わかりました」
「それから、次に蓮さんを呼んで頂きたいのですが、その後にご遺体を発見したときの再現をお願いします。夕輝さんの部屋にいる刑事に、声を掛けて下さい」
「はい」雨音は腰を上げた。
雨音の去り際に和泉が言う。
「ここで話したことや、ご遺体を発見したときのことは、くれぐれも我々警察以外には他言無用でお願いいたします」
雨音は黙って頭を下げ、和室を後にした。
***
「あらかじめ言っとくけど、アタシじゃないから」和泉の前に正座するなり、蓮は言った。
「皮肉にも、最初にお会いしたときに同じことを仰っていましたね」和泉は苦笑した。
「そのときの経験から、信じてくれないのはわかってる」
蓮は警察の取り調べに、うんざりしている筈だとヒカリは思う。まさか、二度も同じ目に遭うとは思ってもみなかっただろう。
「お話をしてから判断しましょう。我々が夕方引き上げてから、夕輝さんを最期に見たのはいつですか」
蓮は盛大にため息を吐いた。
「アタシはその後、夕輝を見てないよ」
「そうですか」和泉は軽く頷いたのち、訊いた。「蓮さんはその後、何をしていましたか」
「五時半にスーパーに行って買い物。三十分くらいで帰ってきた」
「どこのスーパーですか」
「オギムラマート。車だと、十分しないぐらいの距離」蓮は頬杖をつき、そっぽを向いている。
「何を買ったのですか」
「夕食の材料を、晶子さんの手伝いで」
「そういったお手伝いは、よくされるのですか」
「あまりない」
ヒカリは十七時過ぎに雨音と会話したことを思い出す。蓮は車で出掛けていると言っていた。確かに証言と合っている。
「では、スーパーの防犯カメラの映像を調べますが」と和泉。
「どうぞ、ご自由に。レシートもあるし」蓮の返事はそっけない。
奥野がメモを取る、カリカリという音が部屋に響く。その度に、ヒカリは神経が削られているのではないかと錯覚する程、空気がぴりついている。
「それで、帰って来られたのは六時頃になりますね? その後は?」
「部屋で休んで、七時過ぎくらいに散歩に出かけた」そこで蓮はヒカリを見て、にやりと笑った。「そういえば、部屋から出たとき変なの見ちゃった」
アキラが口元を手で覆った。かなり恥ずかしがっている。
「変なの、とは?」和泉は首を傾げた。
「あ、わたし達のことです」ヒカリは代わりに答えた。「ちょっと、アキラを廊下まで引きずり回してたんですけど、そのときにたしかに蓮ちゃんと会いました」
和泉は三秒ほど沈黙した。
「……状況が、よくわからないのですが。アキラさん。時間を覚えていますか」
「はい」アキラの口調は苦々しい。「蓮の言う通り、七時過ぎくらいです。……十五分頃だったかな」
「……何をされていたのでありますか」と奥野。
「それは後ほど、お二人から聞きましょう」和泉が片手でそれを制した。
アキラの顔が赤くなっている。死体を運べるかの検証をしていただけで、別に恥ずかしがるようなことではない筈だが。
「それで、散歩とは具体的にどちらへ?」
「ここから歩いて三十分くらいのところに、公園があるんだよ。輝陽落公園? そこでぼーっとしてた」蓮は答えた。
「その公園に、何かあるのですか」和泉が問う。
「何かあるってわけじゃないけど」蓮は目線を和泉から外したままだ。
蓮は黙り込んだ。しかし、和泉は蓮が言葉を発するまで待つつもりのようだった。やがて、蓮は根負けしたように喋り出す。
「昔、朝陽や雨音とよく遊んでた。母さんの事故よりもっと前ね。公園の名前が朝陽や夕輝みたいだね、って言ってたのを思い出したから」
「やはり、朝陽さんのことを考えていたんですね」
「当然と言えば」蓮は俯いて呟いた。「……当然でしょ」
『アイツは母さんを本気で好きみたいだったし』そう言った蓮の姿をヒカリは思い出す。そのせいか、今の蓮が相当痛々しくみえた。
「家に戻られたのは、何時頃ですか」和泉は質問を変えた。
「花火が終わったタイミングで帰ってきた」
「それなら、大体八時半過ぎくらいですか」和泉は奥野を見た。
「今日の夏祭りのフィナーレがそれくらいに始まったと聞いているであります」奥野がそれに答えた。
「そのときも、この家の玄関前でわたし達とちょうど会ったんです」ヒカリは補足する。
「そうなんですか」和泉は相槌を打った。「時間は覚えていますか」
「八時四十分くらいかな」ヒカリはアキラを見た。
アキラは黙って頷く。
「そのあと、わたし達はこの家の階段を上って、雨音さんの悲鳴を聞いたんです」
「蓮さんは?」
「アタシは離れに行った」
「離れに?」和泉はオウム返しに訊いた。
「そう。朝陽の部屋に行ってた」
「何か用事があったのですか」
「離れの一室に母さんの位牌があるから、朝陽がどんな感じにしてるのか、見てみたくなった」蓮は面倒くさそうにしている。
「朝陽さんのお部屋に、空子さんの位牌があるのは何故ですか」和泉は構わず質問を続ける。
「いちいち説明するの、馬鹿らしいね」蓮は微かに自嘲してみせた。「アタシと朝陽で位牌分けしたの。離れの一室を母さんがよく使ってたから、朝陽はそこに置いてあるってわけ」
「位牌分け、でありますか」と不思議そうにする奥野である。
その反応がもっともだとヒカリも思うが、和泉は平然としている。
「となると、ヒカリさん達と会ってから、彼女達より早く夕輝さんの部屋には行けないですね」
ヒカリとアキラは家の玄関先で蓮と会話をした後、そのまま真っ直ぐに夕輝の部屋に行った。離れに行った蓮がヒカリ達を追い越すことは不可能だ。
「公園に防犯カメラがあるか、調べてみます。もし蓮さんの映った映像が存在すれば、少なくとも七時過ぎ以降のアリバイは成立しますから」
「だといいけどね」
「しかし、蓮さんが犯人でなければ、他の誰かが犯人ということになりますが」和泉は発破をかけた。
「自殺の可能性はないの?」蓮がようやく和泉に視線を向ける。「誰かが夕輝を殺したなんて、信じられないんだけど」
「残念ながら、ご遺体の状態からその可能性は低いかと」和泉は毅然として言う。「夕輝さんが自殺する動機に心当たりが?」
「ないね」蓮は冷たく返事をする。「でも、この家の誰にも夕輝を殺す動機がない。先生達を含めてね」
「本当に?」
「本当に」蓮は和泉を睨んだ。
「そうですか。わかりました」
和泉はあっさりと引き下がった。だが、もちろん蓮の言うことを鵜呑みにしたわけではないだろう。それは彼の口調から、容易に判断出来る。
「そういえば、蓮さんは桐生さんを見かけたでありますか」奥野が問い掛けた。
蓮は首を傾げる。
「晶子さん? 買い物から帰って来て、食材を渡してから会わなかったけど」
「桐生さんはどんな様子でしたか」と和泉。
「え? いつも通りに夕食作ってたよ。そういうことじゃなくて?」蓮が怪訝な表情をみせる。
「桐生さんは六時頃、夕食を作っていた。いつも通りに」和泉が反復する。
「そう」蓮は肯定した。
「その後、いつも通りに食事の支度が出来たと呼ばれましたか」
「ああ……」蓮は違和感に気が付いたように眉を顰める。「呼ばれてないね。いつもは七時には夕食で呼ばれるけど、今日はそれがなかった」
やはり、桐生の行動はおかしい。ヒカリは考える。十九時の夕食アナウンスをすっぽかしたわけだ。雨音は十九時半に台所に置かれていた夕食を、温めてから食べたと証言している。つまり、夕食が出来上がるのが遅れたわけではないのだ。桐生に空白の時間がある。
「これまでに、そういったことはありましたか」和泉が尋ねた。
蓮は暫く考えている様子だった。
「アタシは毎日家で食べてるわけじゃないから、定かじゃないけど……」蓮は言った。「ないと思う。少なくとも、夕輝とデートしてるとか、事前にわかるようになってるはず」
「夕食に呼ばれず、不思議に思いませんでしたか」
「気が付かなかった。少なくともアタシにとっては、習慣ってほどでもないし。食欲もなかったから」
「結局、食事はどうされたのです?」
「食べてない」
「そうですか。大変参考になりました」
和泉はとりあえず、満足したようだった。
「では、これで我々からの質問は終わりですが、何か他にご存じな情報があれば……」
和泉の言葉を、蓮は途中で遮った。
「知ってたら言ってる」
和泉はふっと笑った。
「わかりました。何か気が付いたことがあれば、いつでも仰って下さい」
「アンタら、いつまで居る気?」蓮は顔をしかめる。
「一通り、調査が終わるまでですね」和泉は当たり前のように言った。
「寝ていいの?」
「今日のところは」
蓮は立ち上がった。
「ああ、蓮さん。美雪さんをこちらへ呼んで頂けますか」
「わかった。でも、あまり美雪と晶子さんにキツいこと言わないで」
「善処します」と和泉。
蓮は和室の襖に手をかける。
「蓮さん」和泉が呼び止めた。「今お話しした内容は、他言無用でお願いします」
蓮は振り向くことなく、黙って和室を出て行った。




