序章
序章.
二十二日、昼。
長野にある沙良極駅から徒歩まだ数分。夏の風物詩である蝉の大合唱にも、それに負けないほどの太陽の自己主張にも、日向ヒカリは顔色変えずに歩き続ける。彼女の隣で歩く、友人の新部万里子は辟易といった表情で、今にも根を上げそうである。
「ヒカリ。メチャ暑いんですけど……」万里子が呟いた。
その愛らしげな顔立ちは、もはやヒカリの知る限りの最悪レベルで歪んでいる。
「まだ少ししか歩いてないよ」ヒカリはのんびりとした口調で言った。
沙良極はヒカリが通う私立D大学のすぐ二駅隣にある。万里子はヒカリの同期であり、大学では一番に仲が良くなった間柄である。
『面白いものを見せてやる』
万里子の恋人である藤堂朝陽が、そう万里子を誘ったのは八月二十一日の夜のことだったという。
夏休み真っ盛り。特にバイト等の予定も入れていなかった万里子は、翌日二十二日に朝陽の元へと向かうことにした。
万里子がヒカリも一緒にと誘ったのは、当日の朝のことである。ヒカリはD大学で万里子と待ち合わせをし、電車に乗って朝陽の自宅の最寄り駅まで移動した。
その最中、ヒカリは万里子から、何故自分を誘ったのかを尋ねてみた。朝陽が『面白いもの』というのは、確かに珍しいものであるケースが多い。以前、ヒカリもそういった価値のあるもの朝陽から見せてもらったことがある。
暇そうだったから。そう万里子はあっさりと答えたものだったが、あのとき珍しい美術品に目を輝かせていた自分に、気を利かせたのかもしれない。そうヒカリは考えた。
朝陽はこの沙良極駅から徒歩十分ほどのアパートで一人暮らしをしているという。
「あのコンビニ、曲がってすぐそこだよ」やっと着いた、と万里子が言う。
「何か買っていく?」ヒカリが尋ねる。
「いいよ。これだけコンビニが近いんだから、朝陽も何か用意してるよ。きっと」
二人はコンビニを通り過ぎ、曲がり角を右に行く。アパートはすぐそこにあった。
ヒカリが訪れるのは初めてである。
アパートは道路に面していた。危険防止のガードレールは無い。沙良極は基本的にそういった頓着の薄い、辺鄙な田舎なのだ。
敷地の中に入ると、万里子は慣れた様子ですたすたと歩いている。ヒカリは朝陽の部屋がわからないので、彼女についていくしかない。
「そういえば、朝陽が探してた、妹の家庭教師のアルバイトさ」
暑さのせいだろうか。万里子は疲れた声である。
「ああ、あれ。適任者がいたから、私が推しといたけど」ヒカリはよく知った顔を思い浮かべた。
「知ってるよ。あの人、ヒカリの彼氏?」にやりと笑って、万里子は一○四号の部屋のインターフォンを押す。
「いや、違うから」ヒカリは笑顔できっぱり断言する。「そんな報告、一切してないでしょうが」
「そう? あれ、出ないね」万里子がもう一度、インターフォンを押した。
しばらく反応を待つが、やはり朝陽が出る様子はない。
「この時間に着くって、言っておいたのに」そう言って、万里子はバッグを漁る。「出かけてるのかな。まあ、いいや、入ろう」
万里子はキーホルダーを取り出した。可愛い猫のストラップが付いた鍵束には、五本ほどの鍵がまとめられている。万里子はその中から、器用に一本を選び、先端を鍵穴に向けた。
「いいの? 勝手に」万里子はともかく、その友人であるヒカリまで図々しく上がり込んでいては、朝陽は気を悪くしないだろうか。
言ってはみたものの、ヒカリ自身、本当に図々しい性格であると自覚しているので、ここで遠慮するのもダブルスタンダードだと言われそうだが。
「いいって、いいって。いつもやってるし」万里子は事もなげに答える。「こんな暑い中で待ってたら、もう溶けそうだし」
錠がガチャと音を立てる。
万里子がドアを開けようとするが、今度はゴンッと鈍い音がした。
「あれ、開いてたの?」
もともと鍵が開いていたドアを、逆に閉めてしまったようである。
もう一度、万里子は鍵を差し込み、捻る。
今度こそドアが開いた。
その瞬間からだろうか。ヒカリの心拍がどくりと跳ね上がる。
異様な空気が室内から漏れてきた。ある種の熱気を伴い、歪んだ、それでいて痛烈な臭いがヒカリの鼻をつく。
「ちょっと。何……? この臭いは」あまりの異臭に、万里子は腕で口と鼻を覆う。「生ゴミ、出してないんじゃないの?」
万里子は部屋に上がり込み、奥にある洋室にずかずかと進む。フローリングの床が悲鳴を上げんばかりの勢いだ。
ヒカリも手のひらで口と鼻を覆い、それに続くが、玄関のすぐ横にある部屋の灯りが点いていることに気が付いた。
バスルームだろうか? トイレだろうか?
ヒカリに知る由も無いが、臭いの元がその辺りのような気がした。
レバー型のドアノブを下げると、軋む音を立てながら、ドアが開いていく。
そしてヒカリは息を飲む。
洋室から、ガラガラという音が聞こえた。
「窓開けたよー」という万里子の呑気な声が、ヒカリにまで届く。
しかし、ヒカリには返事をする余裕がない。ヒカリが開けた部屋はバスルーム。目前の光景に、真夏の暑さにも拘らず、ヒカリはその身を凍り付かせた。
「ヒカリぃ?」万里子が呼び掛ける。
ヒカリの視線の先には、藤堂朝陽と思われる男がいた。
「……来ないで」ようやく、ヒカリは声を上げることができた。
「はあ?」
万里子の気の抜けた返事に対し、更に強く、大きい声で言った。
「絶対に来ちゃダメ!」
その男は洗い場で、ぐったりと仰向けに倒れていた。
「ヒカリ?」万里子はヒカリのことを伺うような声色で呼んだ。彼女が不安を感じたとき、よく表れる特徴だった。
バスルームはオレンジ色の灯りに照らされ、その様子を十分に伺うことができる。
床に転がっている無骨な斧。壁に赤い斑点が、ところどころにこびり付いているのも目に付いた。
「警察」ヒカリが呟く。
そして、倒れている男の服も、赤い絵の具を落としたバケツで染め上げられたようだった。
「警察呼ばなきゃ」ヒカリはバッグから携帯を取り出した。
救急車などという考えは浮かばない。なぜなら男は。
一、一、〇。冷静に、ボタンをプッシュする。
電話をつなぐ発信音がもどかしい。
『事故ですか。事件ですか』やっと出たオペレーターは、そう尋ねた。
「殺人です」ヒカリは即答する。
男は、その頭部を失っていたのだから。