もう戻れない刻
四.
アキラが藤堂家に来て、数日経った頃の話である。
夏らしく、さんさんと日が照らす、眩しい外。蝉が煩そうだと容易に想像出来るが、アキラは無音の部屋にいた。音楽室である。
美雪の授業が終わり、資料作りの仕事もなくなった。アキラは手持ち無沙汰になり、藤堂家の中を散策しようと考え付いた。そこで、美雪に一度案内されたことのある、この音楽室の存在を思い出したのだ。
あいにく、アキラは音楽など出来ない。タンバリンやトライアングルすらまともに扱えない程だ。
厳かに鎮座するグランドピアノを見て、アキラは叔父の家の電子鍵盤を思い出した。さながら連想ゲームのように、叔父に説教された記憶が蘇る。小学生だった頃の出来事だ。
叔父は言った。
「アキラ君。君は勉強をしっかりとしていて、おじさん偉いと思う。それだけじゃない。成績にしっかりとコミットしてる。これは、なかなかできることじゃない。お父さんもお母さんも、鼻が高いだろうな。けどな、人間、生きていくのに一番大事なことは、やっぱり人なんだ」
アキラにはさっぱり意味が分からなかった。そもそも、最後のくだりは日本語になっていない、と子供ながらに思ったものだ。
「ヒカリちゃんを見てごらん。挨拶をしっかりするだろう。これが大事なんだよ。人間、挨拶ができないと駄目なんだ」
挨拶がそんなに大事だろうか。アキラはその重要性が理解出来なかった。
「アキラ君は成績が一番かもしれない。けどな、別に成績なんて一番じゃなくてもいいんだ。人との繋がりが一番であってほしい。お父さんも、お母さんも、『アキラはいっつもムスっとしている』って困っているぞ。なあ、アキラ君。本当の君を皆に見せつけてやるってくらいの」
アキラはその時点で既に別のことを考えていた。叔父の言うことが、あまりにレベルが低く、他のことを考えていた方がマシだと思った。とにかく、合理的じゃない。
思い出しながら、アキラはグランドピアノの鍵盤蓋を開き、人差し指で白い鍵盤を押した。
ソ、ラ、シ。
だが、結局のところ、叔父の言うことの方が人間として正しかったのだろうと今更思う。
アキラは大学二年生の頃、勉学に頓挫を来たし、不登校になった。一種のノイローゼであると、心療内科で診断された。
どうしようもなくなり、引きこもり、ふさぎ込んだアキラを救ってくれたのは、家族だった。
まったく大事になんてしてこなかった。頭の悪さに苛立ち、いつしか興味すら失った。
そんなアキラを、家族が助けてくれたのだ。
シ、ラ、ソファ。
もう止そう。昔のことを考えたくなくなり、アキラは思考を止めた。苦い記憶を閉じ込めるように、鍵盤蓋を下す。
ふと、窓が目に入った。ふらりと近づき、外を見る。
窓からは離れが見える。アキラはそこに、人が居ることに気が付いた。その人物は離れの窓から顔を出し、のんびりと紫煙を燻らせている。
夕輝だろうか。アキラにはそう見える。いや、むしろ夕輝にしか見えない。
だが、おかしい。夕輝は眼鏡をかけているし、右手には指輪をしているなど、目立つ特徴がある。対して、煙草を吸っている人物にはいずれもない。髪型も夕輝と違う。
そこでアキラは気が付いた。藤堂家には確か、もう一人兄弟がいたのだ。藤堂朝陽。この家の長男だ。彼で間違いないだろう。顔立ちといい、体格といい、夕輝そっくりである。
どうでもいいことか。
アキラはそう思い、窓を開けてみた。
かんかん照りの太陽が、外を見上げたアキラを出迎える。じりじりと髪の毛が焼かれる気さえする。
「暑いな」アキラは呟いた。
想像通り、蝉が煩い。粗雑に重なった鳴き声に、到底堪えられそうにない。あまりに耳障りなそれは、深夜のテレビの砂嵐を想起させた。
***
警察が到着し、夕輝の部屋のドアが再び開かれたとき、アキラがひどく不機嫌な顔で立っていた。
警官が数名、部屋の中に雪崩れ込んだ。その中の一人に、アキラは部屋から摘み出される。
閉じ込めた調本人であるヒカリは、笑って誤魔化すしかない。
「ごめん、ごめん。でも仕方ないじゃん。和泉さんがそうしろって言ったんだから」ヒカリはアキラに、両の手のひらを見せて弁解をする。
「そうだとしても、俺が出る猶予くらいはあっただろ」アキラは不満顔で言う。
確かに、緊急だったとはいえやりすぎた。警察が到着するまでの十分弱、ずっと死体のある部屋にアキラを閉じ込めてしまったのだ。
「ちなみに、私はアキラさんを閉じ込めろとは、言ってませんからね」ヒカリの隣に立つ和泉が言った。「アキラさん。何かに触れましたか」
「いえ、何も触っていません」アキラはきっぱりと断言する。
ヒカリがドアを閉じた後、彼は警察が来るまで内側のドアノブすら触れなかった。アキラらしい判断だ。ヒカリは罪悪感を払拭するように、アキラに心の中で賛辞を送る。
「さて、現場検証といきたいところですが、それよりも」和泉は階段の方を見る。「居るのは雨音さんと蓮さんだけですか」
夕輝の部屋からやや離れた位置に、雨音と蓮が立っていた。雨音は蓮に甘えるようにしがみ付いている。場合が場合だからだろうか、蓮はしかめ面をしながら、雨音を引き剥がすようなことはしない。
「美雪さんと桐生さんは、どうしたのでしょう?」と和泉。
アキラに顔を向けられるが、ヒカリにもわからない。黙って首を振った。
「自分が聞いてくるであります」奥野がそう言い、蓮達に近づいていった。
美雪と桐生に知ってほしくない。ヒカリはまた胸が苦しくなった。
奥野に対して、蓮も雨音も首を振っている。美雪や桐生の所在がわからないのだろうか。ややあって、奥野が駆け足で戻ってきた。
「桐生さんは具合がひどく悪く、一階で休んでいるそうであります」
「美雪さんは?」和泉が訊く。
「それが、お二人とも、我々が帰ってから美雪さんの姿を見ていないそうであります」
「なら、美雪さんと最後に一緒にいたのは、俺ですね」アキラが少し落ち着かない様子で言った。「和泉さんと奥野さんが帰った後、音楽室で美雪さんと話をしました。その後、彼女の部屋に送ったのが最後です」
ことの重大さに、ヒカリは気が付く。背筋に悪寒を感じる。強風に煽られたように、心がざわつきだした。まさか、美雪まで殺されてしまったのではないか。
「とにかく、探しましょう」和泉が早口で言う。「まずは蓮さんと雨音さんに、美雪さんの部屋を確認してもらいます」
奥野が再び駆け足で蓮と雨音のもとに行く。
アキラがポケットからガラパゴス携帯を取り出した。何回かボタンをプッシュし、携帯を耳に当てた。発信音がヒカリにも聞こえる。
ややあって、アキラは携帯をパカリと閉じる。
「出ない」アキラの目つきが鋭くなった。
蓮と雨音が駆け足でヒカリ達を横切った。ヒカリ達もそれについていく。
美雪の部屋は、夕輝の部屋から二十メートルほど離れた位置だった。
美雪の部屋の前で、蓮がノックをする。「美雪。いる?」
返事はない。
「入るよ」そう言って、蓮はドアノブを捻るが、ドアは開かない。
「桐生さんに合鍵貰ってくる」雨音はそう言って駆け出した。
「俺はちょっと二階を探してみます」そう言い、アキラは階段へと向かって行った。
「自分もついていくでありますよ」じっとしていられないというように、奥野がアキラの後を追う。
蓮が拳でドアを軽く叩いた。額を握り拳に寄りかけ、大きくため息をつく。
「美雪」蓮が絞り出すようにして、妹を呼ぶ。
ヒカリは蓮の背に手を添えたくなった。悲痛な後ろ姿を、ただ見ていることが出来なくなり、右手を伸ばす。
もう少しで蓮に触れそうなところで、ヒカリは躊躇った。迷うなど、柄にもないとヒカリ自身思う。だが、ヒカリは所詮、他人に過ぎない。彼女達家族の痛みを知ることは出来ないし、蓮のように家族を失った過去はない。この手を添えたところで、何の救いになるというのか。
ヒカリの右腕が掴まれる。和泉の手だった。そのまま、彼はヒカリの手のひらを、蓮の背中にそっと乗せる。
和泉の顔を見ると、彼は静かに頷いた。
ヒカリは意を決し、蓮の背中を少しだけ撫でた。蓮は何も言わない、退ける様子もない。ただ黙って、ヒカリの手を受け入れているようだった。
「合鍵、貰ってきた」雨音の声が聞こえた。
蓮が振り返る。
雨音は鍵を蓮に放った。蓮は器用に左手で鍵を受け止め、そのまま鍵穴に突っ込んだ。
ガチャンとロックが外れる音がする。
開かれたドアの向こうは、暗闇だった。
ヒカリはくんと匂いを嗅ぐが、死臭はしない。代わりに、柑橘系が混じった暖かな花の香がする。
蓮に続く形で、ヒカリと和泉は部屋へと入った。暗闇の中、薄ぼんやりと虹色に光るものが目に入る。静かな駆動音を鳴らしながら蒸気を吐くそれは、加湿器のようだった。
暗香の正体は、アロマデフューザーか。ヒカリは思い至った。
蓮が部屋の電灯を点ける。
ああ、よかった。ヒカリは一気に安堵した。
何がどうとは表現出来ないが、空気が生きているのが、ヒカリにはわかる。死の無機質な冷たさや、生々しさとは縁遠い。活力のある温もり。美雪らしい、清純で優しい、そんな匂いがする。
美雪はベッドで眠っていた。よく耳を澄ますと、静かな寝息が聞こえる。
「寝てる?」後ろから雨音の声が聞こえた。
蓮は美雪の顔に自分のそれを近づける。
「大丈夫」蓮は言った。「寝てるだけみたい」
「えっと……」雨音は躊躇いがちに言う。「起こすの?」
ヒカリの胸の痛みが、一気にぶり返す。これから、彼女を残酷な現実に引き戻さなければならない。
「酷ですが、そうして下さい」和泉が言った。
蓮はため息を吐いた。前髪をかき上げ、頭頂部で握りしめる。普段クールな表情が、今は険しい。
「お願いします」もう一度、和泉が言う。
蓮はそっと美雪の体を揺すった。
「美雪。起きて」
「ん」美雪は小さく唸って、寝返りを打つ。
「美雪」再度、蓮が呼びかける。「美雪。起きて」
「ううん?」
美雪は手で顔をこすると、むくりと上半身を起こした。
美雪は眩しそうに目を細めていたが、ヒカリ達を見て、戸惑いの表情を浮かべた。そして、事態が想像出来てしまったのか、その表情が恐怖に染まる。
「美雪」蓮が三度呼びかけた。
「嘘」美雪の瞳から涙がこぼれた。呼吸が徐々に荒くなる。
蓮が美雪を抱き寄せた。
「夕輝が死んだ」
「やだっ」美雪は蓮を突き飛ばす。そのまま、ベッドから勢いよく飛び出した。
美雪は泣き顔で周囲を見渡す。呼吸が異常に速い。パニックを起こしている。
「信じられない」泣きじゃくりながら、美雪は言う。
「ちょっと聞いて、美雪」雨音が両手で美雪を制する。
その言葉は、美雪には届かない。
ヒカリは直感した。美雪の混乱がピークに達する。
絹を裂いたような悲鳴が、響いた。
***
蓮と雨音が美雪を一階に連れて行ったのち、ヒカリと和泉は夕輝の部屋の前に戻った。アキラと奥野が何やら話をしていた。ヒカリが昼に会った、沢谷も一緒だった。
夕輝の部屋から、発見された死体が搬送されていく。担架に乗せられたそれは、真っ白なシーツで覆われていた。
アキラは感情が読み取れない瞳でそれを追っていたが、やがて力なく俯いてしまった。ヒカリにはかける言葉が見当たらない。それは、他の姉妹達に対しても同じことだが。
「和泉。まだ現場保存の真っ最中だが、鑑識写真、穴が開くほどよく見とけよ」白髪の沢谷が言った。「お前、今日は夕輝さんと一緒だったんだろ? 何かわかるかもしれんからな」
「沢谷警部は、まだこちらに?」と和泉。
「俺は本部に戻る」沢谷が頭を掻きながら言う。「和泉。ここの指揮、任せるぞ」
アキラはちらりと沢谷を見る。
「そのつもりですよ」和泉が言った。「我々は昼に一度聴取していますので、その方が藤堂の方々にとって自然でしょう」
「よっしゃ」沢谷はヒカリとアキラに向き直り、手刀を切るようにしてお辞儀する。「それじゃ、あたしゃ失礼いたします」
ヒカリは去っていく沢谷を見送りながら、中年にしては随分身軽な人だと思った。
「これからどうするんです?」アキラが和泉に尋ねた。
「仕事は山ほどありますが」和泉は咳ばらいをして、アキラを見た。「さしあたっては、事情聴取ですね。まず、アキラさんから、よろしいですか」
***
アキラは夕輝の部屋に閉じ込められている間、ただ警察が来るのを待っていたわけではない。現場を荒らさぬよう、物には触っていないが、それなりに現場の観察をしていた。
ブー。ブー。ブー。
何の音だろうか。僅かに振動音がアキラの耳に届いた。周囲を見渡すが、音の発生源がわからない。部屋の外だろうかと思った。
それ以上に気になるのは、やはり死体の頭部と右手が切断されていることだ。その惨たらしさに、胃液が逆流しそうになるが、手で口と鼻を覆いながら注意を向けた。
衣類からして、その死体は夕輝で間違いないだろう。昼の聴取のときから変わっていない。
ブー。ブー。ブー。
先程から、しきりにバイブ音が鳴っている。
何だ? そこで、アキラはようやく気が付いた。死体から振動音が聞こえる。
非常に気になるが、いじってはいけない。後で警察に聞けばいい。
その他に気が付いたことといえば、近辺に斧が無造作に放置されていることだ。朝陽殺しのものと同じ製品だろうか。
しかし、直接の死因は別にあるとアキラは考えた。まず、昼にも幾らか議論されていたことだが、生きている人間の首を刈り取るのはまず無理だろう。さらに言えば、服が血で染まり、わかりづらいが、派手な外傷は他になさそうである。要は防御創と呼ばれている傷がない。
まあ、詳しい検死なども警察に任せればいいさ。アキラは思考の方向を切り替えた。
「問題はこれだな」気付けば、独りごちていた。
夕輝はスリッパを脱いでいた。襲われたはずみで脱げたわけではなさそうだ。スリッパはPCモニターが鎮座するデスクの真下に、丁寧に揃えて置いてあったのだ。
どう解釈するか。アキラは課題として頭の隅に留めておく。
ちらりとデスク脇のごみ箱が目に入った。白いポリ袋でカバーされているそれは、存外に底が浅い。一つ、小さい殻が入っている。すぐに薬の殻だと思い至った。夕輝が常飲していたのを、思い出したのだ。
アキラは周囲を見回した。デスクにモニターは二つ置かれている。回り込んで見てみると、デスクの下に本体が置いてある。電源は落とされているようだった。
PCの横にあるサイドテーブルには、電子工具のセットがあった。基盤は見当たらず、半田ごてと軍手がマットの上に置いてある。以前、夕輝は家ではずっとバーコードリーダーをはじめとした、電子機器をいじっているようなことを言っていた。
他に変わったところは。アキラは周囲を見回す。
「……ないか」
アキラは腕を組み。警察がドアを開けてくれるのを待った。死体と一緒に閉じ込められる羽目になろうとは。正直、げんなりする。
この死体を見せたくないんだろうな。そんな和泉の意図を汲み取りながらも、そのときはひたすら和泉とヒカリが恨めしかった。
***
「といった感じなんですが」とアキラ。
「流石に、現場に閉じ込めるのは拙かったですね」言葉とは裏腹に、和泉はあっさりとしたものだった。
聴取は昼と同じく、一階の和室で行われることとなった。藤堂家の面々の具合が慮られるが、最も心配された美雪と桐生が、気丈にもすぐに聴取に応じると言っていた。
ただし、和泉達は立場上、もう聴取の手を緩めることは出来ないだろうとヒカリは予想する。状況的に考えて、犯人は明らかに藤堂家にいた人物なのだから。
「これから藤堂家にいた皆さんから事情聴取を行いますが、その前に念頭において欲しい情報を整理しましょうか」和泉が隣に座る奥野に視線を送った。
「検死の結果ですが、ご遺体の状態から察するに、死体発見から死後二時間は経過しているとのことであります。司法解剖でもう少し詳しくわかるでありますよ」奥野が手帳を見ながら言った。
「俺達が最期に夕輝さんを見たのは、和泉さんと奥野さんが帰った直後ですね」とアキラ。
「たしか、それ十七時半前くらいだよね」
ヒカリの言葉に、和泉は頷いた。
「現段階では、死亡推定時刻は十七時半から十九時までということですね」アキラは腕を組んだ。
「まあ、これから四人に証言してもらうわけです」和泉はポンと手を叩いた。「何かわかることがあるでしょう」
「じゃあ、早速雨音さんからお呼びするであります」奥野が立ち上がり、和室から出て行った。
事情聴取が始まる。ヒカリは自身を静めるように、息を吐き出した。




