閑話~美雪~
閑話.
和泉と名乗った警察達が帰った後、美雪はアキラを連れて、二階にある音楽室へとやってきた。心に残った仄暗い感情が、どうしてもアキラと二人で話したいという衝動を突き立てたのだ。
落ち着いたはずなのに。
恐怖のあまり、トイレで吐いて。雨音の前で泣きはらして、抱きしめてもらって。蓮にも頭を撫でてもらって。ようやく、落ち着いたはずだったのに。
聴取で朝陽のことを話しているうちに、またどうしようもない恐れが甦ってきてしまったのだろうか。
美雪は窓を覗き込み、外を見た。アキラが確かにそこにいる気配を、背中に感じる。
「先生」美雪は彼に呼び掛けた。
「何だ?」アキラが返事を返す。
「本当は、警察の人、わかってるんじゃないですか」自分でも驚くくらい、声が震えている。「死んだのって、朝陽君だって、もうわかっちゃってるんじゃないですか」
「……いや、まだわかっていない」アキラは静かに答えた。
上手く言葉が出てこない。本当は、アキラに聞きたいこと、言いたいことが沢山あるのに。それらが全て不毛なことだと思うと、どうしても躊躇ってしまう。アキラは合理の人であると理解していた。
たった二十日間ほどの付き合いの家庭教師に、この感情を吐露したいと思うのは、一体何故だろう。
「楽になった方がいい」穏やかな声だった。「無理に悪心に抗い続けると、いつの間にか、身動きできなくなる。しようと思っても、何も出来なくなるんだ。嘘みたいと思うだろうが、実体験だ」
ゆっくりと、美雪が吐き出すのを促すように、アキラは言ってくれた。
「……先生にも、つらいことが?」
「俺の場合は、家族が死んだとかではないが。苦しんだ。大分ね」
アキラにそんな経験があったことが、意外だった。しかし、むしろアキラがそれを言ってくれたことが、美雪にとっては引き金になった。
それなら、いいか。
こらえなくても、いいか。
アキラに吐き出してしまっても、いいか。
「先生、私……」気を抜いたら、ぽつりと零れていた。「ここから、何回か朝陽君を見たことがあるんです」
アキラは黙っている。不思議と、背中越しの彼の沈黙が、拒絶ではないことがわかった。聞いてくれてるんだ。そう思ったら駄目だった。美雪の中で、彼女の感情を留めていたものが決壊した。
「ここから……。見えるんです。朝陽君がいつもいる、離れの部屋が。ギターをよく弾いてるんです。一人暮らしのアパートじゃ、近所迷惑になるから、弾けないんだと思います」
脳裏に、朝陽がギターを爪弾いている、いつかの昼間の光景が浮かぶ。
「ここの音楽室、防音なんです」アキラにそのことを言ったのは、二度目だったと思う。「防音なんですよ。ここ。ギターの練習なら、ここで弾けばいいのに……」
美雪は無理やり笑顔を作り、振り返る。
アキラはもの柔らかな眼差しで、美雪のことを見ていた。その静かで優しい目の光が、かつての兄が重なって見えた。
昔、反抗期だった頃に、朝陽に酷い言葉をぶつけたときを思い出す。居合道の大会で敗けて、悔しさに涙したとき。テストで悪い点を取り、父に怒られしょげかえったとき。友達と喧嘩して、傷ついたとき。
朝陽はいつでも、美雪のことを、この眼差しで見守ってくれていたではないか。
涙が美雪の頬を伝った。
「言いたかったよ……」零れる滴が熱い。胸が苦しい。喉が腫れているのがわかる。「言いたかった。戻って来てって」
嗚咽が上がるのを、もう抑えることができない。
「言いたいこと、まだ沢山あるよ。まだ私、何にも言ってない。『ありがとう』も、『ごめん』も……」
追いつけない。濁流のような感情に、言葉が追いつかない。もう何も言うことができなかった。涙を止めることもできなかった。ただ咽び泣くだけだ。
アキラはどうすればいいのかわからず、困った様子だった。そっと、物静かな子供が野良猫に触るように、遠慮しがちに美雪の頭へと手を伸ばす。
優しく頭を撫でる手が、再び朝陽のそれを思い出させ、今度は大声で泣いた。
ごめんなさい。朝陽君。
第二話終了となります。
ヘッドホン使えば騒音にはならないのでは。




