美雪と雨音の証言
二番手は藤堂美雪だ。夕輝が出ていった後、ほんの数分で、彼女は和室に現れた。
憔悴した様子は相変わらずであったものの、やや落ち着きを取り戻したようである。顔の血色が幾分かましになっていた。
美雪は和泉の正面に、静かに正座した。背筋が良く、その美しさにヒカリは息を呑む。
「心中お察しします」和泉は開口一番にそう言った。
美雪は黙って頭を下げる。顔を上げると、おずおずと口を開いた。
「あの、どうして先生とヒカリさんがいらっしゃるんですか」
「当然の疑問だ」アキラが間髪いれずに言った。「俺もいまいち……。いまに、いまさんくらい分かっていない」
「はあ……」美雪は余計に困惑したようだ。
「まあ、いつもの授業通りに喋ってくれればいいということ……」アキラが和泉に向き直る。「ですよね?」
「もちろん、その通りでお願いします」和泉は柔和な笑みを浮かべた。
「ごめんね。美雪ちゃん」ヒカリは謝罪した。実のない謝罪だと自分で理解していた。何を謝っているのかが伝わらない。だが、この場に一般人であるヒカリとアキラがいることを納得させるには、下手な説明よりも謝罪の方が効果的ではないかとヒカリは考えた。
「ああ、いいえ。いいんです」案の定、美雪は突然の謝罪に一瞬おたついたが、疑問は胸の中に飲み込んだようだった。
「さて、藤堂美雪さん」和泉が言った。「いくつか、簡単な質問をさせて頂きます」
「はい」
「昨晩ですが、美雪さんが何をしていらっしゃったか、詳しく教えて下さい」
「七時に夕食を食べた後、自分の部屋で勉強をしていました」美雪はあっさりと答えた。
あまりにもあっけなく答えたもので、ヒカリは不意を突かれた気分になる。突然アリバイを探るようなことを聞かれては、美雪は動揺するに違いないと思っていたからだ。
「あまり、驚かれていませんね」和泉も少々引っ掛かったようだ。
「何を質問されるか、兄から聞いたんです」美雪は少々済まなさそうに言った。
「なるほど」和泉は続けた。「自室で勉強というのは、アキラさんの授業ではない?」
「はい。自習です」美雪はちらりと隣に座るアキラを見る。
「ずっとマンツーマンだと、息が詰まりますから」目配せを受けたアキラが証言をした。「夜の時間はフリーな日が多いです。暗記だったり、復習だったり、一人でやったほうが能率良いことは、その時間にやってもらっています」
「夕食後、どなたかに会ったりはしませんでしたか」和泉は更に尋ねる。
「いえ、誰にも会っていないです」美雪は首を振った。「気が付いたら、夜の十一時を回ってたんです。疲れが来たので、そのまま寝てしまいました」
「お兄さんといい、すごく熱心な努力家なのでありますな」と奥野は呟いた。
「兄達に比べると出来が悪いので……。これくらい当然にこなさないと駄目なんです」美雪は苦笑を浮かべた。
ヒカリは頭の中で情報を整理した。夕輝の証言によると、夕食後というのは午後七時半くらいのことと考えていいだろう。三時間半も集中して勉強していたなんて、ヒカリからしてみれば到底考えられない。
「特にそれ以外に説明できることはないんですけど……」美雪が言う。
「ええ、十分です。次の質問です……」和泉が続ける。「夕輝さんから伺ったのですが、美雪さんは朝陽さんと連絡を取り合っているそうですね?」
「はい。ときどき電話や『call』でやりとりしてます」
「最期に朝陽さんと連絡をしたり、あるいは直接会ったりしたのはいつか覚えてらっしゃいますか」
「一週間以上前です。先々週の土日に、うちに帰ってきてました」この証言に自信があるのか、美雪ははっきりと答えた。
「ええと、先々週の土曜日は……、八月十日であります。十一日前になるでありますな」奥野は手帳のカレンダーを見たようだ。
「直接、朝陽さんと会ったのですか」和泉が詳しく聞き出した。
「はい。新しい絵画を観せてもらいました」
ヒカリは思わず反応する。
「その絵画について、朝陽さんは何か仰っていましたか」和泉も気になったようだ。
「……『アリア』」美雪がやや思案したのち呟いた。「『アリア』という名前? 通称? ……だと言っていました」
案の定だとヒカリは思った。
「美雪さん。朝陽さんが屋敷に戻ったのは、それが最期なんですね?」和泉は確認する。
場合によっては、これは重要な証言ではないか。
「いえ。私が見たのは最後という意味です。実際はどうなのかはわかりません」
「もし、朝陽さんが誰かをご自宅に呼んだとしても、気が付きませんか」
「私は基本的に、ずっと自分の部屋で勉強漬けですから」美雪は申し訳なさそうだ。「もしかしたら、昌子さんなら知っているかも。リビングにいれば、誰か帰れば気が付くはずです」
「わかりました」和泉はそれ以上、追及しなかった。
ヒカリはメモを取りながら、考えを整理した。まず、死体の頭部と右手が切断された目的が、宝物庫のセキュリティ解除であるという仮説を大前提とする。犯人の目当ての美術品は何だっただろうか。その答えは『アリア』だ。夕輝が昼に無くなっていたのを確認したという、『アリア』が犯人の狙いだった可能性が非常に高い。
それを踏まえると、犯人は宝物庫に『アリア』が飾られていることを知っている人物ということになる。
美雪の証言通りなら、『アリア』が宝物庫に飾られたのは、先々週の土曜日。十一日前である。つまり、『アリア』の存在を知ることができるチャンスは、今日までの十一日間だけということだ。
ということは、この十一日間で朝陽に屋敷に招かれ、『アリア』を観た人物が犯人である可能性が高い。
ヒカリは真実にかなり肉薄した気がした。
もちろん、頭部と右手の切断が窃盗目的であるという、未だ曖昧な仮説の上に成り立つ推理ではあるが。
「朝陽さんと連絡を取っていた中で、朝陽さんの身に危険が及ぶといった話はなかったですか」
「いいえ。そんな話は全く」美雪はかぶりを振った。「もし何かあったとしても、兄は私には話してくれないと思います」
それはそうだろうとヒカリは思う。そんな危険な話を、親ならまだしも妹にできるはずがない。
「今回の件、本当に心当たりはないのですね?」和泉は念を押す。
「それは……」美雪はうつむき、小声で言った。「誰か教えてほしいくらいです」
ヒカリから見て、今の美雪の様子は痛々しくて仕方がない。質問をしている和泉は、こういった遺族の様子に慣れているのだろうか。表情の変化が、事務的な微笑み以外にあまりないよう思える。その隣の奥野は、大分悲愴な表情をしているが。
気になったのは、アキラの様子だ。何か気にしているように思えた。それは、教え子に対する同情だけではない。美雪からの情報で、引っ掛かる点があったのだろうか。
「最後の質問です」和泉が言った。「朝陽さんは、藤堂家の皆さんとは疎遠になっていたようですが、美雪さんから見て理由は何だと思いますか」
「んん……」
美雪が僅かに唸り声を上げた。美雪にとって、かなり難しい質問のようだった。
「……昔、いつ頃か覚えていないんですけど」美雪は口を開いた。「蓮ちゃんのお母さんが、交通事故で亡くなったんです」
蓮の母親の話は、ヒカリも和泉も知っている。数ヶ月前のある事件で、蓮が重要参考人になったときに、警察が蓮の身辺調査をしたのだ。
蓮は藤堂大地の娘ではない。美雪達にとって、姉妹ではなく従姉妹なのだ。蓮の母親は藤堂大地の妹である藤堂空子だ。数年前に自動車事故で他界している。
空子を乗せた自動車が、突然車道に飛び出した自転車をかわそうと、急カーブした。車はそのままガードレールにぶつかり、その衝撃で後部座席の空子はフロントガラスに激突。首の骨を折り、即死だった。後部座席でのシートベルト着用が義務付けられていない時代だった。
簡単に事故の顛末を思い出したヒカリだが、今回の件とその話が、どう繋がるというのか。
「その事故のドライバーだったのが、朝陽君……、兄だったんです」
そうだったのかと、頭の中で手を叩いたヒカリである。確かに、事故を起こしたドライバーは、空子の甥だったと聞いている。
「蓮ちゃんはもちろん兄を恨んだと思います。けど、父や夕輝君、雨音ちゃんも……、事故のだいぶ後に知ったんですけど、朝陽君が事故を起こしたことより、そのあとの態度に対して思うところがあったみたいです」
「美雪さんご自身は、どう思われたのですか」
「私は当時はまだ中学生で、ただ父が兄を厳しく責めて、兄が反発しただけだと思っていました」美雪は俯いた。「兄のことを悪く思ったことはありません。兄が可哀想だと思うくらいでした」
「もしかして、朝陽さんが大学を退学されたきっかけは、その事故がきっかけだったのでありますか」奥野から素朴な疑問があがる。「事故のショックで、大学に通える精神状態でなくなってしまったとか」
「兄から直接聞いたわけじゃないですが、そうだと思います。兄が退学したとうちで大騒ぎになったのは、事故の直後ですから」
「夕輝さんは、朝陽さんがおうちの方と喧嘩した原因は、退学にあると仰っていましたが」と和泉。
「はい。私が最近知ったというのは、それのことです」
和泉がふむと息を漏らした。「ご兄弟から聞いたのですか」
「姉……、雨音ちゃんです」美雪は答えた。
「そのことを知ってから、朝陽さんへの見方は変わりましたか」
「いいえ」きっぱりと美雪は言った。「むしろ、やっぱり兄は優しいのだと思いました」
どういうことか、ヒカリには理解できない。
「どういうことですか」和泉も同じ疑問を抱いただろう。
「兄は家を出るきっかけを作りたかったんです。自分がいると、蓮ちゃんがこの家に住みにくくなるから」美雪は悲痛な笑顔をみせた。「私には、わかるんです」
***
和泉の前に、美しい栗色の髪をふんわりとさせた、綺麗な女性が正座した。微笑みをたたえたその表情は、これから警察と話そうという人のそれとは、ヒカリには思えない。
「藤堂雨音さん。少しだけお話を聞かせてください」
「どうぞ」雨音は随分とリラックスしているようだったが、その落ち着きぶりは夕輝の態度とは性質が明らかに異なる。ヒカリはこの女性が美雪を慰めていたことを思い出す。兄が死んだかもしれないという状況にしては、余裕たっぷりという印象を受けた。
「昨晩ですが、雨音さんは何をしていましたか」
「昨日の夜は、ずっと家ですよ。晩御飯を食べて、何時からだっけかな? リビングでお酒を飲んでました」
「大体でいいので、時間を覚えてらっしゃいませんか」
雨音は腕組みをして、瞑目した。数秒ほどそのポーズだったが、やがて眼を開き、隣に座っているアキラに顔を向けた。
「何時だったっけ? 先生」
「九時半から十一時半までじゃあなかったですか」アキラは前髪をいじっている。
なんであんたが知ってる。ヒカリは心の中でツッコミを入れた。
「ああ、そうだよね。それです。九時半から十一時半くらいまでです」雨音は和泉に向き直った。
「待ってください」和泉がストップをかけた。「アキラさん。それは間違いないですか」
「だって、先生と一緒に飲んでましたから」雨音が胸を張る。
「間違いないです」アキラは顔を逸らした。
あっきれた。
ヒカリは頭を抱えた。家庭教師が家の美人長女と晩酌。あっていいのだろうか、そんな体たらくが。ああ、だらしない。ヒカリの中で、アキラの株が大暴落した。
「お二人で……、ですか」和泉も流石に意外だったらしく、声のトーンがやや狂った。
「蓮や昌子さんも誘ったんですけど、二人とも忙しそうでしたねえ」
「そのお二人を誘った時間は?」
「晩御飯の後、ちょっとしてからですよ。正確にはわからないですけど、ほんとに十分後とかそれくらい」雨音の目線が右斜め上を向いた。記憶を辿っているようだった。「蓮は何かやることあるって言ってて、昌子さんは仕事中だからってふられちゃいました。ああ、でもおつまみを用意してくれましたよ。飲み始めた頃に」
「夕輝さんは?」
「夕輝はいっつもつれないですから」雨音は肩をすくめた。「邪魔しちゃ悪いと思って、誘ってもないです。それに、よく考えたら、先生と二人のほうが楽しそうだし」
ヒカリはアキラをどう料理しようか考え始めた。
「うらやましいでありますな」奥野が言った。言葉とは裏腹に、微笑ましい話を聞いたかのような朗らかな声だった。
「よく、わかりました」和泉も微かに笑っているようである。「……さて、次の質問です。今回の事件、何でもいいので思い当たることはありませんか」
「さあ」雨音は首をかしげた。「朝陽は殺人事件に巻き込まれるほど、馬鹿じゃないと思いますけど」
「しかし、事実こうして巻き込まれています」和泉は言った。「本当に心当たりはありませんか」
「ううん」雨音は困ったような表情を、茶目っ気たっぷりにみせた。「朝陽が大学辞めてから、あいつのこと全然知らないんですよ、ホントに」
「最後に話したのはいつ頃でしょうか」
「忘れました」雨音は即答した。「あいつが家を出るとか言い出してから、何か喋ったかな? まあ、最後はだいたいそれくらいですよ」
アバウトな回答だったが、それだけ昔のことならば有意義な証言にはならないだろうと、ヒカリは思った。
「殺人事件に巻き込まれるほど馬鹿ではない」和泉は反芻した。「そう仰ったのは、何かしら最近の朝陽さんについて、ご存じだからではないのですか」
「いいえ、別に。あいつ、昔は頭良かったし。そんな印象が残ってただけです」雨音はあっけらかんと言った。「まあ、大学辞めたときは、流石にトチ狂ったのかと思ったけどね。あいつの頭が良すぎて、あたしには理解できないだけかもしれないけど」
随分と朝陽を評価していると、ヒカリは感じた。一周回って馬鹿にしているのかとも思えるが。
「雨音さんは朝陽さんを嫌っていますか」和泉が率直に尋ねる。
「嫌いって程じゃないですよ。疎遠になっちゃっただけで」
「疎遠になったきっかけは?」
「多分、前の二人と同じこと言いますけど」雨音の表情が苦笑いになった。「あいつが一時期荒れだして、ちょっと話しかけられなくなっちゃったんです」
和泉は顎に手をやった。
確かに、夕輝や美雪の証言とほぼ一致していると、ヒカリは二人の話を思い出す。やはり、美雪の言うように、空子を亡くした事件と同時期で間違いないのだろうか。
「それは、朝陽さんが起こしてしまった交通事故と関係がありますか」ヒカリの疑問を、和泉が代弁する。
「そうですよ。あの事故から、朝陽は荒れだした。まあ、そんなにタカが外れたみたいに無茶苦茶してたわけじゃあないけど、夕輝や父さんには随分口汚く罵ってたよねぇ……」
雨音は中空を仰いだ。微笑みは消え、遠い何かを見つめるような顔つきになっていた。
「何とかしてあげたかったな」ぽつりと雨音は零した。
その言葉に、ヒカリは不意を突かれたように、心を動かした。かつて、不干渉を互いに貫いていた弟のことを思い出す。あの時間を悔やむ気持ちを、今まさに雨音は感じているのかもしれない。
和泉も奥野も、そしてアキラも、雨音が思いを馳せているのを慮ってか、何も言葉を発することができないようでいた。
しばらく、沈黙が続いたが、「ああ、ごめんなさい。続きをどうぞ」と、雨音は聴取の続きを促した。
「では」和泉は改まる。「宝物庫のことで、幾つか伺います。まず、最後に宝物庫に入ったのはいつですか」
「だいぶ、昔です」雨音に微笑みが戻る。「正確な日にちは覚えてないけど、もう何か月も行ってないですよ。そもそも、自分じゃ入れないし」
「では、宝物庫に最近入った人はわかりますか」
雨音は首を横に振る。
「わからない。夏休みとはいえ……、夏休みだからこそ? あたしは普段外にいます。大学だったり、友達と遊んだりね」
「そうなのですか。サークル活動?」和泉がやや表情を柔らかくして尋ねる。
「です。クレー射撃とかテニスとか。あと乗馬だよね」雨音は楽しそうに笑った。「これでも、結構忙しいんです。宝物庫のことは全然わからないですよ」
雨音は完全なアウトドア派のようだった。朝陽が誰かを宝物庫に招き入れるような時間帯には、彼女は外にいることだろう。それでなくとも、宝物庫は藤堂家の最深部といっていい場所にある。普通に屋敷の中で過ごしていても、誰がいつ入ったなど知る由もない。雨音が何も知らなくても無理からぬことだ。この分だと、蓮からの証言も期待できそうにないと、ヒカリは思案した。
「では、『アリア』と呼ばれている絵画について、何か知っていることはありますか」
雨音は顎に手をやった。
「朝陽さんが最近購入した絵画だそうです。夕輝さんも美雪さんもご存知でした」
「ああ、わかった」雨音は体を揺らした。「夕輝が何か言ってたような気がする」
雨音はしばらく記憶を辿っていた様子だったが、やがて肩をすくめた。
「いや、夕輝からそんな名前を聞いただけ。あたしは何も知らないです」
「そうですか。わかりました」和泉は頷いた。「最後に一つだけいいでしょうか」
「はい」
「亡くなったのは、朝陽さんだと思いますか」
瞬間、雨音の微笑みが固まった。場の空気が凍てついてゆくのを、ヒカリは感じた。アキラを見ると、彼は静かな瞳で、雨音を観察するように見つめている。
雨音の表情は変わらない。ただ、ゆっくりと、そしてごく僅かに、首を傾げるだけだ。
やがて、和泉が静寂を破った。
「結構です。お話、ありがとうございました」




