悠久の夏
一時間に四本の電車が停車するという、中途半端な田舎の駅から歩いて十五分ほど。俺は、くしゃみをしただけでも崩れてしまいそうなくらい古い木造の平屋の前に立っていた。
滲む汗をそのまま引き伸ばしてまとわりつくような熱気と、痛みを伴うほどの陽射しから逃げるように、小さな扉を開ける。
「ごらん。決心がついたようだ」
外の陽射しが一気に消え失せて真っ暗になった視界の向こうから、鈴を鳴らすような声が囁いた。
「人の世に寂ぶることの虚ろよ」
暗闇に慣れてきた目をこする。玄関などはなく、外観からは想像しにくいくらい、商店のような広い空間があった。普通の乗用車が二台は入りそうなスペースだ。
その広く何もない間取りの奥で、ひとりの少女が小さな椅子に座っている。艶やかな黒髪を床につくほど垂らした十七かそこらの少女は、俺と視線を合わせると、真っ白な肌にのせた目の覚めるような朱い唇をはっきりと笑みの形に吊り上げて、丸い瞳をすっと細めた。
「ナレは何を求むるか」
少女が座ったまま、歩み寄る俺を見上げて尋ねる。
「それは人に求むるものか」
俺は答えなかった。
「それでは……」
沈黙する俺を見上げて、少女が細い腕を持ち上げる。赤い和服の袖が溢れ落ちて、そこから伸びる白い指が俺を指した。
「妾に求むるものか」
▼▼▼
俺が初めてあの木造家屋に足を踏み入れたのは、小学生の頃だ。その時は、少女はまだ俺よりも年上だった。あの日は八月の暑い日で、詳しい日付は憶えていないが、当時まだ健在だった祖母が"お盆だから"と言っていたのはぼんやりと記憶にある。
夏休みの宿題が一向に進まなかった俺は、自由研究のために近所の藪を歩き回って、手当たり次第に虫を捕まえていた。捕まえた虫を適当にスケッチなりなんなりして、特徴を書いてまとめたものを自由研究として提出してやろうと思ったのだ。
俺の地元は、田舎というほどの田舎でもなければ、都会といえるほど開けてもいない。田畑が広がるほどの土地もなく、ショッピングセンターが店を出すほどの人もいないような中途半端な過疎地では自由研究として成立させられるほどの虫もいなかった。特に珍しくもない普通の小さな虫を探し歩いていた俺は、ある時、藪を抜けた先に小さな家が建っているのを見つけた。
「……ナレはやはりこんなものよ」
不自然なくらい他には何もない広々とした空間にぽつんと存在する小屋を眺めていた俺の隣に、いつのまにか、そんなことを呟いて呆れ顔で笑う少女がいた。小学生だった俺は、捕まえた虫の小ささを笑われたような気がして、恥ずかしくなって走って逃げ出した。
「また来るのだろう。そのままでいてくれよ」
走りながら聞いた鈴を鳴らすような声を次に耳にしたのは、それから数年経った高校生の頃だ。
ーーー
二回目も、夏の暑い日だった。
俺は高校生になって、少女の身長を追い越していた。
当時にはもう、すでに俺はいまと変わらない人間になっていて、友達のいない俺は、夏休みに何をするわけでもなく、ただ意味もなく地元をふらふらと散歩していた。盆休みで実家に集まっていた親戚が、よく日に焼けた俺を見て何か運動部にでも入っているのではないかと勘違いしたくらい、ずっと無意味に。
ある日のことだ。また目的もなく散歩していた俺は、アイスを齧りながら、ふと小学生の頃の妙な小屋を思い出した。いつもなら昔のことを思い出したり、ましてや思いをはせるなんてこともあり得ないのに、その時はどういうわけか、小学生の夏休みの一日を鮮明に思い出すことができた。
自由研究なんてもののためにつまらない虫を捕まえたこと、その時に通った道、小屋までのルート、それから……。
「流石としか言い様がない」
耳元で囁かれた、鈴を鳴らすような声。
いつの間にか、俺は件の小屋の前に立っていて、隣には俺より背の低い少女がいた。
「無常よ、無常。ナレはそれで良い」
そう言って笑いながら、少女は俺が咥えていたアイスを引っ手繰ると、一口齧ってから捨ててしまった。
ーーー
二十歳を過ぎた俺は、ついに人生を惰性で生きるという術を身につけてしまった。
大学入試に失敗し、バイトをしながら浪人を一年やってみたものの、結局バイトにも勉強にも身が入らず、いくつかのバイトを転々とし、毎月の出費に追われ貯金などもせず、学歴も資格もないまま、いまだに時給で計算される仕事をだらだらとこなす日々が続いていた。このままではいけないと思わない日などないが、逃避と申し開きに慣れ親しんだ俺は、仕方ないなどと言って自らの希望を遮り、心地よい泥沼をただよっている。
そうして、だらだらと過ごしていた毎日のなかのどこか、何をしたか記憶も曖昧な工場での流れ作業の報酬を受け取るために、家から五つ離れた駅前にある雑居ビルの一室に立ち寄ってから、俺はまたあの小屋の前にいた。
それが、一昨日のことだ。
「ナレはどうしようもない男よ」
気がついたら目の前に少女がいて、俺の鞄から先ほど受け取ったばかりの封筒を抜き取った。
「……三万円。くく、三万円だ。一週間頑張って奉公したのになぁ」
少女は俺が工場勤務で得た給料を数えて、喉を鳴らすようにして笑う。
「呼び出されては働いて、身を削ってもこの程度よ。まこと人の世というのは面白きものだ。のう?」
鞄に封筒を戻して、少女が俺を見上げた。
その姿を、俺はずっと眺めている。
たぶん、どこかで会ったことのある人なんだと思った。
小学生、高校生と、その二回以外にも、もっとたくさん、俺は彼女に会ったことがある。
「どうだ、妾に聞かせてみろ」
そう言って俺の手を引く少女に連れられて、俺はあの木造家屋に入った。
広い空間で、少女は椅子に、俺は立ったまま、いまの人生で初めて彼女と口をきいた。
転生しても俺の本質が変わらなかったこと、俺が彼女以外の友達を作るということに向いていないこと、自由研究がつまらないこと、アイスは慣れるまでは口に入れても吐き出してしまうこと、日銭を稼ぐための日雇い労働は、むしろ損をしているということ。
「ほら、思い出した」
俺が話し終えると、彼女は嬉しそうに目を細めて呟いた。
「これで分かったろう。ナレは妾のもとにおれば良いのだ。人の世に生きようなどとゆめゆめ思うでないと、あれほど言ったではないか」
彼女はどこからか取り出したアイスを齧り、眉を顰めてから俺を指差す。
「このまま何とかなると思うのなら、このまま生きてゆけば良い。無理だと悟ったなら、三日以内に妾のもとへ参れ」
指差した手をおろし、だらりと流れた袖が、かすかに床を擦る。やはり口に合わなかったのか、床に捨てられたアイスが水たまりを作っていた。
▲▲▲
「妾に求むるものか」
俺は、椅子に座る彼女の足元に跪いた。
彼女の伸ばす指が、俺の額に触れる。
今回の俺の人生は、ここでおしまいになるようだ。
「……しかし、手間をかけさせおって」
彼女はそう呟いてから、満足そうに頷いた。
「ほら、分ったなら帰るぞ」
▲▼▲
ふと、目がさめる。
見上げる天井は、よく見覚えのある古びた小屋のものだ。
横たえていた身体を起こすと、持ち上がった視界のすぐ先に彼女がいた。
真っ赤な着物を着て、黒々とした長い髪を床に溢した彼女が、おなじみの真っ白な顔を俺に近づけて囁く。
「分かったろう。汝は妾のものだ。たとえ千歳過ぎた世でも、汝は妾がいなければ幸せにはなれぬ」
勝ち誇ったように笑う彼女に引かれ立ち上がると、視界にはやはり見覚えのある、懐かしい様々なものが入り込んできた。
「慣れろ。思い出せ。戻ってきたのだ、一千年もの世を」
たしかに、覚えている。
俺は神を自称する彼女に連れられて、人里離れたこの小屋にやってきた。彼女は俺を帰そうとせず、俺が彼女から離れようとしても、「汝は妾と離れても幸せにはなれぬ」と言い張るばかりで、本当にそうなのか試してみようという話になったのだ。
俺もそんな話は信じていなかったが、体験したものは仕方ない。
「分かってくれたか。汝はもう、妾から離れないな?」
俺は頷く。
「本当に離れないな?」
不安そうな顔で俺を見上げるので、俺はさらに強く頷いた。
「離れないって言って」
「離れない」
「良い」
不安そうな顔からすぐに上機嫌になった彼女が、俺の腕を引っ張って小屋から出る。
夏だったが、未来の世界より涼しかった。
「妾は神だ。そばにいれば、必ず幸せにしてやるからな」
俺の腕に抱きついて、幸せそうに目を細める彼女だが、ひとつ疑問がある。
「……で、何の神様?」
「貧乏神」
「おい」
おしまい




