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さよならキャット 【修正版】  作者: 京本葉一
スイーツタイム
3/35

2 無抵抗な猫

 ドアの前に、キャラメル色の猫がいる。


 理香は立ち止まり、いつもと違う光景に理由をもとめた。

 なんで私の部屋の前にいるんだろう。この階で猫を飼っている人はいなかったはずだ。首輪もないし、野良猫かもしれない。でも、どうやってここまで? ここって三階だし、マンションの入り口はオートロックなんだけど……。

 疑問を抱きながらも、理香は猫に近づいていった。

 気になるけど、とにかくいまは、部屋に入ってくつろぎたい。


 猫は蜂蜜色の瞳で理香を見ていた。注意は向けているようだが、動く気配はまったくない。ドアの前に居座り、やたらと長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。ふくよかで大きな身体が、ドアを開ける邪魔をしていた。

「ちょっとごめんね」

 傷つけないように、そっとドアを開ける。

 と、猫が動いた。

 すっと動き出した猫は、わずかにできたドアの隙間から、するりと部屋に入る。理香の戸惑いをよそに、何のよどみもなく玄関から奥へと進んでいった。


 なんで入るの? しかも、私よりさきに。


 急に荷物が重くなる。

 なんだかわからないけれど、入ってしまったものはしょうがない。

 理香はあきらめてドアを閉めた。


 猫のことはわからない。そもそも動物には馴染みがない。動物にアレルギーをもつ親がいると、ペットを飼うことはもちろん、近所の犬や猫にもさわらないでほしいと言われてしまう。さわった動物といえば、進一がしょっちゅう世話をしていた柴犬のタローくらいだ。雨に濡れたときの臭いは忘れようもない。かわいい子だったけれど、臭いのはダメ……。


 ……猫は、どうなのだろう?


 ふっと思いたち、不安がよぎる。


 それに、猫ってなにかしたりしない?


 いつもより、ブーツを脱ぐのに時間がかかる。


 猫は服や壁紙を傷つけるのかもしれない。ベッドのうえで跳びはねるのかもしれない。衣裳部屋と寝室のドアは閉めたはずだから、そこを荒らされる心配はないと思うけど。

 理香はブーツを脱ぎ捨てて、いそいで猫のあとを追った。


 キャラメル色の猫はキッチンにいた。冷蔵庫のまえで桃色の鼻をヒクつかせている。ふくらんだ不安はあっさり消滅。理香はほっと息をついて、ダイニングテーブルのうえに荷物を置いた。

 お腹が空いているのかな。

 猫ってなにを食べるのだろう。

 エサをあげたら居ついちゃうかも。

 猫をながめていても、考えがまとまらない。とりあえず衣裳部屋に入り、ヨガもできるリラックスパンツと長袖シャツに着替えた。衣裳部屋から戻ると、猫は冷蔵庫のまえから消えていた。あたりを見回すと、寝室のドアが開いている。

 さっきまでドアは閉まっていたはず……あの猫が開けた? ドアのレバーを下げて押したの?

 おそるおそる、寝室のなかを確認する。

 猫はベッドのうえからこちらを見ていた。ためらいながら、理香がゆっくり近づくと、猫はふたたび動き出す。ベッドの中央から枕元に移動して、そのまま出窓に跳びうつった。


 猫が落ち着いたのは、出窓に置かれていた、時計のとなりだった。

 目覚まし機能もついていないのに、いつも枕の近くに置いてある時計。引っ越しをしても、置き場所だけは変わらない。グレーとブラックの色合いは好みでもなく、安っぽい時計ではあるけれど、理香はそばに置きつづけていた。


 夜の街を見下ろしながら、猫はやたらと長い尻尾を大きく振りまわす。勢いのついた尻尾がぶつかり、プラスチック製のアナログ時計は、いともたやすく倒された。

 理香はあわてて出窓に近づき、時計を抱えあげる。

 詫びることもないキャラメル色の猫に視線をむけた。その態度からして、この猫が思い通りに動くとは思えない。ふくよかな身体つきが、さらに不動のイメージを強化させる。

 どうしようかなぁ、この猫。

 考えようにも知識が無さすぎる。

 理香は考えるのをやめようとして、ふっと思いついた。


 そうだ、進一に聞こう。


 理香は時計を抱えたまま寝室をでると、ダイニングテーブルにおいたバッグから携帯電話を取り出した。鼻歌を歌いながら、時計をやさしくテーブルに置くと、薄型テレビの前にあるソファーをめざす。二人で座れるクリームレモンのソファーに、どっと身体を沈めて、携帯電話を両手で操作しようとして、理香は固まった。


 進一への電話をためらうのは、はじめてではなかった。


 いつからだろう。

 夜中に電話をかけるのは、たしかに迷惑だと思う。でも以前なら、迷惑なんて思いつく間もなく進一に電話をしていた。夜中の二時でも三時でも、平気で朝まで話し合っていたのに……。

 携帯電話を操作して、メールの受信ボックスをみる。

(いいよ。また次の機会にしよう)

 そんな進一の返信メールが、液晶画面にあらわれる。


 いつからだろう。

 今度はいつ会えるって、聞かれなくなったのは……。

 進一と最後に会ったのは三週間も前だ。よその劇団にも呼ばれるようになって、舞台の仕事はずいぶん忙しくなった。練習時間も大幅にふえて、デートの約束をキャンセルしたのも、一度や二度じゃない。進一がいつ会えるのか聞かないのは、当たり前なのかもしれない。引っ越しをして、電車で二駅の距離まで近づいたのに、進一と会える時間は、ずっと少ない。


 いつからだろう。


 ときおり進一が、遠くを見るような眼差しを向けるようになったのは……。


 異音が響いて、理香は過去から引き戻された。

 重たいものが落ちたような、ドン、という響き。

 すぐに猫が思い出されて、理香は寝室のほうへと注意をむける。

 寝室から、猫がとつとつ歩いてきた。ソファーへまっすぐ向かってくる。うろたえる理香のことなど気にもとめず、猫はそのままソファーにあがり、理香のとなりで丸くなった。人間に対する敬意もなければ、警戒心もなにもない。瞳を閉じた猫の身体は、ゆったり膨らんでは縮んでいる。その姿に、敵意も問題もあるとは思えない。


 理香は静かにソファーを離れて、携帯電話をテーブルに置いた。




 理香は温めた海鮮焼きそばと生春巻きをテーブルにならべた。

 夜食はいつも夕食の残り物ですませている。劇団仲間に感化されて、外食での食べ残しを平気で持ち帰るようになっていた。


 夜食を食べてもスタイルは変わらない。

 小腹を満たすためであり量は多くなかったが、たとえ多くとも変わらないと信じている。

 太らない体質に生んでくれたことを、理香は何度となく両親に感謝しており、裕福な家庭であることにも感謝が絶えなかった。劇団員の多くは経済的に苦しく、彼らの姿をみているだけで、自分の恵まれた生活に手を合わせたくなる。仲間に食事を奢ることができるのも豊かさのあらわれだ。いくら哀れさに心を痛めても、ないものはあげられない。

「感謝しないとね。少なくとも、勘違いはしないように」

 樹里にそう言われつづけて、理香も自覚はしている。劇団の仲間たちから絶大なる支持を集めているのは、カリスマ性があるわけでも演技力が優れているからでもない。入団当初から頻繁に、彼らの食生活を援助してきたことが大きいのだと。だからこそ、安さが売りの中華料理店は、今日もまた理香の財布からお金を吸い上げて、貧乏劇団員たちの飢えを満たしていた。


 理香が食事を終えるまで、猫が起きることはなかった。

「お腹が減っているわけじゃないんだ」

 理香はひとり納得して、猫よけのためにキープしておいた海鮮焼きそばのエビをふたつ、口にいれた。

 ぷりぷりのエビを噛みしめて味わい、食器をもってキッチンに向かう。

 食器を洗い、ココアのためにお湯を沸かし、カップとケーキ皿を棚から取り出した。


 ゆっくりと、幸せがこみあげてくる。


 お取り寄せで注文した三種類のケーキは、指定した時間のとおり、外出前に届いた。

 素敵な一日を締めくくるにふさわしい豪華なスイーツタイムにしよう。そう思って取り寄せたのに、進一とのデートを流してしまった。三種類ものケーキはまったくふさわしいものではなくなって、なんだか寂しくなって、景気づけに食べてしまって、それでも、三分の一は冷蔵庫に残してある。


「本日のスイーツタイム。わたくしは苺のショートケーキをいただきます」


 約束された幸福をまえに、ついには決意表明。

 ケーキセットをそろえ、満面の笑みを浮かべてテーブルについた。

 まずはココアをひと口味わい、ほっとひと息。スイーツモードに入る。

 フォークでやさしく、たっぷりとクリームのついた苺をすくい上げて、そっと口もとにつれてゆく。


 そのとき、何か異様な光を見た気がして、理香は周囲を探った。


 猫がソファーのうえに立ち、こちらを見ている。

 蜂蜜色の瞳が、やけに強い光を放っているように感じる。


 そんな、まさか。


 理香はかるく頭をふって、苺を口のなかに入れた。

 苺の酸味が果汁とともに広がり、甘いクリームと合わさって幸せを協奏する。あとを引きついだ苺のさわやかな甘味が、さらなる幸せを呼び込むために理香を駆りたてる。


 はずだったが、どうにも猫の視線が気になって仕方がない。

 理香は悩んだあげく、小皿を取り出して、ケーキをすこし分けてのせた。

 ソファーに近づいて、そっと猫の鼻先に小皿を差し出す。


 瞬間、理香は震えた。


 猫がクリームを舐めている。

 さらにはスポンジケーキに食らいついている。


 これまでの猫知識をくつがえす猫の姿を目の当たりにした理香は、衝撃のあまり言葉を失い、さらにケーキを分け与えることをためらわなかった。

 なんだろう、この親近感。

 猫とともにケーキを食べ終えた理香は、ココアのカップを片手に、猫のいるソファーにすわった。

 猫は脚をのばし、尻尾をむけて横になる。

 臭くない? 理香は顔を近づけて匂いをかいでみる。とくに不愉快さはなく、今度はそっと指でふれた。

 あったかい。

 生命のぬくもり。

 心地よくやわらかい感触を、右手全体で味わう。

 手が隠れるほどの長さはない、キャラメル色の毛並み。お腹のほうは少し白っぽい。キャラメルソースを練り込んでゆくように、背中に向かって色が濃くなっている。よく見れば、うっすらと縞模様もわかる。


 撫でながらココアを飲み干した。

 立ちあがり、ささっとカップを洗って、すぐにソファーへ座りなおす。

 今度は指で、猫の背中をかいてみた。

 背骨のライン、長い尻尾の付け根あたりをかくと、猫は身体をのばして小刻みに震える。

 おもしろくてずっとやっていると、猫がソファーに爪を立てた。

 二人で座れる、お気に入りのソファー。理香はあわてて前脚をつかんだ。攻撃されるかも、と考えたのは、つかんだあとのこと。緊張で身体が硬くなったが、猫の抵抗はなく、ソファーと両手は事なきを得た。

 理香は深々と息をつく。

 安心すると、新たな感触が広がる。


 なにこれ? 肉球?


 ぷにぷにとした感触には、なんともいえない感動があった。

 はしゃぎながら揉み続けていると、猫は理香の手を振り払い、気だるそうに理香を見上げる。

 さすがに嫌になったのかもしれない。

 だが、それでも理香は肉球をもとめて、今度は後脚の肉球を揉みはじめた。

 丸くなった猫の瞳は、ピュアな蜂蜜のように、透き通るような美しさで輝いていた。



 キャラメル色の猫はソファーで夜を明かした。

 翌日、猫は理香とともに部屋を出て、一緒にエレベーターに乗り、ともにマンションを出る。外に出たあとは、理香と反対の方角に去っていった。


 見えなくなるまで猫を見つづけて、理香は稽古場へ向かった。

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