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さよならキャット 【修正版】  作者: 京本葉一
スイーツタイム
28/35

25 初対面

 進一は、理香の様子がおかしいことに気づいていた。心当たりはひとつしかなく、そうならなければいいと恐れていた変化、その兆候であると、疑わずにはいられなかった。

 理香を迷わせている。

 理香の邪魔をしている。

 予感はあった。文恵のことを話して、寂しさを打ち明けると理香は問うた。


「もしも私が役者をやめて、一緒に暮らしたいっていったら、進一はどうする?」


 その後も舞台に出演しなかったり、笑いながら泣き出したりもしている。

 事態を危惧して思い悩んだ。


 理香は舞台から離れようとしているのではないか。

 役者をやめたいと、理香が望むはずがないのに。舞台に立つことを嫌うはずがないのに。


 わかっていながら、進一は望んでいる。理香の夢を、舞台に立つ理香を、消してしまうのが怖い。それなのに、理香のそばにいたいと望んでいる。望んでいることを、進一自身が理解している。


 毎日毎晩、無理をしているのはわかっていた。

 それでも忙しさを望んだのは、考えたくなかったからだ。


 理香が夢を犠牲にするかもしれないというのに、決断を下せずに逃げつづけていた。




 その、結果がこれか。


「……体調を崩して寝込むなんて、何年ぶりだろうな」


 我ながら、まったくもって救いようがない。

 進一は布団の上で生姜湯をすすり、溜め息をついた。


 今朝になって、目覚めると体が動かない。院生試験が終わって気が緩んだのか、蓄積された疲労が一気に襲いかかってきたらしい。研究室に連絡を入れて、仕方なく布団で寝ていた。八代が絶好調であるため、一日二日寝込んでいても問題はない。試験結果にも自信はあり、進路や学業について溜め息は必要ない。


 気にかかるのは理香のこと。

 そして、生姜湯をつくってくれる存在。

 ずっと距離をとっていた文恵と、一緒にいて、これまでになく世話になっている現状について。


「……なんでこんなことに」

「無理を続けたからじゃないですか?」


 窓から外を見ていたはずの文恵が、困ったように笑い進一を見ている。


「早紀も言っていましたけど、八代さんは別格だと思いますよ。佐山さん、ずっと頑張ってこられたんですから、たまにはこうやって、ゆっくり休むのも悪くないんじゃないですか?」


「かもしれない。けど、半日も寝てれば十分だよ」


 生姜湯をすすり、休み過ぎだと進一はいった。

 文恵は苦笑したまま、「食欲はありますか?」と進一に尋ねた。進一が首を横にふると、「もうすこしあとにしますね」と文恵は笑う。


「いや、今日はもういいよ」

「それはダメです。せっかく早紀が考案した八代スペシャルを用意したんですから、ちゃんと食べて体力をつけてください」


「……せめて、普通のお粥にしてくれない?」


「元気になれると思いますけど」

「いや、元気でなければ食べられないような気がする」


「プーちゃん、今日は来てくれそうな気がします」


 文恵は脈絡もなく声を弾ませて、窓から外をながめた。

「佐山さんも一緒ですからね」

 振り向いて楽しそうに笑い、進一の追撃をかわした。


「あいつに付き合ってやる元気もないな。けど、そういうタイミングで現われる奴ではあるか。ああ、生姜湯ありがとう。いいかげん布団を片付けるよ。部屋の空気も入れ替えたいから、そっちの窓、開けてくれる?」

「冷えますけど、大丈夫ですか?」

「問題ないよ。生姜が効いているのか、ぜんぜん寒くない」


 文恵は窓を開けて、ついでに網戸も全開にした。

 進一は何も言わず、苦笑しながら布団をたたんだ。




 訪問者を告げるベルが鳴ったのは、進一と文恵が向かい会って座り、八代スペシャルを食べる食べない、折りたたみ式テーブルを出す出さないの問答をしている最中だった。

 進一の身体を気づかい、文恵が動く。

「わたしが出ましょうか?」

 質問の形をとってはいるが、自分が出るという意思表示だった。動きの鈍い進一より早く、文恵は軽やかに立ち上がり、ドアに向かい訪問者を迎える。


 そして、進一の部屋の入り口で、文恵と理香は初対面を果たした。


 誰とは知らぬまま、いきなり近距離で顔を見合わせ、互いに相手の笑顔を知らされる。

 文恵も理香も「どちら様ですか?」と問うことはなかった。ふたりは同じように言葉を失い、向かい合ったまま立ち尽くした。


 出遅れた進一が、不審を察しつつドアへと近づき、恋人の訪問に気づく。

「理香?」

 声には出せたが、なぜ理香がここにいるのか、進一の思考は追いつかない。


 見舞い? いや、体調不良を伝えた覚えはない……なんで部屋にいることを知っているんだ?


 入り口で立ち止まる理香と、振り返った文恵に見られるも、言葉が出ない。

 なによりもまず、理香が連絡もなく訪問することが考えられない。忙しさに逃げて、そんな可能性を考えようとはしてこなかった。


 突然、文恵が俊敏に動いて、恋人たちのラインから距離をとった。進一と理香が身体をビクッと硬直させると、もう一歩、慌てて後ろに下がった。

 すいません、と聞こえたような気がして、理香が遠慮がちに口を開く。


「……プリンを、届けにきました」

「……ありがとう」


 理香が文恵を横目で見て、進一も文恵をちらりと見た。

 文恵は何も言わず、何も見ないように下を向いている。肌が、血の気を失ったように青白い。


「こちらが、西園寺さん。例の、猫好きの」

「あぁ、そうだよね。そうそう出かける前まではちゃんと文恵さんのこと……」


 チラチラと文恵を盗み見ていた理香が、急に驚いて進一をみる。


「なんで進一がここにいるの!?」


 まったく整理が追いつかず、進一は頭をふって考えることをやめた。



 ダイニングキッチンに、恋人と後輩がそろっている。

 なぜ理香がいるのか。理香の目的はなんなのか。なにも考えずにいられたら、たいがいのことは受け入れられる。理香であるならなおさらだ。目の前に理香がいることは、否応なく喜びをもたらしてしまう。

 進一は頭をかいて、困ったように笑った。


「理香さんって、その、佐山さんの恋人さん、ですよね?」


 文恵が落ち着きなく、進一と理香を交互に見ている。

 進一は「まぁね」と短く答えた。理香を紹介するのは、いつまでたっても照れくさい。魅力を語りだすと長くなるが、説明をはじめる前に、文恵が理香に向きなおった。


「あの、はじめまして、わたし、西園寺文恵っていいます。佐山さんには迷惑ばかりかけていまして、今日も、ちょっと猫と遊ばせてもらおうとおもって、お邪魔しています」


 驚かせてしまってすいません、と文恵は頭を下げる。

 理香も慌てて向きなおり、なにか言おうとして、途中でやめた。


「いつも……そう、いつもの、猫はどこかな?」

 理香は話を変えつつ進一をみる。

「いまはいないよ。そのうち来るとは思うけど」


 この場合、猫がいないとまずいのだろうか。硬い笑顔をみせる恋人をまえに、現状について整理すべく進一の思考は巡りはじめる。当然、猫など問題ではない。


「いや、というかなんで理香がいるんだ? 劇団は? まだ公演は終わってないんだろ? それに部屋まで来るなんて、団長の約束はどうなったんだ?」


「うん、そのへんはだいじょうぶ。ちゃんと許可はもらってるから」

「許可? あの人が?」


 困惑は疑惑に変わってゆく。進一の不安と焦りが、場に新たな緊張を走らせる。


「あの、わたしはお邪魔ですし、そろそろ帰りますね」


 文恵の声は、少し震えていた。

 進一の気がそれて場が緩み、理香がこたえる。


「いえ、ぜんぜん、気にしないで。私が連絡もなしに押しかけたわけだし、進一から話は聞いてるし、さっきだって、こっちが勝手に驚いただけだから。猫仲間として、ちょっと話もしたかったわけだし」


「ん? 理香って、猫好きだっけ?」


「うん、じつはそうだったりするんだよね。進一がほら、猫は苦手だって言ってたから、ぜんぜん話す機会がなかったんだけど……」


 会話が続かない。

 どうしても恋人同士で話がつながり、文恵の存在が気にかかる。


「まぁ、ここじゃなんだし、とりあえず中へ。西園寺さんも、気をつかわなくていいから」



 理香はダイニングキッチンを抜けて六畳間へとすすむ。進一と文恵も部屋にうつり、三人は畳のうえに座った。

 奥のベランダ側に理香が座り、キッチン側に文恵が正座する。

 進一は部屋の南側に腰を下ろした。正面には網戸まで全開になった北側の窓。右側に文恵。左側に理香がいて、理香のうしろには黒いブラウン管テレビがみえる。理香から贈られたアナログ時計も、定位置であるテレビのうえにあった。


「空気の入れ換えのために窓を開けているけど、理香は、寒くない?」

「うん、ぜんぜん平気。むしろ、ちょうどいいぐらいかな。ちょっと身体が火照っていたから」

「ずっと坂道を歩いてきたんだもんな」

「そうそう、坂道、坂道」

 理香はコクコクとうなずき、開け放たれた窓をみた。

 進一は苦笑する。

「いつも、あの窓からやってくるんだよ。タローの小屋を踏み台にして」

 進一と理香の表情が緩む。

「あっ、もしかして網戸まで全開にしてるのって、猫のため?」

「まぁね。開けたのは、西園寺さんだけど」

「そう、なんだ……」

「……うん」


 進一と理香が、文恵の様子を探る。

 息を殺しているらしいが、存在感は際立っている。


「やっぱり、ベランダ側の窓は閉めてもいい?」

「ああ、もちろん。さすがに冷えるからな。コーヒーでも淹れようか? インスタントだけど、砂糖はたっぷりあるから」

「うん、そうね。どうしようかな。プリンを持ってきたから、それを食べない?」

 理香は紙袋のなかを探る。

「進一好みの極上濃厚カスタード。ちゃんと三個あるし……注文したときは覚えてたんだよね……西園寺さんの分も、スプーンもあるし、えぇっと……あれ? そういえば、なんでテーブルが片付いてるの?」

「ああ、さっきまで布団をひいていたから」

「へえ、そう、なんだ」


 進一と理香が、互いに視線をぶつけた。


「いや、ちょっと体調を崩して」

「えっ? ああ、そういえば、進一、顔色悪いよね。生気が欠けているっていうか、何日も眠ってない感じがするし……そっか。だから進一が部屋にいるんだ……学校を休んで……進一は寝巻き代わりのジャージでも、西園寺さんは別段くつろぎスタイルでもなんでもないもんね。進一がひとりでゆっくり寝ていただけで、それならやっぱり、ここに来るの夕方にして正解かな」


 抱いた抱いてないの問答は忘れようもないが、坂道での妄想を進一は知らない。まず間違いなく、進一が察する以上に理香の動揺は激しい。

 そして、もちろん文恵もあせっている。


「ほんとにすみません。お休みのところをお邪魔してしまって」


 文恵は一段と小さくなり頭を下げた。

 進一としては笑うしかない。彼女はなにも悪くはないのだ。謝られても困ってしまう。


「そんなの気にしなくていいよ。寝ているなんてわかるわけないし、生姜湯までつくってもらって、来てくれて助かったと……」


 次の瞬間、進一は理香をみて、理香は畳をみていた。


「そうだよね。ふつう看病するよね。しんどくなって寝ているってわかったら、なにかしてあげようとか思うよね。邪魔しないように考えるなんて、私って最低だよね」


「……知っていたら、理香は来てくれるだろ?」


 理香はちらりと進一を見たが、またすぐに視線を外した。


「私って、いままで進一の看病とかしたことないんだよね」

「それはまぁ、風邪や病気には縁が遠いから。最後に寝込んだのって……小学生のときか?」

「……私、十年に一度のチャンスを逃したんだ……」


 うなだれる理香の姿に進一の心は乱れた。チャンスとはどういう意味なのか。どうすれば励ますことができるのか。誤解が解けているのかも心配ではある。いったい何を間違えたらこうなるのだろう、と進一は状況の整理を求めた。


 会話が途絶えて、静けさが部屋に訪れる。

 理香が沈み、進一が悩むなかで、文恵が正座を崩すことなく二人の様子をうかがう。


「やっぱり、わたしは帰ったほうがいいですよね?」


 文恵は沈黙を破った。しかし、声をかけられた進一は、文恵のことを失念していた。理香のことばかり考えて、文恵の居心地の悪さに気づくほど、頭が回ってはいなかった。


「ほんと、気にしなくていいから。ただの後輩ってことは、ちゃんと理香もわかってるよ」


 返答は早く、悩みを吐きだしたものに近い。


「きっとあいつも来るだろう。極上プリンを、見逃すとは思えない」


 そう、あいつが狙わないはずがない。

 少し笑えて、窓から外の景色をみる。流れて理香に、視線で合意をもとめる。


「……うん。私は、それでいいけど……」


 意は通じたが、どうも様子がおかしい。理香は文恵に注意を払っている。こっそりと、視覚だけではなく、全身の感覚をつかって。

 帰ってもらったほうがいいのか?

 進一は理香の意識につられて視界を右にずらす。と、うつむき黙り込んでいる文恵の姿があった。空気がじわりと重くなり、すぐに自分の誤りを察するも、なにを間違えたのかがわからない。


「それで、今日はいきなり、どうしたの?」


 沈黙を恐れて、進一はとっさに理香へ話題をふった。


「うん……連絡しないで来ちゃって、なんかごめんね。びっくりさせちゃおうとか思ってたんだけど、こっちまでわけわかんなくて……進一に、話したいことがあるんだよね」


 理香がひかえめな笑みをみせる。

 それだけで空気は和らいだものの、結果として進一に、心の準備を怠らせてしまった。


「団長から、長期休養の許可をもらいました」


 不意をつかれて、後悔さえも追いつけない。

 突きつけられた現実をまえに、進一は願う。くるみや劇団の現状、劇団員たちの意見、許可の真偽など、理香にいくつもの質問を投げかけながら、なにも考えずにいられたらと、願わずにはいられなかった。


 劇団を辞めるわけではない。もう二度と、舞台に立たないわけではない。

 ほんの少しの間だけ、夢から遠ざかるというだけ。


 思いついた言い訳も、口を重くするだけで終わる。

 理香を突き放すことなどできるわけがなく、それなら素直に喜べばいいと、わかってはいるのに。


「……だよね」


 会話が途切れて、誰もなにも話さなくなった。

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