19 覚悟を決めて
理香は気迫のこもった演技で団長を黙らせた。
団長は他の劇団からのオファーを断わり、理香に自由を与えることを約束する。しかし、観客の声援をバックに二ヶ月間も追加公演をつづけた。
演出にも手を加えて芝居の質は向上している。追加公演でも客足はよかった。だが、どうにも理香を縛るための時間稼ぎに思われて、くるみが誰よりも愚痴をこぼしていた。
「あのオッサンは器まで小さいっすね」
「文句を言っている暇があるなら、理香がいなくてもチケットが完売できるように努力するのね」
「どうされたんですかマサルさん、独り言ならもっと静かに言ってくださいよ」
中華料理店「桂馬」の座敷席はいつも騒々しかった。
活気があったのは、劇団の中心たる理香が集中力を失っていなかったからでもある。
理香のファンではなく、劇団にファンをつけるためだと団長に説得され、理香は矛を収めていた。うまくいけば理香がいなくてもチケットが売れるようになる。興行的に成り立つ。そうなれば進一に会える時間も増えるに違いない。もとより覚悟はできている。進一のために何ができるのか。誰よりも舞台役者として輝くことを望んでくれた進一に、いま自分ができることは何か。
進一に会いたい。
その抑え込んだエネルギーを昇華させる。
理香は進一が好きで、芝居が好きだった。劇団の仲間も好きだった。自分を取り囲んでいるすべてが好きだった。ひとつの演技、ひとつの舞台に集中することが、すべての幸せにつながると信じられた。
理香はクリームレモンのソファーに座り、プータローを感じながらスイーツを楽しむ。
プータローを膝にのせると、不思議と心は落ち着いた。
もしも仲間が楽しんでいなければ、進一に会いにいったかもしれない。もしも毎日プータローが来なければ、ひとりで過ごす夜があったなら、我慢できずに進一を求めていたかもしれない。
ちゃんと話をしよう。
進一のメールを確認して、理香は長かった日々を思い返した。
頬をゆるませてプータローの肉球をプニプニ揉んだ。
いろんなことを想像しだして、抱えた猫を振り回しはじめた。
強い風が吹いた。
街を行き交う人々は、小さな悲鳴を上げて身を縮める。
理香の背後から吹き抜けた風は、冬を感じさせるほどに冷たい。しかし、進一を変えなかった。理香がくるであろう、駅の方角から目をそらすことなく、後方で様子をうかがう理香に気づくことなく、進一は待ち続けている。
理香は胸元に手をおいた。鼓動は速く、舞台に出るときよりも緊張している。
うん。だいじょうぶ。これならいける。
理香は呼吸を整えながら、頭の中でシュミレーションを展開させた。前回の過ちは繰り返さない。どんなこともスタートが大切だ。勢いをつける。勢いで誤魔化せばもう、あとはなんだってできるはず。
目指すは対面してからの、熱い抱擁。
まずは強く一方的でかまわない。愛しさあふるる熱い抱擁によって、きっと進一は優しく包んでくれる。そして離れがたき抱擁の果てに互いの理性は麻痺して、求め求められるままに熱き口づけを交わす。
よし。
理香は一歩を踏み出した。
平日とはいえ、アーケードの入り口は人の流れが多い。ステージの上で舞うように最小の動きで衝突を避けつつ、理香は一歩ごとに歩みを加速させる。問題はない。気づかれてはいない。喜色満面。目前の勝利に、理香は喜びを隠せない。
我を忘れて、理香は勢いをつけたまま進一の背中に抱きついた。
「……やっちゃった」
「……事故だと思うなら、とりあえず離れない?」
「うん。やり直したいところなんだけど、これはこれで悪くないから」
進一が首をまわして、背中に張り付いた理香をみる。
「何を企んでいたんだ? いや、言わなくていい」
進一は前を向いて、やれやれと息を吐いた。硬直していた進一の身体が柔らかくなる。同じなのだと理香にはわかった。時間を一気に飛び越えて、ふたりでいた頃の感覚が戻ってくる。
「ほんとに今日は、帰らなくていいの?」
「うん。二十四時間たっぷり空いてる」
待ち望んでいた恋人と、一日中そばにいられる。ふたりの体温が上昇して、理香は進一から離れた。少しだけ残念。後悔もする。気恥ずかしくなり勢いを失ってしまった。これでは熱い抱擁も、路上キスも難しい。向かい合うだけで、何もできなくなる。
「それと、美咲が妊娠したんだよね。一条さんの子どもらしいよ」
時間が止まってしまう前に、理香はジョーカーを使った。
進一は顔を紅潮させたまま、理香から視線をそらさなかった。だが、爆弾のスイッチは入っていたらしく、しばらくすると下を向いて考えだした。
理香はほっと安堵する。
作戦は成功した。爆弾話により、恋人以外に意識を分散させることができた。これなら少しは余裕をもってデートがはじめられる。そしてなにより、驚き困惑する進一がみられる。
「ごめん。よく聞き取れなかった」
進一はたっぷり時間をかけて考えたあと、聞き間違えであると判断したらしい。
「わかるわかる」
理香はうんうん肯いた。
「今はもう、樹理さんの気持ちもよくわかる。やっぱりこれはメールじゃダメだよね。我慢して正解」
理香は得意になって進一の腕をとった。
腕をからめるとテンションが跳ね上がり、説明を忘れて歩き出す。
わけがわからないでいる進一を引き連れて、理香は美味しいスイーツを目指した。
「こんな展開になるとは、さすが、美咲さんには敵わない」
進一がどこまでもうれしそうで、「ごめんね」、と理香は謝った。
「進一は一条さんが無事だったことがうれしいんでしょ? すぐにメールで伝えればよかったのに、なんだか悪いことしちゃったね」
どうかな。静かに微笑んだ進一は、少し悩んでからそういった。
「無事じゃない孝雄なんて想像できない。やっぱり元気でいた、そうとしか思えないやつだから。それに孝雄が父親になったなんて情報、メールで知らされても落ち着かないよ。たぶんすぐに電話をして、長々と話し込んでいたと思う。だから、これで正解」
「舞台の邪魔になるから?」
「会って話したほうが、いいに決まってるから」
進一はコーヒーに砂糖をおとして、くるくるとスプーンで渦をつくった。
理香はココアを一口味わう。
目を合わせようとしない進一をながめながら、アップルパイを口いっぱいに頬張った。
話題の衝撃度が大きく、待ち焦がれた恋人を前にしても惚けてはいられない。理香の幼なじみと進一の親友が復縁を果たすのは間違いないだろう。生れてくる子どもの容姿や、待ち受ける孝雄の苦労をネタに会話は弾んだ。
「こんなに話したのは久しぶりだな。ちょっとつかれた」
「進一はいつも聞き役だもんね」
進一がひと息ついて、二杯目のコーヒーを口もとに運ぶ。
いい感じだった。
付き合い慣れたころのように、余裕をもって進一といられる。変化もわかる。
久しぶりにみる進一は、以前とはどこか違ってみえる。心底楽しそうにみえるけれど、ほんとに疲れているようにも感じる。きっと毎日遅くまで頑張って、疲れが溜まっているんだろうな。でも、なんだかワイルドになったような気がするのは、なぜ?
「なんだろ? 進一からハードボイルド的要素を感じるんだけど、なにかあった?」
「いや、どんな要素なのかよくわからないんだけど……うん、まぁ、ハードな日々もあった」
進一はコーヒーに視線を落とした。なにかを思い出すような仕草に、理香は自分が知らない進一を感じる。心が揺れる。進一がふっと小さく笑った。しだいに笑みが去ってゆき、眼差しが沈んでゆく。溜め息をついて肩を落とし、考えを振り払うかのごとく頭をふった。
暗く元気のない進一がいて、心が落ち着かない。
なにがあったのだろう。それは聞かなきゃいけないことが原因なの? なんだかそれどころじゃないような気もするけれど。
「どうかした?」
少し陰を残したまま、進一が微笑みかける。
「うん……進一、大丈夫なの?」
心配が伝わり、進一は頭をかきながら困ったように笑う。
「ああ、問題ないよ。さんざん苦労したにもかかわらず結果を得られなくて、自分の無力さを思い知っただけというか、いいようにやられっぱなしというか……終わったことだから、もう大丈夫。あとはもう、とっとと忘れるだけかな」
進一は苦笑して、ふたたびカップの中をのぞいた。
具体的なことは何も言ってくれない。それは忘れたいことだから? 心配させたくないから? それともやっぱり、恋人には話せないことなの? 進一は嘘をつけないから、なにも話してくれないの? ううん。違う。そうじゃない。進一は自分のことをあまり語らないだけ。聞けば答えてくれるはず。思い出したくないことでも、進一なら答えてくれる。
そう、きっと話してくれる。
言いにくいことでも。
聞きたくないことであったとしても。
私が知りたいと、進一に伝えさえすれば。
「理香?」
心配そうな眼差しに気づき、理香は笑ってみせた。
「進一は、くるみちゃん知ってるでしょ?」
「ん? 理香の話によく出てくる、劇団の後輩の?」
「そう、そのくるみちゃんのこと」
理香はくるみが電車で痴漢を撃退したという作り話を語った。進一の表情や仕草に注意を払いながら、おもしろおかしく聞こえるように。
「武闘派だな」
進一は陽気に答えた。
痴漢疑惑説があっさり消えて、理香は少し戸惑う。不安になればいいのか、安心すればいいのかもよくわからない。電車猫はなにも関係なさそうだ。やっぱり、猫が苦手なんてことは期待しないほうがいい。
「そろそろ、次のところ行かない?」
理香はそういって、途切れそうな会話をつないだ。
「一条さん、進一のこと気にしていたらしいよ」
進一とならんで歩きながら、話題はインドの孝雄に戻っていた。
理香は遠回りの道を選んだ。進一の心に女が隠れていたとして、どうやって聞き出したらいいのだろう。つぎのスイーツもおいしくいただくために、いまのうちに考えたい。軽く運動もしておきたい。どうせなら人のいない静かなところを歩いて、いい雰囲気をつくりたい。
「なにか企んでない?」
「うん。違うといえば嘘になる」
進一は何を隠しているのか。なにがあったとしても受け入れる覚悟をしたはずだ。そこをはっきりさせないと、あとで苦しむのはわかりきっている。ちゃんと話をして解決する。なにも気づかない振りはできない。それなのに、いつの間にか悩むところを間違えている、愚か者がいる。
「私って、ときどき自分が怖くなる」
進一が距離をとりそうな気配を察して、すばやく腕をからめとる。
理香は進一が渡した旅費について聞いた。
「三十万くらいだったかな。孝雄のやつ、はじめは旅行だと言ってたんだよ……どこか上の空で、インドに行くんだと。たいした資金もないのにそんなことを言うから、強引に渡して恩を売っといた。絵葉書が届いたときには、やっぱりそうなのかって思ったけど」
美咲さんと付き合うには、それぐらいの休息は必要なんだろう。進一はそういって苦笑した。
「でも、よく三十万も渡したよね。親友だから?」
「どうだったかな……孝雄はけっこう律儀なやつだから、いつか返しにくるだろうとはおもったかな。大学院に進学を決めて、奨学金とバイトで暮らすことになって、とくに使い道もないわけだしね」
進一は小さく笑う。
過去を振り返り、かつてを懐かしむような、寂しそうな、遠い目をしていた。
理香は寂しさに襲われて、進一に身体を寄せる。
そばにいるのに進一が遠い。進一のことを、何も知らないでいるような気がする。
「聞いてもいいかな?」
「なにを?」
「さっき言ってた、ハードな日々ってやつ。進一の忘れたいこと」
「急に、どうして?」
まずはそこから、という理香の思いに反して、進一はすぐには答えなかった。
「なんとなく、かな」
理香に重ねて問われ、それでも間があって、ようやく「猫だよ」と告げられる。
「部屋に、野良猫が来るようになったんだ」
進一の返答に、理香は思わず「ミラクル?」とつぶやいた。
進一が首をひねり、なんでもないなんでもないと理香は大袈裟に首をふる。とてつもない偶然にうれしくなる。進一の表情に険しいものを感じて、もしかしたらと期待する。
「それで? その猫に酷い目にあったとか?」
理香は興奮を抑えきれず、先走った質問をした。
「えっ……まぁ、追いかけることになって、苦労したわけだけど」
「じゃあ進一って、ほんとに猫が好きじゃないんだ」
「……どうなのかな。好きじゃないってわけでもないような気が……」
進一は苦い顔をして唸っていた。
これはもう好きなわけないよね。理香はうれしくなって進一に身体をくっつける。
「進一が悩むってことは相当ひどい猫なんだろうね。どんな猫なの? 名前はつけた?」
進一は暗く寂しそうな表情になり、やれやれと首をふった。
沈んだ声で、進一はポツリとつぶやいた。
「あれはもう、猫じゃないよ」
ほんと、何があったの? 初めてみる進一に、理香はなにも聞けなくなった。どんな不幸が降りかかれば進一はこうなるのだろう。喜んでいいような悪いような、複雑な気持ちになる。
浮かれることができなかった理香は考えてしまった。
どうして猫を追いかけることになったのか。猫は好きじゃないと電話で聞いたとき、あのときすでに追いかけていて、酷い目に会っていたのか。
迷いは不安に傾く。
やっぱり、ちゃんと話をしなきゃいけない。
このままでいたら、進一の想いまで疑ってしまうかもしれない。
「どうかした?」
理香が静かになって、進一が声をかけた。心配そうな顔には、陰が残る。
「進一が、疲れているように見えたから」
「ああ、たしかに疲れは残ってるかな。試験も、近いから。最近はけっこう、遅くまで研究室にこもってる」
進一の言葉に力がない。歯切れが悪い。なにかを隠している。嘘がつけないから。話したくないから。
「そうなんだ」
理香は一言だけ返して視線をそらした。あっさりとした反応に、進一も言葉をつまらせる。
ふたりは歩みを止めた。
強く風が吹いて、風の音だけが聞こえた。
「理香、ほんとに大丈夫か?」
理香はうつむく。
大丈夫じゃない。覚悟はしていたはずなのに、やっぱりイヤだ。知りたくない。知らなければ、どんな可能性でもありえる。進一はなにも隠していない。なにも気づかない振りをして、ただ信じていればいい。進一はずっと私のそばにいてくれる。いつかまた、なにも考えずに笑えるようになる。
理香は顔をあげて、明るく笑ってみせた。
「ごめん。なんだか劇団のほうが気になっちゃって」
つくった笑顔で、ろくでもない恋人を演じる。
進一の顔つきが変わった。進一はまっすぐに理香を見つめた。
向けられたのは、大切な人を案じる真剣な眼差しで、ふっと、理香の全身から力が抜けた。
「やっぱり、私に役者なんて無理かもね。けっこうがんばってきたんだけど」
からめた腕をといて、そっと進一の胸にすがる。
進一に弱音を吐いたのは、いつ以来だろう。懐かしくて、やさしい気持ちが心を満たしていく。あふれでる愛しさが理香に微笑みをもたらした。それは進一も変わらない。
進一は理香の背中に手をまわして、やさしく理香を包みこんだ。
「役者は理香の天職だ」
お決まりの文句を言い切る。
それだけ言えば十分だった。このあとにつづく、樹里や劇団員たちが耳を塞ぎたくなるような言葉の数々は、理香の身体に染み付いている。
あのころの進一はここにいる。
進一は変わらない。誰よりも私のことを想ってくれている。
ずっとそばにいてくれる。
理香は進一から離れた。一歩だけ下がり、まっすぐに進一をみつめる。
「進一は……猫好きの女を抱いたの?」
弱い微笑みのままで理香はいった。
なにか間違えたような気はしたけれど、そんなことは、もうどうでもいいと思っていた。
真剣な眼差しで理香を見守っていた進一は、そのうち下を向いて考え込んだ。
理香が何を悩んでいるのか、進一がわかっていたはずはない。理香が本気で苦しんで、心から問いかけていることを疑うはずもなく、理香の悩みといえば芝居のことだと思い込んでいる。
意味がわからなかったのだろう。
何を言われたのか、すぐに理解できたはずはない。
進一は顔をあげて、ピンときていない表情のままで理香を確認した。
理香はじっと返答を待っている。すべてを受け入れる覚悟をして、進一を待ち続けている。
猫好き。
とくれば文恵を思い浮かべるしかない。思いつけばしっくりとくるだろう。
なぜなら文恵は猫好きであり、女でもあるのだから。
「いや、抱いてない抱いてない」
進一はよくわからないまま、素直に驚きながら強く否定した。
言ったあと、ようやく芝居ではなく、自分のことで悩んでいると気づいたらしい。進一は大いに慌てはじめた。なぜ理香が文恵のことを知っているのか疑問を抱くだろう。知るはずのないことを知っている、前にもあったなこんなこと、と考えたかもしれない。
疑問は多々あれど、とにかく浮気ではないことを説明しなければならない。
「彼女は大学の後輩で、猫探しを生きがいにするような猫好きではあるけど抱いたとか抱いてないとかいう関係ではなくて、誤解されるようなことも、ない、とはいえない……」
なにを語ろうが所詮は言い訳。
進一は早々に口を閉じて、非難を受け入れる構えをみせた。
けれど、理香の答えは決まっている。
理香は一歩近づき、進一の胸に身体をあずけた。
「樹理さんのおかげかな」
そういって、進一の背に腕をまわした。
進一の反応から察するに、猫に関わる異性の存在は疑いようもない。けれど、それが男女の関係であるとは感じられない。進一の説明など頭に入ってこなかった。一夜の過ちならあるかもしれないと覚悟をしていただけに、うれしくなって涙がこぼれた。
◇
進一は優しく、そっと理香を抱き寄せる。
自分に慰める資格があるのか。ためらいはあっても、それでも守らずにはいられなかった。
進一にはわかる。理香の感情は怒りや哀しみではない。
樹理が絡んでいるのなら、的外れの推測はないだろう。理香の妄想に拍車をかけた疑いもある。ではなぜ、理香は安堵して喜びを感じているのか。樹理は何を語ったのか。
それが、進一にはなんとなくわかる。
「あなたは理香を捨てるのかしら」
思い出される甘い香り。どこまでも優美な仕草で、樹理は甘いミルクティーを淹れる。
理香のいない寂しさを見抜き、恋人を取り戻せと脅しながら。
◇
「進一のシャツに猫の毛をみつけて、猫が好きじゃないのになんでだろうって、不安になって樹理さんに相談したの。浮気だとか寝取られたとか、さんざん脅されちゃったんだよ? 進一はずっと寂しがっているんだから、別の女がいてもおかしくはないって。進一と、ちゃんと話をしなさいって」
理香は温もりを感じながら不安を伝えた。
「あの人らしいな」とつぶやいただけで、進一はなにも語らない。話を聞くはずだったのに、聞いてもらって慰められている。進一の支えになりたい。今度は私が進一のために。願いと覚悟が、自分の弱さで崩れていく。弱さを自覚するほどに、進一の優しさに頼ってしまう。
自分の弱さに泣けてきて、確かな温もりに笑みがこぼれた。
「ごめんね。いきなり変なこと聞いちゃって」
知らない女とどんな関係にあるのか。
そんなことは、もうどうだってよかった。だからこそ、いまなら聞ける。
もう一度最初から。しかし、理香は離れようとして、進一に抱きとどめられた。涙をぬぐう暇もなく、求められ、戸惑う理香の耳もとで、大丈夫だからと進一がささやく。もう十分だ。これ以上はいらない。理香が望んでくれるなら、それだけでいい。
「もう、大丈夫だから」
進一はそういって、理香を強く抱きしめた。
ささやかれた言葉には力があった。それは確信であり、誓いでもあった。理香には伝わる。進一の声が、その振動が熱をともなって身体中に広がる。捨てられることなどありえない。裏切られることなどありえないと、理香は心から信じられる。
だからこそ、危うさを感じた。
理香は進一のシャツを握り締め弱々しく抗う。
いままでならこれでよかった。求められるままに、このままでいたいと願うだけでよかった。けれど、甘かったのだと理香は気づく。樹理の言っていたことは正しかった。受けとめていた以上に、樹理の言葉は正しかった。進一は寂しさを抱えている。進一はずっと無理を重ねていた。
進一は弱い。
慰めを必要とするほどに。
理香はシャツを握ったまま、強く強く進一にすがった。
進一は役者としての成功を望み、恋人として会うことを待っていてくれる。
だから、今度は私が進一のために。
そしていつか、進一のそばに。
なんて愚かなのだろう。
いつかでは遅すぎるのに。
いまでなければ意味がないのに、ずっと待っていてもらおうと思っていた。
「行こうか」
進一は曇りのない顔で笑いかけてくれる。疑いようもなく、愛され、守られている。
これ以上はいらないと進一はいった。そばにいられない私でも、少しは進一の支えになれている? 進一の力になれるなら、舞台の数ぐらい減らしてもいいの。こうして会って、守られることでしか支えにはなれないのなら、劇団のみんなを裏切ってもいい。
「うん」
でも、進一はそんなことを望まない。寂しさをかかえた進一は弱く、それなのに慰めを求めようとはしない。弱さを隠して、これからも自分を犠牲にしようとしている。
きっと、どうしようもなく愚かなのだ。
私も、進一も。
猫好きだというその女は、進一にとってどういう存在なのだろう。男女の関係ではないにせよ、恋人に近い存在? そばにいて、孤独を癒してしまうような。
「聞いてもいいかな。もう一度、はじめから」
本わらびもち黒蜜をふたつ注文したあと、理香は尋ねた。
理香には苦すぎる緑茶をすすり、今度はゆっくりと進一は語る。
彼女の名前は西園寺文恵。今年サークルに入ってきた大学の後輩。部屋にやってくる野良猫を求めて、ほとんど毎日部屋にきている。猫に関しては強引だが、それ以外のことは常識的かつ良心的。気を使ってくれて、部屋の掃除や食事の用意まで、猫がこなければやってくれる。猫と戯れていなければ、じつにありがたい存在。
「部屋を貸している見返りとはいえ、彼女にはずいぶん世話になってる」
ずっとそばにいて、進一を助けている?
私がやりたかったことをしている?
「……その文恵ってひと、可愛かったりする?」
「ん? うん……可愛かったりは、するかな。理香ほどじゃないけど」
つまり、私のほうが可愛い。お世辞とかじゃなくて、進一は本気で言っている。これはもう、進一の顔を見ていればわかる。自然に口にしてしまうらしく、おかしなことを言ったとも思っていない。
めずらしいことじゃなくて、みんな知っている。進一のこういうところを樹理さんは憐れむ。その場にいたなら、ゆうちゃんや団長なんかも唖然として距離をとり、一条さんに至っては金縛りにあう。進一のどこかが壊れていること、進一の意見が参考にならないことは、周囲の努力により私も学んでいる。
でも、いまは関係ない。
100人アンケートに大差で負けたとしても関係ない。大切なのは進一の一票。
うん、だいじょうぶ。私のほうが可愛い。
「じゃあ、なかなかに可愛い女が、猫に会うために毎日進一の部屋にきて、ついでに掃除して食事の用意をしているってこと?」
「まあ、そんな感じになっていて……それで、少し前までは、彼女とふたりで食事もしてた」
進一の表情はすこし硬い。
「ふたりだけで?」
「そう。部屋で、ふたりきりで」
進一はすべてを話す気でいる。間違いなんてなかったとは信じているけれど、「桂馬」みたいな騒々しい雰囲気ではないわけで、いくらでも良い雰囲気になりえるわけだから……。
「……胸は、大きい?」
「……いや、大きくはないんじゃないかな? 柴田や美咲さんほど存在感はなかったと思うけど」
柴田ってひとのは知らないけれど、美咲より小さいといわれても勝算はみえない。
進一の目が憐れみを帯びているような気がする、と思ったら視線をそらされた。
「進一、抱いたの?」
「抱いてないよ。理香がいるのにそんなことはしない。けど、そう勘繰られてもしかたない状況だとは思うし、理香にとっておもしろい状況じゃない。もしも理香がほかの男と一緒に食事をしていたら、そう考えたら、もうダメだった」
だから、部屋に帰らないようにした。二人きりの状況をつくらないように、研究室にこもることを選んだ。不自然な生活だと気づいたあとも、彼女に来るなとは言えなかった。拒むどころか、やってくる猫の追跡に協力した。猫が来なくなっても、彼女が困らないように。
「彼女、猫に会えないと元気がなくてね。そういう弱ったところ、あまり見たくなかったから」
まぁ、来るなといっても押しかけてきたとは思うけど。
進一は湯飲みを口に運んだ。おもしろそうで、どこかうれしそうな顔をしていた。
「進一、その子のこと、好きなの?」
ふっと感じたことを、理香はそのまま口にした。答えを聞くまでもなく、好意があるのはわかる。それがどの程度ものかもなんとなくわかる。だから、嫉妬はなかった。柴犬のタローに嫉妬しなかったように、愛されているという意識が揺らぐことはない。自然と文恵の存在を受け入れていた。いい子なんだろうな、と、とても好意的に。
進一は湯飲みを持ったまま、どうだろうなと苦笑していた。好きだといっても、目の前にいる想い人とは比べようもない。少し唸って悩んではいたが、結局答えはかえさなかった。ただ、「彼女には感謝している」と進一はいった。
「感謝しなきゃ罰が当たるよ。結局、猫の追跡も足手まといに終わったし……そういや最後、こっちはもういいから、もっと自分自身や恋人のために頑張れともいわれたな。気をつかってくれたのか、足手まといを切り捨てるためだったのかはわからないけど」
「ん? ああ、そっか。むこうは私のこと知ってるんだ」
んん? ということはなに? 恋人がいるとわかっていて部屋に上がり込んでいるってこと?
「大切な人がいるってことはね。聞かれてもいないのに教えるのは変だから、なにも言ってなかったんだけど」
そういえば、文恵さんにとって進一はどういう存在なのだろう。聞いている感じだと、猫が命で、猫に恋してる感じで、進一はぜんぜん相手にされていないような……ただの無害な先輩であって、男としては眼中にない? それはそれで複雑な感じがする。でも、迷惑をかけてるとはいえ、どうでもいい相手に毎日食事の用意とかする? 料理が好きなだけ?
「理香?」
「文恵さんとは、もう一緒にいないの?」
「いないよ。部屋にいる時間帯が違う。サークルのほうも顔を出してないし、最近は会ってもいないな。帰ったら食事のメモがあって、今日も来ていたとわかるだけ。ごちそうまでしたってメールは送るけど」
進一は少し困ったように笑った。
「いろいろと大変だったけど、おかげで余計なことは考えなくてすんだ。彼女がいなかったら、もしかしたら、後悔することになっていたかもしれない」
「後悔?」
「声を聞くだけじゃ足りなくて、理香に会いにいったかもしれない」
「……それって、本音だよね」
会えなくて寂しいと進一が認めた。進一は遠ざけられたと感じるくらい連絡をくれない。ずっと強がっていて、だから、寂しいってことを進一の口から聞かされるのは初めてのことで、とても意外な感じがする。
でも、ほんとに初めてのこと?
私がバカじゃなかったら、隠し切れない寂しさに気づいて、ちゃんと受け止めることができた?
進一はやっぱり苦笑して、照れたような顔をしている。疲労の影は残っているけれど、すっきりとしていて、ふっ切れた感じがする。向けられた眼差しに、すべて終わったことであり、もう大丈夫だと言われたような気がした。
進一は迷いなく待ちつづける。
でもそれは、もう寂しくないというわけじゃなくて、ただ、寂しくてもかまわないというだけ。
「ねぇ……もしも私が役者をやめて、いっしょに暮らしたいって言ったら、進一はどうする?」
進一は、しばらく呆然として理香を見ていた。そして、うなだれるように顔を伏せた。
「断われないな」とつぶやいて、進一は顔を上げる。
困ったように笑いながら、「それは断われない」と嬉しそうに告げる。
「団長に恨まれても、理香の夢が絶たれるとしても。だから、理香がほんとうに役者をやめたいと思ったのなら、もっと頑張れとは言えそうにない。理香の一番輝いている姿が消えてしまったら、きっと後悔することになるだろうけど」
わらびもちが運ばれてくる。
プリンでもめったにないのに、進一のほうが先に手をつけた。
「このままでいいんだ。このままずっと、理香を待っていたいんだよ」
進一は何もいえないでいる理香に微笑みかけた。
少しだけみせた、遠くを見るような眼差しのなかに、理香は進一の寂しさをみつけた。




