16 猫との戦い
細身のやつれた院生がひとり、簡易ベッドで仮眠をとっていた。
進一は研究室の一角にある流し台で電気ポットの水を入れ換える。音をたてずに移動したつもりだったが、目覚めた院生がふらふらと進一の横に立ち、簡単な挨拶を交わしたで尋ねてきた。
「その傷、どうしたの?」
進一は擦り傷のついた左手をみる。
「……ちょっと、獣道を歩きまして」
寝起きの院生は何か悩んでいる様子だったが、結局は「そうか」とだけつぶやき、歯ブラシを口にくわえた。
進一は電気ポットをプラグにつなぐ。荷物を片付けて、自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉と黒糖をいれた。首や肩などを回してほぐす。肉体的な疲労はそれほどでもないが、日常生活で使わない筋肉がつらかった。
起動させたノートパソコンの前に座り、コクのある甘いコーヒーを味わう。
緒論を読み返したころ、八代があらわれた。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶は簡単なものだった。八代は何も語らない。普段と変わらぬ行動をとっていた、が、いつも以上に元気に見える。
偏見だろうかと進一は思考する。昨夜のことを確かめるのは簡単だが、野暮なことは聞くものじゃない。もしもはっきりと答えられたら、こっちが困る気もする。
「おはよ」
歯磨きと洗顔をおえて、簡易ベッドを片付けていた院生が八代に言った。
「おう、おはよう。どうした元気ないなぁ、徹夜か?」
八代はつやつやした顔で同期を励ました。
励まされた方は適当に相づちをうち、トイレに行くといって室外へ向かう。何か悩んでいるらしい。「タフだよなぁ」とつぶやいた彼は、さきほどよりも疲れた顔をしていた。
ランチタイムを迎えて、進一と八代は学生食堂にいた。
八代の隣には早紀もいる。
テーブルの上には、パーティー用の大皿に盛られた早紀の特製サンドウィッチ。
進一の分け前もあるというが、それにしても大量だった。大自然研究会の部室にて、講義をサボって作り上げたらしい。途中からは文恵にも応援を頼み、サンドウィッチをエサに物好きな部員も利用して、ここまで運んできたという。
進一はもちろん、八代も知らなかった、早紀によるサプライズ。
なぜにパーティーが始まるのか、周囲からは注目の的だった。視線はやはり気になるが、隠れるほどのことでもない。この程度で逃げ出していたら、進一の大学生活は早々に終わっていたはずだ。
進一は早紀の様子をうかがう。
調子が戻ったのはいいとして、それにしても気合いが入っている。悪ふざけにこそ全力を尽くすヤツだと思っていたが、まぁ、尽くすタイプでもあったか。
早紀が魔法瓶から熱々のコーヒーをそそぐ。
何も言わないほうがいい、何も聞かないほうがいいと決めて、進一は湯気のたつ紙コップを受けとった。
「今日の文恵、昨日よりは元気でしたねぇ」
早紀はケラケラと笑った。
文恵の姿はすでにない。いくつかのサンドウィッチを持って、進一の部屋に向かっていた。ランチは進一の部屋で、プータローを待ちながら食べるらしい。
「昨日はプータローが来たからな」
進一はレタスとチーズのサンドウィッチを食べる。文句なしにうまい。想像していたものの上をいく。自分が作るのと何が違うのだろう。愛情か。値段か。
「やっぱり文恵の猫パワーやろか? そうか、プータローの妖力でツチノコの呪いが弱まったんかも」
「俺はやはり、西園寺くんの底力だと思うぞ。化け猫といわれても、いまいち信じられんからなあ」
八代が豪快に笑っている。
ふたりは仲睦まじく呪いありきの会話をつづけた。
進一はコーヒーをすすって聞き流し、次のサンドウィッチに手をのばす。
「あっ、さすが佐山さんは違いますわぁ。うちの新作を的確に選ぶやなんて」
ああ、間違いなく絶好調だ。
「取りやすい位置にあったのは気のせいか?」
進一は少しだけ中身をのぞく。
「塩辛?」
「そうです。塩辛イカサンドにチャレンジしてみました」
「……味見は?」
「してませんけど、なにか?」
早紀はケラケラと笑う。
八代も手を叩いて楽しそうだ。
まったくおもしろくはなかったが、手にしたものを戻すのは抵抗があった。塩辛を食べるのだと思えば大丈夫だろう。そう願って口にいれ、進一は顔を歪める。
「隠し味のつもりか?」
塩辛にはタバスコが仕込まれていた。
進一の問いに返答はなく、早紀はうれしそうな顔で進一をながめていた。
サプライズの全力ランチパーティー。
二段構えの悪ふざけ。
この顔。
早紀の常習被害者である進一は、咳き込みながら違和感の正体を察した。
タバスコなんてものは、照れ隠しに使うものじゃないだろうが。
進一は早紀に無言の圧力をくわえ、幼少より育まれたモッタイナイ精神をもって塩辛タバスコサンドをひとつ食べ終える。拍手がおこり、八代と早紀も同じものを口にした。
三人そろって咳き込んで、クリームたっぷりのフルーツサンドに手を伸ばす。
早紀は少し涙目だった。八代のなごやかな苦情にけらけらと笑っている。笑いながら、横目でチラリと進一の様子を探っていた。
このサプライズランチは、八代のためではない。
進一にメッセージが伝わったことを、早紀はおそらく気づいている。気づいているだろうと進一は思う。
「ほかにはないだろうな」
進一は強い口調で言いいながら、感謝の意が込められたサンドウィッチに手をのばした。
進一はひとりで研究室に戻り、定位置のイスに落ち着いた。
(プーちゃんが今日も来てくれました。しかも、こんなお昼時にですよ。なんだかソワソワ楽しそうで、とっても甘えてきます)
届いたメール。
文恵は忘れることなく進一に伝えてきた。
期待していたのではなく、予想していたのかもしれない。昨夜の追跡時までは考えられなかったことだが、進一もプータローがやってくるだろうと読んでいた。
進一は食べ過ぎた身体を労わりながら、悪意にみちた、昨夜の猫の行動を振り返る。
プータローの逃走経路はある程度わかっていた。二手に別れて、進一はひとり待ち構える。狙い通り、文恵に追われたプータローが塀の上を歩いてくる。プータローは進一の姿を確認して、進一を見下ろす位置で止まった。
こちらに来たことを文恵に伝えるべく、進一は携帯電話を手にする。
目を離したのは一瞬。
しかし、プータローの姿は消えていた。
進一は焦った。あたりを見回しても見つからず、引き返したか、塀の向こう側である住宅の敷地内に降りたと考えた。仕方なく塀の上によじ登るが、それでもどこにも姿はない。
暗くて見えないだけか?
塀の上から庭先を覗き込む、と、いきなり真横で蜂蜜色の瞳が光り、進一はバランスを崩した。やたらと長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、プータローは塀にしがみつく進一を悠然とながめていた。
あれはもう、人の不幸を味わっていたとしか思えない。
進一は唸りたくなる気持ちを抑え、文恵に返信メールを送る。
その後も追跡はつづいて、進一はプータローに振り回された。プータローを追って雑木林のなかに入り、ぐるぐる歩かされたあとで同じ場所から雑木林を出る。プータローはとつとつ歩いて、ときどき振り返っては尻尾をピンピンたたせていた。
「あいつ、やっぱり楽しんでいるのか?」
「佐山さんもそう思われます?」
同意見ではあったが、文恵の足どりは軽やかだった。意味のわからない行動でも、プータローを追いかけることは喜びでしかないらしい。
ひとり疲労を蓄積させた進一を励ます必要もあったのだろう。引きずり回されたあげく見失い、プータローの居所はわからずじまいに終わったが、文恵は残念そうな振る舞いを見せなかった。
進一は携帯電話をおいて、イスの背にもたれかかる。
プータローは今日もあらわれた。やはりプリンとは別の大好物を狙っているのだろうか。だとすれば、これはもう猫から挑戦状を突きつけられたようなものだ。
進一は腕を組み、ぼんやりと考える。
プータローを追いつめることはできるだろうか。血流が消化器官に集中しており、頭の働きがよいとは言えない。思いついた対策は一瞬たりとも目を離さないことだけで、途切れた思考が本来の問題に向かう。
今日もまた二人で食事をすることになった。
追跡が成功しないかぎり、苦労しただけで終わるかぎり、プータローは連日やってくるのでは?
進一はやれやれと考えを振り払う。身体が重くて弱気になっているのか、どうも底の見えないドロ沼に片足を突っ込んだような感じがしている。
「……初戦は敗退ってだけだ」
猫からの挑戦状。
受けて立つしかないと、進一は自分に言って聞かせた。
一回でうまくいくと思っていたわけじゃないだろう。弱気になってどうする。
プータローの居所さえつかめれば変わるはずだ。理香に説明できない生活は終わる。ふたたびプータローの足が遠のいても彼女の心は安定するだろう。二人で追いかけることもない。彼女が追跡をやめるとは思えないが、さすがに無茶な真似はしないはずだ。彼女が一人で後をつけるだけなら、プータローも悪さはしないだろう。
追跡さえ成功すれば、すべてうまくいく。
だが、思考が狭いな。これさえやればなんて考え方は危険だ。焦らせるならなおさらで、焦らせる考え方を吹き込むヤツがいたなら、それは罠とみたほうがいいのだから。
なにか別の方法はないだろうか。考えろ。昨夜には出なかったアイデアが浮かぶかもしれない。なにも一気にすべてを解決しなくてもいいんだ。プータローを追いかけることなく彼女を元気づける方法があれば……。
「……苦労はないよなぁ」
ぼやいた進一は、疲れた顔をした院生がふらりふらりと研究室内を漂っている、目の前の現実をみた。
悩むだけならエネルギーの浪費でしかない。猫であれ卒論であれ、いまは行動のときだ。今日も早く帰ることになる。いまは、いまやれることに集中すればいい。
進一はノートパソコンを起動させると、頬を叩いて気合いをいれた。
が、進一の気合いが猫に通じることはなかった。
プータローは連日あらわれた。追跡は毎晩プリンを食べたあとに行われ、毎晩失敗した。進一はキャラメル色の猫から目を離すまいとして側溝に落ちたり、アスファルトのうえを這わされたりした。高いところを歩く猫を見逃すまいとして、文恵を肩車でのせながら歩くことも少なくなかった。
「文恵、最近なんか調子ええやん」
早紀にそう言われるほど、文恵は元気になっていった。
「佐山よ、ずいぶんワイルドになったな」
八代にそう言われるほど、進一の肉体は鍛えられ目つきは鋭さを帯びていった。
さすがに毎日では飽きてきたのか、進一というオモチャが連日連夜遊ばれることはなくなった。
猫がやってこない日、進一は計画通り研究室で八代の手伝いや卒論の作成、院生試験に向けての勉強、神経が衰弱している院生の手伝いをして過ごした。
猫がやってこない日、部屋に帰れば文恵はいない。
部屋にはメモが残されていて、メモに書いてある通り、進一のために食事が用意されていた。
「ついでですから、これくらいはさせてください」
断わろうとする進一に対して、文恵はそういって譲らなかった。
プータローの逃走力にも衰えはなく、どこへ行くのかは依然わからない。
ある日、進一は駅の改札口で文恵に聞いた。
プータローの居所がわからないままなのに、文恵が落ち込んでいないのはなぜか。
「なんで、でしょうね……プーちゃんが楽しそうだから、かな。このままでもいいのかなぁって。このままでいられたらいいなぁって、そんな風に、思っています」
文恵は笑顔でこたえていた。
少し寂しさが隠れていたものの、たしかに嬉しそうな表情で、報われない進一に気をつかっているわけではなさそうだった。
文恵を元気づけるという目的は果たせているが、このままでは困る進一は言葉につまっていた。
これもう、追いかけなくてよくないか?
進一は研究室の定位置でコーヒーを味わいながら現状について考える。
かなり意地になって追いかけてきた結果、たしかに彼女の調子は戻っている。だが、それはプータローの訪問が増えたからだ。計画とは違う。居場所を突き止めたからじゃない。追いかけることをやめれば、あの性悪猫の足は遠のいてゆく可能性が高い。
進一は何度となく再考し、結局は考えを振り払った。
いまのところ、追いかけることに意味がある……あの猫に振り回されることに意味が…………。
進一は苦々しい気持ちでコーヒーをすすると、近くにあった紙を裏返して猫の逃走経路を書き出した。
目を離すまいと頑張ってきたが、それではプータローに主導権を奪われる。自分の意地だけでは無理だと判断した進一は、蓄積したデータを分析、文恵の直感力も活用して、全力でプータローに迫った。
これまでになく少ない労力で追いかける二人。
文恵の直観力も冴えわたり、ついに進一たちは駅周辺までプータローを追いかけることに成功した。
しかし、それが限界だった。
いつも駅周辺でプータローを見失う。
そしてついには、バスに揺られて去っていくキャラメル色の猫を目撃した。
「猫ってほんとにすごいですよね」
「いや、あれはもう猫じゃないとおもう」
あれは一体なんなのか。
プータローの行動範囲はどれだけ広いのか。
バス停で路線図をながめる文恵のそばで、進一はベンチから立ち上がれずにいた。




