11 新しい生活
文恵の生活は変わった。
文恵は他人の部屋で窓から顔だけ出していたり、他人の部屋の壁際でひっそりと座っていたり、他人の部屋で無邪気に猫と戯れたりしていた。
プータローが来ないときは、進一に慰められながら駅まで見送られた。
プータローが来たときはキャットフードを与え、二人と一匹でプリンを食べる。プータローが出て行くと、どこへ行くのか後を追い、そのたびに見失い、進一に慰められて駅まで見送られる。
夕食はほとんど外食になった。
居酒屋に入ろうとすると、隣にいた進一から「酒はやめておこう」と言われたりもした。
進一の生活は変わった。
猫探しの依頼がない限り、文恵は部屋にやってくる。
プータローを膝にのせた文恵に、「講義がないときは午前中から待ってますよ」、と得意気に語られてしまったこともある。
「非常食にもなりますから」
といった文恵の意見を聞き入れたわけではないが、収納スペースやキッチンの棚には、缶詰やパックの生タイプ、袋入りのドライタイプといった多種多様のキャットフードが占めるようになった。
帰ると文恵が部屋にいて、浮かれていたり沈んでいたりしている。
それが日常になった。
以前と比べて、プータローの訪問は減っている。
やってこないことに慣れてきた文恵は、食事をつくりながら待つことをひらめいた。二人分の食事をつくれば、迷惑をかけっぱなしである部屋の住人に対して、感謝の気持ちを形にすることもできる。一石二鳥の名案に思えたが、がんばってみた結果は悲惨だった。
「せっかく作ったのに、捨てるのはもったいない。いただくよ。ああ、だいじょうぶ。問題ない。子どものころ、お前はもっと佐山家の胃袋に自信を持てって父親に言われたことがあるんだ。あれっていつだったかな? たしか家族でスーパーに行って、両親が半額セールの商品ばっかり買っていたときだ。父親が賞味期限ギリギリの牛乳を選ぶから、子供心に疑問を感じたんだよ。誰も買わずに捨てられたらもったいないだろ、とか言ってたけど、大人が嘘をついているのは子どもでもわかった」
醤油の効いたお汁粉のような肉じゃがを胃袋におさめて、進一は、「つぎはカレーか、お茶漬けがいいな」とリクエストをつけた。気をつかわなくてもいい、食事の用意なんかしなくてもいい、とは言えなかった。
お願いをされた以上、文恵も断われない。
翌日には無難なカレーが出来上がり、ふたりはようやく心苦しさから解放された。
失敗に傷ついた心はそれなりに癒され、食事の用意をしながら待つ、というアイデアは生きのびる。
文恵にも意地があった。
「気をつかわなくてもいいよ」
と軽く言われても、「趣味ですから」、と軽く返すほどに。
「しゅみぃ? 趣味と問われれば猫と答える文恵が、料理が趣味って言ってのけたん?」
早紀は驚きあきれたが、教えを請われては捨て置けない。けらけらと笑って快く引き受け、文恵に料理の指導をはじめる。あとになって「文恵に恩が売れるやん」と気づき、「よっしゃいける」と自らが考案したチャレンジ料理を進一で試したりもした。
早紀は三度目の奇襲でプータローと出会っている。
「いやぁん、めっちゃかわいいやん。うち、こんなん好きやわぁ。ほんまに化け猫なん?」
プータローを文恵から取り上げて、早紀はふくよかな猫を抱きしめて騒いだ。
キャーキャーと猫を取り合う女たちを眺めながら、進一は黙って芋焼酎を飲んでいる。肉球に弾かれる以外、進一はプータローに触れたことがない。なぜ柴田にも無抵抗なんだ化け猫がネコを被るんじゃないぞ、と進一は気だるそうな半眼の猫に念を飛ばす。プータローは文恵と早紀に挟まれながら、前脚をまっすぐ伸ばし、進一を見ながらニギニギと鋭い爪を出し入れしてみせた。
早紀はプータローと触れ合えて満足したらしい。
文恵の上達が速かったこともあるが、いろんな趣味に忙しく、数えるほどしか来ていない。
プータローとの出会いは一度だけ。
進一たちとは違い、それだけの縁に過ぎなかった。
夏休みに入って早々、八代の祖母が住まう村落に大自然研究会のメンバーが集う。
二泊三日の合宿。
目的はツチノコの捜索、および捕獲。
自由気ままなる大自然研究会のイベントにおいて、進一の誕生日会につぐ参加率の高さを誇る。
午前七時、進一以上に忙しいはずの八代は、日頃のストレスを発散するかのように林道を駆けた。
走りゆく熊のような巨体を、早紀が追いかける。
「とりあえず、あの人たちの真似だけは絶対にしないように」
代表からの注意喚起が行われ、文恵など他のメンバーがぞろぞろと進一のあとをついて歩いた。
「あの先輩方は、毎回あんな感じなんすか?」
「いや、去年はみんな走ってたよ」
そんな会話がうしろの方でなされ、文恵は「そうなんですか?」と進一に尋ねた。
進一は顔をそらしながら、「こういうときは、孝雄がいないと楽だな」、と独り言のような答えを返した。
かつて八代少年がツチノコを目撃した場所、そこから捜索は始まる。
単独行動はしないこと。
発見したら他のチームに連絡すること。
毒蛇や毒虫、熊やイノシシや転落事故などに気をつけて、なにより命は大切に。
進一が、それらの注意事項を早紀の口から言わせる。
文恵は、進一、早紀、八代の三人とともに行動した。
胴体の膨れたヘビのような生き物を探せばいいことはわかっている。だが、どうやって探せばいいのだろう。ぐるりと見わたせば、カメラで撮影している者、ダウジングで真剣に探している者もいるが、結局は猫探しと同じように、いろんなところを見ていくしかないのだろう。
文恵は深呼吸をして、街中では味わえない匂いを楽しんだ。気楽にやろう、そう思ったが、
「文恵、頼んだで」
早紀に正面から両肩をつかまれ、親友と同じような眼差しで進一に見られた。熊のような巨体の大先輩からは拝まれもした。
まったく集中力が出ないまま捜索を続けて、文恵は地図に目を落とす。
ぽたぽたと汗が落ちて、ため息が出る。
八代先輩のおばあさんが作ってくれたおにぎり、おいしかったなぁ。そんなことを考えながら地図をながめていると、早紀と進一が背後に立っていた。
「どのへん!? どのへんにおるの!?」
勢いよく迫られて、「このへん、かなぁ」と、とっさに目についた場所を指さした。
文恵が指さした場所は、広々とした場所だった。かつては蕎麦などの雑穀が栽培されていたようだが、いまはもう背の高い草だらけで、ただの荒地になっている。畑であった荒地の入り口は、もう少し坂道を下ったところにあるらしい。四人が立っている場所には、一メートルほどの段差があった。
「こりゃあ、うかつに入ると毒蛇に噛まれるかもしれんな」
広々とした草むらを見わたしながら、八代がまともな発言をした。
文恵を除く三人がどうやって草をなぎ払っていくか相談していると、ガサガサと音がきこえた。
四人が草むらに注意をむける。
すると、前方3メートルほどの場所で、何かが跳んだ。
草むらの上を、それっぽいのが跳んだ。
目撃した数瞬の後、進一の身体にゾクゾクとした感覚が走る。震えるままに草むらへ突入しかけたが、八代の雄叫びで我に返った。進一以上に興奮していたであろう八代が、咆哮をそのままに巨体を草むらのなかへ飛び込ませる。
「ちょっ、八代さんダメですって!!」
そんな声が届くはずはなく、早紀が高らかに笑い声を上げた。
気配を追いかけているのか、八代はどんどん遠ざかる。進一は八代の暴走が止まらないと判断を下し、「とにかく見失わないようにするぞ」、と言ったが、言ったそばから、早紀が歓声をあげて草むらにダイブした。進一は力なく頭を振ると、「君はここで待っててくれ」と文恵に告げた。
文恵は、散らばっていた他のメンバーが駆け寄ってくるころには、落ち着きを取り戻していた。それっぽいのがいたことを伝えると、みんな我先にと草むらへ入っていく。文恵は笑いをこらえながら、進一の言いつけどおりに動かず、ずいぶん遠くへ行った三人の姿を探した。
暴走する八代に、一緒になって駆けていく早紀。そのふたりを追いながら、時々こちらの方角を確認する進一。
「ほかの人たちまで動きまわっちゃって、ほんと、いろいろ大変だなぁ」
せめて一人くらい、佐山さんの手伝いをしなきゃね。
文恵は大きく伸びをして空を見上げた。
陽射しが熱くてたまらないのに、太陽に向かって笑顔があふれた。
ツチノコの捕獲はならなかったが、一人として命を損なうことなく、全員無事に帰還を果たした。
少年時代の自分は間違っていなかった。八代は号泣しながらツチノコ目撃談を熱く語り、後輩たちに酒を勧めた。とくに文恵には酒を勧めて、何度となく手を合わせて功績を称えた。
熊のような巨体の先輩が感涙にむせて、あの柴田早紀が、興奮のあまり酒を口にして倒れた。まっとうに思われた新顔も、信頼のおける佐山代表さえも、ツチノコのようだったと語っている。
やはり、いる。
ツチノコは絶対にいる。
研究会メンバーの興奮は最高潮に達し、明日の捜索成功を祈って大いに酒を酌み交わした。
親友や進一たちに喜んでもらえれば、文恵も気分はいい。もともと早紀の推薦ということで一目おかれてはいたが、今回の功績で、文恵はもっている人として敬われだした。文恵は、未知との遭遇への協力はていねいに断わりつつ、猫の魅力を語りだす。
進一の気分も上々だった。身体は疲れきって眠たくもあるが、ツチノコらしきものを目撃したときの興奮を思い出しながら、戦線を離れて同志たちの狂騒を見回す。意識を取り戻した早紀と「孝雄の悔しがる顔が見ものだ」と語り合い、猫探しの人員確保に乗り出した文恵をみて酒を噴き出した。文恵と早紀にどれだけ背中を叩かれようが、腹を押さえて遠慮なく笑った。
翌日、ツチノコ捜索は中止となったが、誰一人として文句は言わなかった。
文恵は帰省もせず、猫探しの依頼がない限り、変わることなく進一の部屋にやってきた。
料理の腕に自信を持ちはじめ、「ごはんって、土鍋で炊くとおいしいですよね」、などと語るほど食事作りを楽しむようになっている。
プータローがいなくても、沈んでいる文恵はもういない。
進一の生活は変わり、文恵が部屋で待っている、それが日常になっていた。
理香に会えない寂しさを、文恵の存在が埋めている。
退屈で空しい時間は減ったが、少しずつ、ざわつく思いが心に積もる。
「彼女はプータローを待っている。でも、それだけを待っているわけじゃない」
文恵の存在が自分のなかでどのように変化しているのか、気づかなかったわけではない。だがそれは、理香の代役を求めているだけだと考えていた。
進一は理香しか求めない。
会えない日々が苦しみであっても、理香のことを想い、理香の声を思い出せば、どんな不安も力を失う。文恵に近づこうなど一度も考えたことはないが、ただの後輩と意識するあまり、遠ざけることもできなかった。
恋人でもない異性と、毎日のように食卓をともにする二人。
「プータローが来ていると、食事作りを途中で放棄して遊んでいる。彼女は猫に会いにくる猫好きの後輩であって、それだけに過ぎない。……ここまできて拒絶するのも、どうなんだろうか?」
進一は、男の部屋にやってくる文恵の行為が良識的におかしいと考えはしても、自分が理香を裏切っているとは思い至らなかった。進一にとって理香は何よりも大切な存在。理香を裏切り傷つけるという、発想自体が欠落している。
これでいいのか疑問を抱きつつ、進一は文恵がいる日々を重ねつづけた。
文恵との会話は、ほとんどが猫に関するもので、いつも進一が聞き手にまわっている。柴田早紀という女については語る機会もあったが、進一の口から、恋人の存在を伝えたことはない。
たとえば休日の過ごし方でもいい。もしも文恵が、進一にプライベートを尋ねていたとしたら、進一は恋人の存在を教えていたかもしれない。照れながらも、理香がどれだけ魅力的な女性であるかを、ポツリポツリと長々と、うれしそうに語ったのかもしれない。
だが、文恵はなにも問いかけなかった。
文恵は自分から問いかけて、進一のことを知ろうとはしなかった。
「いきなり恋人の話をされても、彼女だって困るだろう。自意識過剰な男が、勘違いするなよ、と言っているようになるのか? ……おもいっきり警戒されて、お互い、心に傷を負うような気がするな」
尽きることなく猫を語る後輩に対して、話すことでもないと進一は考えた。
文恵がいて、ときどきプータローもいる生活。
文恵の膝のうえでくつろぐ猫。
進一が呼んでも無視するが、文恵が呼べば寄っていく。進一にはまったく触らせないが、文恵が撫でればグルグルと喉を鳴らす。
撫でる仕草はやわらかく、猫に向けられる眼差しと微笑みは、どこまでも暖かい。
進一の目に映る、一枚の絵。
それはとても、心地のよい情景だった。
大学からの、いつもより遅い帰宅。
進一はカギをまわしてドアを開けた。真っ暗の部屋には誰もおらず、密室だった部屋には猫もいない。
部屋の明かりをつけて、テレビのうえに置かれた時計をながめた。夕食はすでに済ませている。あとはシャワーを浴びて寝るだけだ。もっとも、布団に入っても眠れるかはわからない。明日が待ち遠しいときは、疲れがあっても眠れないものだ。
半日にも満たない時間とはいえ、久しぶりに理香と会える。
進一は携帯電話を取り出して、新たにメールが届いていないかを確認した。デートのキャンセルはないと、いったい何度確かめれば気が済むのだろう。自分の行動に笑ってしまう。
荷物を置いて、部屋の換気をするために窓を開ける。
プータローは今日も来なかったのだろうか。
小さいほうの窓を開け、久しく現れていないキャラメル色の猫が思い出され、網戸を開ける。
プータローの訪問は減った。
だんだん減ってきているのはわかっていた。いずれは姿を見せなくなる、そんな気がしている。
「どう、思っているんだろうな」
進一はつぶやき、文恵を思う。
このところ、すこし元気がないように感じる。やはり同じことを、プータローがいなくなることを考えているのかもしれない。昨日も、猫探しの前日にしては頼りない気がした。
(明日もがんばってみます)
そんな一文が、進一の脳裏によみがえる。
文恵から送られてきた最後のメールには、探している猫が見つからないと書かれていた。前回と同様、猫探しに時間がかかっている。早紀や研究会のメンバーも手伝ってはいるが、それでもなかなか見つからない。
前回の猫探しが終わったあと、文恵は気を落としているように見えた。
「ずいぶん苦労したようだけど、なにかあった?」
慰めるような進一の問いかけに、文恵は首をよこに振った。
「なんだか、勘がうまく働かなくて」
文恵はそういって、ただ寂しそうに笑っていた。
あの直観力が鈍った。柴田も悩んでいたが、考えられる原因はなんだ。勘が働かない、働かせたくない? 自分の直感を信じたくないようなことがある、とすればプータローしかいないか。プータローがいなくなると感じていながら、それを認めたくないのかもしれない。
進一は文恵を思い、行方の知れないキャラメル色の猫を思った。
いったいプータローはどこにいるのだろう。つぎに来たときは、本気で後を追いかけてみようか。
「ツチノコの呪いを気にして責任を感じているヤツもいるんだ。後輩たちに、あまり心配させるなよ」
囁くように文句をいって、進一は小さく笑った。
いなくなると寂しいのは、自分も同じかもしれない。
蜂蜜色に輝く光を少しだけ探して、進一は静かに窓から離れた。




