8 時を忘れて
二度寝から目覚めたとき、ゴトンという音を聞いた。きっと空耳だ。そんな考えが頭をよぎるが、なにやらガーガーと音がする。脳裏に浮かんだプータローは、爪で網戸を引っかいていた。
「なかなか来ないと思ったら、朝から不意打ちときたか」
進一は起き上がり、窓を開けてやる。気だるそうな半眼で、蜂蜜色の瞳が進一をみる。それで挨拶は終わったらしく、プータローは何の遠慮もなく部屋に入り、当然のごとく布団に居座った。
洗顔をすませ、湯を沸かしていると、布団からプータローが直視してくる。進一はイワシの煮付け缶を選ぶと、炊飯器のなかを確認した。
イワシ煮混ぜご飯をつくってプータローに差し出し、カップに熱湯をそそいでインスタントコーヒーをつくる。砂糖は切らしている。忘れていた。しかたなくブラックコーヒーをすすりながら、猫飯を喰らうプータローをながめた。「よく食うな」と感想がもれて、直後にプータローから睨まれた。
視線をそらすと、携帯電話が視界にはいった。
手にとって、理香からのメールをもう一度見ておく。
今日も理香には会えない。いつになったら会えるのか、それもわからない。
ため息を漏らして、苦いコーヒーをすすった。
(追加公演決定!!!!)
件名だけで理香の喜ぶ姿が想像できた。よその劇団によるものらしいが、活躍の機会が増えたことは喜ばしい。理香の評判が高まれば、所属している劇団も得をするはずだ。あの人は、なんでもやる。自力公演を数多くこなしたうえに、積極的に他の劇団と交流をもっている。役者を育てるためなら、なんだってやるとあの人は言った。
「理香くんと、距離をおいちゃくれないかい?」
普段はいい加減に見えるのに、あの時だけは雰囲気が違った。
「君のおかげで、理香くんは一気に開花したと思う。けれど今度は、君が邪魔になる」
あの人の言葉を鵜呑みにしたわけじゃない。役者の真顔なんて信じるものじゃない。けれど、役者であることに集中させたい、そこだけは意見が一致した。できるだけ会わないようにすると約束をした。できるだけ、こちらからは連絡しないと約束をした。
理香は役者として成長している。
あの人の言ったことは正しかった。長年にわたって役者をつづけて、劇団を立ち上げた人だ。どれだけいい加減に見えても、ただの小さいオッサンじゃない。
進一は受信ボックスを閉じようとして、文恵のメールを見つけた。
コーヒーをすすって、ようやく文恵との約束を思い出す。
「写真、送らないとな」
携帯電話のレンズを向けると、プータローはカメラ目線だ。カシャリと写せば、蜂蜜色の瞳が美しい。何枚か撮って、どの写真もカメラ目線だと気づき被写体を見る。プータローは視線をそらして皿をなめ回した。
長い尻尾やキャラメル色のふくよかな身体など、特徴をバッチリおさえたベストショットを選び出す。写真を添えて、文恵にメールを送る。
食事を終えたプータローは布団で丸くなっていた。「プリンはないぞ」と声をかけたが動く気配はない。こいつ帰る気がないな……居座るのか? プリンを買ってくるまで居座るつもりなのか? 心配してもしかたなく、進一はコーヒーを飲み干してカップを洗った。
携帯電話が震えて鳴り響く。
文恵からのメールだと予想はついた。携帯電話を手にとって確認する。
(いまから行きます)
文章はシンプルであり、読み違いはないが、意味を読み取るには時間がかかった。
いまから部屋に来る。プータローに会いに、ここに来る。
どうやって? 彼女はこの場所を知らないはずだ。勘か? 直感だけで来るのか?
考えがまとまらないうちに、携帯電話が着信を知らせた。液晶画面には西園寺文恵と表示されていた。電話に出ると、文恵の叫び声が聞こえた。何を言っているのか聞き取りづらい。何度となく聞きなおして、ようやく住所を尋ねていることがわかった。
進一が駅まで迎えに行くと言っても、文恵は聞く耳を持たなかった。
「なんとしてでも行きますから!! プーちゃんを見張っていてください!!」
そう言い残して、一方的に電話を切られた。
たしかに逃げられては意味がない。
とりあえす窓を閉めた。あとはプータローがいかに暴れようとも部屋から出さなければよい。もしも暴れ出したら、閉じこめて部屋を離れようと決めた。
恐れていた事態は起こらなかったが、面倒なことにはなっている。
「寝ているから大丈夫」
「問題ないよ。そうそう、東口から出ればいい」
「布団で猫らしく眠ってるから。児童公園がみえたら、あとはそのまま坂道を上がればいい」
五分に一度は文恵から連絡がある。そのたびにプータローが大人しく部屋にいることを伝えて、ついでに道順を説明した。
そして、部屋のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、紙袋をかかえた文恵が一歩まえに踏み込んできた。
「お邪魔します!」
と誰かに言って、文恵は使い込んだスニーカーを脱ぎだす。
ストレートジーンズにトラ猫のポシェット。小さな三毛猫がちょこんと座る淡いクリーム色のロングシャツ。ツヤのある黒髪をうしろで束ねて、桜色に染まった顔がはっきりと見える。
呼吸は荒いが、生き生きとした表情に苦しみの影はない。
「どうぞ、遠慮なく」
進一は苦笑しながら位置をずらし、文恵に奥の部屋を見せる。
文恵の行動は速かった。
飛ぶように駆け抜けたかと思えば、寝ていたプータローを抱えあげている。
「プーちゃんだ!! やっぱりプーちゃんだ!!」
子どものように騒ぎ、涙を浮かべて嬉々として、プータローに頬を寄せていた。
寝起きのプータローが薄っすらと目を開けて、なんとかしろよ、と言いたげに進一を見ている。
されるがまま、無抵抗のプータロー。
はじめて見る姿が、おかしくてたまらない。何を言っても無駄のような気もして、しばらくはそのまま眺めていた。
どうやら彼女は感動の再会をしているらしい。
そんなに似ているのか? それとも本当に同じ猫? 同じ猫に、同じ名前をつけた?
早紀の化け猫説を思い出して進一は苦笑する。猫はくわしく知らないが、なんだか妙な猫だとは思う。もしかしたら本当に同じ猫かもしれない。何十年も生きる猫がいたって、べつにかまわない。プリンを狙うぐらいなら、化け猫だって文句はない。プータローなどと名付けたのは、妖力によるものだと言い訳もできる。しかしだ。
「そんなやつでも、猫好きには勝てないのか?」
進一は苦笑しつつプータローに尋ねた。
文恵がプータローを抱いたまま顔を向ける。どうやら声は届いているようだ。
「コーヒーでも飲む? インスタントで、砂糖ないけど」
文恵の表情が、あっという間に硬くなる。
猫スイッチが切れたらしい、と、進一は声をもらして笑った。
「あの、それ、よかったらどうぞ」
文恵は紙袋を視線で差し出した。
打ち捨てられた紙袋のなかには、黒蜜プリンが三個と猫の缶詰が九個入っていた。
布団を片付けて、折りたたみテーブルを用意する。
プリンの存在に気づいたのか、プータローが紙袋を凝視していた。進一は猫の視線など気づかなかったことにして、テーブルにコーヒーカップとグラスを置いた。
文恵にアイスコーヒーを差し出す。
「ありがとうございます」
文恵はプータローを抱えたままグラスを手にとった。たっぷりと氷を入れてあり、よく冷えている。走ってきたと思われる文恵にはちょうどよいだろう。見るかぎり、文恵はアイスコーヒーに注意が向けられて、プータローの視線に気づいていない。
進一はうずうずしているプータローを見やり、してやったりの気分でコーヒーを口にする。
しかし、すぐに自分の過ちを悟った。
「どうかされました?」
「ん? いや、なんでもない。プータローがあまりにも大人しいから」
「ほんと、いい子ですよねぇ」
文恵はプータローをぎゅっと抱きしめる。ふたたび猫スイッチが入ったらしいが、文恵の変貌をまえにしても進一に笑う余裕はなかった。
コーヒーが苦い。
ブッラクなので当たり前だが、いつもと違うプータローを楽しむあまり油断していた。
もうすでに、先ほど目にした黒蜜プリンが食べたい。
進一は妖しい光に気づいてプータローを見た。蜂蜜色の瞳が進一を見ている。いつも以上の上から目線だ。先ほどとは立場が逆転している。文恵に動きを封じられてはいるが、プータローからは余裕を感じられる。
「ほんとに化け猫じゃないだろうな」
「はい?」
「いやいや、なんでもないなんでもない」
進一の不審な態度に何を思ったのか、文恵はまたしても表情を硬くして、「どうでしょう。プリンでも食べません?」と顔を真っ赤にしながら提案した。
一呼吸おいて、進一はコーヒーをすすり、プータローはもぞもぞと脱出を試みる。
文恵にしてみれば話題を変えたつもりなのだろう。だが、進一から返答はなく、プータローは逃げ出そうともがきはじめる。
「プリン、いただこうかな」
文恵の戸惑いは受け流し、進一は言った。
文恵はもがいているプータローに忙しく、「どうぞ」とあわてながら答える。
進一は紙袋の中身をテーブルにならべていった。猫の缶詰をすべて置いて、黒蜜プリンをひとつずつ置いていく。三個目のプリンがならんだとき、プータローの動きがピタッと止まる。よくよく考えてみれば、今回は人間と猫で我慢比べをする理由がないのではないか、と進一も気づいた。
「三個あるってことは、プータローの分もある?」
進一の問いに、こちらを見た文恵の視線が宙を泳いだ。
「……ええ、もちろんありますよ。ちゃんと忘れずに買いましたから」
上から目線のプータローを抱きながら、文恵は硬い笑顔をつくりあげた。「それはよかった」とつぶやいて、進一は苦いコーヒーを味わう。頭をかきながら立ちあがると、スプーンと皿を持ってくるためにキッチンへ入った。
テーブルの上には、マグカップとグラスがひとつずつ、猫の缶詰が九個、スプーンをのせた黒蜜プリンの容器が二つ、プリンが盛られた皿がひとつ、猫の前脚が二本。
「こんなに礼儀正しい猫なんて、そうはいませんよねぇ」
文恵に同意を求められたが、進一は何も言い返せなかった。それでも文恵はまったく気にしていない。話しかけているようで、実際はひとり言のようなものらしい。
ゆったりとプリンを楽しんでいる猫と、そんな猫をデレデレしながら見守るサークルの後輩。
自分の部屋で起きている出来事を、なんとかしようという気は失せた。進一は容器の蓋をペリペリはがして、黒蜜プリンをスプーンですくいあげる。たとえ猫の分け前であっても、口にしたプリンは幸せをもたらした。
文恵は飽きることなくプータローを撫でまわし、ときにはギュッと抱きしめてほろほろと涙を流す。
黒蜜プリンを一個半ほど食べたプータローは、うつらうつらと眠たそうにしていた。ことごとく眠りを邪魔されているが、それでもプータローは何もしない。されるがままにすべてを受け入れ、文恵を慰めていた。
点滅を繰り返した猫スイッチも、ついには限界をこえる。
文恵は落ち着いてプータローと触れ合えるようになり、触れ合いながら会話もできるようになった。
「いろいろと、すみません」
進一に笑いかけながら、文恵は涙をぬぐった。
涙をふいて鼻をかみ、「トイレ、お借りします」と文恵は告げる。
心にゆとりがあらわれた文恵がトイレに立って、プータローはテーブルのうえに解放される。さすがにトイレまで連れてはいかなかった。当然ではあるが、文恵のスキンシップを見つづけた進一にとって、たとえ一時でもプータローから離れるなど、憑き物がとれたような印象をうける。なぜテーブルに猫を置くのか、もはや疑問にさえ浮かばなかった。
プータローは身体を横に投げ出すと、ごろんと寝返りをうち、眠たそうな目で進一を見る。
「どうして彼女には無抵抗なんだ?」
目の前で横たわる猫に進一は問いかける。
撫でようと近づけた進一の手は、猫パンチにはじかれた。
朝からコーヒーとプリンしか口にしていない進一は、文恵に留守番を頼んで買い物に出かけた。
プータローがいるかぎり、文恵が部屋を離れるとは思えない。遠慮する文恵に好きなパスタソースを聞いてから、進一は自転車でスーパーに向かった。食材と砂糖、特売のハニープリンを買い込み、ゆったりとペダルをこいで坂道をのぼる。
部屋に戻った進一は、変わらぬ光景を確認して「ただいま」と言った。
パスタを茹でて、パックのチーズソースをからめる。文恵にはタラコのソース。
プータローは文恵の膝で眠り込んでおり、まともな会話をしながら、ゆったりとした食事をすることができた。過去と現在におけるプータローの魅力を、文恵は落ち着きながらも語りつづける。
進一は相づちを打ちながら話を聞いた。納得できる部分は多くなかったが、そこは受け流して話を聞いていた。猫好きの視点ではどう見えるのか、その違いがおもしろくもあった。
進一は自分好みのコーヒーを味わいながら、文恵との会話に時間を忘れた。
ベランダ側の大窓から西日が射し込んだころ、プータローが目覚めた。文恵の邪魔もなく、プータローは畳で大きく伸びをする。冷蔵庫のほうを向いて鼻をヒクつかせたが、結局は小さい窓のほうへ歩き、窓の下で進一をまっすぐに見据える。
「お帰りだそうだ」
「……プーちゃんは、やっぱり自由がいいんでしょうね」
あの頃と、変わらないな。
文恵の寂しそうなつぶやきに、進一は小さく笑みをみせる。
「また来いよ」
窓を開けて別れを告げると、プータローは窓枠に跳び上がり、ゴトンと音を鳴らして外の世界へ帰っていった。
「それじゃあ、わたしもそろそろ帰ります」
すでに立ち上がっていた文恵が、「今日は本当にありがとうございました」と言いながら玄関に向かう。使い込んだスニーカーを履くと、進一にペコリと一礼をしてドアを開ける。「気をつけて」という言葉を背に受けて、文恵は部屋から去っていった。
進一は腕を組んで、しばらくドアを見ていた。
六畳間から携帯電話と財布を手にとり、玄関から部屋を出る。
ゆっくり歩いてアパートから出ると、周囲に気を配りながら坂道を下っていく。駅が見える場所までは直線に近い一本道。誰であろうと迷うはずはなく、沈んでいく太陽を望みながら駅に向かう。チワワを連れた中年女性とすれ違い、顔見知りだったので会釈をかわした。女性の表情に違和感を覚え、すこし歩みを速めて、塀に張りつく文恵をみつけた。
「やっぱりか」
その声で進一に気づき、文恵は塀から離れた。
「ずいぶん物分かりのいいことを言うから、こっちまで感傷的な気分になったのに」
しっかり後を追いかけている。
文恵は目を合わせようとしなかったが、反省しているようには見えなかった。
進一があきれて溜め息をつくと、文恵は上目遣いで進一をみる。
「……逃げられちゃいました」
照れながら、イタズラの見つかった子どもみたいに笑っていた。
進一は文恵とならんで歩き、駅に向かう。
「連れて帰ろうとか考えたわけじゃありませんよ。ちょっと、プーちゃんはどこに行くのかなあって、気になっただけですから」
「で、どこまで追いかけるつもりだった? さっき塀の上に登ろうとしてなかったか?」
「しませんよ、そんなこと。するわけないじゃないですか」
どこかをみながら文恵は言い張る。
人間の通る場所じゃない猫道でさえチャレンジする文恵。もしもプータローが他人の家に上がり込んだら。もしも雑木林のなかへ入っていったら。もしも信号などないところで車道を横断しようとしたら。
考えるだけで不安になる。
落ち着かない気持ちになって部屋を出たが、はっきりと危険性を知ってしまった。プータローに逃げられたとはいえ、偶然見つける可能性も、見つけだす可能性すらある。止めたほうがいいと言っても止めるわけがない。精神の安定を保つためには、文恵を駅まで送るしかないだろう。
進一はあきらめて、溜め息をついた。
ニュース番組がCMに入り、進一は目線を上げた。
黒いブラウン管テレビの上で、少し斜めに立っているアナログ時計。
変わりなく、淡々と時を刻む時計をながめて、進一は満足気に息をつく。
コーヒーの香りが漂い、テーブルのうえにはハニープリンの空容器も置かれている。砂糖をひかえたコーヒーを味わいながら、進一は思う。最高のスイーツタイムがあるとすれば、それは、理香のことを想いながら、スイーツを楽しむことかもしれない。
時計をながめて、頬が緩む。
こんな時間を過ごせるなど、朝には想像すらできなかった。
「プータローのせいだな」
ひとりつぶやいて、流されて過ごした半日を振り返る。
「まあ、プータローと、彼女のおかげか」
頭をかきながら笑いをこらえて、部屋に乗り込んできた後輩の姿を思い出した。
紙袋を抱えて、呼吸を乱して、頬を染めて、期待のこもった真剣な眼差しで、まっすぐに見てきた。すぐに一歩迫ってくると、遠慮なく靴を脱ぎだす。三毛猫がいたロングシャツには女性らしさがあったが、全体的には、汚れたスニーカーで残念なことになっていた。猫探しのときに見たスニーカー。靴を選ぶ余裕がなかったのか、選んだ結果があれなのか。
CMが終わり、スポーツニュースが流れていた。画面を見てはいたが、情報はまったく入ってこない。文恵のことが頭から離れない。思い返すたびにおもしろさが増していく。苦笑したり、溜め息をついたりもしたが、いまとなってはなにもかも、心地よい気分にしかならなかった。
心に浮かぶ絵のなかには、もちろんプータローもいる。
進一のなかで、文恵とプータローは一枚の絵になっていた。
プータローなくして、あの文恵はいない。また文恵がいることで、プータローも変わる。ほんとに化け猫のような気がしてきたプータローも、文恵のまえでは大人しい。行儀よく座り、文恵にスプーンでプリンを食べさせてもらう姿など、進一にとっては信じがたい光景だった。なんだあれはと、いまはもう笑うことしかできない。
進一はコーヒーを飲み干すとテレビの電源を切った。
洗い物をすませて、歯を磨いて、シャワーを浴びて、明日に備えてとっとと寝よう。
「カフェインには負ける気がしねぇ、か……八代さんに似てきたかな?」
文恵とプータローが騒がしいのに、進一の心は落ち着いていた。
空しさはなく、理香の姿もなかった。
布団のうえに寝ころぶと、携帯電話がメールを受信した。起き上がり、時計にちらりと視線が動いて、携帯電話をすぐに調べる。
文恵からのメール。
件名には(プーちゃん来てますか?)と表示されている。
「やってくれるなあ」
独り言をもらして、メールの内容を確認した。
本文には今日のお礼と連絡のお願いが書かれていた。
本気でプータローが来ているとは考えていないらしい。件名に(プーちゃん来てますか?)などと書いたのは、少しは期待をしていたのか、ちょっとした冗談なのだろう。
読み終えて、やれやれと息をつく。
返信メールを出そうとして、ふっと、操作を中断した。
「というか、来ていたらどうするつもりだ? 夜中でも来るのか? いやいや、それはさすがにダメだろう。ならなんだ? 朝までプータローを帰さないようにするのか?」
ぶつぶつと独り言をいいながら、暗くなったら来ないことを伝えるべく、ポチポチと操作をはじめた。
「ほんとに、最後までやってくれる」
布団に寝ころがり、携帯電話を離して置いた。
もう彼女から連絡はないだろう。たぶん、理香のメールもない。
しばらくは舞台に集中しなきゃならない。わかっているのに、つい期待をしてしまう。
さっきは、彼女からのメールでよかった。
失望感はない。
むしろ、想定外の一文に興味をそそられた。
なんでもない広告メールだったら、きっと気分は沈んでいただろう。
別れる間際、駅の改札口で文恵は言った。
「プーちゃんが来たら、また連絡してもらえますか?」
進一の答えに、文恵は無垢な笑顔をみせる。必ず連絡をくれると、進一を信頼している顔。プータローに会えることを確信している顔だった。会えなければなんとしてでも探し出したのかもしれないが、進一には、文恵が安心しているように思えた。
「プーちゃんは、わたしの守護天使なんです」
文恵は進一に語っている。進一がパスタを噴き出しそうになると、「ほんとうですよ。悪いひとから守ってくれたりするんです」とムキになって抗議していた。
「たしかに天使なんて子どもの発想ですよ。でも当時は、いい子にしていると天使が守ってくれるのよって、母親から聞かされたりしていたんで、わたしのなかでプーちゃんは天使そのものに……いや、だからなんで笑うんですか?」
進一は謝っていたが、笑いを止めることはできなかった。なにを語られようとも、文恵の膝で眠るふくよかな猫は、天使というにはあまりにもだらしなく、ふてぶてしい。化け猫なら考えられても、天使というのは無理があった。
守護天使として見ることできなかったが、それでも文恵の心情を垣間見た気はした。
駅の改札口で文恵の笑顔を見たとき、進一はふっと察した。
プータローはずっと味方だった。
そしていまでも、自分を守ってくれている。
プータローはこれからも、ずっと一緒にいてくれる。
彼女はそんなことを考えているのではないか、と、進一は思いをめぐらせていた。
布団をかぶって目を閉じて、アナログ時計の乾いた音に耳をすませる。淡々としたリズムに変化はなく、理香の姿がはっきりと浮かんでくる。いつもいつも、最後に見た舞台が真っ先に浮かんでくる。舞台で輝く理香がいて、一緒にいるときの理香は、いつも遅れてやってくる。
まだしばらくは、理香に会うことなんてできないだろう。
寂しさと自己嫌悪で、実際、朝は最低の気分だった。邪魔だけはしたくないのに、弱い自分が空しさを訴える。あらゆるものが無意味で、どこにも価値を見出せない。理香のそばにいられないのなら、どうやって生きていけばいいのだろう。理香のことを想うほどに、生きている意味がわからなくなる。
彼女は、また来るだろう。
プータローに会うために、来るなといっても来るはずだ。
きっとまた騒々しくなる。
けれど、それを期待しているのが自分でもわかる。
帰るときは、送っていかないとダメだろうな。そうしないと、こっちが心配だ。
西園寺文恵。
おもしろいね。
仰向けになって天井をみていた。眠気は失せた。文恵のことを考えていて、考えていることに疑問符をつけて、漠然とした不安が押し寄せている。
胸騒ぎがして眠れない。
なにがこんなに不安なのか、それもわからない。
彼女はおもしろい。興味深い。柴田の気持ちがわかるほど。だから気になって考えていたはず。いや、というより、思い出すのが当然だ。今日起こった出来事は、どれも印象が強烈すぎる。
もっともな理屈で説明がついて、納得している自分がいる。だが、それでも不安は残っている。心のどこかで納得していない。不安が存在感を増していく。あのときに似ていると、高校時代の記憶が進一に訴えていた。相手のことがなんとなく気になって、つい考えてしまうことなら以前にもあった。
進一は溜め息をついて、文恵の姿を思い浮かべる。
「……惹かれているのか?」
口にして後悔した。
力をもった考えが、正当性を主張する。
「そうじゃない」
同じように言葉に出して、進一は惹かれているという考えを否定した。
印象が強いから、思い出すのは当然だ。それに彼女はまた来る。期待している。理香に会えない寂しさを、彼女が忘れさせてくれることを期待している。さっきもそうだった。彼女のことを考えていれば、空しさを感じることはない。
結論を出してみたが、関心があることは否定できない。異性としての興味なのか、単なる好奇心なのかがはっきりとしない。一体どうすれば惹かれているという可能性を消し去れるのか。進一は天井を睨んで考えをめぐらす。
理香を知ってから、美咲さんにすら惹かれなかったのにな……。
可能性を消し去れないまま、不安は高まり心が乱れる。
なにに不安を感じているのか。
なにを恐れているのか。
彼女に惹かれているとして、それを恐れる必要があるのか? たとえ惹かれているのだとしても、好奇心と区別がつかない程度ならたいしたものじゃない。理香に敵うはずもない。どうなるわけでもない。
なによりも恐ろしいのは、理香を失うことだ。
たとえ必要とされていなくても、理香をあきらめることなんて、できるはずがない。
考えをめぐらして思い出したのは、かつての命題。
理香の邪魔になるのなら。
理香に望まれていないなら。
進一は大きく息を吐いて、少しは落ち着けと自分に言いきかせた。
解答済みの命題。
そのあと選んだ理香との関係に、後悔はない。
進一は目を閉じて、胸騒ぎも無視して、理香のことだけを考えるようにした。
どうにもならない寂しさがこみあげてくる。それでも、二度と会えないわけではない。一緒にいるときのことを思い出そうとして、浮かび上がるのは、心に強く刻まれた思い出。出会った日のこと。ずっと一緒にいるのだと、心から感じたときのこと。
進一は落ち着きを取り戻していった。
胸騒ぎが静まるにつれて、なにに不安を感じていたのかを理解した。
心のどこかで、理香を失いそうな予感がしている。
進一は力なく笑って目を開ける。
理解はできても、納得はできない。
頭の後ろで手を組んで、天井を見ながら考える。
彼女のことを考えていたのは、理香のことを忘れたいから? 理香を失ってもかまわないように?
半身を起こして頭を振る。
満たされない心が、空っぽになった心の一部が、理香の代わりを求めているだけだ。
忘れられるわけがない。
黒いブラウン管テレビのうえに置かれた時計をみて、進一は確信する。
忘れることなんてできない。
理香のそばにいたいと、いまも心から願っている。
アナログ時計は変わりなく、淡々としたリズムで乾いた音を響かせていた。
ずっと時計をながめていた進一は、携帯電話を探した。
やがて手にした携帯電話を、そのまま手放すことはできなかった。




