猫の行方
彼は近づいてきた猫にふれようとしなかった。
麻由美の戸惑いを察したのだろう。彼は少しだけ、困ったように笑っていた。
「猫は、あまり好きじゃないんだ」
言葉とは裏腹に、猫を見つめる眼差しはあたたかい。
嘘をついていると感じながら、麻由美は尋ねた。
「嫌な思い出でもあるんですか?」
彼は苦笑して、猫に視線を向けたまま、麻由美に語る。
「まあね。情けない思い出だ」
猫を見るたび思い出すよ、と、彼の答えにはつぶやきがつづく。
過去を懐かしむようで、どこか寂しそうな響きだった。
路地裏からあらわれた三毛猫が、麻由美の足もとで甘えるように鳴きだした。麻由美はうずくまり、三毛猫にふれて想う。
好きじゃないのは嘘でも、すこし、苦手なのかもしれない。
知りようのない過去をまえに麻由美はうつむく。妙に人なつっこい三毛猫は、麻由美がなでるとグルグル鳴いた。途切れた会話をつなぐように、彼との時間が終わらないように、麻由美はやさしく三毛猫に甘える。できることなら、いつまでもそうしていたかった。
路地裏の奥から、ちがう猫の鳴き声がきこえる。
麻由美が顔をあげると、薄闇のなかで瞳を光らせていた黒猫が姿をあらわした。身体をすりよせていた三毛猫が、すっと離れて、猫たちは路地裏の奥へと去ってゆく。
「どこへ行くんだろうな、あいつらは」
彼のつぶやきが聞こえると、麻由美は勢いよく立ちあがり強気に声をあげる。
「二次会、ほんとに行かないんですか? 主役が帰るのはどうかと思います。祝い事くらい大人しく受けておくべきです」
彼は少しだけ笑い声をもらして、落ち着いた態度でこたえた。
「もう十分。あとは君たちで楽しんでくればいい」
彼は麻由美に背をむけて、家族の待つ、帰る場所へと歩きだした。
価値のない言葉でも、麻由美には受け入れることしかできなかった。なにも言えないまま、遠ざかる背中をみつめる。鞄をもつ手に力がはいって、うつむいて、それでもすぐに、視線は彼の姿をもとめていた。
離れてゆく後ろ姿を見ていると、ふいに彼が動きを止めて、横顔をみせた。その表情は驚いているように見える。おそらく、呆然としていたのだろう。
視線の先には、キャラメル色の猫がいる。
やたらと長い尻尾を揺らしながら、ふくよかな身体が堂々と、ビルの壁際を歩いてくる。
彼は歩くことを忘れて、キャラメル色の猫に見入っていた。
気だるそうな蜂蜜色の瞳が、ちらりと彼をとらえていた。
彼と猫がすれ違う。
彼は猫の姿を追いかけて振り返り、その無防備な顔を正面にさらした。
麻由美が見守るなかで、変わってゆく表情。
少年のように目を輝かせ、心から楽しそうに彼は笑う。キャラメル色の猫は動きを止めて、彼のほうへと振り返る。語りかける彼の姿をじっと眺めたあとで、猫は大きなあくびをした。そして何事もなかったかのように、また歩きだす。
彼は衝動を抑えた。追いかけることなく目を閉じて、微笑みを浮かべていた。
穏やかな表情のまま、彼はふたたび遠ざかっていった。だが、麻由美が自分の想いに沈むことはなかった。猫に向けられた彼の微笑みが、これまでになくやわらかな雰囲気が、さきほどとは違う想いを抱かせている。
あの猫になにがあるのだろう。情けない思い出がどんなものか、聞いてもいいのかな。自分を語るような人じゃないから、教えてくれるとは思えないけれど。
ひとり苦笑していると、蜂蜜色の光に気づいた。キャラメル色の猫は路地裏の手前で止まっていたらしい。麻由美に注意を払いながら路地裏へはいる。薄闇のなかへちょこちょこと進んでゆく、しまりのない姿を見ていると、力が抜けた。
もう、帰ろうかな……。
考えたあと、麻由美はふっと思いついた。
わずかな時間で三匹の猫に出会い、その猫たちが同じ方向へ向かっている。ひょっとしたら、この近くで猫たちが集まっているのかもしれない。
考えているうちに、なんだか猫たちの集会を見てみたくなった。
なぜ集まるかもわからない猫たちの不思議な行動。
見たとして、なにかあるわけではない。
彼と猫についてわかるわけでもない。
それでも麻由美は路地裏の奥へ、キャラメル色の猫を探しはじめた。




