秋山の話
教室の戸をくぐったところには、電気ストーブ一台、イーゼルと画板、モデルにされている高級そうな置時計と、それを描いている女の子がいた。たぶん下級生。見たところ哺乳類はその子だけで、秋山はいなかった。呼び出しておいてそれはないだろうと思ったが、ここでそんなことを言っても仕方ない気がしたので、僕はとりあえず放課後の美術室を見渡した。引き戸の横の角に埃が溜まっていたが、残念ながらそこにも秋山はいなかった。
「何、ですか?」
彼女が顔を上げながら言った。やや疲れた感じに見える切れ長の目、寒さのせいか頬が薄桃色に染まっていた。長い髪をうなじ辺りで適当に括り、デニム生地のエプロンをつけている。エプロンは絵の具でところどころ斑模様になっていた。
「秋山、いる?」
「……今日はまだ見てませんけど」
彼女はゆっくりと左右に目線をやって、「ご覧の有り様です」と言いたげな仕草をした。
「そう」
僕は顎に手をやって少し考える。秋山は遅れてくるだろうか。呼び出したことを忘れている可能性のほうが高い気がした。僕がそうやって悩んでいると、ふいに「あの」という声が聞こえた。
「え、何?」
「寒いので」
「ああ、ごめん」
僕は後ろ手で引き戸を閉めた。
戸に遮られて外の音が遠くなる。電気ストーブのじりじりという熱の音と、時計のコチコチという時を刻む音が聴こえた。高級そうな置時計は止まっている。壁にかけられた高級そうでない時計が時を刻んでいた。
手持ち無沙汰な気持ちで佇んでいると、また彼女が「あの」と言った。
「うん?」
「そっちの棚にポットがあります。コーヒーと紙コップもあるので、よければ」
「あ、うん、ありがとう」
僕は指差された棚のところに向かった。画板に遮られて、そこから彼女の顔は見えなかった。紙コップにインスタントのコーヒーを入れ、ポットのお湯を注ぐ。ポットから手を離すと同時に、三度目の「あの」が聞こえた。
「ん?」
「秋山さん、今日はもうこないと思いますよ」
「うん、たぶんね」
僕は嘆息気味に笑った。すると彼女も僕と同じような息をもらした。
「ですよね。そんな人です、秋山さん」
コーヒーに砂糖を入れた。棚の上を目で探ると、おそらくかき混ぜ用と思われるスプーンがマグカップの中に入っていた。黒々とした液体をぐるぐる回したあと、紙コップに息を吹きかけ、口をつけた。
「ごめんね邪魔して。これ飲んだら帰るから」
いえ、と彼女は画板の横に顔を出し、はにかむように笑った。そうすると彼女の切れ長の目が愛嬌のある柔らかな曲線に変わった。
「今日は私しかいなくて、何だかさびしかったので、実はちょっと嬉しかったりします」
秋山の話をした。それから今描いている絵を見てもいいかどうかを聞いた。恥ずかしいから駄目です、と断られた。僕はできるだけゆっくりとコーヒーを飲み、彼女もそれを咎めなかった。秋山には心の中で呪いと感謝の言葉をかけておいた。