初めて、なのに遅刻
優子の場合【チョコチップクッキー】
いつも学校の帰りに立ち寄る本屋に、いつも通りに入店。いつもなら参考書や問題集の本棚を目指すのだけれど、今日は違うの。料理の本が並んだコーナーで、それもお菓子の本。
「えーっと。バレンタ……」
そんなことを声に出して言うもんじゃないわよ。
「えーっと。初めて作るお菓子の本は……」
言い直す私も私ね。
とりあえず、簡単そうな雰囲気の菓子の本を手にとってみた。文字のほとんどは「ひらがな」で書かれていて、写真やページ構成の色使いはビビッドカラー。改めて表紙を見ると『ようちえんのおともだちにチョコをプレゼントしよう』とか書いてあった。
「えぇーっ! 幼稚園児がバレンタインで手作りだって!」
私は驚いたと同時にすぐさま本を戻して、次の本を物色する。
『彼のハートを鷲掴みにするチョコレート・レシピ』
なかなか露骨な表題だと思いつつ、本を開いてみる。すると、いきなり『スポンジケーキが膨らむのは? 重曹とベーキングパウダーの違い』というサブタイトルが目に飛び込んでくる。
「えぇーっ! 何これ? 完璧な専門書じゃない!」
私は本をさっさと元に戻し、次の本を探した。心なしか、額に汗が浮いてきた。全体を見回して、ふと目に飛び込んできた、装丁がピンク色で爽やかな水色のタイトルの本を手に取ってみた。
『簡単で可愛い本格バレンタインチョコ』
これなら間違いないだろうと、私は心を落ち着かせてゆっくりと本を開いた。目次には「トリュフ」「生チョコ」「クッキー」「ブラウニー」「ガトーショコラ」と並んでいて、それぞれのレシピは写真付きで解説されていた。
「これよ、これ!」
私はうなずきながら本を閉じて、その本を持ってレジに向かった。
私は、高校の最初の試験で思いっ切り鼻をへし折られたの。中学校でも塾でも一番だった私は、その時初めて「学年二位」という成績に甘んじたから。私の代わりに学年で一位だったのは、同じクラスの『鈴木篤史』だった。それ以来ずーっと、私は彼が気になって仕方がないのだ。
彼は、テストでは常に学年で一位なのは先ほどの通りで、当然頭が良い。けれども、その成績を鼻にかけない気さくな性格で、生徒会の副会長をその明るい人間性で軽々とこなし、部活は補欠だけどバスケット部で頑張っている。まぁ、少しぽっちゃりなので補欠も致し方ないのかも。
肝心の顔は、残念ながらイケメンという訳じゃない。少々ゴツイ顔の造りなのだけれど、先程述べた性格と相俟って、そこそこに人気はある感じ。もう少し髪の毛をアンシンメトリーに短くして、メガネを外すかカラーフレームにすればいいのに、という女子の声がチラホラ聞こえてきたりはしている。
最初は「何でアイツが一番なんだ」って、当然の如く私は彼を憎んでいたわ。それからずーっと彼を観察しているの。そうしたら、彼、私よりも性格がいいじゃないの。それに加えていろいろなことに積極的で、そして活発に参加してるしね。
冷たい性格でいつもお高く留まっている私は、いつも学級委員長に必ず祭り上げられてた。高いのはプライドだけじゃなくて身長も百七十四センチメートルと高いけれど、ガリガリに痩せててナインペッタンな私の内情は、実はコンプレックスばかり。成績が一番だということだけが唯一、私を支えていてくれてたのに。
だから、私は余りの悔さに泣いてしまった。泣いて、泣いて、泣き疲れた時、私は初めて「自分の負け」を認めたわ。負けを認めた途端、私の心の中に『鈴木篤史』がスーッと入ってきたの。遠慮も躊躇もなく……いや、そうじゃないわ。私がその侵入を許したのよね。それ以来、私は彼を見る度に、顔が赤くなり、胸がドキドキするようになった。これが「好き」ってことなのかしら? これが恋愛っていうモノなの?
うちに帰ってすぐに自室へと直行した私は、さっき買ったばかりの『簡単で可愛い本格バレンタインチョコ』という本をさっそく読み始めた。
目次には、チョコレートだけを使ったレシピが五つ、焼き菓子のレシピが五つ、ケーキのレシピが四つ、その他にデコレーションの方法とラッピングの仕方が載っていた。
「ガトーショコラとかのケーキは絶対に無理。かと言って、チョコレートだけっていうのも芸がないし。無難なレシピとなると焼き菓子のクッキーかなぁ」
要するに、私はクッキー以外は作ったことがない訳で。
「チョコチップクッキーが良さそうだわ。市販のチョコチップを混ぜるだけで済むもの」
無難だが、成功率の高い方法を選ぶ。私はそういう方法論しか知らない。私は今までそうやってきたのだから。
「それじゃあ、チョコチップクッキーのレシピを熟読して覚えちゃうわよ」
私はまるで教科書でも読むかように、目を皿にして読み始めた。
薄力粉とベーキングパウダーを合わせてふるう。
バターは室温にして、クリーム状まで柔らかくする。
ボウルにクリーム状のバターとグラニュー糖と塩少々を入れて、ハンドミキサーで白っぽくなるまで混ぜ合わせる。
解きほぐした卵を三回に分けて加えてシッカリと混ぜ合わせる。
薄力粉とベーキングパウダーをふるいながら入れて、粉っぽさがなくなるまでサックリとゴムへらで混ぜ合わせる。
チョコチップを入れて、均一になるように混ぜ合わせる。
オーブンシートを敷いた天板に、スプーンですくった生地を並べる。
並べた時にフォークで軽く押さえて形を整える。
百八十度のオーブンで二十分焼く。
焼き上がったら取り出して荒熱をとる。
「数式や公理の理屈を覚えるよりも簡単ね」
工程の写真もしっかりと目に焼き付け、どういう状態であればOKなのかも把握した。
「ラッピングも考えておかなきゃ」
今度はラッピングのページを開いて、検討を重ねる。
「やっぱり、ハートがプリントされたビニールの袋に詰めて、リボンで口を閉じるのが一番楽で綺麗だわ」
私は、クッキーとラッピングの材料をメモして、明日の買い物に備えた。
「明日の帰りに買い出ししてこなくっちゃ!」
ウキウキしている自分に気が付いて、ちょっと頬が赤くなった。
ファンシーショップに入ると、同じ学年や同じ学校だけでなく地域の女の子であふれていた。
「委員長、どうしたの?」
「松原さんもバレンタインの買い物?」
いきなり、クラスメイトが声を掛けてくれた。
「う、うん、まぁね」
この店は初めてという訳ではないけれど、バレンタイン前なのでセール商品が所狭しとおびただしい量が並び、女の子たちがキャーキャーと言いながら物色していた。
「凄いわね。迷っちゃうわ」
私がそう呟くと、クラスメイトがいろいろと教えてくれた。
「委員長、無難なのはやっぱりピンクよ。赤はやっぱりパッションを感じちゃうわよねぇ」
「箱のラッピングはあちらのワゴンにあるわ。簡単な組み立て式で楽だし、見た目もキレイよ」
「リボンは向こうの壁に並んでるわよ。大きいのがいいわよ、うふ。だって目立つもーん」
喧騒の中、辛うじて聞き取れたのはこのくらいだった。
「松原さんも誰かにあげるの?」
「委員長のお相手は、何処の誰なのかしら?」
「えー! 委員長がバレンタインのチョコ? えー、誰にあげるのぉ?」
「うふふ、秘密よ、ひ・み・つ。いろいろと教えてくれて、ありがとう」
私は、これ以上クラスメイトに突っ込まれないように言葉を濁してお礼を言い、ラッピングの袋とリボンをササッと選んでその場を退散した。
「ふう、危ない、危ない」
私の背中は、興奮した汗と冷や汗とでグショリだった。
しかし、上手くいかないものねー。理論と実践とは大違いだったわ。
朝の八時から初めて、ラッピングが終わったのは午後七時。粉の配分を間違えたり、上手くバターに空気が入らなかったり、砂糖と塩を間違えたり。午前中は髪の毛まで真っ白になってしまった。
午後からは焼きに入ったのだけれど、焦げたり生焼けだったりで何度オーブンから出し入れしたことか。お蔭でキッチンの温度がかなり上昇して、私は途中でセーターを脱ぐ羽目になったくらい。
ラッピングはラッピングで、袋の中に入れているうちにクッキーが粉々になったり、リボンの長さが難しくて左右非対称になったりともう、苦労の連続。その結果、完成したのはたった三袋分だけだった。
「もういい加減にして頂戴! 食事の用意が出来ないじゃないの」と、母さんには散々文句を言われ。
「姉ちゃん、誰にあげるんだよ? 食べて大丈夫なモノを作れよぉ」と、弟には好奇の目で見られ。
唯一、父さんだけは私がクッキーを作る様子を目を細めて眺めていた。
「優子がバレンタインかぁ。感無量だなぁ」
三袋のチョコチップクッキーのうちの一袋を父さんに試食してもらったら、涙を流して喜んでくれた。
「優子、美味しいよ。父さん、こんな美味しいモノを初めて食べたよ」
バレンタインの当日。私はもちろんカバンの中に忍ばせた。残り二つの中で出来が良い方の一袋を。
朝のホームルーム前。あちらこちらで悲鳴と歓声が聞こえてくる。けれど、私はその中に加われない。クラスでのキャラのせいもあるけど、肝心の鈴木クンは、バスケット部の朝練で教室には居なかったから。
休み時間と昼休み。既に教室の中からも悲鳴と歓声が聞こえてくるようになった。ファンシーショップで会ったクラスメイトが私の耳元でささやく。
「委員長、ちゃんと持って来たの?」
「松原さんは誰に渡すの?」
「早くしないと、もう昼休みが終わっちゃうよぉ?」
心配してくれているのか。それとも興味本位なのか。既に私自身も舞い上がっているので、冷静にどちらだとは判断できなかった。
「そ、そんな心配は、ご、ご無用よ。だ、大丈夫だから」
私はそう答えるのが精一杯だった。
いよいよ、お待ちかねの放課後。だがしかし、その前に帰りのホームルームがある。
そこで事態は、私を決定的な絶望感へと導いてくれたのだった。
「えーっと、学級委員長の松原。ホームルームが終わったらすぐに職員室に来てくれ」
無慈悲な担任の一言に、私は打ちのめされた。けれども、クラスメイトはそれぞれ自分のことで精一杯らしく、私に声を掛けてくれたクラスメイトはもちろん、女子も男子も私ことなどに構わず、サッサと教室から捌けていった。
職員室から教室へ戻ってくると、予想通りに誰一人としていなかった。そして、そこには私のカバンだけがポツンと置かれていただけだった。苦労して作ったチョコチップクッキーの包みが入った、私のカバンだけが。
下校時刻が近いので、すべての部活が練習を終了しているだろう。今更、バスケット部が練習していたであろう体育館に行く気にもならなかった。
「やっぱり渡せなかったわ。はぁーっ」
誰に言うでもなく呟いてから、私は自分のカバンを持ってさっさと教室を出た。
翌日の学校は、昨日がバレンタインだったとは思えないほど何事も無かったかの如く、いつも通りの授業が進行していく。昨日、あれほど騒いでいた女子も男子もチョコのことはもちろん、バレンタインの「バ」の字も語られることはなかった。
しかし、私のカバンの中にはまだチョコチップクッキーの包みが入ったままだった。今日は絶対に渡そうとか、遅刻だけれど渡そうとか、そんな決意を持っている訳ではない。ただ単に、うちに帰った時にチョコチップクッキーの包みをカバンから取り出すのを忘れていただけ。逆に私はピリピリしていた。クラスメイトにまだチョコチップクッキーの包みをカバンの中に持っていることがバレないようにという気遣いの方で。
そしてまた、帰りのホームルームの時間になると、無神経な担任は私にこう告げるのだった。
「えーっと、学級委員長の松原。ホームルームが終わったらすぐに職員室に来てくれ」
実のところ、私は今日の方がヒヤヒヤしている。たぶん、そんな失礼なヤツはいないとは思うのだが、万が一、チョコチップクッキーの入った包みが見付かったら……と思うと、私は気が気ではなかった。
今日は少し早めに職員室から開放された。私は慌てて教室に戻り、自分のカバンが荒されていないかどうかを確認した。
どうやら、誰にも触られていないみたい。
あぁ、よかった。
私はホッと胸を撫で下ろした。
安心してふと、教室の周りを見回すと、私のカバンの他にもう一つのカバンが置いてある席があった。
どう見ても男子のカバンだった。
ん?
あれ?
……あ!
この席は!
こ、このせ、席は、鈴木クン!
鈴木篤史クンの席だぁ!
えっ、えっ、えっ!
私は恐る恐るそのカバンに近づいた。
あぁ、確かに鈴木クンのカバンだ。クソ真面目にカバンのネームプレートに名前が書いてあるもん。
私は何となく、その生真面目さに苦笑した。
それにしても、何で鈴木クンのカバンが置いてあるのだろう?
これってどういうこと?
……カバンがあるってことは、まだ鈴木クンは学校にいるってこと?
そういうことだよね。
そんなことを考えていたら、私の顔が急に赤くなった。
そして、ある考えに至った。
……え?
これってどういうこと?
も、もしかして?
バレンタインのチョコチップクッキーを渡せっていう神様の啓示?
私の顔が急に、そして激烈に熱くなってきた。
いやん。
ダメよぉ。
面と向かって鈴木クンに渡すなんて。
そんなこと、私にはとても出来ないわよぉ!
しばらく鈴木クンのカバンを見てて、ピンと来た。
そっか!
このカバンの上にチョコチップクッキーを置いて帰っちゃえばいいんだ。
そうよ、そうよね。
そうしよう。
私は自分のカバンからチョコチップクッキーの包みを取り出し、それを愛しく持ち直してから、鈴木クンのカバンの上に置こうとした、その時だった。
ドタバタと足音がして、誰かが教室に入ってきた。それは鈴木篤史クンその人だった。
「鈴木クンッ!」
私はビックリして、咄嗟にチョコチップクッキーを後ろ手に隠した。
「生徒会長のヤツ、急に呼び出すなっちゅーの!……あれ、松原さん、どうしたの?」
鈴木クンはキョトンとした表情で、妙に落ち着きの無い私の顔を見た。
「う、う、ううん。な、何でもない、何でもないわよ」
しかし、鈴木クンは私の動きを見逃してはいなかった。
「今、何かを後に隠したでしょ?」
鈴木クンにそう言われて、私の顔はますます赤くなった。
「な、な、な、何にもないわよぉ!」
カタン!
そう叫んだ時、私は不覚にもチョコチップクッキーの包みを落としてしまったのだった。
「なに? なに? なに?」
そう言いながら、鈴木クンはあざとくそして素早く私の後ろに回り込んで、私より先にチョコチップクッキーの包みを拾上げた。
「ははーん。これ、僕にくれるつもりだったんだね?」
私は頭に血が上り気が遠くなる寸前で言葉が出てこない代わりに、思わず「コクリ」とうなずいてしまったのだった。
それを見て鈴木クンは、静かに言葉を出した。
「ホントに? 嬉しいなぁ。ありがとう」
その言葉に、私は「え?」と思い、耳を疑った。
「実を言うと僕、昨日は一個も貰えなかったんだよ。やっぱりさぁ、イケメンじゃないとさ、チョコってダメだなぁって。ははは」
鈴木クンは少し照れてはにかんだ。
「すっごく嬉しいよ。遅刻でも全然歓迎!」
鈴木クンは繁々と私のチョコチップクッキーの包みを眺めていた。
「憧れの委員長からもらった、だなんて僕は鼻が高いなぁ。光也や隆が聞いたら悔しがるだろうなぁ」
え?
なになに?
私ってそういう存在?
ちょっと待って!
それ、どういうことなの?
私は詳しく尋ねたい衝動に駆られた。
「ねぇ、ねぇ、松原委員長。これ、食べてもいいかな?」
だが、鈴木クンの言葉で、我に返った私だった。
「……あ? え! えぇ、ど、どうぞ、どうぞ」
私がそう返事をすると、鈴木クンはおやつを許された小さな子どものようにリボンを解き、包みの中に入っているチョコチップクッキーを取り出して食べ始めた。
「おぉ、旨い。美味しいよ、これ!」
屈託の無い笑顔を私に向けてくれる鈴木クンに、私は頬がますます赤くなった。
「よかった」
私はますますドキドキしながら、小さな声でそう呟いた。
バリバリ、ボリボリと私のチョコチップクッキーを食べていた鈴木クンは、急に私の目の前に立った。
「来月のホワイトディ、楽しみに待っててね! 絶対だよ! 分かった?」
ニッコリしながら鈴木クンはそう言った。
「う、うん」
私はうなずくのが精一杯だった。
「さ、カバンを持って」
鈴木クンはカバンとチョコチップクッキーが入った包みを片手に持ち、もう一方の手で私の手を握った。
鈴木クンの手は大きくて厚い手だった。
私は更にドキドキし始めた。
私は鈴木クンと手をつないだまま自分のカバンを手に持った。
「一緒に帰ろう」
ニカッと笑って、鈴木クンは私を見た。
「うん」
私はうなずいて、鈴木クンと一緒に教室を出た。
顔を赤らめながら。
更に、ドキドキしながら。
そして、ウキウキしながら。
お読みいただき、ありがとうございます。
ご意見やご感想などございましたら、是非ともお寄せいただけるとありがたいです。
二月一四日のバレンタインまでに間に合わず、一週間も遅れてしまいましたことに、お詫び申し上げます。