Bitter and Bitter
寅雄と竜子の場合【エクレア】
料理教室の帰りに僕は、講師の竜子に呼び止められた。
「寅雄さん、二月一四日のスケジュールは空いていらっしゃいます?」
竜子にそう尋ねられて、僕はスケジュール帳を見た。
「えぇ、空いてますけど。何かご用ですか、竜子先生?」
竜子は顔を少し赤らめて言った。
「実は、その日にお菓子教室を開催する予定なので是非、寅雄さんをお誘いしようと思いまして」
僕は一瞬、懐かしい気持ちになったけれど、すぐに切り返した。
「いや、申し訳ない。お菓子は止めておきます」
僕は竜子に頭を下げたが、竜子は引き下がらなかった。
「あ、いえ、生徒としてではなく、私の助手ってことでお願いしようかと」
僕が何か言う前に、竜子は捲くし立てた。
「寅雄さん、私の教室でなかなかの評判なのよ」「奥様方や女子に柔らかい口調で、ウケがとってもいいし」「手先が器用で、盛り付けなんかも綺麗だって私の助手も褒めてましたよ」
竜子の口からは、有らん限りの褒め言葉が並んだような気がした。
「通い始めてまだ半年です。僕では助手なんか務まりませんから」
僕は竜子に失礼がないように、丁寧に断わるつもりだった。だが、竜子は断わられることなど、全く前提にしていない様子だった。その証拠に、竜子はこのセリフを口にしたのだ。
「男の人に試食してもらいたいの」
これは断わる方法が無いなと諦め、竜子の申し出を受けることにした。
「分かりました。それで、何時に来ればいいですか?」
「えーっと、十時から開始だから九時、いや九時半に来てください」
僕は「あれ?」と思った。決め事には口うるさい竜子なのに、その口ぶりが少々気になった。しかし、僕はさほど深く考えずにスケジュール帳に時刻を記入した。
「それでは、失礼します」
僕が会釈すると、竜子は僕よりも深々と頭を下げた。
「よ、よろしくお願いしますっ!」
僕は、竜子の様子を不審に思いながらその場を立ち去った。
一、下準備
・薄力粉をふるう。
・チョコレートはチョコカスタードクリーム用とコーティング用の二つ分を用意する。
・チョコを細かく均一に刻む。
・絞り袋に円口金をセットしておく。
・オーブンの天板にシートを敷く。
・オーブンは二百二十度で予熱しておく。
僕は、お菓子が苦手だ。しかし、昔からお菓子が苦手だった訳ではない。女房の「洋子」が乳癌で亡くなる七年前までは、お菓子は大好きで大好物だった。だが、女房が亡くなって以来、甘いお菓子の匂いを嗅ぐとどうしても女房を思い出してしまう。だから、スイーツの店にも近寄らないようにしている。
洋子の作るお菓子は最高だった。それもそのはずで、洋子はパティシエだったのだから。いつも家の中には甘い香りが漂い、僕を幸せな気持ちにしてくれた。
「今度はこんなモノを作ってみたの。食べてみて」
「また試作品かい?」
「まぁね」
「どれどれ、味見をするかな」
「ひどーい。毒なんか入ってないわよ!」
「分かってるって」
僕が一口、頬張る。その様子を固唾を呑んで見つめる洋子。
「どう? 美味しい?」
僕は二口目を頬張る。
「何か言ってよぉ!」
洋子の叫びを無視して、僕は皿に盛られていたお菓子を平らげる。
「どうなの、どうなの?」
僕は口をモグモグさせながら、左手の親指を突き立ててグッジョブサインを出す。
「やりーっ!」
洋子はガッツポーズをする。
「ご馳走さまでした。いつも通りに美味だったよ」
僕は、お皿にフォークを置く。そして洋子の笑顔を見る。洋子は僕に満面の笑みをくれる。
それが至福だった。
二、シュー生地
・鍋に牛乳、水、バター、塩を入れて木べらで混ぜながら中火で沸騰させる。
・沸騰したらすぐに火から降ろして薄力粉をふるいながら加えて混ぜ合わせる。
・粉っぽさがなくなったら火にかけて、常に混ぜ合わせながら水分を飛ばす。
・鍋肌から離れて固まりになったら、鍋からボウルに移す。
・解きほぐした全卵を少しずつ生地に加えながら、手早く木べらで混ぜ合わせる。
※ 生地の固さの目安は、指ですくって垂直に立てた時に生地がお辞儀するくらい。
※ 目安に従って、卵の量で固さを調整すること。
・円口金の絞り袋に生地を入れる。
・オーブンシートを敷いた天板に長さ六センチメートルの棒状に絞り出す。
・霧吹きで全体に水を吹きかけてからオーブンに入れる。
・二百二十度のオーブンで九分、膨らんできたら二百度に下げて八分。
・更に百八十度に下げて、割れた生地の部分まで焼き色が付くように十分焼く。
・焼き上がったら、取り出して荒熱をとる。
当時、洋子はかなり名の知れたパティシエだった。僕は、洋子が作るお菓子のその味に一目惚れして、洋子の務める洋菓子店に足繁く通った。彼女が引き抜かれて店を変わる度に、僕もその店に通った。そのうちに洋子の方から僕に声を掛けてくれた。
「いつもあたしのお菓子を召し上がっていただいてありがとう。嬉しいのだけれど、あなた、もしかしてストーカーじゃないでしょうね?」
洋子の言葉に、僕はビックリした。
「いえいえ、違います! 貴女が作るお菓子が大好きなだけです! それだけなんです……」
僕は正直な気持ちを口にしたのだが、それでも洋子は僕を睨み付けていた。僕は悲しくなって下を向いた。涙がこぼれるのを洋子に見られたくなかったから。そして、ボソリと呟いた。
「でも、そう思われたのなら仕方がありません。もう来ません。買いに来ません。今日を最後にします」
僕は鼻をすすりながら、レジでお金を払って店を出て行こうとした時だった。
「待って!」
洋子の言葉で、僕は目を真っ赤にして、頬には涙の筋がハッキリ見える顔で振り返ってしまった。そんな僕の顔を見て、洋子は驚いた後に優しい顔になった。
「お菓子が食べられないというだけで、泣き崩れた男の人を初めて見たわ。……あたし、勘違いをしていたみたい」
洋子は、僕に深々と頭を下げた。そして頭を上げた時に目一杯の笑顔を、僕にくれた。
「お菓子が好きなヒトに、悪い人はいないもんね。うふふ」
そう言って、洋子はおどけた。僕はただ、うなずくだけだった。
それが、洋子とのキッカケだった。
三、チョコカスタードクリーム
・ボウルに薄力粉とコーンスターチと上白糖、そして牛乳を少しを入れて混ぜ合わせる。
・解きほぐした卵黄を加えて混ぜ合わせてから濾す。
・温めた牛乳を加えた後に鍋に移して火にかけ、中火でたえずホイッパーでかき混ぜる。
・クリーム状になりプクプクと泡が立ってきたら火から下ろす。
・火から下ろしたら、刻んだチョコレートとバターを加えて混ぜ合わせる。
・バットに移して平らにし、表面をラップで覆って荒熱をとってから、冷蔵庫で冷やす。
竜子は、洋子と学生時代からの親友だった。共に大学で栄養学を学び、その頃はライバルでお互いに切磋琢磨していたらしい。その後、洋子はパティシエの道へ、竜子は料理家への道へと進んだ。それぞれ別々の道で頑張っていたのだが、いつぞやの公式的な行事の晩餐会での料理に洋子と竜子が召し出されて再会したのだという。それからは意気投合して、僕と洋子との結婚式の時には、洋子は竜子に料理を一任して全てを請け負ってくれていた。洋子が亡くなった時のお通夜や告別式では、竜子が名乗り出てくれて料理の段取りをしてくれた。
しかし、僕はそのことをスッカリと忘れてしまっていたのだ。というのも、七年前は洋子を亡くして意気消沈し、生きていくことさえ辛くて、人間関係を投げ出していたところもあったからだ。ところが半年前、偶然にもあるパーティーの会場でバッタリと竜子に会ったのだ。
「お久しぶりですね。お元気ですか?」
「えぇ、なんとか」
「それは良かったわ」
「一人身は淋しさが身に染みます」
「あら、それなら私もずーっと一人身ですけどね」
竜子はずっと一人身だった。その理由を僕は知らない。
そんな会話をした後に竜子は突然、こんなことを切り出した。
「毎日の料理、困ってませんか?」
「えぇ、外食が多くて」
「いけませんねぇ、それは」
竜子はニヤリとした。
「私の料理教室に通いませんこと?」
「え?」
それから間もなく、僕は運も寸も無く、強引に竜子の料理教室に通い始めることになったのだ。
四、コーティング用チョコレート
・小鍋に、細かく刻んだチョコレート、牛乳、バターをいれる。
・たえずかき混ぜながら、チョコレートが解けて滑らかになるまで温める。
・ボウルに移して荒熱をとる。
二月十四日、午前九時半。
「おはようございます」
挨拶をして料理教室に入ると、ひどく閑散としていた。助手が一人もいないので、竜子が忙しく材料の用意をしていた。しかし、それにしても材料が少な過ぎるような気がするのだが。
「おはようございます、寅雄さん」
ようやく僕に気が付いてくれたようだ。
「竜子先生、助手の方はどうしたんですか?」
僕が尋ねると、竜子は鋭く僕を見た。
「あなたが助手でしょ?」
僕はスッカリ忘れていた。
「あ、そうでした」
僕は照れ隠しに頭をかく。
「今日は何人の生徒さんがいらっしゃるのですか? ひどく材料が少ないような気がしますが」
僕の質問に竜子はなかなか答えなかった。
僕はカバンをその辺に置いてエプロンを取り出し、それを着けながら竜子の講師の調理台に近寄っていった。しかし、どう見ても材料は家庭で作る分量でしかなさそうだ。
「手伝うほどの分量じゃないから大丈夫」
竜子はそう言って、僕を牽制して近寄らせないようにしている。仕方がないので、僕は辺りを見回すと調理台の上に置いてあるレシピのレジュメが目に入った。いつもの枚数に比べたらヤケに少ない。というか、生徒が来るような想定の枚数ではなく、僕と竜子の分の二枚しかなかったのだ。
「竜子先生、今日のレシピはこれですか?」
僕はそのレシピを繁々と見て、驚いた。
「先生……いや、竜子さん。これってどういうことですか?」
そこには【エクレアのレシピ】と書かれていたのだ。エクレアは、僕と洋子の想い出のお菓子なのだ。竜子はそのことを充分に知っているはずなのだ。何せ、僕と洋子の結婚式の時の引出物をエクレアにしたくらいだから。
「バレちゃいましたか」
そう言って、竜子は僕に近づいてきた。
「今日なんか、お菓子教室を募集しても誰も来ませんよ。その前日までに作っちゃって今日は渡す日なんですから」
「あぁ、なるほど。それもそうですね」
僕は、竜子の説明を妙に納得してしまった。
「それじゃ、このお菓子教室は?」
僕の質問に、竜子は顔を赤くした。
「寅雄さん、貴方と二人っきりで『想い出』に浸ろうと思って」
「え?」
僕は竜子の真意を図りかねていた。竜子は当惑する僕を置き去りにして、いつもの通りの調子で料理教室を開始した。
「それじゃあ、始めますよ」
五、仕上げ
・パン切り用包丁でシュー皮の横に切り込みを入れる。
・チョコカスタードクリームを絞り袋に詰めて、シュー皮の中に絞り出す。
・スプーンでコーティング用のチョコレートをシュー皮の上に載せるようにして塗る。
・冷蔵庫で十分ほど、完全に固まるまで冷やす。
僕は力仕事で竜子は繊細な仕事と作業を分担して、この物語の冒頭から記されているレシピの通りに工程は順調に進み、エクレアは最後の「冷蔵庫で固める」という段階になっていた。
エクレアが固まるまで、調理台に竜子と並んで座った。そして、竜子がおもむろに語り始めた。
「洋子の作るシュークリームは天下一品だったわ。でも、エクレアは絶対に商品にしなかったのよ。それは寅雄さん、貴方のためだって聞いてるわ」
竜子は羨ましそうな顔で僕を見た。
「えぇ、その通りです。僕はシュークリームが大好きで、特に洋子のシュークリームが。だから、洋子はいつもバレンタインには僕にエクレアを作ってくれました」
「そんな貴方たちが羨ましかった。けれど、私はなぜかずーっと一人身でここまで来てしまったわ」
僕はどう言ってよいのやら分からずに、ついこんな風に口走ってしまった。
「今の僕も『一人身』なんですけれど?」
僕の言葉に竜子はケタケタと笑った。
「あははは、そうだったわね」
ほど良く冷えたエクレアを、竜子は冷蔵庫から出してきた。
「さぁ、食べましょう」
「はい、いただきます」
僕は久しぶりにエクレアを口にした。いや、エクレアだけじゃない、お菓子そのものをずーっと口にしていなかったのだ。
「旨い! 洋子のエクレアに限りなく近いです」
そのエクレアの味は、洋子が作ってくれたエクレアを思い出させた。それを聞いて竜子がおもむろに言った。
「そりゃ、そうでしょう。だって、このレシピは二人で作ったものだもの」
僕は竜子の方を向いて目を丸くした。
「え?」
竜子はニヤリとした。
「だから今日、寅雄さんに食べさせようと思って」
竜子は頬を赤くして目を伏せた。
「竜子さん、今日はありがとう」
僕は姿勢を正して、竜子に頭を下げた。
「久しぶりにお菓子を、それもエクレアを食べて洋子を思い出したのだけれど、暗い気持ちではなく、清々しい気持ちになりました」
僕は今の気持ちを述べた。すると、竜子も身支度を整えて僕に頭を下げた。
「私も『ありがとう』って言わせてもらうわ。まずは今日、貴方がここに来てくれたことに。そして、貴方がこのエクレアの味を忘れていなかったことに。そしてもう一つ」
「もう一つ?」
竜子は顔を真っ赤にして答えた。
「えぇ、もう一つあるの。それは今日、私と貴方が作った『バレンタインのエクレア』を貴方と一緒に食べたこと」
そう言われて、僕はドキッとした。
「これからもよろしくお願いします」
深々と頭を下げた竜子に、僕も頭を下げた。
「こ、こちらこそよろしくです」
「また来週の料理教室で」
竜子は、教室の玄関で手を振ってくれた。
「また来週」
僕も振り返って手を振った。
次の料理教室がホントに楽しみだ。
いやいや、違うな。
正直に言うと、僕は竜子に逢うのが楽しみなのかもしれない。
八年ぶりに心躍るバレンタインズディだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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