身替り
真琴の場合【ガトーショコラ】
チョコレートを細かく刻んで、バターと一緒にボウルに入れて五十度の湯せんで溶かしておく。
卵は卵黄と卵白に分けて、卵白は冷蔵庫でしばらく冷やしておく。その方がメレンゲの泡が立ちやすくなるんだ。
薄力粉は正確に分量を測ってふるっておく。菓子は分量が正確でないとダメなんだよな。
俺はこれでもお菓子作りには一過言あるタイプだから。
あ、でも、俺は『かまど』の力は借りてないぜ。
直径十五センチメートルの円型に、室温に戻したバターを塗って粉をふっておく。こうすると焼き上がった後に簡単に取り出せるし、表面が綺麗になる。
ガスオーブンは百八十度で予熱しておく。何事も段取りだし、最初から庫内が温かいと出来上がりが違うからね。
それでは、生地作りに入ろう。
おっと。
その前に、どうして俺がガトーショコラを作る羽目になったかを話しておこう。
「ねぇ、真琴、お願い!」
姉貴の『由美子』が俺に突然話し掛けてきたんだ。
俺は「絶対にロクなことじゃねぇ」とは思ったが、何分にもズボラで不器用な姉貴のことだ、この時期だから大体は想像出来る。
「何を何個作るんだ?」
俺は姉貴の方を向かずに尋ねた。
「えーっと、あのねー、『十五センチメートルのガトーショコラ』を三ついや四つ、かなぁ?」
姉貴の言葉に、俺は鋭く振り向いた。
「何だと!」
俺は、姉貴のその言葉にビックリした。
俺の反応に、姉貴はただ微笑んでいた。
ボウルに卵黄とグラニュー糖を入れてホイッパーでよく混ぜる。そして、六十度の湯せんをしながら泡立てるんだ。卵黄は温めると粘りが出て空気が入り易くなる。人肌程度に温まったら湯せんを外し、白くモッタリするまで泡立てる。黄色から白色になるのは充分に空気が入った証拠だ。
そこに溶かしたチョコレートとバターを加えてよく混ぜる。これで「ガトーショコラ」と呼ぶに相応しい黒色になるって訳だ。
「それは高額な報酬が期待出来ますねぇ」
俺は嫌味たっぷりに結論から切り出し、指を三本立てた。
「三千円?」
姉貴はにこやかに笑ったが、俺は怒鳴りつけた。
「三万円だよ、三万円!」
姉貴の顔から笑顔が消えた。
「ち。すぐに足元を見るんだから。いいわよ、もう!」
姉貴は怒り出したが、俺は冷静に応えた。
「嫌ならいいんですよ、嫌なら」
そして、俺は振り返って再び本を読み始めた。もちろん、料理本だが。
「あぁーん、そんなこと言わないでよ、真琴ちゃん!」
泣き付く姉貴に動揺しない俺。何も応えずにひたすらフランス料理の本を読む。
「そうね、二万円で手を打つわ。これでどうかしら?」
「あくまで三万円。どうせ材料費込みでラッピング代金込みなんだろ? 嫌なら有名店のチョコレートを買ってきなよ」
姉貴の手打ちにも動揺せず、背中を向いたまま応えた。
次に、別のボウルに卵白を入れて、グラニュー糖を少しずつ加えながらホイッパーで角が立つまで泡立てる。これがメレンゲだ。このメレンゲがケーキとしての勝負どころだから、俺は「手を抜いてハンドミキサーで」なんてことはしない。必ずホイッパーでキッチリと泡立てないと気が済まないんだ。
「ふぇーん! 真琴のいぢわるぅー!」
姉貴の泣き落としは常套句だ。これで何人の男が騙されていることやら。
「三万円」
俺が冷たく言い放つと、姉貴は急に怒り出してバッグから財布を取り出した。
「分かったわよ! 三万円ね、三万円!」
姉貴の差し出した一万円札三枚を、俺はひったくるようにして受け取った。
「毎度ありがとうございます」
俺がニヤリと笑うと、姉貴はふくれた。
「もう! がめついんだから」
ここからは慌てず、急いで、正確にやらないとメレンゲが死んじゃうからな。
卵黄を泡立ててチョコレートを入れたボウルに、三分の一のメレンゲを入れて軽く混ぜた後、よくふるった薄力粉をもう一度ふるいながら加えて、メレンゲの泡を消さないようにサックリと混ぜる。この粉を含ませるのがポイントさ。この辺りのテクニックは、俺に任せといてよ。
粉っぽさがなくなったら残りのメレンゲを加えて、底からすくうように奥から手前へとゴムベラを動かして混ぜ合わせる。
これで、生地は完成した。
「大丈夫だよ、姉貴の『名誉』はちゃんと守ってやるから」
俺は更に営業スマイルで言った。
「ありがと。それだけは嬉しいわ」
ここに来てやっと、姉貴の顔に笑みがこぼれる。
「中に入れるカードの文句と名前リスト、ちゃんと渡してくれよ」
俺がそう言うと、姉貴はニヤリとした。
「ちゃんと用意してあるわよ」
そう言ってバッグから出した紙切れを僕に手渡した。
「了解。今年は段取りが良いね」
俺が褒めると、姉貴はハッとして紙切れを取り上げた。
「もう一人、忘れてたわ。一つ追加よ。全部で五つ」
俺は呆れて数秒の間、ピクリとも動けなかった。
ここからは焼きの作業だ。
型に流し入れて表面を平らにしてから、中の空気を抜くために型を持ち上げて落とし、百八十度に予熱したオーブンで四十五分ほど焼く。焼き上がりの判断は、生地の中央に竹串を刺して何も付かなければOKだ。
焼きの工程は機械任せだけど、うちには俺専用のガスオーブンがあるからな。コイツの威力は違うぜ。やっぱり本物だよ、ガスオーブンは!
焼き上がったガトーショコラはオーブンから取り出し、そのまま冷ます。荒熱が取れたら型から抜いて、粉糖をふって、これで完成だ。
ラッピングは一つ一つ変えてある。
箱入りラッピング、ビニール袋ラッピング、紙袋ラッピング、六角形ボックスのラッピング、筒型のラッピング。
これくらいのバリエーションのアイディアがなきゃね。
姉貴が渡す相手を間違えないように、それぞれに名前を書いた付箋を貼ってね。だって、中に入ってるカードの名前が違うからさ。
「真琴、ありがとー」
いつものことながら、姉貴は嘘泣きの号泣であっという間に持ち去っていった。キッチンを出る際に振り向いた姉貴はこう言った。
「姉さん、今度こそ頑張るわ!」
俺は、引きつった笑いをしながら手を振って見送った。
実のところはガトーショコラを七つ、作ったのだ。
姉貴に頼まれた五つはともかく、何で後二つも余分に作ったのか?
一つは試作だ。一番最初に作ったモノ。材料の配分、工程の作業確認、粉の混ぜ具合、オーブンの具合をチェックするためと味見用にね。概ね間違いがなかったので、姉貴の完成品五つと出来栄えは対して変わらない。
残る一つは、何のためか?
俺の彼女の冴子用だ。
あいつ、俺の作る菓子が大好きでさ。
これから食べに来るんだよ。
コアントロー入りのホイップクリームなんかを添えちゃってさ。
俺も甘いなぁ。
「ピンポーン」
ほら、来た!
「冴子、いらっしゃーぃ!」
お読みいただき、ありがとうございます。
ご意見やご感想などございましたら、是非ともお寄せいただけるとありがたいです。