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30コマ目の鏡

作者: 平田智剛
掲載日:2026/10/30

第1章 最後の講義


10月30日。


大学のジェンダー論の講義は、今日が最終回だった。


全30コマ。


これまでの29コマでは、女性が社会の中で受けてきた不利益が中心的に扱われてきた。


女性参政権の歴史。


教育機会の不平等。


職場における男女格差。


女性に対する性暴力。


家父長制。


有害な男らしさ。


学生たちは、数多くの資料を読み、議論を重ねた。


女子学生の美咲と彩花にとって、それは充実した1年間だった。


自分たちが女性として経験してきた不利益を、学術的な概念で説明できるようになった。


先人たちが女性の権利を獲得するために闘ってきた歴史を学び、女性であることへの誇りも深まった。


しかし、男子学生の翔太と悠斗にとって、この1年間は少し違っていた。


男性の加害性。


男性が作り上げた差別構造。


男性が変わるべき社会。


実際に女性が差別されてきた歴史はある。


それを学ぶことは必要だ。


だから、2人は黙って聞いていた。


ただ、授業が進むにつれて、1つの疑問が大きくなっていった。


では、男性の苦しみは、誰が説明してくれるのだろう。


戦争で死ぬ男性。


危険な仕事で命を落とす男性。


社会から強さや経済力を求められ、それに応えられず苦しむ男性。


そんな男性たちの問題も、社会構造の中で考えてもらえるのだろうか。


翔太は1度、危険な労働に従事する男性が多いことについて質問したことがあった。


しかし、授業は男性に求められる「有害な男らしさ」の問題へと移っていった。


悠斗も、男性が女性から求められる役割について発言したことがあった。


だが、女性に責任を転嫁してはいけないという反論を受けた。


もちろん、2人の問題提起が常に正しかったとは限らない。


それでも、男性の苦しみについて話そうとするたび、話題が男性自身の責任へと戻っていくように感じられた。


そうして、29コマが終わった。


そして、今日。


教室に入ってきたのは、いつもの女性講師ではなかった。


50代くらいの男性だった。


教室がざわついた。


男性講師は教壇に立ち、マイクを取った。


「皆さん、おはようございます。本日、担当の佐藤先生が急病で入院されたため、急遽、私が代講を務めることになりました」


学生たちが顔を見合わせた。


「私は社会学部の高橋と申します。専門は労働社会学とジェンダー研究です」


美咲は小声で彩花に話しかけた。


「え……最後だけ男の先生なの?」


「なんか嫌だね」


彩花も眉をひそめた。


「せっかく1年間、佐藤先生に教えてもらってきたのに」


高橋講師は続けた。


「これまでの講義資料を拝見しました。女性が受けてきた歴史的な差別について、非常に充実した内容だったと思います」


美咲は少し安心した。


しかし、次の言葉で表情が変わった。


「そこで本日は、これまであまり扱われてこなかった、男性が社会の中で受ける不利益について考えていただきたいと思います」


教室がざわついた。


「もちろん、女性差別が存在しないという主張ではありません。また、男性の不利益を女性の責任だと決めつける趣旨でもありません」


高橋講師は、プリントを配り始めた。


「男女平等を考えるとき、私たちは何を数え、何を数えていないのか。その問題を考えるきっかけとして、短い小説を用意しました」


学生たちは、プリントに目を落とした。


第2章 人とカマキリ


――――――――――


「男を食べるなんて、女尊男卑ね」


私が言うと、メスカマキリは食事を止めた。


「あなたも女でしょう。人間の女は違うの?」


「もちろん。男女平等よ」


「でも、戦争では男を戦わせるんでしょう。危険な仕事で死ぬのも、男ばかりだとか」


「それは別の問題よ。現に、この国の男女平等指数は世界一なの」


「男がどれだけ死んだかも入っているの?」


人間のほうが平等だと証明しようと、私は集計表を開いた。男の死者数は、項目にすらなかった。


「入れたら、順位が下がるわね」


つぶやいてから、私は口を閉じた。だが、すぐに言い返した。


「男が犠牲になるのは、社会を守るためよ」


「私も卵を産むためよ。自分で男を殺して、ちゃんと味わって食べてる」


「人間の女は、自分で男を殺したわけじゃないわ」


「社会に殺させれば、残酷ではなくなるの?」


「でも、犠牲を無駄にはしていないでしょう。そのおかげで、みんな暮らせているのよ」


「それは私たちも同じよ」


「…」


「どうして人間は、男女平等を考えるとき、その犠牲を数えないの?」


私は集計表を見た。


「男の命で社会を守ってもらって、その犠牲を数えずに、男女平等という評判まで手に入れる。それって、同じ男を二度食べていないかしら」


もう、言い返せなかった。


「あなたたち人間のほうが、よほど女尊男卑だと思うのだけど」


二度目に食べる口は、私にもついていた。


――――――――――


*


学生たちは数分で読み終えた。


翔太は、最後の1文を何度も読み返した。


悠斗は、しばらくプリントから顔を上げなかった。


美咲と彩花は、2人とも険しい表情をしていた。


「それでは、最後のグループディスカッションを始めてください」


高橋講師が告げた。


「作品への賛否は問いません。できるだけ率直に、自分が何を感じたのか、そしてなぜそう感じたのかを話し合ってください」


4人は机を囲んだ。


第3章 女子学生たちの怒り


「……最悪」


最初に口を開いたのは美咲だった。


「本当に最悪な作品だった」


彩花も頷いた。


「私も。女性に対する悪意がすごいと思った」


翔太は何も言わなかった。


「2人はどうだった?」


彩花が尋ねた。


翔太は少し考えて答えた。


「……俺は、ものすごくよかった」


「え?」


「こんなにカタルシスがあったの、久しぶりかもしれない」


美咲の顔が引きつった。


悠斗も小さく頷いた。


「僕も。すごく救われた気がした」


「……救われた?」


彩花は信じられないという顔をした。


「これを読んで?」


「うん」


「……理解できない」


美咲が言った。


「この作品、女性が男性を搾取しているっていう話でしょう?」


「そういう読み方はできるね」


翔太が答えた。


「しかも、女性がどれだけ苦しんできたかっていう歴史的な背景を全部無視してる」


「うん」


「戦争を始めてきたのも、政治権力を握ってきたのも、歴史的には男性が中心だったでしょう?」


「そうだね」


「なのに、女性が男性を殺しているみたいに描くなんて、ひどすぎるよ」


翔太は頷いた。


美咲は続けた。


「私が一番嫌だったのは、最後のところ」


「どこ?」


悠斗が尋ねた。


「人間の女性も、男性を食べる口を持っていたっていうところ」


「うん」


「これって、女性であること自体が罪だって言ってるようなものじゃない?」


「……」


「私、別に男性を殺したことなんてない。男性を危険な仕事に就かせたこともない」


「うん」


「なのに、女だからって責められて」


美咲の声が震えた。


「ものすごく嫌な気持ちになった」


彩花も言った。


「私は、女性の地位向上の歴史を否定されたような気がした」


「どうして?」


「女性が権利を獲得するまでに、どれだけ努力してきたと思う? それなのに、この小説では、女性が男性を犠牲にして男女平等の評判を得ているみたいに描かれている」


「うん」


「女性であることに誇りを持ってきたのに、なんだか女性という存在そのものが汚いものみたいに感じられた」


悠斗は黙って聞いていた。


「ねえ、分かる?」


彩花が尋ねた。


「自分の性別を、こんなふうに描かれる気持ち」


悠斗は小さく頷いた。


「うん。分かるよ」


美咲は、教壇の男性講師をちらりと見た。


「……やっぱり、男の先生って駄目だね」


翔太が顔を上げた。


「どうして?」


「だって、佐藤先生なら絶対こんな教材使わないよ」


「そうかな」


「そうだよ。女性がこれを読んだらどういう気持ちになるか、分かってないんだと思う」


彩花も頷いた。


「結局、男の先生って女性の立場が分からないんだと思う」


翔太は何も言わなかった。


第4章 カタルシスへの攻撃


「でもさ」


美咲が言った。


「もっと嫌なことがあるんだけど」


翔太が顔を上げた。


「何?」


「この作品を読んで、翔太たちが喜んでること」


「……」


「だって、そうでしょう? 女性が悪者にされて、最後には言い返せなくなる話だよ?」


「うん」


「それを読んで、男の人がすっきりしたって言う」


美咲は翔太を睨んだ。


「それって、女性が屈辱を受けるのを楽しんでるってことじゃないの?」


翔太は否定しなかった。


「そう感じたんだね」


「感じたんだね、じゃなくて!」


美咲の声が大きくなった。


「実際、そうなんじゃないの?」


彩花も続けた。


「私も、ちょっと怖い。普段は普通に話してる男子が、女性が責められる話を読んで、こんなに嬉しそうにしてるなんて」


悠斗が尋ねた。


「僕たちが女性を嫌ってると思った?」


「うん。正直、ミソジニーだと思う」


悠斗は静かに頷いた。


「……そう思ったんだね」


彩花は眉をひそめた。


「なんで否定しないの?」


「まず、彩花の話を全部聞きたいから」


「……何それ」


「まだ言いたいこと、あるでしょう?」


彩花は一瞬黙った。


そして、また話し始めた。


「そもそもさ、男性の講師から、女性が悪いっていう内容の授業を受けるのって、すごく怖いことなんだよ」


翔太が尋ねた。


「どうして?」


「だって、先生には権力があるでしょう?」


「うん」


「先生が正しいっていう前提で授業が進んで、女性を責めるような教材を使われたら、女子学生はどうすればいいの?」


「……」


「反論したら、女性は自分たちの加害性を認めたくないだけだって言われるかもしれない」


彩花の声が震えた。


「男の先生から、女であることを責められるような授業を受けるのが、どれだけ怖いか。翔太たちに分かる?」


翔太はゆっくり頷いた。


「うん。分かるよ」


「……本当に?」


「本当に」


美咲が割って入った。


「分かってないよ。分かってたら、この作品を読んですっきりしたなんて言わないと思う」


翔太は言い返さなかった。


その後も、美咲と彩花は、作品への批判と自分たちの不快感を語り続けた。


翔太と悠斗は、途中で口を挟まず、時折質問しながら話を聞いていた。


やがて、美咲の目に涙が浮かんだ。


「……私、本当に嫌だったんだよ。女だからって責められるのが」


「うん」


「私、何も悪いことしてないのに」


「そうだね」


美咲は、涙を拭った。


「ねえ、私、さっきからずっと考えてることがあるんだけど」


「何?」


「……私、女をやめたくなった」


翔太は黙っていた。


「子宮を摘出してしまいたいとさえ思った。そうすれば、もう女だってことで責められなくなるんじゃないかって」


彩花が驚いたように美咲を見た。


「美咲……」


「もちろん、実際にそんなことをしたら女じゃなくなるわけじゃない。それくらい分かってるよ」


美咲は、声を震わせた。


「でも、こんなふうに女であることを責められるなら、もう自分の体まで嫌いになりそうなんだよ」


翔太は静かに聞いていた。


美咲は、教壇の男性講師を指さした。


「もし私が本当に子宮を摘出してしまったら、あの先生は責任取ってくれるの?」


「……」


「こんな教材を使って、女であることを責めるような授業をした責任を!」


そして、翔太と悠斗を見た。


「あなたたちだってそうだよ!」


美咲の声が大きくなった。


「私がこんなに傷ついてるのに、嬉しそうにしてたよね?」


「……」


「もし私が本当に手術してしまったら、責任取れるの?」


翔太は、すぐには答えなかった。


それから、静かに言った。


「……そこまでつらかったんだね」


美咲は、唇を噛んだ。


「……うん」


「話してくれてありがとう」


「……何それ」


「ほかにも言いたいことがあるなら、聞くよ」


美咲は、翔太を見つめた。


「……なんで、そんなに落ち着いてるの?」


翔太は答えなかった。


その隣で、悠斗も黙っていた。


ただ、机の下で、鞄の持ち手を強く握りしめていた。


第5章 29コマ


やがて、美咲と彩花は話し終えた。


翔太が尋ねた。


「もう、言いたいことは全部言えた?」


「……うん」


「彩花も?」


「……だいたい」


「そっか」


翔太は頷いた。


「じゃあ、今度は俺たちの話をしてもいい?」


2人の女子学生は頷いた。


翔太は、机に置かれたプリントを見つめた。


「俺さ、今日、2人の話を聞けてよかったと思ってる」


美咲は眉をひそめた。


「どういう意味?」


翔太は答えた。


「俺たちが29コマずっと感じてきたことを、2人が今日、全部言葉にしてくれたから」


「……え?」


「思い出してみてよ。この1年間の授業」


翔太は静かに続けた。


「女性が苦しんでいる。それは男性中心の社会が作ってきた問題だ。男性が権力を握って、男性が女性を抑圧してきた。女性はその被害者だ」


「……」


「もちろん、実際にそういう歴史があったことは知ってる。否定するつもりはない」


翔太は2人を見た。


「でもさ、俺たちがどんな気持ちでそれを聞いてきたか、考えたことある?」


美咲は黙った。


「男が悪い。男社会が悪い。男性は加害者側だ。男性は自分たちの特権を自覚しろ」


「……」


「そんな説明を、1年間、何度も聞いてきたんだよ」


悠斗も口を開いた。


「僕たちは、女性の苦しみを勉強すること自体が嫌だったわけじゃないんだ」


「……」


「でも、男性の苦しみについて話そうとすると、それも男性自身が作った社会の問題だって説明される」


「……」


「僕たちの苦しみは、僕たち自身の責任なんだって」


悠斗は、小さく息を吐いた。


「そういうことを、何度も聞いてきた」


翔太が続けた。


「だから、今日の2人の話を聞いて、びっくりした」


「……何に?」


美咲が尋ねた。


「女だからって責めるな。女というだけで悪者にするな。自分が何もしてないのに、女だからって責任を押しつけるな」


翔太は、1つずつ言った。


「全部、俺たちがずっと言いたかったことなんだ」


「……」


「2人は、この小説を1回読んだだけで、こんなにつらかったんだよね」


「……うん」


「俺たちは、29コマずっと、それに似た気持ちを抱えてきたんだよ」


美咲は、息を呑んだ。


翔太は続けた。


「『悪いのは男社会だ』『女性は被害者だ』っていう話を、俺たちは1年間ずっと聞いてきた。なのに、それがたった1回、男女を逆にした物語になっただけで、2人はこんなにつらくなったんだね」


誰も、何も言わなかった。


「俺たちは、今日やっと、1回だけ男性の苦しみにスポットライトを当ててもらえたんだよ」


翔太の声が、少し震えた。


「30コマのうち、たった1コマ」


「……」


「だから、すごく嬉しかった」


悠斗も頷いた。


「……僕も」


そして、小さく笑った。


「やっと、男のまま傷ついてもいいんだって思えた」


第6章 講師の性別


「それとさ」


翔太は続けた。


「さっき、男の先生から女であることを責められる授業を受けるのが怖いって言ってたよね」


美咲が頷いた。


「うん」


「先生には権力がある。先生の説明が正しいという前提で授業が進む。自分と違う性別の先生から、自分の性別を責められるのが怖いって」


「そうだよ」


翔太は静かに言った。


「……今日だけだよ」


「え?」


「男の先生なの、今日だけだよ」


美咲は黙った。


「俺たちは29コマずっと、女の先生から男性の加害性や男性中心社会の問題を教わってきたんだよ」


「……」


「先生が女だから悪いって言いたいわけじゃない。でも、男として生まれたことが悪いことみたいに感じられる授業を受けるのは、俺たちだって怖かったんだ」


悠斗も言った。


「佐藤先生は、僕たち個人を責めるつもりじゃなかったんだと思う。でも、今日の高橋先生だって、美咲や彩花を責めるつもりでこの作品を配ったわけじゃないと思うよ」


「……」


「それでも2人は傷ついたんでしょう?」


美咲は俯いた。


「……うん」


彩花が口を開いた。


「……でも、男性と女性では、歴史的な背景が違うでしょう?」


翔太は頷いた。


「そうだね」


「女性は長い間、男性中心の社会で抑圧されてきた。だから、女性差別を男性社会の問題として分析することには、ちゃんと根拠があるの」


「うん」


「今日の小説みたいに、女性が男性を搾取しているって描くのとは、同じじゃないと思う」


翔太は少し考えた。


「その通りかもしれない」


彩花は、少し安心したように言った。


「でしょ?」


「でもさ」


翔太は続けた。


「今、俺たちがようやく、その背景を考えようとしてるんだよ」


「……え?」


「戦争で男性が多く死ぬのはなぜなのか。危険な仕事に男性が多いのはなぜなのか。男性の犠牲が、社会の中でどう扱われてきたのか」


「……」


「その背景を、男性自身の責任だけじゃなくて、女性の価値観や、社会全体の利益も含めて考えてみようって、やっと話を始めたところなんだ」


悠斗も言った。


「女性の苦しみについて、男性の価値観や行動を調べることは必要だと思う。だったら、男性の苦しみについて、女性の価値観や行動を調べることも必要かもしれないでしょう?」


「……」


「調べた結果、女性側の影響が小さかったなら、それでいい。でも、最初から女性には責任がないって決めてしまったら、何も分からないよ」


彩花は黙った。


翔太は続けた。


「29コマ、女性の苦しみについて考えてきたんだよ。最後の1コマくらい、男性の苦しみを中心に考えてもよくない?」


美咲は俯いた。


「……」


「それに、さっき美咲は『やっぱり男の先生は駄目だね』って言ったよね」


「……うん」


「俺たちは29コマ、女の先生の授業でつらい思いをしてきた。でも、女の先生は駄目だなんて、言いたくなかった」


美咲は顔を上げた。


「……」


「先生が男性か女性かと、授業の内容が適切かどうかは、別の問題でしょう?」


美咲は、小さく頷いた。


「……そうだね」


第7章 パンフレット


長い沈黙が流れた。


やがて、悠斗が口を開いた。


「……僕、2人に話しておきたいことがあるんだ」


美咲が顔を上げた。


「何?」


悠斗は、しばらく黙っていた。


それから、鞄の中を探り始めた。


1枚の、折り畳まれたパンフレットを取り出した。


「……これ」


机の上に置いた。


美咲が表紙を見た。


そして、表情を変えた。


医療機関の案内資料だった。


そこには、男性器の切除を伴う外科手術についての説明が書かれていた。


「……何、これ」


彩花も覗き込んだ。


「手術の……パンフレット?」


悠斗は頷いた。


「うん」


美咲が戸惑いながら尋ねた。


「どうして、こんなもの持ってるの?」


悠斗は、しばらく答えなかった。


そして、静かに言った。


「僕、本当だったら今日、この講義が終わったら、男をやめるつもりだったんだ」


美咲は、言葉を失った。


「……え?」


「1年間、ずっと考えてた」


悠斗はパンフレットを見つめた。


「男として生まれたことが、すごく悪いことみたいに思えてきたんだ」


「……」


「もちろん、先生は僕個人が悪いって言ったわけじゃない。女性が本当に苦しんできたことも分かってる」


「……」


「でも、僕は、だんだん自分が男であること自体を許せなくなっていった」


彩花が、小さな声で尋ねた。


「……女性になりたかったの?」


悠斗は首を振った。


「違う」


「……」


「僕は、自分を女性だと思ってるわけじゃない。女性として生きたいっていう気持ちとも違う」


悠斗はパンフレットに手を置いた。


「ただ、男でいることが罪みたいに感じてたんだ」


美咲は何も言えなかった。


「男性が作った社会の責任を、僕も背負っていかなきゃいけないんだって。だったら、男であることをやめればいいんじゃないかって」


悠斗は、かすかに笑った。


「自分でも、おかしな考えだって分かってたよ。手術をしても、過去の歴史が変わるわけじゃないし、僕がどんな人間かってことも変わらない」


「……」


「それでも、体から男のしるしを消せば、少しは楽になれるんじゃないかって思ってた」


美咲の顔が青ざめた。


「……悠斗」


悠斗は続けた。


「手術について調べて、資料を取り寄せて、病院にも相談してた」


「……」


「でも、今日、この小説を読んだんだ」


悠斗は、机の上のプリントを見た。


『人とカマキリ』。


「男性も、社会に傷つけられる側になり得るんだって。男性の犠牲を、女性の側からも考えていいんだって」


悠斗の声が、震え始めた。


「……それが、すごく嬉しかった」


涙が頬を伝った。


「今日、初めて僕たちにもスポットライトを当ててもらえて、男のまま生きていてもいいんだって思えた」


美咲は、口元を押さえた。


悠斗は続けた。


「だから……」


そして、泣きながら笑った。


「やっぱり、手術はキャンセルしようと思う」


悠斗は、パンフレットを鞄に戻した。


美咲は、その鞄を見つめた。


つい先ほど、自分が言った言葉が頭の中に蘇った。


もし私が本当に子宮を摘出してしまったら、責任取れるの?


あれは、自分がどれほど傷ついたのかを分かってほしくて発した言葉だった。


けれど、悠斗は実際に手術を考え、病院にも相談していた。


美咲は、涙を流した。


「……悠斗」


「何?」


「……ごめん」


悠斗は首を振った。


「美咲のせいだって言いたいんじゃないよ」


「でも……」


「僕も、さっき美咲が手術したくなったって聞いて、どれくらいつらかったか分かったよ」


悠斗は、泣きながら笑った。


「だから、何も言わなかったんだ」


その隣で、翔太が悠斗の肩に手を置いた。


「……悠斗。前から、そんなに苦しかったんだな」


「……うん」


「話してくれて、ありがとう。でも、これからも1人で抱え込まないでほしい。大学の相談室でも、病院でもいいから、ちゃんと話してほしい」


悠斗は涙を拭った。


「……ありがとう」


第8章 女子学生たちの涙


美咲は、何も言えなかった。


自分がたった1回の授業で感じた苦痛を、悠斗は29コマにわたって抱えていたのかもしれない。


彩花も、目に涙を浮かべていた。


「……私、さっき、悠斗たちがこの作品を好きなのはミソジニーだからだって言ったよね」


「うん」


「……違ったんだね」


悠斗は静かに答えた。


「うん」


「女性が悪者にされるのが嬉しかったんじゃなくて、自分たちも被害者になっていいんだって、認めてもらえたのが嬉しかったんだね」


悠斗は頷いた。


「……そう」


彩花は泣き出した。


「……ごめん」


悠斗は何も言わなかった。


ただ、静かに頷いた。


しばらくして、美咲が尋ねた。


「……ねえ、翔太」


「何?」


「さっき、私たちが話してる間、どうして何も言い返さなかったの?」


翔太は答えた。


「2人の気持ちを、ちゃんと聞きたかったから」


「……それだけ?」


「うん。それと、もう1つ」


「何?」


「俺たちが何を言っても、途中で否定されたり、説明されたりしないで、最後まで聞いてもらえることが、どれだけありがたいか知ってるから」


美咲は、目を伏せた。


第9章 最後の問い


「そろそろ時間です」


高橋講師の声が響いた。


「最後に、この1年間の講義を通じて学んだことを、1つ書いて提出してください」


4人は、しばらく黙っていた。


美咲は、白紙のレポート用紙を見つめた。


1年間。


女性が社会の中で、どれだけ苦しんできたかを学んだ。


どれも、大切なことだった。


間違っていたとは思わない。


しかし、今日の出来事は、美咲に新しい問いを残した。


女性差別について学ぶことと、男性が自分の性別を恥じなければならないことは、同じではないはずだ。


美咲は、レポート用紙に書き始めた。


私は今日、自分の性別を悪者にされる苦しさを知った。


そして、それが自分だけの苦しさではないことを知った。


女性に対する差別をなくすことは大切だ。


しかし、そのために男性が自分の性別を恥じなければならないとしたら、それは本当に男女平等なのだろうか。


美咲は、ペンを止めた。


そして、最後に1文を書き加えた。


私は、女性であることを恥じたくない。だから、男性にも、男性であることを恥じてほしくない。


隣では、彩花も何かを書いていた。


翔太は、静かにプリントを畳んだ。


悠斗は、鞄の中にあるパンフレットをもう1度取り出した。


しばらく見つめたあと、折り畳んでしまった。


「……悠斗」


美咲が呼びかけた。


「何?」


「今日、終わったら、一緒に帰らない?」


悠斗は、少し驚いた顔をした。


「……いいの?」


「うん」


美咲は、少し泣き笑いの表情になった。


「まだ、話したいことがあるから」


悠斗は頷いた。


「……ありがとう」


授業終了のチャイムが鳴った。


美咲は、最後にもう1度だけプリントを見た。


その最終行。


二度目に食べる口は、私にもついていた。


最初に読んだときは、女性に対するひどい侮辱だと思った。


今でも、女性の責任を単純化しすぎていると思う。


けれど、自分が傷ついたからという理由で、男性の犠牲について考えることまで拒絶してはいなかっただろうか。


美咲は、教室の出口に向かう悠斗の背中を見つめた。


もし、今日の1コマがなかったら。


悠斗は、どうなっていたのだろう。


そう考えた瞬間、胸が苦しくなった。


来年、もしこの講義が再び開かれるのなら。


男性の苦しみにスポットライトを当てる授業が、最後の1コマだけで終わらないでほしい。


女性が苦しんできた歴史を消してほしいわけではない。


ただ、男性が苦しんできた歴史も、同じように学んでほしい。


そして、もう二度と、誰かが自分の性別を消したくなるほど、追い詰められないでほしい。


美咲は、プリントを鞄にしまった。


1年間のジェンダー論の講義が終わった。


30コマ。


女性の苦しみを学んだ29コマ。


そして、男性の苦しみを、ようやく正面から見つめた1コマ。


美咲は悠斗に追いつき、隣を歩き始めた。


今度は、自分が聞く番だった。


* * *


完

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