第19話 ひとりの外へ
王都ラディス・フェルム北西区画。
大通りから一本入った石畳の先に、ヴァルディエル子爵家の王都別邸はある。白壁も鉄柵も丁寧に手入れされ、領地の屋敷とは違う静かな品があった。
コロキウム・フェルムを終えてからも、僕はしばらく王都に残っていた。
王立大図書院、南区の古書店街、王立魔術学術院近くの写本工房。領地でも研究は続けられるが、必要な資料へ手が届くまでの速さは比べものにならない。
今日も机には、持ち帰った古書が三冊積まれている。
ここに残れば、まだ調べたいことはいくらでもあった。それでも、そろそろ領地へ戻る頃だろう。
使い慣れた机も、これまでの研究記録も、実験場も向こうにある。
そう考えて本を閉じた時、扉が控えめに叩かれた。
「ユリウス様。お客様でございます」
「どなたですか」
「王立魔術学術院の教授と名乗られております」
僕を訪ねてくる教授となれば、心当たりは多くない。
「お通ししてください」
応接間で待っていたのは、背筋を真っ直ぐに伸ばした初老の男だった。
質素ながら隙のない装いと、静かにこちらを観察する目には、長く学問へ身を置いてきた者らしい落ち着きがある。
「突然の訪問をお許しください。ユリウス・ヴァルディエル殿」
男は穏やかに一礼した。
「エルネスト・クローディアスです。王立魔術学術院で教鞭を執っております」
王都の学術界でも名の知られた教授であり、コロキウムでは僕の論文へ推薦を出した人物でもある。
「お会いできて光栄です、エルネスト教授」
「少し、お時間をいただけますか。君の研究について話がしたい」
「もちろんです」
向かい合って腰を下ろす。
使用人が茶を置き、扉の向こうへ消えるまで、エルネストは本題へ入らなかった。
二人きりになると、彼は革の鞄から一冊の綴じ本を取り出した。
幾度も開かれたのだろう。紙の端は柔らかくなり、表紙には見覚えのある題が記されている。
《魔力場共振理論》。
「五年前、学術院へ届けられた匿名の論考です」
予想していなかったものを前に、わずかに息が止まる。
「この一冊には、随分と眠りを奪われましてね。筆者を探しましたが、どうにも辿り着けなかった」
エルネストは論考へ指を添えたまま、僕を見る。
「コロキウムの応募論文を読んだ時から疑っていました。壇上での発表と質疑を見て、ようやく確信した。これを書いたのは、君ですね?」
誤魔化す意味はなかった。
「……はい」
「やはり」
「ただ、このことはまだ公表していません」
「承知しています。私から口外するつもりもありません。筆者が名乗らなかった以上、そこには理由があるのでしょう。明かす時を決めるのは君です」
「ありがとうございます」
即答だった。
それだけで、胸にあった警戒が少し薄れる。
エルネストは改めて《魔力場共振理論》を開いた。
「今の君から見れば、五年前のこれはどう見えます?」
「粗いです。観測が足りない部分もありますし、共振が成立する条件についても、今なら書き方を変えます」
「でしょうね」
あまりにあっさり同意され、思わず顔を上げる。
エルネストは楽しそうに口元を緩めていた。
「だから探したんですよ」
「……未完成だったから、ですか?」
「ええ。完成していないのに、先へ進めるだけの筋があった。何より、分からないものを誤魔化していなかった」
頁を数枚捲り、余白に残された記述へ目を落とす。
「完成した理論なら、読んで検証すればいい。ですが、これは続きを読みたくなった。その筆者が五年後に何を考えているのか、ずっと気になっていたんです。そして実際、君は先へ進んでいた」
「まだ、分からないことの方が多いですが」
「それでいい。分からないことがなくなった研究者ほど、信用できないものもない」
冗談なのか本気なのか判断に迷う言い方だったが、本人は気にした様子もなく茶へ手を伸ばした。
「単刀直入に申し上げます。ユリウス・ヴァルディエル君。王立魔術学術院へ来ませんか」
「……学術院へ?」
「特待生として、君を迎えたい」
予想していなかった言葉に、すぐには返事が出なかった。
「教授会には、すでに推薦を通しました。講義への出席は原則として君の裁量に任せます。研究設備、書庫、実験場も利用できる。私の研究室にも席を用意しましょう」
「そこまで……」
「必要だと思ったからです。君はこれまで、ほとんど独力で研究を進めてきたのでしょう?」
「はい」
「それでここまで来たのは大したものです。ただ、一人で積み上げた理論には、一人では見つけにくい弱点がある」
その言葉には覚えがあった。
コロキウムで、何人もの研究者から予想していなかった問いを投げられた。答えられたものもあれば、追加の検証が必要だと気づかされたものもある。
「反論、比較、追試。違う分野からの視点もある。君の理論に必要なのは、賛同者ばかりではありません。遠慮なく疑ってくれる相手です」
「……壁、ということですか」
「そう。できれば、かなり頑丈な壁がいい」
そこで初めて、エルネストが少し笑った。
「学術院なら、壁には事欠きませんよ。なにしろ研究者というものは、他人の理論へ穴を見つけると妙に元気になる」
思わず口元が緩む。
だが、魅力的な話であるほど、すぐに頷くことはできなかった。
「学術院へ入れば、僕の研究も今までのようにはいかなくなりますよね」
「もちろん。理論は人目に晒される。反論もされる。君の年齢や家柄を理由に、内容とは関係のない声を向ける者もいるでしょう。学術院も、知識だけで動く理想郷ではありません。名誉も、序列も、派閥もある」
それを隠して勧誘するつもりはないらしい。
「それでも私は、君の研究を一人の部屋だけで閉じるには惜しいと思っています」
先日、カティアに問われた言葉が不意に蘇る。
これから、どうするのか。
研究したいことはある。目指したい方向もある。けれど、そのためにどこへ身を置くのかまでは決めていなかった。
目の前に差し出されたのは、その答えになり得る道だった。
「……少し、考える時間をいただけますか」
「もちろんです」
「父とも相談したいです」
「それがいい。こういう話を勢いで決める者は、研究でもだいたい早合点をしますから」
エルネストはようやく茶へ口をつける。
「ただ、一つだけ。学術院へ来るかどうかではなく、君の研究をどこへ持っていけば先へ進めるのか、それで考えなさい。場所を決める基準まで、私に預ける必要はありませんよ」
「……はい」
学術院を選べと迫る言葉ではなかった。
玄関までエルネストを見送り、閉じた扉の前で立ち止まる。
王立魔術学術院。
つい数日前まで、発表のために訪れただけの場所だった。そこへ今度は、研究する者として来ないかと誘われている。
迷いはあった。
それ以上に、確かめてみたいという気持ちが芽生えていた。
◇
数日後、領地へ戻った。
王都から馬車で一日。見慣れた丘陵と森が車窓に広がると、自然と肩の力が抜けた。
華やかさはなくても、土と木の匂いがある。それだけで、自分の場所へ戻ってきたのだと実感する。
父は書斎で帳簿に目を通していた。
「戻ったか」
「はい。少し、相談があります」
父は手を止め、向かいの椅子を示した。
「王都で何かあったな」
「エルネスト・クローディアス教授から、王立魔術学術院の特待生として迎えたいと言われました」
父の眉がわずかに上がった。
「クローディアス教授から?」
「ご存じなのですか?」
「名くらいはな。王国でも名の知られた研究者だ。軽々しく誰かを持ち上げる人ではないとも聞いている」
しばらく僕を見つめたあと、父は静かに尋ねる。
「それで、お前はどうしたい?」
「……行ってみたいとは思っています」
「なら、何を迷っている」
すぐには答えられなかった。
「今までは、自分で考えて、自分で試していれば済みました。でも学術院へ入れば、そうはいかなくなると思います。理論を見られて、反論されて、研究以外の人間関係にも向き合わなければならない」
「怖いか?」
「……少し」
素直に認める。
コロキウムでも、理論そのものを見ようとする人ばかりではなかった。けれど同時に、自分では思いつかなかった問いを投げてくれる人もいた。
それを面白いと思ったのも事実だ。
父は少しだけ目を細める。
「五歳の頃、お前の研究を外へ出すのはまだ早いと言ったことを覚えているか」
「はい」
「あの頃のお前には、理論を守るための時間が必要だった。だが、十五歳になった今も、同じ場所に留めておく理由はない。一人で進めるところまで進んだのなら、次は他人の目へ晒す時なのかもしれん」
十年前には、まだ早いと止めてくれた。
五年前には、名を伏せたまま外へ出す道を作ってくれた。
そして今、父はまた先へ進むことを認めようとしている。
「お前はどうしたい?」
もう一度、同じ問いが向けられる。
今度は、答えに時間はかからなかった。
「行きたいです」
「そうか」
「自分の理論が、僕の見えていないところからどう見えるのか確かめたい。間違っているところがあるなら知りたいですし、僕一人ではできない研究もしてみたい」
口にするほど、迷いより期待の方が大きくなっていく。
「……特待生の話を受けようと思います」
父は静かに頷いた。
「なら、行きなさい」
短い言葉だった。
それで十分だった。
王都へ向かうのは、知識を得るためだけではない。
自分の理論を他者の目へ晒し、疑われ、検証され、それでも残るものを確かめるためだ。
その先に何があるのかは、まだ分からない。けれど、分からないからこそ確かめに行く。
それはこれまでと、何も変わらなかった。




