幕間 初夏の余韻
馬車が門の向こうへ消えていくまで、カティアは庭園に立っていた。
車輪の音が遠ざかり、白い石畳の上に初夏の静けさが戻ってくる。
噴水の水音、葉擦れの音、使用人たちが控えめに動く気配。すべてはいつも通りのはずなのに、胸の奥だけが、まだ先ほどまでの会話の熱を残していた。
ユリウス・ヴァルディエル。
五歳の男の子。そう言ってしまえば、それだけの相手だった。
けれど実際に向き合ってみれば、五歳という年齢から想像していた相手とはまるで違っていた。
礼儀は子ども離れしている。言葉は慎重で、視線は澄んでいる。
何より魔術の話をするときの彼は、ただ覚えた知識を並べているのではなく、目の前にある世界そのものを見つめているようだった。
不思議な子。
そして、とても面白い子。
そう思うだけで、自然と口元が緩みそうになる。
カティアは小さく息を吐き、侯爵家の長女としての顔を戻してから、屋敷へ向かって歩き出した。
十二歳。
本来なら、まだ大人たちの後ろで微笑んでいれば許される年齢なのかもしれない。
けれど父が体調を崩しがちになってから、カティアの日々は少しずつ変わっていった。
来客の応対、招待状への返礼、領地から届く報告書の確認。母や家令の助けを借りながらではあるが、父の代理として顔を出さなければならない場も増えている。
誰も無理をしているとは言わない。むしろ周囲は、カティア様はよくお出来になる、と感心したように言う。
けれど、よく出来ることと、疲れないことは同じではない。
微笑み続けることにも、正しい言葉を選び続けることにも、相手の視線の奥を読み続けることにも、力は要る。
勉学、社交、剣、魔術の稽古。そのすべてを当然のようにこなしながら、自分の興味だけに時間を使える日はほとんどなかった。
だからこそ、今日の時間は不思議だった。
疲れを忘れていた。
侯爵家の長女としてでも、父の代理としてでもなく、ただ一人の人間として、誰かの話をもっと聞きたいと思っていた。
回廊へ足を踏み入れたところで、ドレスの後ろを小さな力が引いた。
振り返らなくても、誰なのかは分かった。
布をぎゅっと掴む小さな手。こちらが声をかけるまで離さないと決めているような、控えめで頑固な気配。
少し俯いたまま、頬を膨らませているところまで、目に見えるようだった。
カティアは足を止め、肩越しに振り返る。
「どうしたの、レアリア?」
「……べつに」
声は、明らかに別に、ではなかった。
深紅の髪を揺らした妹は、カティアの背中に隠れるように立ち、まだドレスを掴んでいる。
顔を半分だけ覗かせて、庭園の方をじっと睨んでいた。ユリウスの乗った馬車は、もう門の向こうに消えている。
それでもレアリアの中では、あの少年はまだ警戒すべき相手なのだろう。
「もしかして、さっきのこと?」
「……ねえさま、あいつと楽しそうだった」
「レアリア」
カティアは声を荒らげず、けれど少しだけ言葉に重みを乗せた。
「あいつ、ではないわ。ユリウスよ」
「……ユリウス」
レアリアは不満そうに唇を尖らせる。
きちんと名前を呼んだものの、それだけで大きく譲歩したと言いたげな顔だった。
「でも、ねえさま、あの子とお話ししてるとき、きらきらしてた」
きらきら。
子どもらしい言い方だ。けれど、否定はできなかった。
ユリウスの話を聞いているあいだ、自分がどんな顔をしていたのか、カティア自身にも何となく分かっていた。
「……そう見えた?」
「見えた」
レアリアは真剣に頷く。
「だから、ちょっといや」
妹はまだ幼い。姉を独り占めしたいだけなのだろう。
けれど、そのまっすぐな寂しさは、カティアの忙しさの裏側にあるものを静かに突いてくる。
父の代理。侯爵家の長女。社交の場で求められる笑み。稽古と勉学。
そうしたものに時間を取られるほど、レアリアと過ごす時間も少しずつ削られていた。
カティアは膝を折り、妹と目線を合わせる。
レアリアはまだ不満そうな顔のまま、けれど逃げずにこちらを見た。
「レアリア」
「なぁに」
「私は、あなたのねえさまよ」
「うん」
「それは、誰と話しても変わらないわ」
レアリアはじっとカティアを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……じゃあ、ユリウスにはちょっとだけ貸してあげる」
「貸す?」
「ちょっとだけ」
今度こそ、カティアは小さく笑ってしまった。
「ありがとう。レアリアは優しいのね」
「優しくないもん。ねえさまのためだもん」
レアリアはそう言って、今度は正面からカティアに抱きついた。
その小さなぬくもりを受け止めながら、カティアは窓の外へ視線を向ける。先ほどユリウスが乗った馬車は、もう見えない。
「彼は、貴族学院には通わないそうよ」
「来ないの?」
「ええ」
レアリアが顔を上げる。
「じゃあ、ねえさまとお話ししない?」
「しばらくは、そうね」
「……それは、ちょっとかわいそう」
敵だと思っていたはずなのに。
カティアは、妹のそういうところが好きだった。
「本当は、レアリアとも仲良くなれたらと思ったのだけれど」
「えー」
「嫌?」
「ちょっとだけ」
レアリアは迷ったあと、小さな声で続けた。
「でも、ねえさまが楽しそうなら、ちょっとだけならいい」
「そう」
カティアは微笑み、レアリアの頭を撫でた。
「いつか会えるわ。きっと」
次に会う日がいつかは分からない。
けれど、彼がこのまま、誰にも知られずに終わるとは思えなかった。あの問いを追い続けるなら、いつかまた王都へ来る日もあるだろう。
その時、自分は何をしているのか。
カティアは、そっと息を吸った。
父の体調。家の責任。妹を守ること。学ばなければならないこと。磨かなければならない力。
目の前には、逃げられない日々がある。今日の楽しさに浸っているだけではいられない。
けれど、その日々の先に、また彼と向き合う未来があるのなら。
少しだけ、頑張れる気がした。
「ねえさま?」
「何でもないわ」
カティアは微笑み、レアリアの手を取る。
「戻りましょう。午後の稽古の前に、少し休まないと」
「ねえさま、ちゃんと休む?」
「ええ。約束するわ」
レアリアは疑うように見上げてきたが、やがて小さく頷いた。
回廊を歩き出す。
背筋を伸ばし、いつもの顔を取り戻す。ヴァレンティナ侯爵家の長女として、父の娘として、レアリアの姉として。
ユリウス。
世界を、まるで解き明かすべき問いのように見つめていた少年。
いつかまた会えたなら、その時は今日よりもっと多くの話を聞かせてほしい。
そう願いながら、カティアは静かに日常へ戻っていった。




