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君と、またダンスを

作者: 執行 太樹
掲載日:2025/11/16

 圭介は、妻の里絵と共に社交ダンスを習い始めた。厳しい先生に教えられながらも、だんだんダンスの楽しさを知っていく。

 コンクールに出ようと決めた矢先のこと。里絵のもとに、圭介が交通事故に遭ったと連絡が入る⋯⋯。



※短編小説です。



 藤沢圭介と三谷里絵が出会ったのは、大学2回生の時だった。

 圭介と里絵は、学部も違えば所属している部活動も違っていた。2人はまったく違う大学生活を送っていた。

 きっかけは、たまたま同じ授業を選んでいたことだった。大きな教室で、偶然2人は隣り合った。

 この授業、難しいですね。話しかけたのは、圭介からだった。

 そんな他愛たあいのない会話から始まり、2人はよく会話するようになった。

 授業を繰り返し受けているうちに、2人は顔なじみになった。

 良かったら、この後ランチでもどうですか。圭介から誘った。里絵は小さくうなずいた。

 ランチに選んだカフェで過ごす中、2人はとても気が合った。会話が楽しかった。それから、2人は互いにかれ合った。

 その後、2人は付き合い始めた。里絵は映画が好きだったので、よく一緒に映画を見に行った。あるクリスマスの日に、『美女と野獣』を見に行った。里絵のお気に入りの映画だった。いつか、あんな幸せなダンスを踊りたい。それが里絵の感想だった。

 2人で色んな所に出掛けた。たまに喧嘩けんかもしたが、2人の間には笑いが絶えなかった。

 大学を卒業して2年後、2人は結婚した。



「あのさ、社交ダンスに興味無い?」

 日に日に暖かくなってきた3月のある日。仕事から帰るなり、圭介は里絵にそう尋ねた。

「急に、どうしたの?」

 台所で晩ごはんの準備をしていた里絵は、そう聞き返した。

「いや、昨日テレビで『Shall we dance?』っていう映画を見てさ。ちょっと恥ずかしいけど、楽しそうだし。一度やってみたいなぁ、なんて仕事中考えてて……」

 圭介は、スーツの上着を脱ぎ、リビングにあるダイニングテーブルの椅子に座った。

 里絵は、春キャベツの炒め物を盛った皿を持って、テーブルに運んできた。

「良いじゃない。やってみようよ」

 里絵の思いがけない返事に、圭介は初め驚いた。

「えっ、良いの?」

「私も、その映画好きなの。面白そうだし、やってみようよ」

 意外な里絵の回答にびっくりしたが、圭介は嬉しかった。

「ありがとう。じゃあ早速、どこに習いに行くか探さないと」

「そうね。家から近い所が良いな」

「そうだね。優しそうな先生のいる所にしたいな」

 2人は、新しい事にチャレンジする楽しさに、胸を膨らませた。



 『北見ダンススタジオ』は、圭介たちの家の最寄り駅の近くにあった。駅前の商店街の一角に4階建てのビルがあり、その2階の一室を借りているようであった。

 圭介は仕事帰りに、そのビルを探していた。目当てのビルを見つけ、見上げると、窓に『北見ダンススタジオ』と小さく書かれていた。初心者の方も大歓迎、とも書かれている。

 圭介は、ビルの入り口を探した。しかし、入り口らしき扉は見つからなかった。

「あれ、おかしいな」

 圭介がビルの前をうろうろしていると、急に背後から声がした。

「あなた、何か用?」

 圭介が慌てて振り向くと、そこには、1人の女性が立っていた。眼鏡をかけた、小柄な女性だった。お年を召したようだが、背筋がぴんとしており、とても上品な容姿ようしだった。

 その女性は、こちらをじろじろと見ている。

「あ、すみません……。ここの2階にある、北見ダンススタジオに用がありまして」

「あら、そう。ならそこの扉を開けると階段があるから、そこから入りなさい」

 ありがとうございます、圭介はそう言って女性に会釈をした。女性は返事もせずに、すたすたとその場を立ち去り、建物の横の路地に入っていった。

 無愛想ぶあいそうな人だな、圭介はそう思いながら、ビルの方に目をやった。よく見ると、建物の隅の方に、扉があった。

「よし、入るぞ」

 圭介は小さい声で、そう自分に言い聞かせた。

 扉を開けると、すぐに階段が見えた。圭介が2階へ上がると、ガラスの引き戸があった。『北見ダンススタジオ』と書かれている。

 圭介は、思いきって扉を開けた。中は、薄暗かった。天井の所々にあるスポットライトだけしかいていなかった。

「あの、すみません」

 圭介がそう言ったが、何も返事は無かった。

「すみません。どなたか、いらっしゃいますか」

「はい」

 奥の方から、女性の声が聞こえた。よく見ると、奥に部屋があった。声は、そこから聞こえてきた。

 しばらくして、その部屋から誰かが出てきた。

「はいはい、ちょっと待ってね」

 その人がこちらに近づき、部屋の照明のスイッチを押した。

「あっ!」

 部屋全体が明るくなった途端、圭介は声を上げた。目の前に、先ほどビルの前で話しかけてきた女性が立っていたからだ。

「なんだ、あなただったの。さっき、ビルの前でうろうろしていて、不審者だと思ってたわ」

 いきなり失礼なことを言う人だな。圭介はそう思った。

「ああ、すみません。あの、社交ダンスを習いたくて……」

「あら、申し込みに来たの。それじゃあ、そこのソファに座って」

 女性は、入り口のすぐ横にあるソファを指差した。年期の入った、それでいて高級そうなこん色のソファが、サイドテーブルと共に置かれていた。

 圭介が言う通りにソファに腰かけると、その女性は何も言わず奥の部屋に戻っていった。

 圭介は改めて、フロアを眺めた。思ったよりも広かった。フロアは1面、フローリングで覆われ、綺麗に磨かれていた。奥の方には小さな棚があり、トロフィーや賞状が飾られているのが見えた。

 圭介はソファから立ち上がり、棚の方に向かった。棚には、大小さまざまなトロフィーが数え切れないほど飾られていた。そして、トロフィーに付けられたリボンには、全て「北見麗子きたみれいこ」と書かれていた。

「きっと、ここの先生はすごい人なんだろうな」

 その棚の隅の方に、小さな額が飾られていた。若い男性と女性が、ペアダンスを踊っている。女性は、真紅のダンスドレスに身を包んでいた。綺麗な人だな、と圭介は見とれた。

「勝手に、うろうろしないでもらえるかしら」

 ひゃっ、と圭介は飛び上がった。後ろには、女性がこちらを見ていた。手には紙とペンを持っている。

「すみません」

 女性にうながされ、圭介はまたソファに戻った。

「じゃあ、これを書いて」

そう言うと、女性は持っていた紙を圭介の前に差し出した。紙には申し込み書と書かれていた。

「えっ。あの……、ダンス教室の説明とかは無いんですか?」

「何なの? あなた、ダンスを習いに来たんじゃないの?」

 まぁそうですけど、と圭介はつぶやいた。まさか、こんなぶっきらぼうに申し込みをすすめられるとは思わなかった。しかし、ここのダンススタジオが通いやすく、レッスン代も手頃だった。

 何よりも、里絵も社交ダンスを楽しみにしている。

 圭介は、申し込み書にサインをした。

「はい、確かに。いつから来るの?」

「あ、できれば明日にでも来たいんですが」

「わかったわ。じゃあ、明日またここに来なさい。準備してるから」

 圭介は、わかりましたと応えた。

「あ、そうそう。自己紹介を忘れていたわね。私、北見麗子と言います。明日からまた宜しくお願いしますね」

「えぇっ! あなたが北見麗子さんですか?」

「何か文句でもあるんですか?」

 いえ……。圭介は目を泳がせた。それでは宜しくお願いします、と圭介は女性に伝え、スタジオを後にした。

 1階まで降りて、圭介は入り口を出た。

 他のダンススタジオにすれば良かったかな……。圭介は、ふとそう思った。

 圭介が振り返ると、ビルの窓に描かれた「北見ダンススタジオ」の文字が、圭介を見下ろしていた。



 翌日、圭介は里絵と共に北見ダンススタジオに向かった。練習で使用するジャージと室内用シューズは、事前に準備していた。

 スタジオの扉を開けると、先生が奥のソファで雑誌を読んでいた。

「あの、すみません。昨日に申し込みをした藤沢です」

「あら、来たのね」

 麗子先生は、こちらを見ずに、雑誌に目を落としながら応えた。相変わらず無愛想だな。圭介は思った。

 麗子先生に更衣室を案内され、2人は着替えた。更衣室から出てきた時、麗子先生

はすでにダンスシューズを履いていた。

 麗子先生が教えるのか、と圭介は思った。その様子を悟ってか、麗子先生が言った。

「若い女の子が教えてくれると思った?」

 咄嗟とっさに圭介は、里絵の方を向いた。里絵は無言で、圭介の顔を見つめている。少し気まずい時間が流れた。

「では、改めて自己紹介を。私はこのダンススタジオを経営している北見麗子です。これからあなた達に、躍りをレッスンします。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 圭介と里絵は、頭を下げた。

「それはそうと、あなた達、どんなダンスをしたいの?」

 圭介と里絵は、お互いに顔を見合わせた。そういえば、ただダンスがしたいとだけ思っていて、どんなダンスがしたいかまでは考えていなかった。

「あ、いや、その……。2人で踊る種類のダンスがしたくて」

「社交ダンスというのは、2人で踊るものです」

 麗子先生は、平然と言った。

「あ、そっか。あの、お互いにステップを踏んだり、くるくる回ったりするやつをしたくて……」

 圭介は、しどろもどろにしゃべった。その横で里絵は、恥ずかしそうに下を向いていた。麗子先生は、そんな2人を呆れた様子で見つめている。

「あなた達、何にも知らないのね」

 すみません、圭介と里絵はそう思った。

「あのね、ダンスには種類があるの。優雅に流れる3拍子のワルツ。 情熱的な動きが特徴のタンゴ。ゆったりとした4拍子のスローフォックストロット。これらはペア2人が体をくっつけて、腕をホールドしたまま踊るスタンダード種目と言われているわ。他には、情熱的な愛を表現するルンバ。リズミカルで軽快なステップが特徴のチャチャチャ。ブラジルの音楽が起源の、躍動感あふれるサンバ。スペインの闘牛をテーマにしたドラマチックなパソドブレ。これらはペア2人が離れて踊ったり、近づいて踊ったりと、自由に動くことができるラテン種目。まあ、あなた達はまず基本のワルツなんかが良いわね」

 麗子先生は、丁寧に説明してくれた。聞いたことのあるものと、そうでないものがあった。ダンスの種類が、そんなにあるとは知らなかった。

 麗子先生は、基本的なステップを教えてくれた。まずはペアで踊らず、足の運び方を覚えるように言われた。圭介と里絵は、並んで立った。その前で麗子先生はステップを踏んだ。予備歩からナチュラルスピンターン、リバースターン、ホイスク、シャッセフロムと、次々と華麗な動きを見せてくれた。

 麗子先生のステップは、緩やかで優雅で、無駄がなかった。ステップ1つで、こんなにも上品に見えるものなのか。

「はい、こんな感じでやってみなさい」

 いきなりそんな事を言われても、無理だった。圭介も里絵も、体の動きはおろか、ステップの仕方さえ滅茶苦茶めちゃくちゃだった。

「あなた達、全然だめね。ステップが全くなってないわ」

 今日始めたばかりだから仕方ないだろうと、圭介と里絵は心の中で思った。何度やっても、上手にステップを踏めなかった。頭で考えると、動きがぎこちなくなる。考えずにステップを踏むと、正しく踏めない。

「力が入りすぎなのよ。ほら、もっと肩の力を抜きなさい」

 麗子先生はめ息まじりに言った。

 社交ダンスが、こんなにも体力がいるものだとは思わなかった。繊細で美しい動きの裏で、全身の筋肉を使っているのだ。圭介は社交ダンスのすごさに、純粋に脱帽だつぼうした。

 気がつくと2人は汗だくになっていた。ちょっと休憩にしましょう、と麗子先生は2人をソファに促した。

「社交ダンスが、こんなに疲れるとは思わなかったわ」

「そうだな。これは、思っているよりも大変だぞ」

 ソファに座り、ペットボトルの水を飲んでいる2人のもとに、麗子先生は歩み寄った。

「どう、社交ダンスは?」

「いや……、思っていたものと違いました。こんなに大変だとは思いませんでした」

「音楽に乗せて、身体を動かせば良いのよ。2人とも、もっとリラックスしなさい」

 そんな事言われてもなぁ、と2人は顔を見合わせた。

「次は、ペアで踊ってもらいます。はい、じゃああなたはここに立って」

 麗子先生は圭介を呼び、フロアの真ん中に立たせた。次に、里絵を圭介の前に立たせた。

「あなたはここね。はい、そんな感じ。じゃあ、お互いに向かい合って」

 圭介と里絵は、お互いに見つめ合った。何だか、気恥ずかしかった。

「ちょっと、そんなにじろじろ見つめないでよ」

「仕方ないだろ。麗子先生がそう言うんだから」

「ちょっと、さっきから何ぶつぶつ言ってるの。2人とも、背筋を張って。圭介さんは左手を、里絵さんは右手を繋いで。そうそう。そして、圭介さんは右手で、里絵さんを軽く包み込むように背中を押さえるの。里絵さんは左手で、圭介さんの右手の二の腕あたりをそっとつかんで」

 2人は、麗子先生に言われるがままに、お互いにホールドの姿勢をとった。無意識に肩に力が入る。こんな姿勢をずっと保ちながら踊らないといけないのか。圭介と里絵は、社交ダンスの難しさを改めて知った。

 2人の踊りは、ぎこちなかった。先程の難しいステップを、互いにホールドしながら踊らなければならない。2人は、自分のステップを意識することで頭がいっぱいだった。

「ちょっと、しっかり動いてよ。あと、握ってる手が痛い。強く握りすぎよ!」

「そんなこと言われても、ステップが難しいんだよ。いてっ! 今、俺の足を踏んだだろ!」

 2人がごちゃごちゃ言いながら躍っているのを見かねて、麗子先生は2人の躍りを止めた。

「ストップ! ちょっと、あなた達。さっきから何してるの。全然踊れてないじゃない」

「いや、そう言われましても……。自分の姿勢やステップを確認することで精一杯で」

 麗子先生は、はぁとめ息まじりの声で言った。

「あのね。ペアダンスは、相手を思いやって踊らないといけないの。目の前の人に楽しんでもらいたい、その気持ちがないと、ペアダンスは踊れません」

 2人は互いに顔を見合わせたあと、下を向いた。そんな様子を麗子先生は見つめながら、話を続けた。

「ペアダンスは、2人で楽しく踊ることが大切なの。自分だけが楽しく踊っていても、相手が楽しくなければ、それじゃあいけません。ペアダンスは、2人で作っていくものなのよ。そのことを忘れてはいけません」

 2人は、黙っていた。

 初めてのレッスンは、散々だった。また来なさい、という麗子先生の言葉を背中で聞いて、2人はスタジオを後にした。

 家に帰り、2人はぐったりした。社交ダンス、このまま続けられるかな……。圭介の頭に、そんな言葉がよぎっていた。



「あら、来たのね」

 麗子先生は、スタジオに入ってきた圭介と里絵を見るなり、そう言った。

「はい、今日も来ました」

 恥ずかしそうにそう応える2人を、麗子先生は見つめていた。

「この前は全然楽しく踊れていなかったから、もう来ないかと思ってたわ。大体のひとは、初めのレッスンで挫折して、来なくなっちゃうもの。でも、あなた達は違ったわね」

 誉めてくれているのかけなされているのか分からなかったが、麗子先生は思ったことをそのまま言ってくれた。

 また今日も宜しくお願いします、と圭介と里絵は頭を下げた。

 この前のように、初めのレッスンは基本のステップからだった。

「あら、圭介さん。この前より、ちょっと上手くなったんじゃない?」

 麗子先生は、圭介のステップを見て少し驚いた。

 実は、この前のレッスンから、圭介は家で動画を見て、ステップの練習をしてきていた。

「はい。家で少し練習してきました」

 やるじゃない、と麗子先生は感心したような顔を見せた。

 ステップが踏める。ただそれだけのことだが、圭介は嬉しくなった。社交ダンスは難しい、でも楽しい。素直にそう思えた。

 次は、ペアダンスのレッスンだった。この練習は、家ではできなかった。家では恥ずかしくて、そんな気持ちにはなれなかった。

「ペアダンスは、主に男性がリードしながら踊ります。圭介さん、里絵さんをリードしてあげなさい」

 麗子先生が言った。圭介も、昨夜インターネットで社交ダンスの踊り方を調べたときに、そう書かれていたのを思い出した。

 2人は向かい合い、互いにホールドの姿勢を取った。

「ほらほら、2人とも。肩に力が入ってるわよ。リラックス、リラックス」

 麗子先生にそう言われ、圭介は深呼吸した。

「うまく踊れるかな」

「大丈夫よ。失敗してもいいじゃない。踊りたいように踊りましょう」

 里絵は、そう圭介に伝えた。

 曲が鳴り始めた。流れる曲を聞いて、里絵は驚いた。

「えっ。この曲、前のレッスンの時と違うじゃない」

 フロアに流れる曲は、「美女と野獣」だった。

「麗子先生にお願いしたんだ。この曲で踊ってみたいんだ。麗子先生には、もっと上手くなってから注文しなさいと怒られたけどさ。無理を言って、この曲にしてもらった」

 里絵は、め息をついた。

「麗子先生の言う通りよ。こんな下手くそな私達に、この曲は恥ずかしいわ」

 いいからいいから、と圭介は里絵に言った。

 2人は気を取り直し、お互いを見つめた。曲の流れに合わせ、圭介は姿勢を少し下げ、大きく左足を前に出した。そのタイミングに合わせ、里絵は右足を大きく後ろに下げた。圭介が次の一歩を踏み出す際、圭介の右足が里絵の左足に当たった。そのまま圭介は右足を出そうとし、今度は体が里絵にぶつかった。

「痛い!」

「あっ、ごめん」

 圭介は、とっさに動きを止めた。2人は、ダンスを止めた。ダンスの曲だけが、フロアに響いていた。

 2人がその場で棒立ちになっているところへ、麗子先生は歩み寄ってきた。

「あなた達、ペアダンスで大切なことは何だか覚えてる?」

 麗子先生は、静かにそう質問した。圭介は、この前のレッスンで麗子先生に言われたことを思い出していた。

 ペアダンスで大切なこと。それは⋯⋯。

「相手を思いやること、相手にダンスを楽しんでもらうこと⋯⋯」

 圭介の隣で、里絵はぽつりと応えた。

「その通り。当たり前だけど、ペアダンスは1人では踊れません。2人で楽しく踊って、初めてペアダンスが踊れるの」

 そうだった。圭介は、自分のことだけを考えて踊っていることに気づいた。しかし今は、里絵とペアダンスを踊っているのだ。

「圭介さん。里絵さんのことを、もっと大切にしてあげなさい」

 その通りだった。圭介は里絵の方をちらっと見た。里絵も、圭介の方を見ている。

「さあ、もう一度行くわよ。ほら、お互いに向かい合って」

 圭介と里絵は、再度向かい合い、手をつないだ。そして、互いにホールドの姿勢を取った。

 里絵に、楽しく踊ってほしい。圭介はそう思った。

 曲が鳴り始めた。圭介の体が動く。それに合わせ、里絵がついてくる。里絵の体の動きを感じながら、圭介が次の動きをサポートする。身体が流れるように動く。その流れに合わせ、2人は一歩一歩足を踏み出す。音楽に合わせ、体がスムーズに動いていく。圭介は、里絵の体を支えながら、次々と動きをリードしていった。

 よし、なんとか踊れている。圭介は、そう思った。

 ダンスは、体を回転させるスピンターンに差し掛かった。圭介が里絵の体を支えながら、右に回ろうとした。その時、里絵の右足が圭介の左足に当たった。

「きゃっ!」

 その直後、里絵の体は後ろに傾いた。

「あぶない!」

 圭介は、大きくよろめいた里絵の体を、咄嗟とっさ両腕で支えた。里絵は、なんとか転倒することは避けられた。

「里絵、大丈夫か」

「うん、なんとか⋯⋯」

 圭介は、里絵の体を支えながら、体勢を起こした。

「あなた達、大丈夫?」

 麗子先生は、2人のもとへ駆け寄った。

 なんとか大丈夫です、と圭介は応えた。里絵も、はいと頷いた。

「里絵、ごめん。もうちょっとで怪我けがをさせてしまうところだった」

 圭介は、里絵の方を見つめて言った。

「うん、いいのよ」

 里絵は、圭介の腕につかみながら、自身の乱れた服装を整えていた。

「⋯⋯ありがとう」

 里絵は、圭介に言った。

「映画の美女と野獣のようには、いかないな」

 圭介は、里絵に笑って見せた。里絵も、そうねと笑った。

「麗子先生、もう一度、踊らせてください」

 里絵は言った。麗子先生は心配そうな顔をしていたが、わかりましたと応えた。

「大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫。圭介の方こそ、変に気負いしないで、自身を持ってリードして」

 圭介は、里絵のその言葉を聞いて、頷いた。

 もう一度、2人は向かい合った。お互いの手を取り、体を寄せた。

 曲が流れ始めた。もう一度、2人は音楽に乗った。体が動く流れのままに、ステップを踏む。足の踏み出し、体の動き、それぞれを相手の気持ちに合わせ、2人は流れるように動いた。

 再度、スピンターンの動きに差し掛かった。圭介は、里絵の姿勢を意識した。圭介は両手で里絵を支えながら、体を回転させる。その動きに合わせ、里絵も体を回転させる。2人は互いにホールドを保った。

 今度は、うまくいった。よしっ、圭介は心のなかでそう思った。里絵も、顔が緩んだ。圭介が、ちらっと麗子先生の方を見ると、麗子先生は小さく拍手をしていた。

 2人は、互いを見つめ合った。2人とも、笑っていた。お互いの気持ちに身を任せ、圭介と里絵はフロアを舞った。



「あのさ……。今度、社交ダンスの大会に出てみないか? 近くの文化ホールで行われるみたいなんだ」

 晩ごはんを食べ終えた圭介は、読んでいたダンス雑誌を閉じ、台所で食器を洗っている里絵にそう聞いた。

「え、嫌よ。そんな人様に見られるなんて恥ずかしいじゃない。まだまだダンスも下手だし」

「そうかな。もう俺たち、ダンスを始めて半年ほど経ったし、麗子先生にも怒られることも減ったし。ダンスも楽しめて踊れてるから、ある程度、さまになってると思うけどな」

 ダイニングテーブルに座っている圭介は、里絵の方を見た。困った顔をしながら、洗い物を続けている。

「俺たち、最近ダンスが楽しくなってきただろ? 俺、こんなに何かに没頭できるのって、大学のサッカー部の頃ぶりなんだ。ダンスを見られるのは恥ずかしいけど、でも、1度みんなの前で楽しく踊ってみたいんだ」

 圭介の言葉に、里絵は返事をしなかった。食器がカチャカチャ鳴る音だけが、リビングに響いていた。

 やっぱり、ちょっとわがままだったかな。圭介はそう思い、少しうつむいた。気まずい空気に耐えられず、テーブルに置かれているみかんに手を伸ばし、みかんを1ふさ口に運んだ。

「そんなに、ダンスが好きなの?」

 不意に、里絵が聞いてきた。圭介は、里絵の方を向いた。

「うん⋯⋯。結構、本気なんだ」

 里絵は、圭介の言葉を聞いて、しばらく無言になった。そして、口を開いた。

「仕方ないわね、良いわよ」

「えっ、本当?」

「本当よ。1回だけね。もし上手く踊れなかったら、それ以降は私は出ないからね」

 里絵は、笑って見せた。

「やった! 里絵、ありがとう!」

 圭介は里絵に感謝した。

「じゃあ、早速エントリーしておくよ。そう言えば、次のレッスンは、いつだったっけ」

「えっと、たしか明後日よ」

「あ、そっか。もしかしたら、その日は遅れるかもしれない。出張で、少し遠方に行くんだ」

「あら、そうなの。じゃあ、その日のレッスンはやめておく?」

「いや、レッスンには行きたいんだ。少し休むと、ダンスの動きを忘れちゃうからさ」

「本当に、ダンスに夢中なのね」

 リビングに、2人の笑い声が響いた。

 その矢先のことだった。5月の初め、里絵は職場で同僚とランチをっていた。ランチを済ませた直後、彼女のスマートフォンが鳴った。電話だった。見覚えの無い番号からだった。

 もしもし。そう里絵が応えた。すると、向こうから知らない男性の声が聞こえてきた。

「藤沢里絵さんでしょうか。警察の者です。夫の圭介さんが、交通事故で救急搬送されました」



 夏子が病院に駆けつけると、そこには圭介の母がいた。手術室の前にあるベンチに座り、ハンカチで顔を覆っていた。

「お母さん! 圭介は?」

「ああ、里絵さん……。私がけつけた時には、もうこの中なの」

 里絵は手術室の扉を見上げた。手術中のライトが、赤々といていた。

「もう1時間以上かかってるの。あの子、大丈夫かしら」

 そうつぶやいた圭介の母の眼は少しうるみ、赤くなっていた。

 そんな……。圭介、どうか助かって……。

 2人は無言のまま、ベンチで圭介を待った。たまに里絵が、何か買ってきましょうか、と母に尋ねたが、母は何も要らないと言った。結局、2人はそのまま、黙ってベンチに座っていた。

 手術は3時間にも及んだ。時刻は、夜の0時を回っていた。医師の懸命な手術のおかげで、圭介は何とか一命を取り留めた。手術室からストレッチャーで出てきた圭介は、酸素マスクをつけていた。麻酔のせいか、ぐったりしていた。

「圭介! 大丈夫?」

 里絵と圭介の母は声をかけたが、圭介に反応はなかった。圭介は看護師とともに、そのまま病室に運ばれていった。

「藤沢圭介さんのご家族の方ですね」

 手術着を着た医師が出てきた。50歳ぐらいの男性で、眼鏡を掛けていた。その医師は、塩崎と名乗った。

「はい。圭介の母です。こちらは、息子の妻の里絵さんです」

「そうですか。手術は、無事に終わりました」

「ああ、良かった⋯⋯。先生、ありがとうございます」

「いえ。圭介さん、よく頑張ってくれました」

 そう言い終えたあと、塩崎は少し顔を曇らせた。

「しかし、圭介さんは事故の際、脊髄せきずいに傷を負ってしまいました」

「それは⋯⋯。圭介は、無事なんじゃないんですか? 圭介は、どうなるんですか!?」

 圭介の母は、医師にすがりつくように聞いた。里絵は、黙って話を聞いていた。

「大変申し上げにくいのですが⋯⋯。圭介さんは、自分の足で歩くことは、もうできません⋯⋯」

 まさか、そんな⋯⋯。里絵は声を出せなかった。目の前で泣きながら崩れ落ちる母の姿を、ただ呆然ぼうぜんと見ることしかできなかった。



 圭介が目覚めたのは、次の日の昼前だった。病室で目覚めた圭介は、天井をぼうっと眺めていた。

「ここは、どこだ⋯⋯?」

 体中が重く、ひどくだるい。まるで自分の体ではないようだった。少しずつ意識がはっきりとしてきたため、圭介は周りを見回した。横を見ると、窓から差し込む光が見えた。青々とした空が覗き込んでいる。その窓から、心地よい風が吹き込んでいた。

 圭介は、窓と反対側の方に首を向けた。そこには、1人の女性が、自身のベッドに頭を乗せて、寝ている姿があった。

「里絵⋯⋯。里絵なのか?」

 圭介は、そう呼びかけた。寝ている女性は、その言葉に気が付いた様子で、ゆっくり頭を上げた。

「あっ、圭介。大丈夫?」

「ああ、なんとか大丈夫みたいだ。あまり記憶がないんだけど、ここは病院だよな?」

「うん、そうよ」

 里絵は、ずっとそばにいてくれたんだな。圭介は、そう思った。

「俺、ずっと寝てたんだな。今、何時なんだ?」

 そう言いながら、圭介は自分の体を起こそうとした。しかし、いつものように体が動かない。動かないというより、体に、特に下半身に感覚がなかった。

「あれ、おかしいな」

 そう言いながら、圭介は何度も起き上がろうと試みた。しかし何度やっても、起き上がることができない。

「里絵。なんだか体がおかしいんだ。うまく起き上がれないよ」

 そう言いながら、圭介は里絵の方を見た。里絵は、圭介の顔を見ながら、涙を流していた。

「おい、なんだよ。なんで泣いてるんだよ」

 圭介は、泣いている里絵を不思議そうに見つめた。

「圭介⋯⋯。よく聞いてほしいの⋯⋯。あなたは、交通事故にあったの。それで、病院の先生が頑張って治療してくれたの。そして、なんとか命は助かったの」

 圭介は、里絵の言葉が耳に入ってこなかった。里絵は続けた。

「でも⋯⋯。でもね⋯⋯。怪我の状態がひどくて⋯⋯。特に背中の怪我がひどくて⋯⋯。足が、動かせなくなっちゃったんだって」

 里絵は泣きながら、それでも圭介の方をまっすぐ見つめて言った。

 そんな⋯⋯。うそだろ⋯⋯。圭介は、言葉が出なかった。里絵の言ったことが、信じられなかった。

 圭介は、恐る恐る自分の足を触ってみた。感覚がない。どこを触っても、どんなに強く叩いても、全く何も感じなかった。俺の足は、どうなってしまったんだ。

 圭介は、愕然とした。気がつくと、涙が流れていた。圭介は、今の自分の状態を素直に受け止められなかった。



 里絵は、圭介が入院してから毎日お見舞いに来た。圭介は、いつも仰向けに寝ていた。寝返りを打てないのだ。

「圭介、来たわよ。具合は大丈夫?」

「ああ、里絵。ありがとう。大丈夫、元気だよ」

「そう、良かった」

 里絵はそう言って、圭介のベッドのもとへ向かった。ベッドの横にあるテーブルに、持っていたビニール袋をそっと置いた。ビニール袋の中には、先程コンビニで買ったみかんゼリーが入っている。

 里絵は、圭介のもとへ近寄り、背中に手を回した。そして支えながら体を起こした。

「いつも、ごめん。仕事で疲れているのに、お見舞いに来てくれて」

「何言ってるの。今は、そんなこと考えなくていいの。それより、リハビリはどうなの?」

「うん、なんとか頑張ってるよ。ここの理学療法士さん、厳しいんだよ。こうしなさい、ああしなさいってうるさくてさ」

「あはは。いいじゃない。それぐらい厳しい方が、圭介には良いんじゃない?」

「そうかもしれないな。実はこの後、歩行訓練があるんだよ」

「そうなのね。⋯⋯それ、私も付き合ってもいい?」

 いいけど⋯⋯、と圭介は声を弱めて言った。そして、少し間を置いてから応えた。

「見ても辛くなるだけだよ」

 里絵は、圭介の返答に毅然と応えた。

「何言ってるの。私は大丈夫だから。どこでするの?」

「機能訓練室っていう部屋があるんだ。そこで毎回やってるんだ。もうそろそろ行かなくちゃ」

 圭介はそう言うと、自身の体をひねって、ベッドから降りようとした。里絵は圭介の体を支えようとした。

「大丈夫だよ。自分でやってみたいんだ」

 圭介は、里絵のサポートをせいした。里絵は、黙って頷いた。

 圭介は、両腕に力を入れて、自身の足を持ち上げた。右足をゆっくりベットの横に降ろした。そして、次に左足を持ち上げ、右足と同じようにベットの横に降ろした。次に、ベッドの横についてある手すりに寄り掛かりながら、圭介は近くに置いてあった車椅子に手を伸ばした。体の重心を、ベッドから車椅子の方に移す。車椅子のひじ掛けに両腕を移し、圭介は身体を反転させた。そして、ゆっくり車椅子に座った。この時点で、圭介の息はすでにがっていた。たったこれだけの動作で、数分かかった。そんな様子を、里絵はただただ見守っていた。

 圭介と里絵は、機能訓練室へ向かった。部屋は広かった。中には、すでに3、4名の患者がいた。ベッドや平行棒、マット等の機器を使って、それぞれが訓練を行っていた。圭介と里絵の姿を見るなり、1人の若い男性がが近づいてきた。

「藤沢さん、こんにちは。体調はいかがですか」

「はい、お陰様かげさまで大丈夫です。今日も、よろしくお願いします」

「そうですか、良かったです。こちらこそ、よろしくお願いします。今日も、頑張りましょうね」

「わかりました。あっ、こっちは妻の里絵です。同席しても良いですか」

「こんにちは、里絵さん。私は、理学療法士の加山と申します。藤沢圭介さんのリハビリをお手伝いしています。どうぞこちらへ」

 そう言うと、加山は里絵を部屋の隅にある椅子に案内した。

「加山さん。うちの主人を、いつもありがとうございます。あの⋯⋯、圭介をよろしくお願い致します」

 里絵は、加山に頭を下げた。

「いえいえ。旦那さん、いつも頑張っていますよ。今日は、その姿を直接見てあげてください」

 そう言うと、加山は圭介の方に向かっていった。

 圭介は、平行棒の前に車椅子を止めた。加山は圭介の側で、両腕を差し出して立っている。車椅子が動かないように、圭介は手でロックを掛け、肘掛けに両腕を置いた。そして、身体を前に倒し、力いっぱい体を持ち上げた。両手の前腕に、筋が入る。圭介の顔は強張こわばり、だんだん赤くなった。体を直立させたところで、加山が圭介の体を支えた。圭介は、片手を肘掛けから離し、その手を平行棒に移した。そして、もう反対の手も同じように平行棒に置いた。圭介の息は、すでに揚がっていた。

 加山は、ゆっくりと圭介の体から手を離した。圭介は、両腕の力だけで全身を支えている格好になった。

「さあ、藤沢さん。1歩、踏み出してみましょう」

 加山が言った。圭介は、はいと応えた。しかし、なかなかその1步が踏み出せなかった。圭介の両腕は、小さく震えていた。加山は何も言わず、ただ圭介の側で補助にてっしている。

 しばらくして、圭介は1步踏み出した。

「ぐっ⋯⋯」

 うめくような声が、圭介の口からもれる。10センチメートルほど、右足が動いた。続けて、左足も同じぐらい前に進んだ。圭介は、はぁ、はぁ、と肩で息をしている。再度、右足を1步出そうとした瞬間、圭介の左手が平行棒から滑り落ちた。

「あっ!」

 里絵は声を上げた。近くにいた加山が、咄嗟に圭介の体を支えた。圭介は、なんとか転倒はまぬがれた。

「藤沢さん、大丈夫ですか? ちょっと休憩しましょうか」

 加山は落ち着いた声で、優しく圭介に言った。

「はあ、はぁ⋯⋯。わかりました、すみません⋯⋯」

 圭介は、汗だくになっていた。そんな様子を見て、里絵は涙があふれそうになった。里絵が取り乱しそうになっているとき、不意に圭介が里絵に言った。

「やっぱり、歩行訓練は難しいな。里絵に、もっとスムーズに歩いてるところを見せて、安心させてやしたかったんだけどな⋯⋯」

 顔中、汗でいっぱいになりながら、苦笑いをしていた。

 里絵は、とっさに瞳をハンカチで抑えた。すぐに言葉を返すことができなかった。

 里絵は、圭介の表情を見て、怒りと悲しみの感情が込み上げてきた。同時に、涙があふれそうになった。どうして、こんなことになってしまったのか。こんなに真面目な人なのに……。こんなに頑張っているのに……。なぜ、圭介がこんな目に逢わなければならないのか。しかし、この感情を、誰にもぶつけることはできなかった。



 その後も、圭介のリハビリは続いた。里絵は、何度か圭介のリハビリに付き合った。圭介は、里絵の前では一切弱音を吐かなかった。悲しい顔も見せなかった。しかし、里絵はわかっていた。本当は、泣き出したくなるほど、辛いはずだ。

 里絵は仕事の合間に、圭介の状況に関する様々な専門書を読んでいた。読めば読むほど、圭介の置かれた状況の悲惨さが身にみてくる。しかし、圭介はいつも笑顔だった。

 2ヶ月間のリハビリを終え、8月のなかばに圭介は退院した。

「塩崎先生。加山さん。ありがとうございました。本当に、お世話になりました」

 病院の前で、圭介と里絵は深々と頭を下げた。塩崎と加山も、2人に頭を下げた。


「いえいえ。圭介さん、これから普段の生活に戻りますが、色々と困難なこともあると思います。どうか、くじけないでください。里絵さん、圭介さんを支えてあげてください」

 塩崎が言った。

「圭介さん。お家でも、少しずつで良いので、リハビリ頑張ってくださいね」

 続けて、加山が言った。

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 車椅子に乗った圭介は、改めて頭を下げた。里絵も、圭介にならって頭を下げた。



 車椅子での実生活は、想像以上に大変だった。ベッドから起き上がるとき、着替えるとき、顔を洗うときなど、今まで何気なくしていたことが、うまく出来ない。すべての作業に、里絵のサポートが必要だった。圭介は、それが心苦しかった。

 今まで自分1人でこなせたことが出来なくなったということが、何よりも辛かった。

 退院して1週間後、圭介は仕事に復帰した。勤務時間を短縮してもらい、できるだけ体に負担をかけないよう、会社が配慮してくれた。

 仕事を終えて圭介が帰ってからは、リハビリの時間だった。上半身の筋力トレーニングや、下半身を動かす練習など、加山さんが教えてくれた方法を色々とやった。それでも、なかなか下半身は思うようには動かせなかった。

 次第に、圭介は自分の部屋にもるようになった。里絵も、そんな圭介を、ただ見守ることしか出来なかった。

 ある日のことだった。里絵の仕事が早く終わり、自宅で圭介の部屋を掃除していた。ふと、圭介のベッドのそばにあるゴミ箱を覗いた。何かの本が入っていた。ダンスの雑誌だった。里絵は何もせず、そのまま圭介の部屋を出た。

 圭介が交通事故に遭ってから、社交ダンスの話は一切しなくなった。里絵から社交ダンスのことなど、口にすることはできなかった。

 いつしか、2人の会話の中に、社交ダンスという言葉は出てこなくなっていた。



 ある休日の昼過ぎ、家のインターホンが鳴った。里絵が玄関の戸を開けると、そこには麗子先生が立っていた。

「あら、里絵さん。こんにちは」

「あっ、麗子先生。ご無沙汰しています」

 里絵はそう応えた。

「⋯⋯この度は、大変だったわね」

 麗子先生は、沈んだ顔をした。以前、里絵の方から圭介のことで、麗子先生に連絡をしていたのだった。

「わざわざ、ありがとうございます。どうぞ上がってください」

 里絵は、遠慮する麗子先生を家のリビングへ案内した。麗子先生は、里絵に促されたまま、上着を脱ぎながらリビングの椅子に腰掛けた。

「秋が深まってきたわね。そういえば、圭介さんは? お姿が見えませんが」

「圭介は、近くの公園にふらふら出かけてます。紅葉を見に行くとか何とか言って」

 そうなのね、と麗子先生は応えた。

「すみません、麗子先生。挨拶にも行けず⋯⋯。今、お茶を出しますね」

 里絵は、お茶を準備しようと台所へ向かおうとした。それを、麗子先生は制止した。

「どうぞ構わないで。そんなことより、里絵さん、大丈夫?」

 麗子先生の言葉に、里絵はその場に立ちすくんだ。

「知ったような口をくことを、先におびするわ。圭介さんが大変なのは、十分わかっています。でも、私は里絵さんも心配なのよ」

 里絵は俯いたまま、麗子先生の言葉を聞いていた。

「あなたも、無理してるんじゃない?」

 麗子先生の言う通りだった。圭介が一番つらいのは、近くで見守っている里絵がよく分かっている。そんな圭介に、少しでも余計な心配をかけさせたくない。その思いで、里絵はここ数ヶ月、圭介の前ではずっと気丈きじょうに振る舞っていた。

 里絵は、麗子先生の向かいの椅子に座った。

「私⋯⋯。私⋯⋯、どうしたら良いのか、わからないんです。圭介が辛いのは、分かっています。でも、私もつらいんです。」

「実は私、若い頃に夫を亡くしたの」

 里絵は、麗子先生の急な告白に、驚いた。そして、以前に圭介から聞いていた、スタジオに飾られている写真のことを思い出した。

「あの……。その方って、スタジオに飾られている写真の、麗子先生と一緒に踊っている方ですか?」

「あら、知ってるのね。そう、その人よ」

 やはりそうだったのか。里絵は麗子先生の話に、耳をかたむけた。

「夫とは、ダンススタジオで出会ったの。それまでペアに恵まれなかった私は、あの人となら、私らしく自由に踊ることができたの。いつもわがままに踊る私のことを、優しくサポートしてくれたわ」

 麗子先生は、昔を思い出すように話した。

「あの人は、ダンスにとても真っ直ぐだった。ペアになって、いろいろな大会に出て、私たちはどんどん成績を残していった。そして、スタジオの先生に、統一全日本ダンス選手権に出てみないかと言われたの。日本最高峰さいこうほうのダンス大会よ」

 麗子先生は、そんなにすごい人だったんだ。里絵は驚いた。 

「大会に向けて、毎日練習したわ。優勝して日本一になろう、2人でそう言い合っていたわ。でも、そう意気込んで練習していた矢先のことよ。急に、夫がうまく踊れなくなったの。足に違和感がある、そう言い出したの」

 そこまで話して、麗子先生は少し俯いた。

「病院の先生に、骨肉腫こつにくしゅだと言われたわ。骨に発生するがんのことよ。今となっては薬などを使って、比較的治りやすい症状みたいだけど、当時は、発症した部分を切除するしか方法が無かったの」

 麗子先生は、淡々と話を続けた。里絵は、黙って話を聞いていた。

「夫が発症した場所は、右膝。知ったのは、あの写真を撮った半年後のことよ」

 そうだったのか。写真の中で華麗に踊っている2人に、そんな悲劇が訪れていたなんて……。

「骨肉腫なんて言葉、私、聞いたことなかった。それで、病院の先生に言われてから、私なりに色々と調べたわ。発症を抑える食事や、進行を遅らせる運動方法。夫と一緒に、できることは全てやったわ。………でも、症状は一向に悪くなるばかりだった」

 麗子先生は、天井を仰いだ。そして、しばらくして言った。

「そして、切断することにしたの。夫の右足を。2人でいっぱい話し合って、決めたことよ」

 里絵は、俯いていた。

「それからは、夫は車椅子で生活することになったわ。2人で二人三脚で、支え合って暮らしたわ。でも、その1年後、夫の肺がんが発覚したの。以前のがん細胞が、肺に転移していたのよ。私たちは、てっきり完治したと思っていたわ」

 麗子先生はそこまで言って、口を閉じた。少しの間、2人の間に沈黙が流れた。

「それから半年後、夫は亡くなったの⋯⋯。ダンスに生きた人生だったわ」

 麗子先生は、リビングの窓から差し込む秋の陽光ようこうを眺めた。 

「一緒に統一全日本ダンス選手権に出るという約束、果たせなかったな⋯⋯」

 里絵の知らない話だった。里絵は、麗子先生に掛ける言葉が見つからなかった。

「ごめんね……。里絵さんが悲しんでいるときに、する話じゃなかったわね。もう40年も前のことよ」

 里絵は顔を横に振った。そして、ゆっくり口を開いた。

「あの、私……。圭介に何かできることはあるんでしょうか。あるのなら、それをしてあげたいんです」

 麗子先生は、里絵を真っ直ぐに見つめた。

「そうね⋯⋯。今まで通り、あなたらしく、ただそばにいてあげなさい」

 麗子先生は、優しく言った。

「無理に何かをしてあげようと考えなくていい。無理に気をつかわなくていい。里絵さんは、里絵さんのままで良いの。ただ側にいてあげることが、きっと圭介さんのためにもなるから」

 ありがとうございます。里絵は、麗子先生に頭を下げた。どうか無理をしないで、麗子先生はそう言った。



「今日も、仕事が遅くなりそうなんだ」

 リビングでネクタイをめながら、圭介が言った。

「そうなの⋯⋯。大丈夫? ここ1ヶ月ぐらい、残業が続いてるみたいだけど」

「えっ、ああ⋯⋯。まあ、大丈夫だよ」

「本当に? 会社の方も、圭介が大変なこと分かってるだろうから、上司に言ったら考慮してくれると思うけど」

 里絵は、朝食を済ませた2人分のお皿を、台所に運びながら言った。

「いや、まあ、そうなんだけど⋯⋯。俺は、大丈夫だからさ。せっかくのクリスマスなのに、ごめん」

 圭介は、里絵に頭を下げた。

「そう⋯⋯、わかったわ。お家のことは、気にしなくて良いから。あまり、無理しないでね」

「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」

「うん、いってらっしゃい」

 圭介はそう言うと、車椅子を押して外に出ていった。里絵は、そんな圭介の背中を見守っていた。



 時刻は5時を回っていた。里絵は時計を一瞥いちべつし、自分のデスクの上にある資料を片付け始めた。同僚の社員も、次々に帰り支度したくをし始めていた。

「よし、帰ろうかな」

 そうつぶやいて里絵が席を立とうとしたとき、里絵のスマートフォンが鳴った。

「何だろう」

 里絵はスマートフォンを見た。1通のメッセージが届いていた。圭介からだった。

『北見ダンススタジオで待っています』

 圭介からのメッセージは、それだけだった。

 里絵は初め、メッセージの内容がつかめなかった。

「えっ、どういうこと?」

 里絵は、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。そして、疑問をいだいたまま、急いで職場をあとにした。

 外は、雨が降っていた。里絵は、濡れないように傘を強く握りしめながら走った。街はクリスマスのイルミネーションで、きらきらと輝いていた。どこからか、軽快な音楽が響いていた。しかし、里絵はそんな様子に脇目も振らずに、夢中で走った。

 駅で電車を待っている間も、電車に乗っている間も、里絵は何度もスマートフォンを見返した。

 なぜ、北見ダンススタジオなのか。そこに行けば、何があるのか。

 北見ダンススタジオがある駅に着いた。改札を出ると、里絵は商店街へ向かった。ここの商店街でも、サンタクロースやトナカイ、リーフなどにぎやかに彩られていた。家族連れやカップルたちも、みんな楽しげに歩いていた。そんな人々の間をすり抜けながら、里絵は全力で走った。体が熱くなってきた。雨に濡れても、ハイヒールが脱げそうになっても、それでも里絵は走った。

 北見ダンススタジオのあるビルに着いたとき、里絵はすでに息ががっていた。肩で息を切りながら、里絵はビルを見上げた。スタジオの窓から、薄くいた明かりが見える。窓に、何か紙がられていた。「メリー・クリスマス」と書かれていた。

 里絵は、ビルの入口に入った。中は静かだった。階段で、スタジオのある2階に上がった。里絵は、スタジオの前の扉に立った。外から中を覗くと、中は薄暗く明かりが灯っていた。

 里絵は、ゆっくりスタジオの扉を開いた。

「あの⋯⋯、こんばんわ」

 里絵は小さい声で挨拶をした。しかし、何の返事もなかった。フロアは、しんと静まりかえっていた。

 すると、フロアの奥の方から、ゴムがれる音が聞こえてきた。どこか、聞き慣れた音だった。里絵は、音のする方を向いた。

 奥の部屋から出てきたのは、圭介だった。スーツ姿だった。

「圭介⋯⋯」

 里絵は、思わず声が出た。

「里絵⋯⋯。急に驚かせて、ごめん。来てくれて、ありがとう」

 里絵は、現状が理解できなかった。

「圭介、これは何なの? メッセージにあった、北見ダンススタジオで待っていますって、どういうこと?」

 里絵は、圭介に聞いた。圭介は、静かに口を開いた。

「里絵⋯⋯。聞いてほしいことがあるんだ。俺の気まぐれで、社交ダンスに付き合ってくれて、ありがとう。そして、俺がこんな足になっちゃって、今までみたいには踊れなくなっちゃって、ごめん」

 里絵は、顔を横に振った。

「何言ってるのよ。圭介が謝ることなんて無いよ。ダンスが踊れなくなっちゃったのは、圭介のせいじゃない。圭介と一緒に踊れて、私、楽しかったよ」

「⋯⋯ありがとう。そう思ってくれていて、良かった」

 圭介は真っ直ぐ里絵を見つめて、続けた。

「あのさ⋯⋯。もう1つ、俺のわがままを聞いてほしいんだ。もう1度、俺とダンスを踊って欲しいんだ」

 圭介の顔は、真剣だった。

「えっ、今? ここで?」

 里絵は戸惑とまどいながら聞いた。圭介は、黙って頷いた。

「でも、足が⋯⋯」

「大丈夫。仕事の帰りに、実はこのスタジオで練習したんだ。残業って嘘をついていて、ごめん」

 知らなかった。圭介は私に内緒で、こっそり北見ダンススタジオに通っていたのだった。ここ最近の残業は、実はダンスの練習をしていたのだった。車椅子での練習は、大変だっただろう。普段の生活でさえあつかいが難しい車椅子なのに。そう思うと、里絵は胸が一杯になった。

「いいのよ。正直に言ってくれて、ありがとう。でも私、うまく踊れるかな。もう何ヶ月も踊っていないし」

 里絵が躊躇ためらっていると、部屋の奥から、誰かが現れた。麗子先生だった。

「ごめんなさいね、里絵さん。急に呼び出したりして。圭介さんね、今日のために1ヶ月間、真面目まじめに練習していたわ。雨の日も風の日も、スタジオが休みの日も、無理やり押しかけてね」

 麗子先生はそう言うと、圭介の方を見た。圭介は恥ずかしそうに、頭をいた。

「ほら、里絵さん。車椅子でペアダンスで大切なこと、覚えてる?」

 里絵は思い出した。ペアダンスで大切なこと。それは⋯⋯。

「里絵⋯⋯。俺と、踊ってくれませんか?」

 そう言うと、圭介は左手を差し出した。

「⋯⋯はい」

 里絵は圭介の左手を、右手で握った。

 フロアが暗くなり、スポットライトが2人をらした。そして、聞きなれたメロディが流れ始めた。

「あっ、この曲⋯⋯」

 流れたのは、「美女と野獣」だった。里絵の好きな曲だった。

「里絵の好きな曲だよ。この曲で踊りたいんだ」

 里絵は、瞳をうるませた。圭介の優しさが、心に響いた。

 圭介は、メロディに合わせて車椅子を動かした。その動きに合わせて、里絵も動いた。2人は、お互いの気持ちを確かめ合うように踊った。

「だめ。何ヶ月も踊ってないから、ステップ忘れちゃった」

「良いんだよ。里絵、上手だよ」

 メロディがフロアに流れる。踊っているとき、ちらっと麗子先生の姿が見えた。麗子先生は、笑顔だった。踊りながら、里絵は涙があふれてきた。涙が止まらなかった。涙で前がはっきり見えなくなる中で、ただ、圭介の優しく笑う顔が心に残った。

 スーツ姿の2人は、フロアを自由に舞った。優しさに包まれた、夢のような時間だった。

 いつの間にか、曲は終わっていた。2人は手をつないだまま、その場で動かなかった。

「ごめん、もっと軽やかに踊れたら良かったんだけど……」

「良いよ。私、とても楽しかった」

「俺もだよ、里絵。⋯⋯いつも、ありがとう」

 里絵は、泣きながら無言で頷いた。

「今でも、愛しています」

 圭介と里絵は、いつまでも手を離さないでいた。

 いつしか外の雨は雪に変わり、街に静かに降り積もっていた。



「おーい。もう準備できたか?」

 エンジンのかかった車の運転席から、圭介は顔を出して言った。

「ごめんごめん。お待たせ」

 里絵は、6歳の娘の笑舞えまと共に、後部座席に乗り込んだ。

「笑舞、いよいよだな。気分はどうだ?」

「うーん。ちょっと、こわい」

 笑舞は、少し俯いて応えた。

「大丈夫よ。ほら、ダンスで大切なことは?」

 里絵が優しく笑舞に尋ねた。

「楽しく踊ること!」

 笑舞は、元気にそう応えた。

「そうよ。ダンスは、楽しく踊れば良いのよ」

 里絵は、笑舞の頭をそっとでながら言った。

「そうだよ。楽しく踊れば良いんだよ」

 圭介も、後ろを振り向きながら、笑って応えた。

 車を走らせて、街の文化ホールに着いた。文化ホールには、大きく「小学生アマチュアダンスコンクール」という垂れ幕が掛けられていた。3人は車を降り、ホールの中に入った。中に入ると、「出場者控ひかえ室」という看板が見えた。控え室の前で、圭介と里絵は笑舞を見つめた。

「笑舞、《いつもニコニコ笑顔》だぞ」

「そうよ、笑舞。《いつもニコニコ笑顔》よ」

「うん、わかった! じゃあ、行ってくる」

 圭介と里絵は、笑舞が控え室に走り去っていくのを見送った。

「笑舞、大丈夫かな⋯⋯」

「大丈夫よ。あの子は私に似て、強いから」

 そう言いながら2人が振り向くと、遠くの方で1人の女性が会場内に向かって歩いていくのが見えた。麗子先生だった。

「あっ、麗子先生。おはようございます」

 2人は、麗子先生に声をかけた。

「あら、圭介さんと里絵さん。おはよう」

「うちの笑舞が、いつもありがとうございます」

 圭介と里絵は、頭を下げた。

「ほんとに、そうよ。親子2代に渡って習いに来るなんて。私は、老後をゆっくり過ごしたいのに」

「それは、どうもすみません」

 圭介は、苦笑いした。それを見て、ふふっと麗子先生は軽く微笑んだ。

「笑舞ちゃんは、大丈夫よ。里絵さんに似て、強い子だから」

「やっぱり、そうですよね」

「ちょっと、2人して同じこと言わないでくださいよ」

 3人は笑った。そして、またよろしくお願いします、と麗子先生に会釈えしゃくをし、圭介たちはその場を後にした。

 会場に入り、圭介と里絵は自分の席を探した。席を見つけると、圭介は歩行器を横に置き、自分の席に着いた。里絵もその横の席に着いた。しばらくして、コンクールが始まった。

「えーっと、笑舞の出番はいつだったっけ」

 圭介は、入口でもらったコンクールのプログラムを見ている。

「もうすぐよ」

 里絵は、そう応えた。

 そして、いよいよ笑舞の出番が来た。

「何だか、こっちが緊張してきた⋯⋯」

「何言ってるのよ。いつもニコニコ笑顔だよーって言ってたのは誰?」

「そうだけど⋯⋯」

 圭介と里絵は、舞台の方を見た。

「頑張ってね、笑舞」

「そうだな。頑張れよ、笑舞」

 圭介と里絵は、互いの手を握り、緞帳どんちょうの上がる舞台を優しく見つめた。









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