生活の残り香
冷蔵庫のモーター音が、夜の底で一定のリズムを刻んでいる。
それは心臓の鼓動より少し遅くて、呼吸より少し長い。
この部屋でいちばん生きているのは、たぶんそれだ。
テーブルの上に置きっぱなしのカップに入った氷が、もう溶けていた。
グラスの底で水滴が光るのを見ながら、わたしはずっと、指先でその輪郭をなぞっていた。
人差し指を伝う冷たさが、まるで記憶を引き戻すみたいだった。
テレビは消えている。
けれど液晶には、うっすらと自分の姿が映り込んでいる。
疲れた顔だ。
「疲れた」という言葉の中に含まれる、すべての意味を詰め込んだような顔。
眠りたいのに眠れず、忘れたいのに忘れられず、
笑いたいのに口角が重くて持ち上がらない顔だ。
壁際に置いた観葉植物が、少しだけ枯れていた。
水をやることを忘れた日々の積み重ねが、そのまま葉の色になって表れている。
緑色が失われていく様を見ていると、
人の心も同じように乾くのだと思う。
手を伸ばせば、救えたかもしれないものを、
気づかないふりをして放置してしまう。
そんなことばかり、繰り返してきた。
玄関の方から、わずかな風が入ってくる。
ドアの隙間を通る空気の音が、まるで誰かが話しかけているように聞こえた。
「まだ、そこにいるの?」
そんな声を幻聴のように受け取りながら、
わたしは返事をしないまま、息を殺した。
部屋の中に、人の気配はもうない。
けれど、靴箱の上には、まだあなたのライターが残っている。
銀色の表面には、細かい傷がいくつも刻まれていて、
指先で触れると、その傷のひとつひとつが時間のように感じられる。
最後に火をつけたのは、いつだったか。
もう思い出せない。
けれど、火花を散らすたび、あなたの手元が脳裏に浮かぶ。
煙草の煙と、ため息の区別がつかない夜のことも。
ベランダの外では、遠くの踏切が鳴っている。
遮断機が下りる音がして、そのあとに列車の重たい通過音。
それを聞くたびに思う。
この街は、誰かを運び去るためにできているのかもしれない、と。
残された人間はいつも、足元のレールの音だけを聞いて、
遠ざかる影を想像している。
冷えた空気が肌に触れるたび、時間が進むのを感じる。
生きているというのは、たぶんそういうことなのだ。
誰もいなくなっても、
家具が少しずつずれていくように、
記憶の位置もゆっくりと動いていく。
机の上のノートを開く。
書きかけの文字が並んでいる。
あなたに宛てた手紙のようで、日記のようでもある。
途中でペンを置いた跡が、インクの濃淡でわかる。
そのとき、どんな感情で書いていたのかを、もう思い出せない。
「さよなら」という言葉の前に、何を書こうとしていたのか。
いくら考えても、そこだけが抜け落ちている。
天井の明かりを落とす。
代わりに、デスクライトを点ける。
柔らかな光が部屋の一角だけを照らして、
まるで舞台のワンシーンみたいに見えた。
その真ん中に座っている自分が、
少しだけ滑稽に思えた。
外では雨が降り出していた。
ガラスに当たる水音が、規則的で、どこか慰めのようでもあった。
あなたがいた頃は、雨の日が嫌いだった。
出かけるのが億劫で、髪も服も濡れるのが嫌で、
何もかも中途半端になる気がしていた。
でも今は、雨の音だけが世界とつながっている気がする。
誰もいない夜に降る雨は、
わたしの代わりに泣いてくれているような気がした。
机の隅に置かれたカメラ。
あなたが撮ってくれた写真が、まだ中に残っている。
電源を入れると、
液晶の中に、笑っている自分が映った。
見知らぬ場所、見知らぬ表情。
なのに、確かにわたしだ。
その笑顔が、今の自分よりもずっと遠い存在のように感じられて、
胸の奥が静かに痛んだ。
もう一度シャッターを切る。
暗い部屋の中、
レンズの向こうで自分がぼやける。
光が足りない。
でも、それでいいと思った。
鮮明な記憶よりも、滲んだままの方が優しいこともある。
雨が止んだあと、
窓の外がわずかに明るくなる。
朝が来るのを、誰よりも遅く知る部屋。
それでも、確かに日は昇る。
わたしの時間も、ほんの少しだけ前に進む。
テーブルの上のグラスを片づけようとしたとき、
底に残った水が光を反射した。
それが、まるで小さな星みたいに見えた。
この部屋に、星がある。
そう思ったら、少しだけ救われた気がした。
カーテンを開ける。
街の音が流れ込む。
バスのブレーキ音、誰かの笑い声、信号の切り替わる電子音。
この世界は、まだ動いている。
わたしも、たぶんその中で生きている。
誰かに会いたいとは思わない。
けれど、誰かの言葉で救われたい。
そんな曖昧な場所で、今日も息をしている。
そして、またひとつ日が昇る。
どんな夜のあとでも、
光はちゃんとやってくる。
それを知っている限り、
この部屋の静けさも、悪くはない。




