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生活の残り香

作者: P4rn0s
掲載日:2025/11/08

冷蔵庫のモーター音が、夜の底で一定のリズムを刻んでいる。

それは心臓の鼓動より少し遅くて、呼吸より少し長い。

この部屋でいちばん生きているのは、たぶんそれだ。


テーブルの上に置きっぱなしのカップに入った氷が、もう溶けていた。

グラスの底で水滴が光るのを見ながら、わたしはずっと、指先でその輪郭をなぞっていた。

人差し指を伝う冷たさが、まるで記憶を引き戻すみたいだった。


テレビは消えている。

けれど液晶には、うっすらと自分の姿が映り込んでいる。

疲れた顔だ。

「疲れた」という言葉の中に含まれる、すべての意味を詰め込んだような顔。

眠りたいのに眠れず、忘れたいのに忘れられず、

笑いたいのに口角が重くて持ち上がらない顔だ。


壁際に置いた観葉植物が、少しだけ枯れていた。

水をやることを忘れた日々の積み重ねが、そのまま葉の色になって表れている。

緑色が失われていく様を見ていると、

人の心も同じように乾くのだと思う。

手を伸ばせば、救えたかもしれないものを、

気づかないふりをして放置してしまう。

そんなことばかり、繰り返してきた。


玄関の方から、わずかな風が入ってくる。

ドアの隙間を通る空気の音が、まるで誰かが話しかけているように聞こえた。

「まだ、そこにいるの?」

そんな声を幻聴のように受け取りながら、

わたしは返事をしないまま、息を殺した。


部屋の中に、人の気配はもうない。

けれど、靴箱の上には、まだあなたのライターが残っている。

銀色の表面には、細かい傷がいくつも刻まれていて、

指先で触れると、その傷のひとつひとつが時間のように感じられる。

最後に火をつけたのは、いつだったか。

もう思い出せない。

けれど、火花を散らすたび、あなたの手元が脳裏に浮かぶ。

煙草の煙と、ため息の区別がつかない夜のことも。


ベランダの外では、遠くの踏切が鳴っている。

遮断機が下りる音がして、そのあとに列車の重たい通過音。

それを聞くたびに思う。

この街は、誰かを運び去るためにできているのかもしれない、と。

残された人間はいつも、足元のレールの音だけを聞いて、

遠ざかる影を想像している。


冷えた空気が肌に触れるたび、時間が進むのを感じる。

生きているというのは、たぶんそういうことなのだ。

誰もいなくなっても、

家具が少しずつずれていくように、

記憶の位置もゆっくりと動いていく。


机の上のノートを開く。

書きかけの文字が並んでいる。

あなたに宛てた手紙のようで、日記のようでもある。

途中でペンを置いた跡が、インクの濃淡でわかる。

そのとき、どんな感情で書いていたのかを、もう思い出せない。

「さよなら」という言葉の前に、何を書こうとしていたのか。

いくら考えても、そこだけが抜け落ちている。


天井の明かりを落とす。

代わりに、デスクライトを点ける。

柔らかな光が部屋の一角だけを照らして、

まるで舞台のワンシーンみたいに見えた。

その真ん中に座っている自分が、

少しだけ滑稽に思えた。


外では雨が降り出していた。

ガラスに当たる水音が、規則的で、どこか慰めのようでもあった。

あなたがいた頃は、雨の日が嫌いだった。

出かけるのが億劫で、髪も服も濡れるのが嫌で、

何もかも中途半端になる気がしていた。

でも今は、雨の音だけが世界とつながっている気がする。

誰もいない夜に降る雨は、

わたしの代わりに泣いてくれているような気がした。


机の隅に置かれたカメラ。

あなたが撮ってくれた写真が、まだ中に残っている。

電源を入れると、

液晶の中に、笑っている自分が映った。

見知らぬ場所、見知らぬ表情。

なのに、確かにわたしだ。

その笑顔が、今の自分よりもずっと遠い存在のように感じられて、

胸の奥が静かに痛んだ。


もう一度シャッターを切る。

暗い部屋の中、

レンズの向こうで自分がぼやける。

光が足りない。

でも、それでいいと思った。

鮮明な記憶よりも、滲んだままの方が優しいこともある。


雨が止んだあと、

窓の外がわずかに明るくなる。

朝が来るのを、誰よりも遅く知る部屋。

それでも、確かに日は昇る。

わたしの時間も、ほんの少しだけ前に進む。


テーブルの上のグラスを片づけようとしたとき、

底に残った水が光を反射した。

それが、まるで小さな星みたいに見えた。

この部屋に、星がある。

そう思ったら、少しだけ救われた気がした。


カーテンを開ける。

街の音が流れ込む。

バスのブレーキ音、誰かの笑い声、信号の切り替わる電子音。

この世界は、まだ動いている。

わたしも、たぶんその中で生きている。


誰かに会いたいとは思わない。

けれど、誰かの言葉で救われたい。

そんな曖昧な場所で、今日も息をしている。


そして、またひとつ日が昇る。

どんな夜のあとでも、

光はちゃんとやってくる。

それを知っている限り、

この部屋の静けさも、悪くはない。

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