4.新しい生活
朝、日の光がカーテンからこぼれるているのを確認すると私は跳び起きた。
鏡台の前で寝癖を手櫛で整えてから部屋を後にする。
セイルさんが起きる前に昨日のお礼として掃除でもしようと、足音を立てずにリビングへと向かったが、驚くことにセイルさんは起きていてキッチンの前でなにかをしていた。
私が疲れ切って寝坊してしまったのだとあたふたしていれば「俺はいつもこの時間には起きてるから気にするな」と言われた。
「早いんですね」
「ああ。早く起きて世話してやらねぇといけねぇ奴らがいるからな」
「え?」
私の他にも人がいるのかとあたりを見回した。特に人の気配はない。
セイルさんはそんな私を見て、ニヤリと笑えば「よし。紹介してやろう」と言って手に持っていたカップを置いて、玄関へと歩き出す。
セイルさんが扉を開けると、外の光が眩しくて目を顰めた。
そしてそのまま家を出ると視界に広がった光景に息をのんだ。
山には似つかわしくない草原が辺り一面に広がっていて、今は冬であるというのに気候が春のように暖かく、どこからか鶏と牛の鳴く声が聴こえてくる。
私が呆気に取られていれば、夢のような光景をセイルさんは説明し始めた。
「俺の気分によって気候は変わるが、大体は過ごしやすい春にしてるんだ。昨日はなんとなく今の季節感を味わいたかったから冬にしていたが、アンナが寒いだろうと思ってな」
「私のことを気遣って春にしてくれたんですか?」
「ああ。俺は気が利く男だからな」
セイルさんはふふんと得意げに笑った。
するとどこからか犬の吠える声が聴こえ、段々と近づいてくれば目の前に尻尾を勢いよく振った白い犬が飛び出てきた。
セイルさんは嬉しそうに顔を綻ばせるとしゃがみ込み、「よー! マユケ! 昨日ぶりだなぁ。元気してたかー?」と犬の頭を撫で始めた。
私は現れた犬の顔を見て目を丸くした。
白色の犬なのだが、両目の上にある柄が丸く太く特徴的で、まるで眉毛が描かれているみたいだった。
犬のことにそこまで詳しくない私は思わず疑問を口にした。
「このわんちゃんの目の上の柄は、魔法で描いたんですか?」
私の世間知らずの問いかけに、セイルさんは呆れ眼で私を見上げた。
「あのなぁ。魔法で描いたら面白くないだろうが。こういうのは自然だからいいんだよ。何もしなくても面白い。それがこいつの良さだ」
セイルがマユケの頭にポンポンと手を乗せるとマユケは力強くワンと吠えた。
心なしか胸を張っているように見えて、マユケ自身も誇らしいと思っているように感じた。
「というわけだから、お前の顔も好きだぞ」
好き、という言葉にどきりと胸がはねる。他意はないことは分かっている。
彼自身もマユケの顔を好き勝手に両手で撫でては私を勘違いさせないように「やっぱり自然が一番面白い」と復唱してマユケと同等の扱いを仄めかしているのだから。
ただ、マユケの接し方を見ていれば、明らかに好意をもっていることが目に見えて分かったので、彼なりの誉め言葉なのだということが伝わってくる。
そしてその発言で彼が私の顔に偏見がないのは、魔法でなんでも自由自在に変えてしまうことができるからなのだと気が付いた。
自由に変えることが出来る容姿に固執している意味が分からないのだろう。
もしかしたら、彼は私が頼めば今の顔を魔法で変えてくれるかもしれない。
そう考えてもみたが、なんだかセイルとマユケのたわむれる姿を眺めていれば、それがもったいないように感じて口に出すことはなかった。
「アンナもマユケに触るか?」
「え?」
唐突な誘いに、私はすぐに返事をしなかった。
近所の子供が野良犬に噛まれて腕が腫れあがったということを耳にしたことがあって、私は犬が少し怖かった。
断ろうと思ったが、セイルとマユケがキラキラした瞳を私に向けてくる。
見れば見るほど一人と一匹が瓜二つのように見えて私は思わず口元を手で押さえて小さく噴き出した。
セイルが怪訝な表情を浮かべる。
「どうした? なにがそんなに面白い?」
「い、いえ。急に思い出し笑いが起きまして……」
笑った顔を見られないように顔を背けていたが、窺うようにセイルたちをこっそり見ればマユケも不可解な表情で私を見ていて、可笑しくなって笑いをこらえるのに必死だった。
セイルさんからは変な奴だと思われているみたいで、「なんだって言うんだよ……なあ、マユケ」とマユケと会話していた。
ひとしきり笑った私は犬への恐怖感が薄れ、マユケに触れたくなった。
セイルさんの横にしゃがみこむと、どきどきしながらマユケの頭に手を伸ばす。
ふわりとした毛が手のひらに感じ、毛の流れに沿って撫でれば気持ちよさそうに目を細めていて、とても可愛らしい。
それからマユケのおともつきで、私はセイルさんの家の周りにあるものを見て回った。
鶏小屋に、小さな牛小屋、温室にある野菜が実っている畑、少し離れた場所には湖があってここが山であることを忘れてしまいそうになるくらい豊かな場所だ。
セイルさんはそれらをすべて自ら管理しているらしい。
噂に似合わず穏やかな暮らしをしていることに驚けば、国同士の争いがなくなり平和になった近年はなにもやることがないらしく、色々趣味を手広くしていった結果だそう。
それから一旦家に帰ってから軽い朝食を摂り、再び外に出る。
今から牛小屋の掃除をするらしい。
牛小屋は外観しか見ていないので初めて会うことになる牛に、私は少し緊張する。
ミルクを買うときは卸業者を通すので実物を見たことはなく、馬は馬車が街をよく走っているのを見るので馬みたいな感じかな?と想像しながらセイルさんの後をついていく。
小屋に案内されると薄暗い部屋の中に巨大な物体が佇んでおり、私たちが入ってきたことに気づくとこちらにゆっくりと寄ってきたので私は後ずさる。
物体はセイルさんの前で止まった。
「紹介しよう、牝牛のベルだ」
セイルさんは後方にいる私に振り向きながら、寄ってきたベルの頭を撫でた。
私は想像以上に大きい牛を見て腰が引けてしまった。
高さは私より低いが、横に長くて馬より体が太く、顔も大きいので圧を感じてしまう。
ごくりと生唾を呑み込む。
「噛んだりしますか?」
「噛みはしないが……後ろに回る時は気をつけろ。蹴ることがあるからな」
「は、はい……!」
私は顔を強張らせながら頷く。
きっと蹴られたら痛いんだろうな。気をつけなくちゃ……!
口を固く結び、ベルの体を見据えていればセイルさんが苦笑する。
「そんなに緊張するな。顔見たら結構可愛いんだぞ」
「か、顔ですか?」
「ああ」
セイルさんが手招きするので、私はそれに従う。
ドキドキしながらベルの顔を覗き込めば、まつ毛が長く黒い瞳がつぶらで私を何者だろうかとじっと見つめてくる。
ほ、本当だ……か、可愛い……!
キュンと胸がときめいてしまってから、私の恐怖心は消え去った。
「さ、触ってみても……?」
「ああ。撫でろ撫でろ。首の下とか気持ちいいみたいだぞ」
恐る恐る首元に手を伸ばし、撫でてみると確かに気持ち良さそうに瞳を閉じて身を預けてくる。
可愛い……。
すっかり緊張が解けてしまった私はベルを撫で続けた。
それからベルを放牧して小屋の掃除を教えてもらう。
スコップで牛糞を片付けて箒で掃除し、水の入れ替えをする。
集めた牛糞は肥料にして使うそうだ。聞けば、牛糞を肥料として売買する地域もあるらしい。
不要と思ってる物でも使い道があるんだなぁ。
それから外に出ると手を洗ってバケツを持って地面に生えている草を食べているベルのもとへと行き、乳しぼりを教えてもらう。
子もいないのに何故ミルクが出るのかと聞けば、外部の飼育されている牛と種付けし子はそちらに渡しているそうだ。
「小さいのに母親から離されるなんて、なんだか可哀想ですね」
「まあ、人の生活が成り立っていくためにはそういった割り切りも必要ってことだな。アンナも鶏肉は食べたりするんだろ?」
「は、はい? あ、もしかして牛は……」
私たちは普段、鶏肉やウサギ肉を食べているが、貴族などのお金を持っている人たちは牛を食べることもあるそうだ。
人が豊かに生活を送っていくためには、どこかで誰かが一見残酷だと思えることをしている。
しかし、その行為を知らずにただ享受するだけの人がただ残酷だと非難するのはお門違いなのかもしれない。
そんなことを考えていれば、セイルさんが体を横にずらして私に乳しぼりをするよう促してくる。
私はバケツの前にしゃがみ込み、先ほどのセイルさんのお手本を見たまま挑戦する。――が。
「え!? ぜ、全然出ませんよ!?」
いくら手で握ってもミルクは出てこなかった。
セイルさんの顔を見れば、私の反応を見て嬉しそうにニヤニヤしている。
「難しいだろ?」
「は、はい! セイルさんがやってたときは勢いよく出てたので……もう、出切っちゃったのかな?」
私が体を傾け不安げに乳を覗き込めばセイルさんは隣で腹を抱えて笑い出す。
なんだか少し恥ずかしくなって、顔を熱くなる。
セイルさんは徐々に笑い声が落ち着いていき満足したのか「はー!」と息を吐いた。
「悪い悪い。コツがあるんだよ」
「コツですか?」
セイルさんはそういうと私の手の甲に自分の手を添えた。
どきりと胸がはねるが、セイルさんは構わず私の手を動かして乳しぼりのやりかたを教える。
「まずは親指と人差し指で根元を握るんだが、ここをしっかり握らないとミルクが逆流して炎症を起こすから気をつけろ」
「はい」
セイルさんは私の親指と人差し指に自身の指を添えて、根元を握らせる。
「あとは中指から薬指、小指の順で握っていけば出る。稀に乳が出ないときはマッサージしてやらないといけないんだが、今日は大丈夫そうだ。それじゃあ、やってみろ」
「はい!」
セイルさんの手が離れ、私は頷いた。
教えられた力加減で親指と人差し指で根元を握り中指から順番に握ると、ミルクがバケツに音を立てて入った。
私は視界と聴覚でそれを視認して一瞬驚いたが、ミルクが出たことのへの感動がこみあがってきた。
「出ました!」
「よしよし、よかったな!」
私が笑顔を向ければ、セイルさんも笑って頷いてくれた。
私は初めてできた乳しぼりが嬉しくなって、調子に乗って何度も行う。
しかし、慣れないことで手が疲れてしまって途中で手を離してぶんぶんと振っていれば、セイルさんが代わってくれた。
私は少し痺れてしまった足を伸ばすために立ち上がり、草を食べているベルを眺めながら体を撫でて笑いかける。
「ベルちゃん、ミルクを出してくれてありがとうございました」
「……それが正解だな」
「正解?」
「ああ。俺たちの生活に良い影響を与えてくれているなら、お礼と労いの言葉をかけてやるのが大事なんだろうな。――まあ、ベルたちからしたらそれがなんだって話かもしれないけどな」
セイルさんは言って、苦笑する。
確かに。
私は今まで父のおかげだけで生活できていると思っていたが、よくよく考えてみればそれだけではなく、たくさんの人たちが色々な職業に就いているから生活できていたんだ。
お店で売っている野菜や肉、洋服の布地や鍋等を当たり前のように買っていたが、その背景には素材を取る人や加工する人など様々な人と要素が関わっている。
今まで考えたこともなかった人の在り方に深く考えさせられる。
「そうですね。感謝の気持ちを伝えることは大事ですね。ベルちゃんにも、セイルさんにも改めてお礼を言わないとですね。……今、私がこうして生きて生活できているのはセイルさんのおかげです。私を拾ってくれてありがとうございました」
「……あんまり感謝しすぎると安っぽくなって有難みがなくなるぞ」
「ちゃ、ちゃんと心の底から思ってますよ!」
「ハハハ! 冗談だ!」
私が焦って抗議すれば、セイルさんは乳しぼりの手を止めずに楽しそうに笑った。
さっきからからかわれてばかりだ……。まあ、楽しそうならいいか。
それにしても、ベルのお世話をしただけなのに自分の見えていた世界が広がってちょっぴり成長した気になった。
単純かもしれないが、これからはあらゆることに感謝の気持ちを惜しみなく伝えていきたいと思う。




