イつちやん
〈或る日から熱い饂飩に復帰する 涙次〉
【ⅰ】
* 市上馨里、通稱イつちやん。お笑ひコンビ、「東洋イチ」のボケ役だつた。業界に彗星のやうに現れたけれど、去るのもまた彗星の如く、で、今は隠棲生活を送つてゐる。で、その彼女の身過ぎ世過ぎも、【魔】が介在しなければ、あり得なかつた。彼女のお笑ひの源泉は【魔】にあつたのである。彼女はお笑ひに身を捧げ、【魔】の囁きを聞き、それに從つた。因みに相方は、ニュースキャスターに轉向する前の、楳ノ谷汀である。
* 当該シリーズ第6話參照。
【ⅱ】
で、カムバック話が持ち上がつた。彼女ほどのコメディエンヌ、テレビ局としてもさう簡單に捕まへられるものではない。【魔】をすつかり祓つた、と云ふ判断で、テレビ局側はゐたのだけれども、カンテラに云はせれば、完全に憑依が解ける、と云ふ事はまづあり得ない。斬つても(實際彼女に憑いた【魔】はカンテラが斬つた。實は【魔】なくとも、イつちやんの笑ひはピカイチであつた。それは余り笑はないカンテラが保証してゐる事なのである)蘇生、と云ふ因業な技が、魔界サイドにはある。最近になつてカンテラ事務所が、安保さん製作の大型フリーザーを導入したのも、蘇生防止の為の先行投資だつたのだ。【魔】の遺骸には、冷凍保存さへすれば、蘇生と云ふ目はない。
【ⅲ】
イつちやんの話に戻る。【魔】は確かに彼女の心身を再び侵食しやうとしてゐた。再デビューと云ふ大事なイヴェントを控へてゐる時に限つての、「これ」である。ピンの藝人には、身近に自分の置かれた狀況を相談出來る相方もゐない。【魔】はドラッグなのである。で、結果として、テレビキャメラに再び映つた彼女は、顔面蒼白、とてもお茶の間に見せられる顔をしてゐなかつた。
「イつちやん、だうしたのよ? こつちは色々期待してるんだけどなー」と担当ディレクター。期待されるだけ酷なのである。イつちやんは嘔吐寸前の狀態でテレビ画面に登場してゐた。吐けば、口から【魔】が飛び出たに違ひない。要はそこを狙つて、カンテラが斬ればいゝのだが、そんなハプニングが許されてゐない、テレビ界であつた...
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈猫好きが陥りがちな陥穽は猫には猫の好きな人ゐる 平手みき〉
【ⅳ】
...だがこゝで楳ノ谷、一肌脱がうと云ふ。楳ノ谷の番組で、イつちやんの「お祓ひショウ」をやつてみやうと云ふ。綿密に、テオ(=谷澤景六)が脚本を書いた。既に依頼料は、相当な額をテレビ局から受け取つてゐる一味。失敗は許されない。テオの脚本では、杵塚がディレクター役で、じろさんがプロデューサー役である。じろさん「それぢやあ、市上くん、行けるのかね?」杵塚「行けますとも。私の沽券に賭けて、彼女を再生します!」だが、イつちやんは氣分が惡い。「あゝ、人肉が食ひてえ」などゝ、ぶつぶつ云つてゐる。
【ⅴ】
杵塚ディレクター「本番10秒前でーす」じろさんのプロデューサーも見守る中...「はい、スタート!」イつちやん、眞顔で、「おら、人肉が食ひてえんだよ」人肉嗜食鬼だ。スタジオ場内騒然。
カンテラが現れる。彼女の口に手を突つ込む。と、【魔】が飛び出て來た。「人肉~人肉をくれ~」カンテラ「しええええええいつ!!」とばつさり。じろさんが素のじろさんに戻り、【魔】の遺骸を折り畳む(古式拳法。秘術衣畳み)。楳ノ谷「これからカンテラ事務所の大型フリーザーに安置するのです。皆さん、ホラーとしては上出來だつたでしよ? ぢやまたお會ひしませう」虛實どちらとも付かない雰囲氣が、その場に流れた。後日、すつかり躰も良くなつたイつちやんには、お笑ひと云ふより、日本有數のホラー女優としての仕事が待つていた...。
【ⅵ】
楳ノ谷「イつちやん、良かつたぢやないの」‐市「今回もカンテラさんにお世話になつちやつた。それよりも汀ちやんね。だうも有難う!」イつちやんには、テオと云ふ猫がスクリプトを書いた、なんて知らされてゐなかつた。こゝでテオは* 野代ミイに替はる愛人を見付けるのである。イつちやんがその人だ。絶世の美女とは云へない迄も、それなりにキュート、あゝさうさう、** イつちやんは胸が大きい・笑。「東洋イチ」としての仕事も、テオの台本で、こなす事となつた。テオ、放送作家デビューである。こんなに忙しくては、事務所の仕事に差し障りが出さうなものだが、そこはロボテオ2號と云ふ心強い味方が、頑張つてくれてゐる。
* 当該シリーズ第66話參照。
** グラヴィア撮影の話はよく來る。だが彼女は恥づかしがり屋で...
【ⅶ】
カルト女優に天才猫。いゝ組み合わせと云へやう。イつちやんはミイのやうには、人間の男に靡かなかつた。それだけ、人間界に愛想が盡きてゐたのである。またそれが、【魔】を呼ぶ引き金となつたのだ...。
「テオちやん、あーん」とイつちやん、テオの大好物・チーズかまぼこを食べさせてゐる。なんかいゝですね、この二人(?)。
異端✕異端、の答へや如何に。ぢやまた。お仕舞ひ。
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〈たゞ五感のみが知つてる秋に向かふ 涙次〉




