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『心を熱くした午後』

作者: 小川敦人

『心を熱くした午後』


久しぶりにラグビーを友人とテレビで観戦した。ラグビーは、2015年のワールドカップで日本代表が南アフリカに劇的な逆転勝利を収めた試合以来、すっかり心を奪われたスポーツだ。あの試合をきっかけに、楕円球の不可思議な魅力に魂を揺さぶられ、時折こうして友人と観戦するのが密やかな楽しみとなった。


あの2015年の秋、ブライトンの奇跡と呼ばれた一戦を思い返すと、今でも鳥肌が立つ。34対32という数字以上に、あの最後の数分間に込められた日本代表の執念は、スポーツの枠を超えた人間ドラマだった。エディー・ジョーンズ監督の下で鍛え上げられた桜の戦士たちが、世界最強の一角である南アフリカの牙城を崩した瞬間。五郎丸歩のあのルーティン、リーチ マイケルの咆哮、田中史朗の電光石火のパス。一つ一つの場面が、まるで映画の名シーンのように心に焼き付いている。あの日を境に、私の中でラグビーという競技は単なるスポーツから、人生の教科書のような存在へと変わった。


今日の国立競技場は、梅雨入りを告げるような冷たい雨に包まれていた。それでも、五万を超える魂が集ったと聞く。雨の中で声援を送るファンたちの姿を思い浮かべると、胸の奥が熱を帯びる。私も、できることならその場に立ちたかった。あの熱気を、選手たちの衝突する響きを、全身の細胞で感じ取りたかった。


リーグワン決勝という舞台の重みを、テレビ越しでも感じることができた。シーズンを通じて戦い抜いてきた両チームの選手たちにとって、この一戦にかける想いは計り知れないだろう。レギュラーシーズンでの激闘、プレーオフでの死闘を勝ち抜いて、ついに頂点を懸けた戦いの場に立つ。その重圧と興奮が、画面越しにも伝わってくるようだった。


画面に映し出される国立競技場は、薄暗い雨雲の下でもなお、深紅と白黒のジャージが鮮烈な光を放っていた。東芝ブレイブルーパス東京の血のようなエンジ色、クボタスピアーズ船橋・東京ベイの白と黒。水を吸った芝生が選手たちの足元を裏切るたび、スリリングな攻防に一層の緊迫感が宿っているように見えた。


雨という自然の演出が、試合にさらなるドラマ性を加えていた。普段なら確実に決まるであろうキックも、濡れたボールと湿った空気の影響で微妙にコースが変わる。パスも滑りやすく、普段以上に集中力と技術が要求される。そんな悪条件の中でも、両チームの選手たちは一歩も引かず、むしろその困難を楽しんでいるかのような表情を見せていた。これこそがラガーマンの真骨頂なのかもしれない。


どちらのチームの戦士たちも、鋼のような意志を胸に宿しながら、わずか5点という針の穴を通すような接戦を繰り広げていた。モウンガのトライ、フォーリーの氷のように正確なキック、後半に炸裂した森勇登の疾走。雨で重みを増したボールを手の内で踊らせるテクニックも、ラグビーというスポーツの底知れぬ深淵を垣間見せてくれた。


特に印象的だったのは、スクラムでの両チーム8人の戦士たちの姿だった。泥に汚れたジャージ、額に浮かぶ汗と雨、そして何より目に宿る炎のような闘志。彼らが組み合う瞬間、まるで古代の戦士たちが剣を交えているような錯覚を覚えた。現代の洗練された戦術の中にも、人類が太古から受け継いできた闘争の本能が脈々と流れているのを感じた。


そんな闘いを眺めていると、かつて学生ラグビーが国民の心を掴んで離さなかった黄金の時代が脳裏に蘇った。明治大学の「前へ」の精神は、今もなお語り継がれる不滅の魂だ。どんなに険しい道のりでも、ただ前に進むことを恐れないその姿勢は、ラグビーの真髄を示す言霊のように響く。一方で、早稲田大学の華麗なパスラグビーは、かつては革命的な衝撃を与えるスタイルだったが、今や古典として愛でられるようになった。あの頃、学生たちが楕円球を追う姿は、テレビの向こう側で息を呑んで応援した人々の魂に深く刻印されているだろう。


1980年代から90年代にかけて、大学ラグビーは確かに日本スポーツ界の華だった。正月の花園、秩父宮での早明戦、そして何より国立競技場で繰り広げられる大学選手権決勝。あの頃の熱狂は、現在のJリーグやプロ野球にも引けを取らないものがあった。神戸製鋼の7連覇時代、その後のサントリーや東芝の黄金期。企業ラグビーもまた、多くの人々の心を掴んでいた時代があったのだ。


しかし現代のラグビーは、さらなる高みへと昇華している。ブロードパスやジャッカル、ロールバックパスなど、技の綾は世界の頂点に達し、日本の戦士たちもその渦中で遜色なく刃を交えている。ボールを奪い合う獣のような激しさと、絹糸のようなパスワークが一つの試合に共存する。


何より印象的なのは、どれほど激しい戦いの中でも「規律を守る」ことを最優先とする選手たちの姿勢だった。レフェリーの判定に対する異議申し立ては一切なし。ペナルティを犯した選手は素直にその責任を受け入れ、キャプテンだけがレフェリーと対話する。この完璧なまでの規律こそが、ラグビーというスポーツの根幹を成している。「ラグビーに最も大切なことは規律を守ることだ」—これは単なる理想論ではなく、フィールド上で体現されている現実なのだ。規律という見えない鎖を自らに課しながら、常に前を見据える不屈の心を忘れない。そんな現代ラグビーの姿に、伝統と革新が織りなす豊かな調べを感じずにはいられなかった。


今日の試合で特に印象深かったのは、両チームの戦術的な駆け引きの高さだった。セットプレーからの展開、ディフェンスラインの上げ方、キックの使い分け。一つ一つのプレーに、長年培われた知恵と経験が込められている。それは単なる肉体的な激突を超えた、知的なゲームでもあるのだ。監督やコーチ陣の表情を見ていても、チェスの名人が次の一手を考えているような深い思索を感じることができる。


ラグビーの神髄は、試合という舞台にいくつもの人間ドラマが同時に紡がれることだ。ボールを抱く者だけではない。ラックに身を沈める者、オフサイドという見えない線を意識しながら微妙に立ち位置を変える者、声を張り裂けんばかりに仲間を奮い立たせるキャプテン。それぞれが異なる宿命を背負いながら、緑の絨毯という舞台で一つの叙事詩を紡ぎ上げている。視点を変えるたびに、世界の色合いが変わる。そこにこそ、このスポーツの底なしの魅力がある。


ベンチにいる選手たちの表情も見逃せない。出場機会を待つ若手選手の緊張と期待、怪我から復帰したベテランの複雑な想い、そして監督の采配を信じて自分の時を待つ控え選手たちの忍耐。彼らもまた、この物語の重要な登場人物なのだ。試合終了後、勝利チームの選手たちがベンチの仲間と抱き合う光景は、チームスポーツの美しさを最も象徴的に表している瞬間だと思う。


そして何より、その根底に流れる「仲間のために命を懸ける」という聖なる精神。ラグビーには、個という小さな存在を超えた絆の物語がある。ボールを繋ぐたびに、信頼と勇気が幾重にも重なっていく。雷鳴のようなタックルを受けても立ち上がり、再び前へと歩を進める戦士たちの姿は、理屈を超えた魂の力を感じさせる。ラグビーを見つめていると、人間が本能の奥底に秘める「前へ」という原始の願いに触れる気がするのだ。


この息詰まる攻防で両チームのキャプテン、東芝のリーチ マイケルとスピアーズのファウルア・マキシの姿を見ていると、「One for all, all for one」という言葉が血肉となって現れているように思えた。後半になると、互いに全ての選手を使い切り、まさに総力戦だった。仲間を信じてボールを託す。痛みに顔を歪めながらも、一つのスクラム、一度のタックルに全ての想いを込める。そこには華やかさの向こう側にある、静寂で厳粛な祈りのようなものがあった。


リーチ マイケルは、キャプテンという十字架を背に、肩の痛みを押し殺しながらも最後の一秒までピッチに立ち続けた。ファウルア・マキシもまた、満身創痍の肩や脚を引きずりながら、仲間に声をかけ、前へ進もうとする意志を燃やし続けた。両者の姿には、言葉では表せない「使命感」が滲んでいた。仲間のために戦う覚悟、そして決して自分一人の舞台ではないと知る謙虚な魂。それは見る者の胸の奥深くに矢のように突き刺さった。私も友人も、ただ画面の向こうで息を殺すしかなかった。あの瞬間、ラグビーというスポーツがただの競技ではなく、人生という名の戦場の縮図のように思えた。


両キャプテンの背中を見ていて思い出したのは、かつて読んだ武士道についての書物だった。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が、彼らの行動と重なって見えた。しかし、ラグビーにおける真の勇気とは、ただ勇敢に戦うことではない。それは何よりも「規律を守る」という強固な意志に表れる。どんなに不利な判定を受けても、どれほど感情が高ぶっても、決してルールを逸脱しない。この自制心こそが、ラガーマンが誇りとすべき最高の美徳なのだ。規律を守り抜くことで初めて、真の強さと品格が生まれる。現代日本において、これほど純粋に「義」と「勇」と「規律」を体現するスポーツは他にないのではないか。サムライの魂が、令和の時代にラグビーという形で蘇っているような感動を覚えた。


肉体と肉体が激突する音。スクラムが押し合う地鳴りのような響き。それを見つめていると、なぜか第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦の映像が心の奥底から浮かび上がった。記録映画で見た兵士たちの表情、荒波を乗り越えて砂浜を駆け上がる姿、泥と銃火の中で「国家の名のもとに」使命感と義務感で命を賭ける若き魂たち。あの映像は、私にとって「肉弾戦」の極限を心に刻みつけた記憶だ。もちろん、ラグビーは平和の聖典であり、戦争とは天と地ほどに異なる。けれども、フィールドの上で肉体と覚悟をぶつけ合う姿には、人間の原始的な闘争本能が影のように宿っている気がした。


友人は普段サッカー一筋だが、「ラグビーも心を掴むな」と瞳を輝かせていた。そう、ラグビーは力強さだけでなく、戦術という名の知恵や駆け引きの深い森があって、人を虜にするスポーツだ。スクラムが崩れかける一瞬の静寂、タックルに身を投げる覚悟の瞬間。テレビ越しでも、ぶつかり合う肉体の雷鳴とともに、選手たちの誇りと冷静さがこちらの魂まで染み渡ってくるようだった。


「サッカーとは全然違う魅力があるんだな」と友人がつぶやいた。確かにその通りだ。サッカーの華麗さ、バスケットボールのスピード感、野球の頭脳戦。それぞれに素晴らしさがあるが、ラグビーにはそれらとは次元の異なる何かがある。人間の本質的な部分に訴えかける何かが。それは恐らく、個人の技術と集団の結束が完璧に融合した時にのみ生まれる、稀有な感動なのかもしれない。


試合終了の笛が鳴ると、私たちは言葉を交わさずとも満ち足りた微笑みを交わした。東芝が頂点を掴んだ瞬間、スタジアムが地震のような歓声に包まれ、私たちも思わず小さく拳を突き上げた。スポーツの魔力は、たとえ画面越しでも心を一つの炎にする。そのことを改めて噛みしめた一日だった。


勝者と敗者が握手を交わす光景、涙を流す選手たち、そしてファンの惜しみない拍手。ここにこそ、ラグビーが持つ最も美しい魅力の一つ「ノーサイド」の精神が表れている。試合中は激しく敵として戦った選手たちが、ホイッスルと同時にサイドを分ける壁が消え去り、同じラグビーを愛する仲間として抱き合う。勝者は敗者を讃え、敗者は勝者を祝福する。この瞬間こそ、ラグビーというスポーツが単なる競技を超えた崇高な精神性を持つ証拠なのだ。「ノーサイド」—それは試合終了を告げる言葉であると同時に、人間としての尊厳と友情を確認し合う神聖な儀式でもある。スポーツの持つ浄化作用を目の当たりにした瞬間でもあった。どんなに激しい戦いを繰り広げても、最後は互いを讃え合うフェアプレー精神。これもまた、ラグビーが愛され続ける理由の一つなのだろう。


今日の国立競技場は雨に変わらず五万を超える魂を集めた。冷たい雨の中でも、ファンたちは深紅と白黒のジャージを見つめ、戦士たちの激闘を全身全霊で受け止めていたのだろう。私も、できることならその場に立ちたかった。あの熱気を肌で感じ、肉弾戦の迫力を直に心に刻みたかった。


それでもテレビ越しに届く歓声は十分に胸の奥を震わせた。あの場に立つことは叶わなくても、心はあの緑の絨毯とともにあった。学生ラグビーの黄金の記憶、戦争の記録、そして現代の進化と規律。男たちの世界を久しぶりに垣間見た午後。何度でも心を燃やせるのは、こうした瞬間に巡り会えるからなのだ。肉弾戦の迫力に魂を奪われ、ノルマンディーの記憶を重ねながら、私はまた次の戦いを心待ちにしている。


このエッセイを書き終えた今、改めてラグビーというスポーツの奥深さを実感している。それは単なる娯楽を超えた、人生の教科書のような存在だ。勇気、友情、犠牲、栄光、挫折。人間が経験し得るあらゆる感情がこの楕円球の周りに凝縮されている。次の試合が今から楽しみでならない。

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