バカでかい鍋
うちにはバカでかい鍋がある。
炊飯器よりも大きな鍋は、いわゆる真空保温調理器というやつだ。
鍋を火にかけたあと保温容器で丸ごと保温し、余熱で食材に火を通すことができる代物だ。
親父はこの調理器具が大好きで、休みのたびに鍋いっぱいにカレーを作っては家族に振る舞ってきた。
いい肉と高級なカレールーを買ってきては調子よく食べさせ、使い終わった鍋を洗いもせずにほったらかしにするので、おふくろの機嫌がすこぶるよろしくなくなるのがウザい。
「人には贅沢するな、食材の無駄遣いは厳禁っていうくせに、自分は和牛使うのよ?!分厚く皮をむくのよ?!しかも…美味しくないし!!あんな辛いの食べて、みんな平気なの?!しかもぜんぜん洗わないからカビだらけになって!!お風呂で鍋を洗う私の身にもなってよ!アキもリョウもケイも洗ってくれないし!!」
おふくろは、カレーは甘口派である。中辛でも辛いというので、うちのカレーは甘口しか存在していなかった。おふくろの作るカレーは給食で出るカレーをまろやかにしたようなカレーで、確かにとびきり美味しいものの…刺激的要素はゼロだった。
しかし、親父はもともと辛口カレーが好きで、激辛ブームの時は大喜びで辛いものを食べていたようなタイプである。俺はそうでもないが、兄も弟もキムチや火鍋なんかが大好きで、辛口を好む傾向にあった。
一味をふりかけたりタバスコをふりかけたり辛スパイスをふりかけたりして己の満足度を保っていた親父たちだったのだが、どうしてもスパイシーなカレーが作って食べてみたくなって…暴走した。欲望を抑えきることができなくなり、小遣いでバカでかい鍋を買い、あらゆるカレールーを研究し、調達に走ったのである。
何の相談もなしに、炊飯器より二回りも大きな鍋を買った親父に、おふくろが牙をむいた。
小柄なおふくろには、カレーがなみなみと入ったバカでかい鍋を持ち上げる事はもちろんシンクで鍋を洗う事も難しく、乾いた鍋セットをまとめて棚にしまい込むことすら負担が大きかったのである。自分には使いこなせない鍋であるうえに、使ったあとは洗わずに放置されるのが当たり前で自分しか鍋を洗うものがいない…、おふくろがでかすぎる鍋を嫌う理由は明らかだった。
どうせ作るならたくさん作って食べたい、大は小を兼ねる、小さいのは割高だから…色んな理由をこねて、一番大きな鍋を買った親父の目は、たしかに少年のようにキラキラと輝いていた。ここのカレールーはウマいらしい、辛いカレーはこれだ、激辛ルーを見つけてきたから食べようぜ…熱心に研究を重ねる兄と弟、親父の目はまるで子供のように透き通っていた。……鍋を睨みつけるおふくろの目は、この上なく冷たかったけれども。
親父は、料理を全くしないわけではない。
カット済みの肉を買ってきて焼いて食べたり、そばを茹でて食べたり、パスタを茹でてミートソースで和えるくらいのことはしょっちゅうしていた。親父は基本的に、調理と言われるような作業はしなかった。なぜならば、メシを作るのは料理上手で料理好きのおふくろの担当とされていたからだ。
ただし…、カレーだけは、調理実習やキャンプで作った経験があり、親父の得意料理として振る舞われることがあった。
親父は、切ったり炒めたり煮込んだりするのが面倒だと、いつもいつも毎回毎回、キッチリと文句を言っていた。
一度沸騰させてしまえばそのまま放っておくだけで完成するという魔法のような調理器具の存在を耳にした親父が、憧れを持ち、衝動を抑えきれずに購入ボタンをクリックしてしまったのは…、仕方のない事なのかもしれない。
……確かに、親父の作るカレーの美味さに感動した日は少なくない。
牛すじカレー、肉団子カレー、牛肉カレー、チキンカレー、豚バラカレー、エビカレー、今でもたまらなく食べたくなるようなカレーもあった。
とはいえ…、たまに大失敗するような事もあった。
やけに水っぽいカレー、肉が硬くて噛み切れないカレー、やたらと生臭い海鮮カレー、食った後シャレにならないレベルで腹を下したカレー、辛すぎて毒化したカレー、二度と食べたくないカレーにも何度も遭遇したのだ。
「…ホントに持って行くのか?じゃあ、新しいやつ買わないとなあ」
「絶対に買いませんけど?!」
「親父、年を考えろよ!!この鍋いっぱいのカレーなんて食えねえだろ?!」
「小さめの圧力鍋買ってあげるからさあ」
「お義父さん、大切に使わせていただきますっ!!」
「ユキは料理上手だから楽しみだなあ♩」
「アキ、ちゃんとユキちゃんの負担にならないよう手伝ってあげなさいよ?!お父さんみたいに洗わないでほったらかしなんてダメなんだからね?!」
「使わなくなったらまた戻せよ、いいな!!これは父さんが買ったやつなんだからな!!」
バカでかい鍋は、兄貴がもらっていくことになったのだ。料理好きの奥さんが、ぜひとも欲しいってことでさ。新婚なのに、中古の鍋を欲しがるってどうなんだかね。慎ましやかで、いい奥さんだよ、ホント。
ユキちゃんは母さん二人ぐらい余裕で持ち上げられるくらいガタイがいいから、使ったり洗ったりしまったりするのに問題はなさそうだ。たぶんフルに鍋を使ってくれると思われる。兄貴の体重増量は間違いなしだな、たぶん。
親父が鍋との別れを惜しんで、抱きしめている。
……うちに妹とかがいたら、こんな感じだったのかね。
「全然洗ってやらなかったくせに…ホントにもう、調子いいんだから!!」
「俺がいつも棚の中に戻してやってたんだぞ!!!」
「まあ、まあまあまあ!!!とーちゃんありがとね、今後は俺が大切にすっから!!」
「大切にしますね~!」
「今さら加齢臭塗り込んでどうすんの。はい、放してあげてね」
「兄ちゃん、賞味期限の切れたカレールー、持って行く?」
……バカでかい鍋が、旅立っていく。
玄関の向こうに見える鍋は、随分小さく…、いや、玄関を出てもかなりデカいな。
あの鍋にいっぱい入っていたカレー、家族四人で全部食ってたのか。
すげえ食ってたんだな…。だからこその、過体重一家という事か。
……鍋がいなくなったら、痩せることもできるかもしれないな。
痩せたら、俺もにーちゃんみたいに結婚できるかも……。
俺は、仄かな予感を、胸に。
「ユキちゃんからもらったバウムクーヘン、食べる―?」
「かーさん、コーヒー淹れて!!」
「まだ牛乳あったよね?」
……ヤバい!!
急がないと…俺の分が!!!
「ちょ…、ちゃんと四分割しろよ!!親父は手づかみで食べるんじゃない!!」
甘い、甘いバウムクーヘンを、頬張りながら。
俺は、今夜の飯は、辛いカレーが食いたいなと思ったのだった。