【現代】逢魔ガ時ノ幽霊
「逢魔が時」のお題で書いた短編小説。
詩人は拙作「花散ル祭リノ夜ニ」という短編に出てくる詩人と同一人物。
「花散ル祭リノ夜ニ」は規約の都合上、こちらへの転載はできませんが。
音読動画→https://youtube.com/playlist?list=PLda4Rk1pUYt8I6pbqh440CGWOsvUf0BTA&si=3Eb_Ah3W7bEwjqB4
その日、詩人が海辺の駅で途中下車をしたのは、ただの気まぐれからだった。
快速で数駅行った先にあるビル街まで呼び出され、赴いたのが昼過ぎごろ。帰りはたまたま快速のない時間帯で、鈍行に揺られ、黄昏迫る外の景色をぼんやりと窓越しに眺めていた。そこで彼はふと目に映った海に心を引かれ、普段は通り過ぎるだけの駅で電車を降りたのである。
潮の香りと夕暮れの気配をはらむ秋のカラリと乾いた肌寒い風を受けながら、彼は気のおもむくままにぶらぶらと海岸の方へ歩いていった。
明度と彩度がひときわ高く見える夏の輝かしい面影はすっかりと鳴りをひそめ、海は物憂げな夕焼け色に徐々に染まりながら、手招きをするように波を寄せては返し、静かな歓迎の歌を奏でている。
詩人は堤防の上に立ち、そんな海を一人静かにじっと見つめていた。
彼は自宅にこもって自分のためだけに開かれている詩の世界を旅することを好むが、時折こうして自分の外に広がる世界に気を引かれ、しばらく自分をそこに留めて距離や関係を確かめたり、そこからの眺めを味わいたい衝動に駆られることがある。
このときの彼もまさにそんな気持ちで、柄にもない途中下車によって手に入れた特等席からの眺望に魂を奪われるままに、ひとときのあいだ、その身を預けていた。目の前に広がる景色の上に敷かれた凡庸な日常の薄紙をそっとめくり、鮮明な音と光の織りなす世界の真の姿に酔いしれる。
そうしてしばらくのあいだ、ひとけのない堤防からの眺めを堪能していた彼は、ふいに潮風に肩でもたたかれたかのように首をめぐらせ、視線を移した。そして堤防の先に古風な学生服を着た少女の姿を認め、おや、と目をしばたたかせる。
いつのまに、と彼は思った。ほんの少し前まで、このあたりには彼以外に人影はなかったはずだが。
詩人に背を向け、海に向かって立ち尽くしている少女は、うつむきがちに海面を凝視しているように見えた。その表情は後方にいる彼からはわからないはずなのに、なぜかやけに深刻で思いつめた様子に思える。
そのまま彼女が海に溶けて消えてしまう錯覚にとらわれ、詩人は思わず近くまで歩み寄ると、少女に声をかけていた。
「こんにちは」
穏やかな詩人の声にびくりと少女が肩を震わせ、ふり返る。二つに分けて編んだ長い黒髪を揺らしながら、彼女は詩人を見上げて驚いたような表情を浮かべてみせた。
そんな彼女を安心させるように、詩人は先ほどと変わらない静かな口調で「それとも『こんばんは』かな?」と言って微笑む。
「昼の終わりと夜のはじめが混じり合うこの時間は、何とあいさつしたらいいのか迷ってしまうね」
「……そうですね」
ためらいがちに少女は小さな声でそう応え、居心地悪そうに――あるいはばつが悪そうに身じろぎする。ふとその足下に目を向けると、彼女は素足で堤防の冷たいコンクリートに足をつけていた。小さな指先がもじもじと灰色の地面をかく。そのそばには彼女のものとおぼしき革製の靴がきちんとそろえて置かれていた。
波打ち際で水遊びをするならともかく、波の届かない堤防の上に丁寧に並べられた靴というのは、一見してどこか奇妙な違和感がある。
「素敵な靴だけど、そこに置いておくより君が履いていた方がもっといいとぼくは思うよ」
詩人がひかえめにそう言うと少女は一瞬その場に凍りつき、それから少し頬を赤らめてそそくさと靴を履いた。そして、顔色をうかがうようにおずおずと詩人を見上げる。
彼は一つうなずきながら、「うん、似合うね」と言ってもう一度微笑んだ。
少女ははにかんだようにうつむき、小声でありがとうとつぶやく。
そんな彼女の黒い学生服に見覚えがないことを疑問に思いながら、詩人はどうしたものかと思案した。自宅に引きこもりがちで、このあたりの学校に詳しいわけでもない彼が少女の制服に見覚えがなくても不思議ではないはずなのだが、どうにも引っかかる。彼女の髪型やまとう学生服、雰囲気が、どこか現在から置き去りにされた過去を思わせるからだ。
思わず声をかけてしまったが、何をしていたのかと問うべきか、余計なおせっかいなど焼かず、早く帰るようにと注意をうながすだけにとどめるべきか、詩人は心の中で自問する。
しかし、それに彼が答えを出す前に、少女が先に口を切った。
「あの、あなたはあまり外にいない方がいいと思いますよ」
下から見上げてくる彼女の目はやけに真剣だ。
まさか自分より年下の小さな女の子に心配されるとは思っていなかった彼は、目を丸くしながら「どうして?」と尋ねた。
それに少女は戸惑いの表情を浮かべ、視線を泳がせながら独り言のようにつぶやく。
「夜には空襲がくるかもしれないし、あなたはその……とても日本語が上手ですけど、外国の人でしょう? 悪い人ではなさそうですし、兵隊さんでもなさそうですけど……みんなに見つかったら、大変な目にあうかもしれません」
「大変な目?」
おうむ返しに詩人が問うと少女はわずかにためらったあと、「この国は今、戦争中なんです」と言った。
「あなたはひと目で外国の人だとわかります。もし誰かに見つかったら……みんな敵だと思って、あなたにひどいことをするかもしれません」
そう言うと少女はまたうつむいて、もじもじと居心地悪そうに服の裾をいじり始める。
その様子を見下ろす詩人もまた、少し戸惑った面持ちで「ええと」とつぶやいた。
「よく間違えられるんだけど、こう見えてもぼくは日本人なんだ。祖父が北欧の人でね、両親は典型的な日本人の容姿なのに、ぼくだけこうなんだ」
そう言う詩人の銀に近い白金の髪と雪のように白い肌は、夕日の赤と忍び寄る夜の影に染められてどこか人間離れして見える。
「だから取り替え子だとか、悪魔や魔物の子だっていじめられたこともあったっけ」
苦笑混じりに言って詩人は肩をすくめてみせる。
しかし、少女は笑うことなくいっそう戸惑った様子で「そんなことってあるんですね」とこぼした。それが詩人の生まれについての言葉なのか、いじめられたという過去についての言葉なのかは、彼にも少女自身にもわからない。
ただ、少女はこの人の好さそうな詩人を本気で心配し始めたようだった。
「でも、きっとみんなには敵に見えると思います。見慣れていないから……。わたしが子供の頃、村の近くにあった教会に外国人のシスターがいらしたけど、その人も人食い魔女だなんだと言われていました。とても優しい人だったのに、紅を差した真っ赤な唇を見て、子供たちが『人を食っているんだ』と噂したりするんです。きっとみんな、自分と違うもの、知っているものとは違うものが怖いのでしょう」
少女はそう言って少し悔しそうに唇をかんだ。
「わたしは一度、親にうそをつきました。でも、あとから『親にこんなうそをつくなんて、このままではわたしは悪人になってしまうんじゃないか』と怖くなって、その教会で洗礼を受けたんです。シスターはわたしの告白を聞いてわたしを許してくださったし、わたしは悪い人にはならないと言ってくださいました。勇気をもらったんです。彼女は一度だってわたしを責めることはなかったのに……そんな人たちばかりだった教会に、嫌がらせをする人さえいました。それでも彼らは決して村の人に怒ったり、意地悪をする人たちを悪く言うことはありませんでしたが」
少女はそこで一度言葉を切り、小さく息をつくと、うつむいてひやりとしたコンクリートを見つめながら、独り言を言うようにどこかぼんやりと言葉を続けた。
「それだけじゃありません、わたしは敵国の兵隊さんを拷問していた人の話も聞きました。それがとてもひどいんです。彼はお酒の席でこう言いました。『人間の爪に火をつけたらどうなると思う? 栗の殻がはじけるように爪がはぜるんだ』って。それを笑いながら、まるで自慢話でもするように言うんです。わたしはその人のそんな話を聞くのが本当に大嫌いでした。なぜそんな恐ろしいことができるのか、なぜそんな恐ろしいことを武勇伝のように話せるのか、わたしには今でも理解できません。わたしが戦争を怖いと思うのは、戦闘機や爆弾があるからじゃありません、人をそんな風にしてしまうからです」
そう言って少女は顔を上げ、詩人の灰色がかった青い目をまっすぐに見つめながら、「あなたがそんな目にあうところは、あまりにも恐ろしくて考えたくもありません」と言った。
「あなたはきっとシスター同様、悪い人ではないと思います。だから……みんなに見つかる前に、夜が来る前に、安全なところへ避難した方がいいと思います」
屹然とした様子の少女の言葉に圧倒され、詩人は息を飲んでしばらく彼女をただ見下ろすことしかできなかった。
見覚えのない古風な制服、いかにも女学生といった風体の少女、そして彼女の話すことはまるで何十年も昔の戦中のことのようだ。
自分は気が触れてしまったのか、それとも彼女がそうなのか。あるいは映画や小説のように、違う時代に迷い込んでしまったのだろうかと詩人は考えた。しかし、いくら自分に尋ねたところで答えが出るわけもない。
少女はそんな詩人の様子を見て、子供の言うことだから深刻に聞いてもらえていないと思ったのか、さらに言葉を重ねた。
「本当は昼間だって危ないんです。先日も叔父が橋のところで、戦闘機に追い回されるということがありました。迷ったのか、仲間の飛行機とはぐれたのか、それとも何かの任務だったのかはわかりませんが、日中、使いに出た叔父が橋のそばの土手を歩いていると、突然戦闘機が一機だけ飛んできて、叔父のことを銃で攻撃してきたんです。叔父はあわてて橋の下に逃げ込みましたが、戦闘機は角度を変えて執拗に銃を撃ち続けました。叔父は必死になって橋脚の周りをぐるぐると逃げ回ったそうです。そうすると、やがて戦闘機はあきらめてどこかへ飛んでいったということでした。叔父はあのとき死ななかったのが奇跡としか思えない、と言っていました。人生で一番恐ろしい瞬間だったと」
そう話す少女の様子は真剣で、とても彼をからかっているようには見えない。そればかりか、ともすると夕焼け空の中に不穏な音を響かせながら列をなして飛ぶ戦闘機の姿が、彼の視界に映り込んでくる気さえした。カアカアと声をあげ、血のように赤い太陽の前を横切る黒い影が本当に鳥の群れなのかも疑わしく思えてくる。
詩人は混乱しかけている自分の頭と心を落ち着けるように、努めて静かな口調で少女に言葉を返した。
「叔父さんがご無事だったのは何よりだけど……ええと、その叔父さんはおいくつなの?」
そんな詩人の問いを耳にした途端、少女の表情がくもり、その目はどこか虚ろなものに変わったように見えた。
「もう長いこと会っていないので、今いくつなのか、生きているのかどうかさえわかりません」と少女は言う。
さっきは『先日こんなことがあった』と話したはずなのに、彼女の様子はまるで遠い昔を振り返り、懸命にそのときの情景を思い出そうとしているかのようだ。
「あのときはまだ、徴兵の歳にたりなかったのだと聞きました」
そう言う彼女の顔はもはやピンぼけ写真のように曖昧で、はっきりとその造形をつかむことができない。全身に古い映画のフィルムのようなノイズが走り、色を失った白と黒のコントラストの中に、目を焼くような黄昏の赤だけが少女の形なりに染み込んで、その姿をかろうじて浮き上がらせていた。
しかし、それも次第にノイズが激しくなり、少女の形をした影は海に引き込まれるようにゆがみながらするすると移動していく。
詩人はとっさに少女の腕をつかんだ。それが本当に腕かどうかはわからなかったが、少なくとも彼は腕をつかんだつもりだった。
その次の瞬間、少女の姿が元に戻り、さびしげな表情を浮かべる。
「故郷を離れ、もう何年経たつかわかりません。父のつてで新聞社に入社すべく、わたしは田舎から上京しました。そのとき面接にあたってくださったのが当時の編集部長さんで、遠方から一人で出てきたわたしがそのいきさつを話しているうちに泣き出してしまうと、気の毒がって採用してくださいました。何もできない学生だったのに、とてもかわいがってくださって……そこで数年働かせていただいたあと、わたしは結婚して新聞社を退社しました」
そう言う少女の姿はもはや女学生ではなく、大人の女性になっていた。だが、髪型や服装はやはりどこか時代がかって見える。
その様子をじっと目を凝らして見つめながら、詩人は「それから?」と静かに彼女の話の続きをうながした。
「それから……」
大人になった彼女は、記憶をたどるようにぼんやりと詩人の言葉をくり返す。そして少しのあいだ思案に沈んでいたようだったが、やがてぽつりと、「それからわたしは、二度と故郷に戻ることはありませんでした」とつぶやいた。
「結婚した相手の人は再婚で、わたしのことを病気で亡くした前の奥さんと時々間違えることがありました。わたしが違う名前で呼ばれても気にせず『はい』と応えると、声でわかるのでしょう、間違えたことに気づいて気まずそうにしていたのを覚えています。子宝に恵まれ、家はにぎやかでしたが、夫はあまり家にいませんでした。お酒が好きで、飲むと大声を出したり手を出したりするのがわたしは嫌いでした。体を壊したのもお酒のせいに違いありません。最後に家に電話をしてきたとき、夫はわたしにこう言いました。『西に行くと言っては東に行き、東に行くと言っては西に行き、お前にはうそばかりついてきたが、ついには西にも東にも行けなくなってしまった』と。それからまもなく夫は他界し、生活が苦しくなって、わたしは百貨店で働くことにしました。誰にも内緒にしていたので、お姑さんは子供たちに向かって『お前たちのお母さんは今日もおめかしして、どこかへ遊びに行くようだよ』と嫌味を言いましたが、わたしは気にしませんでした。そんな余裕などなかったからです。子供たちも小さかったので、このことは知らないでしょう」
大人になった少女はわずかに目を伏せ、コンクリートの上に長く長く伸びる真っ黒な影を見下ろして小さく息をつく。それはまるで、彼女の長い人生をかたどったものであるかのようにも見えた。
「やがてわたしは再婚し、二人目の夫が旅立ったあとは、彼の店を継いで必死に働きました。途中で店を変え、それは年末年始には行列ができるほどの、地域で一番の店にまでなりました。お客さんたちにかわいがってもらい、たくさんの友人ができ、幸せでした。でも……」
彼女がそう言った途端、再びその全身にノイズのようなものが走り、姿がぶれはじめた。電波の悪い古いテレビのように、途切れ途切れの声が沈鬱な音吐で言葉を紡ぐ。
「病気になり、その店を閉じるばかりか家まで売ることになり、わたしには行き場がなくなりました」
「……今はどこにお住まいなんですか?」
ずれた周波数をなんとかとらえようとするかのように詩人が尋ねると、彼女は顔のない顔をくもらせ、「知らない女の人の家に住んでいます」と答えた。
そんなまさかと詩人は思ったが、それを口には出さず、黙然と彼女を見下ろす。今やその姿は、黒いもやのような曖昧な形に変わってしまっていた。
「本当に、まったく知らない人なんですか?」
やがて静かに詩人がそう訊くと、彼女は泣きそうな声で「わかりません」と言った。
「もう今のわたしには、なにがなんだかわからないのです。火にかけたフライパンの上の水がぶくぶくと泡立つように、わたしの頭の中が音をたてて泡立ち、なにもかもが泡となってどこかへ失われていく気がしてなりません。なにかに集中することができなくなり、誰かの言った言葉も、ついさっき起きたこともかすんでわからなくなります。知らない女の人はそれを怒り、彼女の夫と一緒になって馬鹿にするけれど、わたしにはどうすることもできません。わたしには味方などいないのです。故郷ははるか遠く、身内は誰も残っていない。天涯孤独の身で、こんなみじめな思いをしながら生きるならいっそ……」
言葉の最後は涙でにじみ、不明瞭な悲しみのノイズとなって黄昏の中に溶けてしまった。
「……今の季節、海の水は冷たいよ」
そう言って詩人が握ったままであるはずの彼女の腕を引き寄せると、その視界に映る人影は、いつの間にか黒い制服をまとった女学生の姿に戻っていた。その足下に視線を落とす。質の良さそうな小さな革靴がきちんと彼女の足にまだおさまっているのを見て取り、詩人はかすかに安堵の息をついた。
その瞬間、「お母さん!」と叫ぶ女の声が響く。
彼が声のした方へ顔を向けると、中年の女が必死の面持ちでこちらへ駆けてくるのが見えた。
「こんなところにいたのね! 心配したんだから」
声を荒らげながらも、女は安心したように大きな息をつく。
そしてふと、自分が母と呼んだ人の腕を日本人離れした容姿の青年がつかんでいることに気づき、ぎょっとした様子で二人のあいだに割って入った。
前に立ちふさがるようにして詩人の方へ向き直り、「あなたは……?」と、いぶかりながら険しい視線を送る。
警戒する彼女に小さく微笑み、詩人は言った。
「ぼくは悪魔や魔物に見えますか?」
「え……?」
女はわけがわからないといった表情を浮かべ、言葉を失ってその場に立ち尽くす。
その『娘』のうしろから、『母』が静かな声で「いいえ」と答えた。
「いいえ、きっとそれは、あのお酒の席で恐ろしい話を語った人や、彼をそんな風にしたものを言うのでしょう。なんの脅威にもならない、小さな子供だった叔父を撃つことが正義であると思わせたものを言うのです」
詩人はそれにうなずき、言葉を継いだ。
「そして、あなたの頭の中を食い荒らそうとしているものでもあると、ぼくは思うよ」
そう言って詩人は一度、彼女をかばうようにして前に立っている女の方へと視線を向け、再び少女に言った。
「ぼくがあなたと一緒にそれに立ち向かうことは、残念だけど、きっととても難しい。それができるのはたぶん、その人だけだ」
彼女が『知らない女の人』と呼んだ、『娘』である眼前の女だけ。
「ごめんね」
詩人が申し訳なさそうにつぶやくと、少女ははっきりとした声音で、「あなたがその優しさを恥じる必要はありません」と応えた。
そして口をつぐみ、魂を失ったようにぼんやりとした無表情を浮かべる。その顔が造形を失い、黒いもやに包まれると、彼女はまた幽霊のように曖昧な存在へと姿を変えてしまった。
それを恐ろしいと感じないのは、詩人もまた、彼女が言ったものの方が恐ろしいと感じるからだろう。あるいはそんな風に、彼女に自分を見失わせてしまうものをこそ、恐れるべきなのだと。
「ご家族ですか?」
ふいに視線を中年の女の方へ移し、そっと尋ねた詩人に、女は驚いた様子で目をぱちくりさせながらうなずいた。
「え、ええ……この人の長女です」
またしても唐突に投げかけられた問いに、困惑気味に女が答える。
その返答に詩人は何も言わず、ただうなずき返した。
堤防の上の街灯に明かりがともり、白い人工の光が無機質に周囲を照らし出す。その冴え冴えとした冷ややかな現実の明かりの中にいるのは、異国風の青年と戸惑った様子の中年の女、そして上質な靴を履いた小さな老婦人だけだった。
赤い夕日の残り火はいつのまにか失われ、あたりには寡黙な夜の闇が迫ってきている。
詩人の意識の外に追い出されていた波の音が息を吹き返し、忘れ去られることを恐れるように、ざあざあと声高にさざ波をたてていた。
「あの、母は認知症なもので……ご迷惑をおかけしたならすみません」
中年の女が不安そうに言って、背後の小さな母親を振り返る。
それに詩人は「いいえ」と短く答え、かすかな笑みを返すと、そのままその場を立ち去った。
ひやりとした街灯の明かりは、年齢の違う二人の女たちをただ静かに照らしている。
中年の女は遠くなる詩人のうしろ姿と、かたわらにいる小さな母を何度か交互に見やり呆然としていたが、やがて疲れたように息をつくと、子供の手を引くように母親の手を取り、いつものように先に立ってゆっくりと歩き始めた。
歩幅が狭く、足を動かすのも億劫な様子の母の歩みは遅い。だが、不思議とその足が止まることはなかった。
「……今日は嫌だって駄々をこねないのね。いつもなら、わたしの家じゃないから帰らないって言うのに」
母親の方へと視線を落とし、皮肉っぽく娘は言うが返事はない。もう長いこと、会話らしい会話は彼女たちのあいだで成立していなかった。
「そんないい靴を履いて出てきたの? どこに行くつもりだったのよ、そんなに長く歩けやしないのに」
娘はそう言ってもう一度大きなため息をつく。
いつまでこの重苦しい日々が続くのだろう、と彼女は思った。母に消えて欲しいとは決して思わないが、時々、この日々のくり返しが終わることを望んでしまう。それがどれほど恐ろしい望みであるかわかっていながら。
あるいは、と彼女は思った。昔に戻れたらいいのにと。
「いい靴を履いて、おめかしして、また一緒に映画でも見に行きたいわ」
ぽつりと独り言のように彼女はつぶやく。
すると背後から「そうね」と快活な返事が響いた。
驚いて彼女はふり返り、少しうしろを遅れて歩く母の顔を見下ろす。しかし、そこにはいつもの無表情を浮かべた小さな老女の姿しかなかった。
そんな彼女の訃報が詩人の下もとに届いたのは、それから数ヶ月後のまだ雪の溶けきらない冬の終わりごろだった。ファンレターに混じって送られてきたその手紙は、彼女の娘からのものだ。書店で偶然彼の著作を見つけ、あのとき会った青年だと気づいたのだという。
彼らが出会った日以来、母親は一人で夕方に外へ出て行くようなことはなくなったと手紙には記されていた。相変わらず彼女の記憶と会話はかみ合わないままだったようだが、最期はやけに穏やかな様子で、静かな旅立ちであったとのことだ。
詩人はすぐにお悔やみの手紙とともに、一編の詩をその娘に送った。まだ幼かった彼女の知らない、母親が語った人生と思いを。その詩の題を「逢魔が時の幽霊」という。
少女が話していることのほぼすべては、今は亡き私の祖母が話してくれたことを元にしています。
橋脚で少年が戦闘機に追い回された話も、拷問の話も、彼女から実際に聞いたもの。
記憶に関する部分も、病気でアルツハイマーのようになり、記憶を失うことが増えた彼女が言っていたことです。
この小説の少女と違って、祖母は自ら死を望むことはなかったですが。
病気で死にかけて生還した時、死ぬのって別に怖くないなと思った、と言っていたのが強く印象に残っています。
お嬢様でちょっと世間知らずで天然なところもあったようですが、強い人でした。
詩人は創作。その他超常現象的なことも創作。少女の娘も創作。
親戚中の誰もが祖母の記憶が失われて人格が変わるのを認められず、彼女と上手く付き合えなかった中で、一時期誰よりも彼女と共に時を過ごしていたくせに過去の彼女に執着しなかった私だけが、変わる彼女と一番上手く付き合えていた気がします。
彼女は妄想に近い話もしていたけど、それを否定しても誰も幸せにならないなら、現実でなかろうがどうでもいい、穏やかに一日過ごせるほうがいいだろうと思って、半分くらい彼女の世界の中に立って一緒に過ごしていました。
平和でした。