★【現代】親愛なる名前も知らないあなたへ
楽曲をモチーフにした小説を書く、みたいな企画で書いた短編小説。
歌詞の内容をモチーフにしていますが、この小説自体はオリジナルです。
何か問題があった時は削除します。
彼は絵を描くことが好きなだけの少年だった。他に大した取り柄があるわけではないが、そのかわりに特段悪いところも見当たらない、ごく普通の子供であったと言える。
両親は絵心もなければ芸術への関心もなかったものの、少年の描く絵を親らしくほめることは怠らなかった。そこに特別な言葉は必要ない。ただ笑顔で「よく描けたね」「すごいね」と言われるだけで彼は満足だった。
あるいは、小さな子供でしかない自分が絵を描くことで大人を驚かせられること、笑顔にできることが誇りであったのかもしれない。
学校に通うようになってからも絵に対する関心は薄れるどころかますます高まり、少年は暇さえあれば絵を描いて過ごすようになった。
時折、クラスメイトが彼に絵を描いて欲しいとやってくる。それはアニメや漫画のキャラクターだったり、ロボットであったり、あるいは動物や乗り物の絵だったりと題材はさまざまだったが、少年はどんなものでも喜んで描いたから、クラスではそれなりの人気者だった。
運動も勉強も目立ったところがなく、ともすればいじめの格好の的にされそうなほどおとなしい彼が、平和に学校生活を送れたのもその人気のおかげだと言っていい。
もっとも、彼よりも絵がうまい生徒は学年に何人かいたし、少年自身も彼らに対して「あの子は僕よりずっと上手に絵を描くな」と感じたが、そんな同級生たちに嫉妬することはなかった――というのも、結局のところ彼にとっては絵を描くこと自体が何より楽しく、その絵を見て誰かが喜んでくれればそれで満足であり、技術に対する評価はおまけのようなものだったからだ。
もちろん画力をほめられれば嬉しいが、彼は絵を描くことで得る体験と経験、そして絵というものがただ好きなだけの少年だった。
「君は絵描きになるの?」
「どうかな。なれたら嬉しいけど」
「絵が描けるんだから絶対なれるって」
「ちょっと描けるくらいじゃプロにはなれないよ。僕より絵がうまい人はたくさんいるからね。隣のクラスのあの子とか」
仲の良い友人にそう言って穏やかに笑うくらい、少年は自分の画力がどの程度のものであるかも客観的に理解していた。
自分が一番絵がうまいわけではない。その事実に特に危機感を抱くでもなく、むしろ絵のうまい子と仲良くなりたい、その子の絵をもっとたくさん見たいとさえ少年は思う。憧れを抱いていたと言ってもいい。
それを友人に話すと、悔しいとは思わないのかと不思議そうに尋ねられたが、少年は逆に何故悔しく思うのかと首をひねった。
素晴らしい絵を見た時、胸の内側から言葉にできない思いがあふれ出し、それが全身に満ちて魂と肉体の隙間が埋まるような感覚を覚える。その状態で絵の細部に目を向け、心の中にある手で触れれば、筆遣い一つ、色遣い一つに指先が震え、そこから色とりどりの感情が、思いが無数の花となって開き、心を埋めつくす――それが少年にとっての絵という存在だった。そんな極彩色の奔流にのまれ、競争心など少しも湧いてこない。
それほどまでに絵という表現法を彼は純粋に愛していた。
そして、少年のそんなところを友人は気に入っていたのだろう。
「俺は小説家になるから、そしたら君が表紙を描いてよ。俺は君の絵が好きだからさ」
それに少年は笑って「いいよ」と応える。
友人からもらうそんな他愛ない言葉だけで少年は満足だったのだ。
そんな彼と絵との関係を少し変えたのは、ある日親戚から持ちかけられた「会社で使うポスターの絵を描いて欲しい」という依頼だった。
どうやら両親から彼が絵を描けることを聞き知ったらしい。
正月に顔を合わせて挨拶をする程度の相手だったので、その話を聞いた時、少年はひどく驚いた。自分の絵が会社という大人の世界で求められるなど初めてのことだ。
それは少なからず少年の自尊心を刺激したし、そういった場で使われる絵――一種の仕事としての絵を描くということがどういうことであるか知りたいという好奇心もあった。すでに存在するものを真似て描いたり、自分の心のおもむくままに描くのではなく、他者の持つイメージを形にするということにも。
「まだ学生だし、仕事だとかたく考えずに趣味の延長で描いてくれればいいから」
そんな言葉もあり、少年は特にためらいもせずにその依頼を引き受けた。
しかし、インターネットを介して届いた発注書は発注書と呼ぶにはあまりにも曖昧で漠然としており、どういった絵を求めているのかさえ判然としない。プロの絵描きがそれを見たら、依頼主がこれまで絵の依頼をしたことがなく、絵にも明るくない者だとすぐに判ったことだろう。そして、これは面倒な依頼人につかまったと思ったに違いない。
だが、そういった絵の依頼を引き受けたことのなかった少年にはそんなことなど判るわけもなく、彼は「もっと具体的で詳しいイメージが欲しいな」と感じたものの、それを要求するのは失礼だろうと思い、つかみどころのない発注書だけを頼りに真面目にそれに取り組んだ。
求められているものに関する少ない情報をあらゆる方面から眺め、掘り下げ、解釈を積み上げる。
そうして苦心の末に何とか書き上げた作品を依頼主である親戚に送った。
相手のイメージ通りのものになったかどうかは正直自信がなかったが、絵の出来としては悪くない。今まで描いてきたものの中でも、とりわけ意欲的な作品になったとさえ少年は思う。
きっと喜んでくれるだろう。そう思いながら少年は返信を待った。
ところがなかなか相手からの反応がなく、一週間ほどしてようやく届いたのは「もう少しこういう感じに描き直して欲しい」という修正依頼だった。しかも今度は、こういったものをモチーフとして中央にはこれを描いて欲しい、というような細かな注文付きだ。
そんな具体的なイメージがあったのなら最初から知らせてくれれば良かったのに、と少年は内心で不満をこぼした。それというのも、すでに送った作品を手直ししてどうにかなるような小さな変更ではなかったからだ。
「送った絵ではだめでしたか?」
そう少年は尋ねたが、「悪くはないけど、せっかくだからこれを描いて欲しい」という要求がくり返されただけだった。
ほめ言葉もなければ礼の言葉もない。それらを第一に求めて引き受けたつもりではなかったが、どうにも釈然としない思いだけが残る。
だが一度引き受けた以上、ここで投げ出すことは彼の真面目さと完璧主義的なところ、そして絵に対する情熱や自尊心のようなものが許さず、少年は仕方なく注文通りの絵を改めて描くことにした。
正直なところ、そちらの方が明確な発注があった分、描くのは簡単であったと言える。指定された構図もなかなかに斬新で、描いていて楽しくなかったわけではない。
しかし何かに操られているような、何かをなぞりながら絵を描いているような落ち着かない感覚が少年の中に残った。
きっとこんな風に注文を受けて描くのが初めてだからだろう。
少年は自分にそう言い聞かせ、前の作品よりも短い期間で描き上げた新しい絵を親戚のもとに送った。
すると今度はすぐに連絡が来たが、それもやはり「ここはこうして欲しい、こんな感じにして欲しい」という細かな修正依頼だった。
幸いなのは、それが少し手を加えればすむ程度のものだったことだろう。
また新しく描かずにすんで良かったと少年は安堵し、言われた通りに修正をした。すると再び修正依頼がやって来る――それを何度かくり返し、ようやくその依頼は完了したのだった。
「仕事で絵を描くことの大変さって、何だか思ってたのとちょっと違うな」
それが少年の抱いた素直な感想だった。
もっと技術や表現力を求められるような難しい絵を描くものかと思っていたのに、それ以前のことで苦労した気がしてならない。
他人のイメージを理解して形にするっていうのは思った以上に難しいんだな、と少年は思った。
この件がそれで終われば少年の感想はそれ以上なく、絵に対する彼の思いが変わることもおそらくなかっただろう。
あるいはこの世界にSNSというものが存在しないか、少年がそれを見る機会さえなければまた話は違ったかもしれない。
しかし、不運にも少年は自分が描いた件の絵が「○○社のポスターのパクリだ」とインターネット上の一部で言われているのを知ってしまった。
「改悪劣化版」
「パロディにしても出来はいまいち」
少年が何度も修正をして描き上げた絵が、本名も顔も見えない電脳世界で、液晶の向こうに住む匿名の幽霊のような人々によって容赦なくこき下ろされていた。
実際、確かに比較されている絵は彼があとから描いた絵によく似ている。構図がほぼ同じで、中央のモチーフを変えただけの出来の悪い模造品と言われても仕方がないほどだった。
「あんな絵にしたのは僕の意思じゃない。ああいう絵を描けと言われたからだ」
少年はそう思ったが、それが他社のポスターの盗作とまでは言わないまでも、それを意識した非常によく似たものに仕上がってしまっていることに違いはない。発注通りに描いただけとはいえ、それが既存のイメージや作品である可能性を考えもせず、自ら調べようとしなかった少年の努力不足や勉強不足だと言われればそれまでだ。
だが、そうだとしても少年はこの一連のことに憤りを感じずにはいられなかった。
何故パクリなどと言われるようなものをわざわざ描かせたのか。
そんな苦い思いさえ、依頼主の倫理観や人間性をよく知りもせず無条件に信用して、言われるがままに描いた怠慢さが原因だと反論されれば返す言葉もない。
まだ学生で子供だとしても、公の場に出すものとして引き受けたのなら、それらは決して怠るべきものではなかったことを少年は痛感した。
当初の話の通り、「学生だし、仕事だと考えずに趣味の延長で」と言われていたため対価はない。無償で絵を二枚描いて得られたのは、何度も修正を重ねた挙句の盗作呼ばわりという、授業料にしては高すぎる悪評だけだった。
あの絵を描いて、一体誰が喜んでくれたのだろう?
少年は生まれて初めて、絵を描くことの意味が判らなくなってしまった。
自分が好きで描いていたはずなのに、誰かに喜んで欲しくて描いていたはずなのに、あれは本当に自分が描きたかったものだったのか、喜んでくれた人がいたのか。
それらを肯定するものを少年は何一つとして見付けることができなかった。
せめて依頼主である親戚に何か一つくらい物申したいと思い、少年はインターネット上で囁かれている例の絵の悪評を伝えたが、インターネット事情に疎い相手はさして気に留める様子がないばかりか、それで話題になっているなら宣伝としては成功だとまで言い出す始末だ。
少年はポスターの絵を最初に送った方に変えてくれるよう伝えると、それ以降は自ら連絡を取ることをやめた。
もはやあの人からの依頼は受けまい、と心に誓う。
それと同時に、公の場に出すことを目的とした絵の依頼を無償で引き受けることもやめようと少年は思った。
他人の求めるイメージを自分の中で解釈し、それを描き出すことの面白さは確かにあるが、それを上回るプレッシャーや難しさ、最初に明確な発注をしてくれない依頼主とのやりとりによるわずらわしさや修正の手間などを鑑みると、有償で受ける仕事だと割り切らなければやっていられない、というのが本音だったからだ。
金銭のやりとりがあるからこそ手は抜けないという自分への戒めにもなるし、「お金をかける以上は真っ当な発注をして良いものを描いてもらおう」と依頼人に思わせることもできる。それは両者にとって有意義で、お互いが満足するために必要なことであると少年には思えたのだ。
そしてその結論を下した瞬間から絵は少年にとってただ楽しく、美しいだけの存在ではなくなってしまったのだった。
それからというもの、少年は自分の描いた絵が「劣化版」などと言われないよう、いっそう絵の練習に励んだ。芸術系の学校に通いつつ、何時間もデッサンや模写、スケッチをしたり、技術書や解説書を読み漁った。インターネット上で絵を描く依頼を引き受けることもあれば普通のアルバイトもしたが、そうして得たお金が画材と資料の類に消えることも少なくない。
しかし、そうした努力にもかかわらず彼の画力は次第に停滞を見せ始めた。
確かに少年は昔から一番絵がうまかったわけではない。だが、超一流にはなれなくても、普通にプロの画家としてやっていけるくらいにはできるもの、なれるものだと思っていた。
ところが、蓋を開けてみればプロと呼ぶには技術もセンスもあと一歩たりない、「素人にしては絵がうまい」程度の中途半端な存在にしかなれていなかったのだ。
彼が自分より絵がうまいと認めていた者たちがたちまち人気を得て社会に認められていく中、彼一人だけが大して注目を集めることもなく、絵描きというピラミッドの「底辺」と彼が認識する領域でくすぶり続けている。
かつて隣のクラスにいた絵のうまい子がインターネット上で神絵師などと呼ばれ、もてはやされているSNSを見ることは少年に焦燥感と苦痛を与えるばかりとなり、伸び悩む才能を嘆く彼をなぐさめる友人の言葉も、一時の麻酔程度にしかならない。ごく一部の見知らぬファンからほめ言葉をもらっても、自分よりはるかに高いピラミッドの上層にいる者たちが受ける賞賛の数の前にそれらはかすんで見え、ほめられたその場では泣き出しそうなほど嬉しくても、いずれはむなしさに変わるばかりだった。
まるで差し出された切り花が手の中で瞬く間に枯れていくのを見るかのようだ。
クラスメイトに頼まれて絵を描いていた時は、技術など気にしなくてもみんな喜んでくれた。他の誰かの才能に嫉妬することもなく、素敵な絵を描く子だと憧れるだけでいられた。
それが今はどうだろう。絵を練習すればするほど、勉強すればするほど、才能のなさだけが評価の数によって彼の中で浮き彫りにされていく。心をひきつけられた他人の絵も、今では彼に「お前にはこんな絵なんて描けないだろう」「下手くそ」と吐き捨てて胸をえぐっていくばかりだ。
しかも不運なことに、少年は絵の依頼人や交友関係にも恵まれなかった。何度か受けた絵の依頼の中にはやたらとケチをつけた果てに解約する者や、ひどい場合は代金を未払いのまま失踪する者さえいたし、絵描き仲間によるちょっとした企画に携わることになって打ち合わせに出向いてみれば、実際は何故か合コンだったなんてこともある。
「結局、誰も僕のことも僕の絵も必要としていない」と、少年が自分に失望し、人間不信に陥るのにさほどの時間はかからなかった。
周囲の人々に降り注ぐ光はあまりに眩しく、それを受けた彼の足下に作られる影はあまりにも暗い。
少年はインターネット上で輝かしく華々しい活躍をする元同級生や同業者たちが視界に入らないように彼らをブロックし、現実世界の交友関係も少しずつそっと切っていった。その痛みに気付かないように。
それは少年が自ら引いた途絶の線であり、その手で掘った小さな溝だったが、それはいつしか深く大きなものとなり、少年を取り囲む壁――彼自身を守る盾となった。
その内側は宇宙のように暗く静かで空虚だが、それゆえに彼を傷付けるものもない。
最初に少年に絵の依頼をした親戚に関しては、再び絵の話を持ちかけられたこともあったが、有償での依頼なら引き受けると応じると何度か無料で描いて欲しいとごねた末、聞き入れてもらえないと判るや否や向こうから連絡を絶ったので、精神をすり減らしている彼の手がそれ以上わずらわされることはなかった。
そのことで親戚と両親の仲が悪化したところで、もはや実家とも疎遠となっている少年の気に病むことではない。背を向けて目を閉ざし、耳をふさいでいれば彼が傷付けられることは絶対にないのだ。
だがそうして得た平安と引き換えに、少年は自ら築いた壁の中で孤独にさいなまれることになった。
壁の中にはごくごく一部の細く小さな声しか届かず、少年が寂しいと呟いても応える者はない。
かつてはお互いの将来について話した友や、少年のことを気にかけている誰かが壁の向こうからこちらをのぞき込み、ためらいがちに手を伸ばしても、少年がその手を取ることはなかった――いや、できなかったと言った方が正しいかもしれない。差し伸べられた手を取る価値など自分にはないと彼は思っていたし、自分のために相手が時間や労力を費やすことが心苦しくもあり、万が一にもその手を取ることで相手が転げ落ちて怪我をするようなことがあったらと、恐怖すら感じた。それは相手に対する恐れではなく、自分の無価値が生む出す、他者へのあらゆる損害に対する恐怖だ。
そんなものを抱えてしまうくらい少年は他者に誠実で、謙虚で、そして無害であろうとし続ける、真面目すぎるゆえの甘え下手だった。
助けて欲しいと声に出してみても、いざ誰かが振り向くとすぐさま自分の存在意義のなさに足を取られ、身をすくめてしまう。
体の中を流れる血液のかわりに、すぐ目詰まりを起こす別の良くない何かが巡っている気がした。誰かに利用されたり裏切られたりすることさえ、自分の中にある罪に似た悪いもののせいであると思えてくる。
それらを自分の内から追い出そうとするかのように少年は自分の左腕を何度も切っては、その傷口から流れ出て行く赤い液体を睨みつけた。
小さな部屋の中に満ちる鉄臭さが鼻腔をかすめるが、もはや嗅ぎ慣れたそれに顔をしかめることもなく、カッターや果物ナイフで刻んだ傷の痛みさえろくに感じられもしない。むしろ赤く引かれた腕の線からあふれてくるものが自分の中によどむ愚かさや醜さ、許しがたい存在を証明するどす黒い何かであるように思え、それが体の外へ出て行くのを見ると安心感さえ覚える。
それが今の少年が感じられる唯一の感覚だった。
彼は今や何を食べても味など感じられず、時折部屋を埋める錆びた鉄のような匂い以外のものを嗅ぎ分けることができない。彼を守る壁の内側は耳が痛いほどの静寂に満ち、音楽をかけても目に見えない波が空気をかすかに揺らしていくだけであり、視界に映る何もかもが色あせて見える。絵筆からキャンバスに塗り付けられた絵の具もたちまち生気を失うかのように無色の無価値へと姿を変えていった。
そんな何の役にも立たないがらくたばかりが積み上がり、少年を圧迫していく。それは次から次へと壁に取り込まれ、徐々に少年の方へ迫りつつあった。
壁の内側の空気は鉛のように重い。それは少年の口から吐き出されるたびに地面に落ちてはいつまでも居座り続け、やがては足下にたまって鎖のように彼の足をからめ取った。
鉛でできた鎖を足に付けられたまま、海の底に沈んでいく錯覚にとらわれる。助けてと叫べば叫ぶほど自分の中からあふれる己の無意味さに溺れることのくり返しで、水面などもはやはるかに遠く、光などどこにも見えない。この苦しみの海の底から、この分厚い壁の中から連れ出してくれる者などどこにもいないのだ。
時間さえ彼を見放したかのように頭上を素通りして行くばかりで、左腕に増え続ける切り傷が癒えることは決してなく、少しずつ引っかくように削られ、えぐられて歪んだまま欠けていく心の傷もまた癒えることはなかった。
時間が解決してくれると言ったのは誰だろう。
何千年、何億年と途切れることなくこの世界を支配し続けている時間さえ、少年が望むと望まざるとに関わらず作り上げるしかなかったその小さな世界を変えることはできないほどに無力だった。
「もう終わりにしよう」
少年はついにそう思い立ち、絵の道具をすべて処分すると自宅から一番近くて一番背の高いビルに向かった。これまで自分が築き上げてきたものを自ら踏み崩し、それを足がかりに高い高い壁を登る。
頂上に立って足下を見ると下からは強い風が吹き付け、その冷たさと地上の遠さに体がすくんだ。
相変わらず周囲には音なんてないし、誰もいない。少年はここに来ることを誰にも伝えなかったし、少年がここから飛び降りても誰も悲しむ者はないだろうと思った。それくらい意味のない存在であることなど彼自身が一番よく判っている。
だから少年は一つ大きく息を吸うと、何もない空へ足を踏み出した。何もないそここそが自分の帰るべき場所だというように。
ふわりと体が宙に浮くのを感じた瞬間、少年の肩を誰かが叩いた――気がした。
反射的に振り返り、スローモーションのようにゆっくりと遠ざかる頭上を見上げる。そこにいる誰かは少年と同じ顔をしていた。
「何で」
ひどく驚いた顔で少年が呟き、その細い腕をつかんでいる僕を見上げた。
「判らない」
少年の重みを両腕に感じながら僕は答える。本当に理由なんて判らなかった。
もう生きている意味なんてない、終わりにしよう、そう思ってこのビルの屋上に来ただけだ。そのはずなのに――先客がいるなんて思いもしなかった。
「生きてたって意味がない」
少年が再度、呟くように言う。
その言葉に僕は旧友に会ったかのような感情を覚えた。
「判ってる」
「判るわけない」
怒ったような声なのに泣きそうな顔で少年が反論し、それに僕はもう一度「判るよ」と答えた。
「君のことは知らない。名前も、何も。でも判るんだ。僕も君と同じ理由でここに来たから」
それを聞いた少年の丸い目が大きく見開かれ、すべてを理解したというように――あるいは憐れむようにわずかに細められた。
「なら判るでしょ」
大きな目に涙をためて微笑む少年の顔が僕自身と重なる。
時間の無力さを感じるほどに僕の上には時が流れた。「少年」はいつまでも「少年」だったわけじゃない。
僕は目の前でビルから飛び降りようとした彼の腕をつかんだ瞬間、彼に自分の過去を重ねていたことに気が付いた。あまりに長く感じた壁の中の僕がかぶって見えたのは、ほんの一瞬のまばたきの間だけ。
僕が助けようとしたのは今この腕につかんでいる名も知らない少年なのか、それとも自分自身だったのか。
そんなことなど今の僕には判らなかったが、少年の言った言葉の意味は判った。死にたいという気持ちが。
でも――。
「判るけど、できない」
僕はそう言って何とか少年を引き上げようとしたが、左腕に痛みを覚えて思わず顔をしかめる。傷口が裂けるような鋭い痛みを感じた。
おかしい。初めて皮膚に刃をあてた時だってこんなに痛いとは思わなかったのに。今はその傷を作ってしまったことを悔やむほど痛む。こんな小さな少年を引き上げることさえ難しくしてしまうなんて。
僕は少年を手放してしまう恐怖にかられ、荒く息をしながら言った。
「何故この手を離したくないのか、その理由は判らないけど、今ここにいる君に死んで欲しくない」
そう思う理由さえ判らないけど。
いや、理由などきっとないのだ。目の前で死に向かって落ちていく人に手を伸ばすのは、社会的動物である人間の本能だろう。それ以外の理由なんてあるはずがなかった。だからこんなことをしたって意味はないし、救いなんてないのも判ってる。
「それでも君を」
あるいは僕を。
「見捨てることも、あきらめることもできないよ」
そう叫んで僕は全身の力をふりしぼり、少年を引き上げた。
どこかから、誰かの呼んだパトカーのサイレンの音がする。目の前からは少年の泣き声。
不意に僕の世界に音が戻った気がした。感じなかったはずの痛みも、涙の味も。
いつの間にか僕も少年と同じように目からあふれる海に溺れながら、声をあげて泣いていた。
その声が少年のものと重なる。かつての僕と、名前も知らない君――二人分が溶けて混ざって、僕の肩を叩いた。
「彼」は「少年」であり「僕」。
そして「僕」が屋上で出会った「少年」は、たまたま同じ目的(投身自殺)でやってきていた知らない少年。
彼には少年の気持ちがよくわかるし、その少年を見捨てられないというのは、自分も見捨てられないということ。そんな話。