☆【現代/恋愛】とある文学少女の告白
「告白代行」というお題で書いた短編小説。
恋愛感情を持たない人間が、何とか恋愛小説のようなものを書こうとした無残な結果。
ほんのり百合。
音読動画→https://www.youtube.com/playlist?list=PLda4Rk1pUYt9_r_2fgNUNZg46IRVZ760p
今年の春から双葉が通い始めた高校は、地元の駅から電車で数駅行った先の郊外にある。
わずか十数分の乗車のために、毎朝ラッシュの渦の中へ飛び込まなければならないのは億劫だが、彼女は決してその登校時間が嫌いではなかった。何故なら、家から地元の駅までは幼なじみの壱と一緒に行けたし、駅に着いてからは中学の頃から親友の三己と共に登校できるからだ。
壱は学年が二つ上だが同じ高校なので、本当は壱も三己と一緒に三人で登校すればいいのにと双葉は思うのだが、自分は男だから女性車両には乗れないし、二人を一般車両に乗らせるのは悪いからと言って、壱は駅に着くと一人で別の車両へ行ってしまう。
一つ前の駅から乗り換えて来る三己は双葉たちよりも到着が遅いこともあって、二人が顔を合わせる機会はない。
よって、駅までの道すがら、直接面識はないはずの壱の口から不意に三己の話題が出た時、双葉は驚きのあまり「今、何て?」と訊き返してしまった。
それにいつも通りの淡白な口調で壱が同じ言葉をくり返す。
「だから、お前の親友の作家先生にラブレターを書くなら、どんなのがいいのかなって」
「どんなのがいいって……いっちゃんが書くの? ラブレターを? ミミちゃんに?」
「さっきからそう言ってるだろ」
呆れたように壱は言って、双葉から視線をはずした。そして、彼らと同じように学校や会社へ向かう人々の姿がまばらに見える、いつもの朝の風景へと目を向ける。
「彼女、小説を書くのが趣味なんだろ? 俺は国語が苦手だからさ、俺の文章力で書いても絶対気を引けないと思うんだよな」
双葉の方を見ることもなく、まるで独り言のように呟く幼なじみの横顔がまったく知らない人のように見え、双葉は困惑しながら「えっと……」と曖昧な相槌を打った。
しかし、そんな彼女の様子など気にした風もなく、壱は言葉を続ける。
「だからもし良ければ、彼女の親友であり詩人でもあるお前に、ラブレターを書くのを手伝って欲しいんだけど」
「詩人ってそんな……ただ趣味でちょっと詩を書いてるだけだよ」
「感想文を書けと言ったのに新聞記事みたいな感情のかけらもない作文を書いてきた、と怒られた俺からすれば立派な詩人だよ」
壱はそう言って双葉に苦笑してみせた。それに少しどきりとしてしまうのは、たとえ関心のない分野であっても、自分より優れていると感じた人間には平然と彼は敬意を表すからだろうと双葉は思う。
自分の興味がないことには価値を見出さない、自分の周囲で評価されているもの以外には価値がないと思っている同級生が多い中、彼らの間でまったく注目されない詩という趣味を持つ双葉のことをほめてくれるのは、この壱と三己くらいのものだ。
だから双葉は彼らのことが大好きだし、どんなことでも力になりたいといつも思っている。だが、その二人の間を取り持つ手助けをすることになるとは、考えてもみなかった。少なくとも友人以外の関係は想定外だ。
「いっちゃんがミミちゃんにラブレターって、あまりにも意外すぎて……いつ知り合ったの? いっちゃんは剣道部だから私たちのいる文芸部とは縁がないはずだし、そもそも学年も違うのに」
疑問ばかりが双葉の頭に浮かぶ。
しかし、壱は「ちょっとな」と短く答えただけだった。その感情の読めない口調と無表情な横顔は、いつもの彼のように見える。そのことにほっとしつつも、違和感をぬぐえないまま双葉は言葉を返した。
「本当に本気なら手伝ってもいいけど……私にできることはあんまりないんじゃないかな。いっちゃんらしい文章と言葉で伝えるのが一番だと私は思うよ?」
「新聞記事とか、辞書や論文みたいなラブレターをもらって喜ぶ女は少ないだろ」
「ミミちゃんに限らず、論文みたいなラブレターは、もらっても確かに困りそうだけど……」
「じゃあ、俺がふられるための論文を書き上げる前に助けてくれ」
そう言われては反論の余地もなく、双葉はただ首を縦に振るしかなかった。
双葉が壱の家を訪れたのは、その週末の昼過ぎのことだ。
仕事の付き合いや友人との約束で壱の両親は家を空けており、双葉を出迎えたのは壱一人だけだった。
「おじさんとおばさんはお元気? 最近お会いしてなかったけど」
「普通」
相変わらず淡白な返事を返し、壱は先に立って自分の部屋へと向かう。それについていった双葉は、数年ぶりに幼なじみの部屋へ足を踏み入れるなり、「わあ」と小さく声をあげた。
「しばらく見ないうちに、パソコンオタクに磨きがかかったみたいだね」
昔はノートパソコンが一台載っていただけの勉強机には、デスクトップパソコンが二台と液晶ディスプレイが三台並べて置かれている。
壱はそのうちの一つのパソコンと液晶ディスプレイの電源を入れながら、「仕事用とゲーム用で分けたくてさ」と言った。
その言葉に双葉が目を丸くする。
「仕事?」
「そう、プログラミングの仕事。フリー、シェア両方のソフトをいろいろ出してたら、声をかけられてさ。たまに外注を受けてる」
「す……すごいね」
壱の口にした用語はよく判らないまま、とりあえず仕事にしているのはすごいことに違いないと思い、双葉が呆気に取られながらも平凡すぎる称賛の言葉を呟く。
しかし、壱は皮肉っぽく「俺はパソコンだけが取り柄だからな」と言って肩をすくめてみせた。
その白い顔に液晶の光が当たり、ディスプレイに表示されたログイン画面が自然光にはない冷ややかな陰影を作る。
手慣れた様子でログイン操作をする壱の横顔を見ながら、双葉は「そんなことないよ」と反論した。
「パソコンだけってことはないでしょ。いっちゃんは数学だといつも学年トップスリーに入ってるって聞くし、剣道も大会で優勝したことがあるくらい強いって聞いたもん」
「優勝したのは一回だけだし、たまたま運が良かっただけだ」
そう応える壱の口調は、まるで他人事であるかのように無関心そうだった。
双葉はそれを不満に思い、「充分すぎるくらいすごいって」と言葉を重ねる。
そんな彼女の方へ顔を向け、壱は「それで充分じゃないから、お前に来てもらったんだよ」と言った。
その言葉に何故か少し、双葉は胸のあたりに痛みを覚える。それは、壱からラブレターを書くのを手伝って欲しいと言われてからずっと彼女をさいなんでいた。
幼なじみとして彼の恋の成就を願うべきであるはずなのに、幼なじみを親友に取られるような、あるいは親友を幼なじみに取られるような、複雑な気持ちになる。そして、そんな気持ちを抱いてしまう自分は何と嫌な人間なのかと、うんざりしてしまうのだった。取られるも何も、彼らはそもそも自分のものではないのに、と。
しかし、壱は双葉の心境など知る由もなく、起動させたワープロソフトの画面を指差して「とりあえず自分でここまでは書いたんだけど」と、普段通りの語調で言った。
その言葉に我に返り、双葉は慌ててパソコンの液晶画面をのぞき込む。そこには無機質な活字で書かれた愛を伝える言葉が数行並んでいるだけだった。
わずかに双葉の表情が曇る。
「悪くはないけど、ラブレターにしては淡白すぎかな……」
「つまり?」
「何か、数学の文章問題みたいっていうか、解き方の解説みたいな……」
「ラブレターとしては失格ってことだな」
自ら結論を導き出した壱に、双葉はただ頷くことしかできなかった。何とかラブレターとしてほめられるべきところを挙げたいのだが、読めば読むほど彼の文章は「相手に要件を簡潔かつ正確に伝える」ことに特化した、ラブレターとは対極のものであるように思えてくる。
「文章としては全然悪くないんだよ? 一番言いたいことが最初に書いてあって、次に余計な修飾語もない明確な言葉で理由が述べられているから、すごく判りやすいんだけど……」
そう言って言葉を濁した双葉に、壱は充分だというように大きなため息を一つこぼしてきびすを返すと、「コーヒーをいれてくる」とぼやくように言った。
そしてパソコンの前の椅子を手で指し示し、座るように促して部屋の扉の方へと向かう。
「お前は紅茶だったよな? 両方取って来るから、その間にどこを直せばいいか考えておいてくれ」
早くも匙を投げた様子で軽く言って部屋を出て行く幼なじみの後ろ姿を見送りながら、何回紅茶をおかわりをすればこれがラブレターらしいものに仕上がるのだろうかと、双葉は絶望に近い気持ちで考えた。
結局、双葉が壱の家を出たのは日がすっかり沈み切ってからのことだ。暗くなってしまったから送っていくという壱の申し出を断り切れず、双葉は彼と肩を並べて帰途についた。
朝の登校時とは雰囲気が違って見える周囲の景色をぼんやりと眺めながら、壱の部屋で三己あてのラブレターを書いた時のことを思い返す。
双葉は最初、壱が書いた文章を詩的な表現に置き換えることを提案しようとした。
三己は小説を好んで書くが、彼女は物語を作ることよりも作中で描くものを緻密に、そして美しく表現することに重きを置いている。漫画で例えるなら、ストーリーよりも絵の描き込みで魅せたいタイプだ。開いた本のページ全体が一枚の絵画であるかのような漫画を描くように、美しい文章と言葉の流れで、音楽にも似た物語性のある世界を作り出す。
同年代の少年少女が夢中になって読むような、ライトノベルと呼ばれる軽快な小説の類とはまったく別の方向性であるため、彼女の小説の理解者は少ない。
だが、同じような理由で同年代の関心を集めることがない詩を好んで書く双葉は、三己の書く小説の大ファンだった。そして、三己もまた双葉の詩のファンを自称している。
だから三己がどんな表現を好むか、どんな文章に心を引かれるかを、双葉は誰よりも理解しているつもりだ。それを活さない手はない――そう思ったのだが、壱の書いたラブレターにはやはり、それ以前に根本的な問題があるように双葉には思えた。
「いっちゃんの文章は詩的と呼ぶにはほど遠いっていうのも問題だけど、まず書き方を変えた方がいいかも。ここには辞書みたいに客観的な事実だけが書いてあるけど、ラブレターを書きたいならそれじゃダメ。もっと自分の目とかフィルターを通して、自分にミミちゃんがどんな風に魅力的に見えたかを書かないと」
「つまり?」
「映画の感想を聞かせてって言われて、たとえば『これは誰それっていう俳優が主演で、スタントじゃなくその人が自分で演じてるアクション映画』って答えても、誰も納得しないっていう話。どれも事実だとしても、感想じゃないでしょ? いっちゃんの文章もそんな感じなんだよね。感想を聞きたい人はWikipediaの記事みたいなことが知りたいわけじゃないし、ラブレターだって聞きたいのは誰の目にも見えてる事実じゃなく、いっちゃんの気持ちなの。だからそれをまず書かないと」
双葉のその言葉を聞いた時の壱は、彼女が今まで見た中で一番困った表情を浮かべていた。
「……そんな風に考えたことはなかった」
「だろうね」
そうでなければ、『辞書に載っている「三己」という人の項目』のようなラブレターなど書かないに違いない。
「どうりで同じ女子から二度と映画に誘われないわけだ」
そう言って壱はため息をつく。
男友達にいたっては、「お前と映画を見ても面白くなさそう」と言われて誘われたことすらないというから、彼は理解ある良い友人を持ったと言えるのだろう。それはつまり、壱にラブレターを書かせるのがどれほど大変かを証明しているとも言えるが。
「そもそも、いっちゃんはミミちゃんのどういうところが好きなの? 自分は理系でミミちゃんは文系だから、違う分野で頑張ってる人が魅力的に見えた、みたいなことが書いてあったけど……私もその気持ちは判るんだけど、具体的には? ミミちゃんのどこが素敵だと思うかとか、好きなところをもっと書いていいと思うよ。ミミちゃんは絶対喜ぶから」
パソコンの画面を真剣に見つめながら双葉がそう尋ねると、壱は「具体的にあれこれ書けるほど、彼女のことを知っているとは言えないんだよな」と、独り言のように呟いた。
そんな幼なじみを見上げ、双葉は首をかしげる。
「なら、何で好きになったの?」
「何でって言われても……好きになったものは仕方ないだろ」
照れるでもなく、淡白に言うところが彼らしいと思う反面、本当に好きなのかと双葉は疑いたくなった。
壱が同級生の女子たちからどう思われているかは知らないが、少なくとも双葉と同じ一年生の女子の間では、目立たないが大人っぽくて意外に顔も悪くないというのでひそかに人気があるのは知っている。だが壱のこの様子からして、彼自身が誰かに恋愛感情を抱いた経験は少なそうだと双葉は思った。彼の知らないところで泣いた女子がどれほどいるのか考えたくはないし、当然、そんな彼と関わることで親友の三己を泣かせるわけにもいかない。
自分が何とかしなければ、という奇妙な使命感に駆られ、双葉は紅茶の入ったカップを握る手に力を込める。
そんな彼女をよそに、壱は名案を思い付いたといった様子で「そうだ」と声をあげた。
「せっかくだから、お前から見た彼女のいいところも教えてよ。それも書こう」
そう言いながら壱は早速新しいワープロの画面を開き、リストを作り始める。
それに双葉は少し不満そうに「ずるくない?」と言ったが、壱はまったく気にしていない様子で不思議そうに問い返す。
「何で? お前から聞いて知って、俺もいいなと思ったことなら書いていいだろ。嘘じゃないんだから」
「それはそうかもしれないけど……」
釈然としないものの、双葉は彼に口で勝てる気がしなかった。表現力で同年代に負ける気はしないが、論理的な言い合いとなると壱の方がはるかに達者だからだ。たとえそれが双葉には屁理屈に聞こえても、彼女には壱を言い負かせるほどの弁舌をふるえる自信はない。
それに、短編でいいから三己の書いた小説を読ませてくれと、彼女のことを知ろうとする姿勢を見せられては断るわけにもいかず、そのまま反論の機会は失われてしまった。うまいこと話をそらされた気がするが、双葉には打つ手がない。
よって、彼女は壱の希望通りに三己の魅力をリストアップする作業を引き継ぎ、壱は双葉から教えてもらったインターネット上に公開されている三己の短編小説を読むこととなった。
二人のその仕事が終わったのは、ほぼ同じタイミングだ。
「俺は今まで、小説を歴史書のように書かないのは何故なのかとずっと疑問に思っていたけど、やっと理由が判った気がするよ。たったこれだけのことを言うのにどれだけ回りくどく書くんだと思ったけど、たぶん伝えたいのはその文章が指していることそのもののことじゃなく、どんな風に見えてるかってこととか、そんな風に感じたっていう気持ちの方なんだろうな」
「そう!」
三己の小説を読み終えた壱がぽつりと口にした言葉に、双葉が力強く頷く。
「ミミちゃんには世界がそんな風に見えてるんだよ。すごくない? 見飽きた自分の部屋の明かりを万華鏡で見上げた時みたいな、全然知らない綺麗なものがミミちゃんの文章を通して私にも見えるんだ。その景色がたまらなく好きなんだよね」
「確かに、自分の感覚とは違うものを垣間見られるのは面白いな。お前がフィルターって言った意味が判った気がする。小説や映画の見方が少し変わったよ」
「でしょ!」
興奮気味に言う双葉に壱が小さく吹き出す。
「何でお前がそんなに嬉しそうなんだよ」
「だって私、ミミちゃんのファンなんだもん。この魅力を判ってくれる人がいてすっごく嬉しいよ!」
そう言う彼女が書き出した三己の魅力は、優に二十項目を超えていた。その内容は容姿や性格、文章の表現や小説の世界観、物語そのものも含め多岐にわたる。そしてどれもこれも、彼女のことをよく理解していないと判らないことばかりだ。
「よくこれだけ書いたな」
関心と呆れの混じりあった面持ちで壱が言うと、双葉は「これでもかなり厳選したんだよ」と応え、さらに彼を呆れさせた。三己のファンを名乗っているのは伊達ではない。
双葉はリストを満足げに眺めながら、壱に次なる提案をした。
「お花畑をまるごと贈るならどんな花が咲いてても素敵だと思うけど、ラブレターはどっちかって言うと花束だと思うんだよね。だから、花の中でも特別だと思うもの――この場合はミミちゃんの特にいいところとか好きなところを選んで、まとめるっていうのがいいと思う。ミミちゃんは長文も喜んで読んでくれると思うけど、ラブレターであんまり長いのも、ちょっとね。リストに挙げたものはそれぞれ詳しく説明はするから、あとはこの中からいっちゃんが選んで」
「なるほど、その最終リストを添付しておけばいいんだな」
「まさか! そこからきちんとした文章にして、手紙に書くんだよ! 何度も言ってるじゃん、リストみたいなものは判りやすいけど、ラブレター向きじゃないんだってば」
壱の言葉に双葉は椅子から立ち上がるほどの勢いで彼に迫る。
椅子が一つしかないため、立ったままコーヒーカップを傾けていた部屋の主は、双葉の気迫に気圧されて数歩たじろいだ。
そんな幼なじみの顔を下から見上げるようにしながら、双葉が距離と言葉を詰める。
「ていうか、いっちゃん。添付ってまさか、メールか何かでラブレターを送るつもりじゃないよね?」
「あー……いや、さすがに手紙を書くつもりではいたけど」
そこまで言った壱は、急にばつが悪そうに双葉から視線をはずし、ぼそりと呟いた。
「まずいことに気付いた」
「え、何?」
「便箋を持ってない。買おうと思ったけど、どういうのがいいか判らないからお前に選んでもらおうと思って忘れてた」
その言葉を聞いてついに双葉は椅子から完全に立ち上がり、「バカバカ! 先に言ってくれてたら一緒に買いに行ったのに!」と、握った両のこぶしを壱の胸にぽこすか当てながら抗議する。
壱は思わぬ猛攻からコーヒーカップを守るように身を引きながら、「まあ、でもそれはあとでもいいだろ」となだめるように言った。
しかし、双葉は引き下がるどころか断固とした口調で「ダメ!」と叫んで首を振る。
「いっちゃんは後回しにしたら気が変わってやめにするとか、それこそ今回みたいにそのまま忘れるとか、絶対やるもん! だから今すぐ用意するの!」
その言葉には壱もまったく返す言葉がなかった。双葉は親友のことはもちろん、幼なじみのこともよく理解している。そんな彼女の指摘に間違いなどあるわけがないのだ。
かくして、この時間ならまだ近所の文具屋が開いているからと双葉が便箋を買いに走り、壱は三己の魅力リストからこれはと思うものを選ぶことに専念することとなった。
そこから表現を三己好みの詩的なものに書き換え、全体の調整を行って何とか下書きまでは完成させたのだから、相当頑張ったと言えるだろう。最後の便箋への清書は自分でやっておくからと壱は言い、ようやく双葉は六時間を超える長い戦いから解放された。便箋一枚に充分おさまる程度の文字量にしては、かなり時間がかかった方だ。外出から帰ってきた壱の両親は、双葉がずいぶんと遅い時間までいたことに驚いていたが、誰よりも驚いていたのは双葉と壱だろう。二人とも、もっと早くに終わるものだと思っていたからだ。
「悪かったな、こんな遅くまで手伝わせて。まさかこんなに時間がかかるものだとは思ってなかったから」
少し申し訳なさそうに言う壱の声に我に返り、双葉は首を振って回想を頭の外へ追い出すと、慌てて言葉を返した。
「私こそ、細かいことをいっぱい言って長引かせちゃってごめん。でも、おかげですごくいいラブレターになったと思うよ。もしミミちゃんにその気がなかったとしても、あのラブレター自体はすごく気に入ってくれるはず」
確信に満ちた表情と声音で言い切る双葉に、壱は相変わらずの淡々とした口調で「お前、本当に彼女のことが好きなんだな」と呟くように言った。
それをバカにされたと思ったのか、双葉は不満そうに口をとがらせる。
「何よ。いいでしょ、ファンなんだもん」
「うん、いいと思う」
あっさりと肯定してみせた壱の顔は、思いのほか真面目そうだった。
そのことに双葉は一瞬戸惑い、同時にチクリとした胸の痛みを覚える。だが、その理由は彼女自身にもよく判らなかった。
だから双葉はただうつむき、口を閉ざす。
彼らはそのまましばらくの間、夜の住宅街を黙々と歩き続けたが、やがて双葉がぽつりと小さな声で言った。
「……応援してるから」
それに壱は言葉を返さず、ただ小さく微笑んだ。
休日明けの月曜日というのは多くの人にとって憂鬱なものだが、この日の双葉はどちらかというと不機嫌そうな顔をしていた。眉間に寄せられたしわの原因は、彼女の手元にある一通の手紙。三己好みのさわやかな緑の封筒は、まさしく週末に双葉が文具屋で買ったものだ。
「自分で渡す勇気がないから渡してくれなんて、見損なったわ」
内心で呟く双葉の胸に、手紙を押し付けるように託された時のモヤモヤが再びわき起こる。
「照れくさいとか勇気がないとか、どの顔で言うのよ」
そんな感情など微塵も感じさせない淡白さだった壱の顔を思い浮かべ、双葉はイライラをつのらせた。
いつもの待ち合わせ場所にやって来た三己は、双葉の姿を認めるなり駆け寄り、開口一番に「ふーちゃん、何か嫌なことでもあったの?」と心配するように彼女の顔を覗のぞき込む。感情の機微に敏感な三己は、ひと目で双葉の様子がいつもと違うことに気付いたようだった。
そのことを嬉しく思うのと同時に、壱のせいで余計な心配をさせてしまったことを申し訳なく思い、双葉は安心させるように明るく笑って首を振る。
「嫌なことっていうか、つまらないことを思い出してちょっとムッとしちゃっただけ」
だから大丈夫だと言う双葉に、三己は真剣な面持ちで言葉を返した。
「大したことでないならいいんだけど……話した方がすっきりすることとか、本当に困った時はちゃんと言ってね? 役に立てるかどうかは判らないけど、私は絶対にふーちゃんの味方だし、全力で助けるから」
「ありがとう、ミミちゃん」
今度は自然と浮かんだ笑顔を向け、双葉は封筒をそっと鞄の中にしまった。壱の気が変わって、自分で渡すからと取りに来るかもしれないし、そうでなければ帰り際に渡そうと心の中で呟く。今はまだ、いつも通りのままでいたい気がした。壱の代わりにラブレターを渡したところで、双葉が壱の幼なじみであり三己の親友であることに変わりはないはずなのに。
その後も壱が手紙を取りに来ることはなく、学校での平凡な一日が平凡に過ぎ去り、双葉と三己はいつものように同じ文芸部での部活を終えると、地元の駅まで仲良く一緒に帰った。
三己は乗り換えてもう一つ先の駅まで行くため、双葉は改札の前で「また明日」と言って彼女と別れるのが日課だ。だが、この日は別れのあいさつをする前に、双葉は壱から預かった手紙を三己に差し出した。
「そうだ、これ。三年の壱先輩がミミちゃんに渡してくれって」
「壱先輩って……ふーちゃんの幼なじみの先輩だよね?」
「うん」
頷く親友と眼前の綺麗な緑色の封筒を交互に見やり、三己は困惑気味に――そして慎重に尋ねた。
「……何のお手紙?」
「読めば判ると思う。悪いことは書いてないはずだから、大丈夫だよ」
安心させるように言って微笑む双葉にもう一度目を向け、三己はためらうような表情を見せる。
そんな三己の手を取り、しっかりとその手に封筒を預けると、双葉はいつものようににこりと笑って「じゃあ、また明日」と言って改札から出て行った。
翌日は双葉にとって月曜日よりも憂鬱に思えた。理由は判然としないが、きっと昨日の手紙のせいだろう。
それをきちんと三己に手渡したことを伝えると、壱は「そうか」と短く呟いて礼を言っただけだった。
ラブレターを書いたはずの本人がこんな無関心な様子なのに、ただ代理で手紙を渡しただけの自分が何故こんなにそわそわしたり、不安になったりしなければいけないのかと双葉は理不尽に思う。
しかし、それを壱に言ったところで「何で関係ないお前が心配してるんだ」と呆れられるだけなのは目に見えていたので、双葉もそれ以上ラブレターについて触れることはしなかった。いつものように他愛ない雑談をし、ホームで壱と別れる。
そのまま女性車両が止まる場所まで歩いていくと、普段ならまだそこにはないはずの三己の姿があった。ダイヤや乗り換えのタイミングからすると、十分は早く電車に乗らないと三己が先に着くことはないはずだ。
双葉は驚いた表情で三己に駆け寄りながら声をかけた。
「おはよう、ミミちゃん。いつもより早いね」
おっとりとした性格で、どちらかと言えば遅刻しがちな三己が先に来ているのは珍しい。
「早く目が覚めちゃった?」と冗談めかして双葉が尋ねると、三己は身を乗り出すようにして「ふーちゃん!」と興奮気味に声をあげた。その勢いに気圧され、双葉は目を丸くする。
「ど、どうしたの?」
「昨日の手紙!」
「あ、うん……どうだった?」
突然本題を切り出されたことに少し動揺しながらも双葉がそう問うと、三己は目を輝かせ、確信に満ちた口調で「あれを書いてくれたの、ふーちゃんでしょ?」と言った。
その言葉に双葉が固まる。
「え?」
「あの綺麗でちょっと寂しい感じのする比喩とか文体、絶対ふーちゃんの文章だもん!」
「え……っと」
「そうでしょ!?」
力強く同意を求められ、双葉は追及を逃れるように視線を泳がせながら言葉を懸命に探した。
「えーと……その……確かに私がこんな風に書いたらいいよってアドバイスはしたけど、書いたのはいっちゃん……」
「やっぱり! ふーちゃんがあんな風に思ってくれてたなんて……私、嬉しくて……」
双葉の言葉をさえぎってそう言った三己は両手で顔を覆い、感極まった様子で泣き出してしまった。
「あれを読んだら、私やっぱりふーちゃんの書く文章が本当に好きだなって……しかも、それであんな風に言ってもらえるなんて」
洟をすすりながら三己は人目もはばからず、涙混じりにそう告げる。
そんな彼女のことを何事かと見やる人々の視線から守るように双葉は三己の肩を抱き、言い聞かせるような口調で言葉を紡いだ。
「あ、あのね、ミミちゃん、あれはいっちゃんが書いたもので……」
「あれは絶対ふーちゃんの言葉だよ」
顔を上げ、きっぱりと三己は言い切る。それに双葉は小さくうなって口を閉ざした。
あのラブレターにつづられた言葉のすべてを壱が書いたのかと問われれば、答えは否だ。そして、言葉に込められた思いの中に双葉の思いが一片も入っていないというのも嘘だろう。何故なら、彼女がリストアップした三己への思いも手紙には書かれているからだ。
そればかりか、言葉選び、文法、比喩、表現、すべてにいたるまで、三己のためにと双葉が考えてアドバイスをしたのだから、もはや双葉からのラブレターでもあると言っても過言ではない。双葉が三己のことを大好きなのは間違いなく事実なのだから。
それを恋愛感情と呼ぶかどうかは別にして、あの手紙に書いた言葉に嘘はなく、間違いなく双葉が彼女に対して抱いている思いでもある。
「差出人の名前は書いてなかったし、字も違うけど、私にはあれがふーちゃんからだって判る。壱先輩が私の小説のことまで知ってるはずないし」
「それは、ネットで公開されてるのをいっちゃんも読んだからで……」
「ちょっと読んだだけで書けることじゃないよ! あんなに理解してくれてるのは、ふーちゃんだけだもん」
三己はそう断言して双葉の顔を見上げる。
その熱い視線を真っ直ぐに受け止め、しまった、と彼女は思った――代行なんてするんじゃなかったと。
手紙を代わりに渡したのはもちろん、そもそも書くことを手伝ったのも大きな間違いだったのだ。
三己の心をつかむラブレターを書くということに真剣になりすぎたせいで、双葉は自分の文章力や表現力を隠すことなく、全力で発揮してしまった。それを読んで、彼女が誰の文章か見抜けないわけがないのに。
双葉は三己の小説のファンであり、三己は双葉の詩のファンなのだから、お互いの作風も文体もよく理解している。その上――
「いつものふーちゃんの雰囲気とはちょっと違うけど、それが新鮮で……ふーちゃんの新しい一面を見たような気がして、すごく良かったの!」
あくまで壱が考えた文章をベースにしているので、双葉が一人で一から書いた文章とは当然ながら異なるのだが、それもすべて三己は正確に見抜いていた。
「私、もちろんふーちゃんの恋人でも彼女でも、何にでもなるよ! 呼び方なんてどうでもいいの。これからもよろしくね!」
そう言って三己は双葉にぎゅっと抱きつく。
その思いがすごく嬉しくもある反面、壱に何と伝えたものかと双葉は途方に暮れた。
三己のことは大切に思っているが、双葉にとっては幼なじみの壱も大切な存在だ。その彼の恋を応援したかったのも間違いない。だが、正直なところ、三己と壱が恋人関係になることを双葉が心から望んでいたとは言えないだろう。それをためらうくらいには、彼女は今の関係に満足していた。
とはいえ、双葉はこんな結末を望んでいたわけではないし、想像すらしていなかったのも確かだ。頭に思い浮かぶのは壱への申し訳なさと後悔ばかりで、何故こんなことになったのかと自問する以外、双葉にはこの時できることが何もなかった。
「大事なラブレターに、差出人である自分の名前を書き忘れる人がいる?」
水曜日の朝、月曜日よりも不機嫌をつのらせた様子で憤然と双葉が壱に言う。
しかし、対する壱は涼しい顔で「お前だって書けとは言わなかっただろ」と応じた。
「それに、俺からだって伝えてくれと言ったはずだ。それで勘違いされたのは、俺のせいじゃない」
その言葉に双葉は「私のせいでもないからね」と反論した。
「ミミちゃんは思い込みが激しいところがちょっとあるけど、まさかああなるとは思ってなかったし……」
まる一日悩んだ末、三己の反応をありのまま壱に伝えた双葉は、大きなため息をついて頭を抱えた。
「どうしよう、ミミちゃん、完全に勘違いしちゃった……恋人がどうとかっていうよりは、私からのラブレターっていう『作品』をもらって感激してた感じだったけど」
「これまで通り、お前らで仲良くすればいいんじゃないか? 俺はふられたわけだし」
「別にふられたと決まったわけではないでしょ」
なぐさめるというよりは言い訳をするように言う双葉に、壱は「ふられたも同然だろ」とあっさり応えた。
失恋したわりには、落ち込んでいるどころか面白がっている風にすら見える。
「……いっちゃん、まさかはじめからこんなつもりだったなんてこと、ないよね? 面白半分に始めたとか」
「そういうことにしておいたら、俺の傷も浅くてすむかもな」
壱は愉快そうに言って笑みを浮かべる。それがただの強がりなのか本気なのかは、幼なじみの双葉にさえ判らない。
結局、壱の真意は判らないまま、数か月後に彼は高校を卒業しフリーのプログラマーになった。
双葉と三己は高校を卒業するまでの残り二年をこれまで以上に親しく過ごしたが、卒業と同時に三己は海外へ行くことになったと言い、それ以降連絡がつかないままだ。まるであのラブレターの一件からの二年間が、その先の人生における二人の関係を凝縮したものであるかのように双葉には思えた。
ずっと続くと思っていた親友との関係がふっつりと途切れ、失われてしまった時間――それを前倒しにしてあの二年間を手に入れたような気になる。そうなることが判っていて、三己が壱に頼んで双葉にラブレターを書く手伝いをさせたのではと考えることさえあったが、真相は判らない。判っているのは、彼女たちにとってあの二年は何にも代えがたい、特別な時間だったということだけだ。