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★【現代】保健の先生はネクロマンサー

「地獄」というテーマで書いた短編小説。

何年も前にクリスマスに自殺した知り合いのことを考えながら書きました。

養護教諭のことを作中では保健医という造語で表しています。


音読動画→https://youtube.com/playlist?list=PLda4Rk1pUYt8_x2DOS7ufbCzzl5lXwdmy&si=4m5Dv9aO7U_lTgo9

 なんてこの世は地獄なのかしら、と少女は思った。

 自分から痛い思いをしてまで死にたいとは思わないが、ここで生き続けたいと思う理由が見つからない。他人が思うような不幸は何も抱えていないし、好きなアイドルも好きな音楽も彼女の日々を(いろど)りはするが、それらが『今』を明日も続けるための決定打にはならないのが彼女の不幸だ。

 地元では名門中の名門と言われる学校に通っている彼女を、近所の人々は口をそろえて恵まれていると言う。同年代の少年少女は彼女をうらやみ、幸せな日々を送っていると信じて疑わなかった。

 なのに胸の奥が乾いているのは何故なのか。

 絶世の美少女とは言えないが、化粧の勉強はしたのでかわいく見せる自信はそこそこある。成績はぱっとしなくても、クラスメイトからバカにされるほどではないし嫌われていることもない。

 それでも生きていたいと思えないなんてやっぱり地獄だわ、と彼女は思った。

「あの人、変わってるよね」

 誰かがそう言うのを聞いて、少女は頬杖をついていた机から顔を上げた。

 声のした方へ視線を向けると、クラスメイトの何人かが教室の隅で顔を寄せ合い、おしゃべりをしている。

 耳にしているイヤフォンの片方をそっとはずすと音の網が遠くなり、さっきよりも明瞭(めいりょう)に彼らの声が聞こえてきた。

「保健医って感じじゃないんだよなあ」

「誰かがネクロマンサーだって言ってたよ」

「何それ、ゲームの話?」

「美人な方だとは思うけど、何ていうか、生気がないから人形みたいで怖いんだよね」

「保健室の中、見たことある? 昼間はカーテンを閉めていて、明かりもつけてないんだって」

「保健室に行ったことがある人は、悪い先生じゃなかったとは言ってるけどさ」

「みんな怪我(けが)をしたがらないし、病気になりたがらないよな」

 仮病(けびょう)で授業をさぼらせないための学校の作戦なのかもしれないと言って彼らは笑った。

 そして話題はソーダの泡のように次から次へと昇ってははじけ、別のものへと変わっていく。

 少女はそれを最後まで盗み聞きするのはやめ、自分の席から立ち上がった。それからスタスタと足早に教室を横切り、午後のぬるい日差しを受けてぼんやりとしまりなくかすんで見える廊下へと出る。

 その彼女の背に誰かが「どこ行くの? もうすぐ次の授業が始まるよ」と声をかけたが、彼女は「気分が悪いの」とだけ言って振り返ることなくその場をあとにした。


 保健室の前まで行ってみるとクラスメイトたちの話の通り、扉のガラス部分から見える室内は暗く、陰気そうで入りづらい雰囲気(ふんいき)がただよっている。視界に入るすべての窓にはカーテンがかかっているのが見えた。

 しかし、そこにいるはずの保健医の姿は見当たらない。

 留守だろうかと思いながら少女が扉に手をかけると、意外にもそれは何の抵抗もなく開いた。どうやら鍵はかかっていないらしい。

 少女は扉を大きく開くと、さしてためらうこともなく部屋の中へ足を踏み入れる。

 極力(きょくりょく)外の光を入れまいとする分厚いカーテンで閉ざされた室内は、ひやりと寒々しく殺風景で、牢獄(ろうごく)か何かのように彼女には感じられた。

 お化け屋敷にしてはあまりにも不気味(ぶきみ)さに欠けるが、学校の保健室と呼ぶには少し異質にも思える。だが、それだけだ。

 一抹(いちまつ)の失望感を抱きながら彼女は窓の一つへと歩み寄り、外の景色を見ようとカーテンに手を伸ばした。

 その時かすかに背後で物音がし、少女が驚いて振り返る。

 そこにはいつの間にか白衣をまとった長身痩躯(そうく)の青年が立っていた。

「どうかしたのか?」

 部屋の空気に似たひやりとした声で尋ねられ、少女は「え?」と意味のない言葉を返す。

 しかし相手は気にした様子もなく、まったく同じ語調で同じ意味だが、さっきとは違う質問を彼女にした。

「どこか悪いところでも?」

 その問いに少女は首を振ってみせる。

「体はどこも悪くないと思う」

 そんな彼女の答えに白衣の青年はわずかに首をかしげ、目の前にたたずむ学生の様子を観察するように――あるいは考え事でもするように(だま)り込んだ。

 少女は彼が次の質問か何かを口にするのを待ったが、話す気がないのか相手は一向(いっこう)に口を切る気配がない。

 仕方がないので彼女は「頭はちょっと悪いかも」と冗談めかして言った。

 すると青年は小さく肩をすくめ、感情の読めない平板な声音で(つぶや)く。

「悪いがそれは管轄外(かんかつがい)だ」

「勉強の先生じゃなく、保健の先生だから?」

 少女の問いに彼は無言で(うなず)いた。

 それを見て彼女は「ふーん」と曖昧(あいまい)な相づちを返し、若い保健医を観察するようにしげしげと(なが)める。

「その声だから、先生は男の人だよね? 美人だって聞いたから女の人なのかと思ってたよ。顔を見た瞬間もそうだと思っちゃったし。背は高いけど、結構女顔だね」

 面白がるように少女が言うと、彼はため息をついて彼女に背を向けた。そして部屋の(すみ)に置かれた事務机の方へと歩いていき、疲れたように椅子に腰かける。

機嫌(きげん)も悪くはなさそうだが、頭以外に気がかりなことが『女性に相談したいこと』なら、やはり私では役に立てないので他をあたってくれ。親身に話を聞いてくれそうな先生に私から声をかけておくくらいはできるから、必要ならそうしよう。それ以外のことなら、もちろんここにいてくれて構わないが」

 そう言って保健医は机の上のペン立てからボールペンを取ると、自分の向かいにある小さな丸椅子(いす)を指し示した。何か他に『悪いところ』があるならそこに座って話せということなのだろう。

 それから彼は机の方へと体を向けて引き出しの一つを開け、小さな紙を取り出すとそこに何かを書き込み始める。

 それを見ながら少女は決めかねた様子で戸惑(とまど)いの表情を浮かべ、後ろ手に手を組んで落ち着かなげにゆらゆらと体を()らした。

 そしてゆっくりと顔を動かし、薄暗い部屋の中をぼんやりと見ながら心に浮かんだ言葉を呟く。

「みんなはどこも悪くないって言うよ。あたしは自分でちょっと自分のことが変だなって思うんだけど、パパとママにそれを言ったら怒られるの。変なことを言うなって。そう言うくせに、あたしが自分で変だって言うのは認めないの。そっちの方が変じゃない?」

 そこで一度言葉を切り、少女は保健医の方を見ることなく再び部屋のどこかへと視線を泳がせた。それがどこに向き、何をとらえているかなど彼女にはあまり意味がない。何故なら彼女にとって目に映るものはどれも等しく意味のないものだったからだ。

 少女は丸い目を無機質な風景の中で泳がせながら「友達も」と言葉を続けた。

「子供の頃はあたしが時々変なことを言うっていじわるしてくる子たちがいたけど、今のあたしの友達はね、いい子たちばっかなの。だからね、あたしってちょっとおかしいよねって()いたら、みんな『そんなことないよ』『大丈夫だよ』って言ってくれるの」

 そう言って彼女はようやく保健医の方へ体ごと向き直った。

 人形のように血の気の薄い無表情な顔が視界に映る。もう書き物を終えたのか、彼はじっと彼女のことを見つめていた。その二つの赤い目が無言で続きをうながす。

 それを見返しながら少女が「いい友達でしょ?」と訊くと、彼はそれに「そうだな」と言って頷いた。

「でもね、あたしを知らないみんなはあたしにこう言うの。何が不満なんだ、って。恵まれていて幸せなのに何が気に入らないんだ、贅沢(ぜいたく)だって。だから、それに納得してないあたしは甘えてるし(なま)けてるって言うの。インターネットの向こうの人たちは正直だよね。あたしの機嫌を取ろうとはしないから」

 それは同意を求めているというよりは独り言ごとのように聞こえたためか、保健医も声に出して何かを返すことはしなかった。

 穏やかな無言の相づちだけが少女の周りを取り囲み、わずらわしくも離れがたい余計な思考をどこかへと追いやっていく。

 やがて彼女は根負けしたように白衣の青年の前まで歩いていき、そこに置かれたちっぽけな椅子に腰を下ろした。

 薄い影の中でかすかに光って見える彼の赤い目をじっと正面から見つめる。そこからは表情同様いかなる感情もうかがい知ることができなかったが、不思議と気味の悪さは感じない。

 それに少し安心したのか、少女は小さく息をついて素直に思いついた次の言葉を口にした。

「先生は死にたいって思ったことある?」

「……君は?」

「まったくないって言ったら(うそ)だけど、ちょっと違うかも」

 少女はどこか残念そうに言って肩をすくめ、視線を足下に落として呟く。

「死にたいっていうんじゃなくて、ただ生きていく理由が見つからないだけ」

「それは問題だな」

「甘えてるし、怠けてるから?」

 顔を上げて少女が尋ねると、保健医は「問題なのはそこじゃない」と首を振って答えた。

「生命活動を安定して続けられる環境にあるにもかかわらず、そもそも生きる理由がないというのは生きる上で一番の問題だ。甘えたり怠けているだけでそこまでの状況に(いた)ったというなら、それはそれである種の異常事態と言えるだろう。もう少し頑張れとたきつけて、どうにかなる状況ではないと思う。おそらく別の対処法が必要だ」

「たとえば?」

 少女の問いに保健医は何も答えない。しかしそれは答えが見つからないのではなく、彼女の言葉を待つための沈黙だった。対処法を探すには彼女の詳しい説明が必要なのだと、その場に満ちる静寂(せいじゃく)がうながしている。

 それは彼女にも(わか)ったが、何を言ったらいいかと考えてもうまく言葉が出てこない。視線を泳がせて思案したものの、結局彼女はまったく別のことを口にした。

「ねえ、どうしてカーテンを閉めてるの? 明かりをつけないのはどうして? 保健室ってもっと明るいっていうか、白っぽいイメージなんだけど、これじゃ誰もいなくなった病室か、独房みたい」

 それにも保健医はやはり何も答えない。

「先生はネクロマンサーだって、本当? あたし、ゲームで知ってるよ。確か死人を操れる魔法使いだよね。先生は死人と話したり命令したりできる人なの?」

「……何故そんなことを訊く?」

 ようやく物憂(ものう)げに彼は口を開いたが、それは返答ではなく質問だった。

 問いに問いで返され、しかし少女は怒るでもなく答えを考えるように首をひねる。

「もし死人と話せるなら、あたしが死んでもあたしの声が聞こえるのかなと思って」

 彼女がそう答えると、保健医は相変(あいか)わらずの淡々(たんたん)とした口調と生真面目な面持ちで言葉を返した。

「そんなことをしなくても、今ちゃんと聞こえてる」

「それはどうかな。先生、あたしの質問にはさっきから答えてくれてないし」

「……」

「ほらね」

 沈黙を返した彼にそう言って、まるでじゃんけんの勝負にでも勝ったように無邪気に少女が笑う。

 しかし、対する保健医はにこりともせず静かな声音で「それでも、ちゃんと聞こえてる」と(こた)えた。

「じゃあ教えて。あたしが死んでもあたしと話せる?」

 笑顔を引っ込め、少し身を乗り出すようにして少女は保健医の目を真っ直ぐに見返した。

 小さな自分を映すその赤い双眸(そうぼう)がかすかに揺らぐ。

 何秒かのためらいにも似た沈黙のあと、彼は吐息(といき)混じりに答えを返した。

「難しいだろうな」

「できない、じゃなくて?」

 予想していたイエスやノーとは違う返答を彼がしたことに驚き、少女が目を丸くする。

 そんな彼女からゆるりと視線をはずし、保健医は何もない部屋の隅へと目を向けた。まるでそこにいる見えない誰かをそっといたわるように。

「死んだあとも生前のようにはっきりと意識を持っている者はまれだ。つらい思いをして死んだ者ほど、魂も砕けてしまっている」

「……それってどんな感じ?」

「ひどく(なげ)いたり(うら)んだり……負の感情だけが残ってそれに苦しんでいる」

「そんな風にならない人もいるんでしょ……?」

 作り物めいた白い横顔を見ながらおずおずと少女が尋ねると、彼はゆっくりと振り返って彼女の視線をとらえ、変わり()えのしない平坦な口調でその問いに答えた。

「本当にまれだし、君ではおそらく無理だろう」

「どうして?」

「今すでに苦しみを抱えているなら、それによって魂が砕かれるから」

 まるで本当に魂が見えているかのように、またそれがどのようになるのかを詳しく知っているかのように保健医は言う。

 この人はもしかして、本当に自分とは違う何か別の存在なのではないかと少女は思い始めた。そうでなければ変わり者を演じているか、見えないものが見えていると思い込む変わり者に違いない。

 この保健医がそのうちの何であるにせよ、この瞬間に彼女が感じたのは「彼も自分の理解者にはなってくれなさそうだ」ということだった。彼女には魂など見えないのだから。

 ならばここで会話を続けたところで無駄なのではないかと少女が思い、もう教室へ戻ろうかと扉の方へ目を向けかけた時、保健医が「だから」と口を切った。

「だから私に話があるなら、きちんと話せる時に話してもらわないと困る」

「話したいことはたぶん、もうないと思うよ」

 身をすくませ、ためらいがちに少女はそう言って首を振る。

 それに保健医は首を傾けて「何も?」と少女に訊いた。

「うん」

「そう言ってお前が今そこの窓から飛び降りたら、私はお前を恨むからな」

 カーテンのかかった窓の方を一瞥(いちべつ)し、言葉にそぐわない無表情と声音で彼は言う。

 少女はそんな彼をいぶかるように見返した。

「なんで?」

「話を聞くと言ったのに、何も話してくれなかったから」

 その言葉に今度は彼女の方が黙り込んだ。

 何故この人はこんなことを言うのだろうと彼女は思う。今日初めて話した名前も知らない学生のことなど、どうでもいいだろうにと。

「家族でも友達でもないのに、どうしてそんなこと言うの?」

 思わず声に出して少女が尋ねると、彼は「生徒の問題を解決するのは、学校に(つと)める大人の仕事だからだ」と答えた。

 それは少女の想像以上に退屈な回答だ。困っている人を放っておけない、というような陳腐(ちんぷ)な正義感ですらなく、ただ仕事だからというのが彼女には期待はずれだった。

 しかし、そう思った時にふと気付く。自分は何を期待していたのだろうかと。会ったばかりの家族でも友人でもない、ただの養護教諭(きょうゆ)に。

 彼は眼球のレンズ越しに魂の色でも読み取ろうとするかのように少女の目をじっと見つめている。

「君がここに来たことには理由があると思う。それを教えて欲しい」

 やがて保健医は穏やかな声音で彼女にそう言った。

 少女はそれに再びためらうような表情を浮かべてみせる。

 しかし、ここまで来て嘘をついたり取りつくろう意味はないだろうと思い、彼女は正直に「教室で保健の先生は変な人だって話してたから」と答えた。

「さっき言ったけど、あたしは自分がちょっと変だと思ってるの。だからもしかして、先生とは話が合ったりするのかなと思って」

「……話してみた結果は?」

 静かに問われ少女は小さく肩をすくめる。

「たぶん合わないと思う。先生はあたしより変かもしれないって思うし……少なくともタイプは違いそう。あたしはね、昔から他の人とちょっと感覚がずれてるっていうか……普通はそんな風には思わないよって言われたり、何でそう思うのって不思議がられることが何度もあったの。自分では当たり前のことだと思ってるんだけど、他の人にとってはそうじゃないみたい。だから、ああ、あたしはちょっと変なんだなって思うようになった。普段はそんなに気にしないようにしてるけど、時々すごくその『違い』が大きく感じられて、何だかここはあたしがいていい場所じゃないみたいって思うんだよね。必要とされることもあるけど、結局それって本当はあたしでなくてもいいことばかりだし。だから別に死にたいわけじゃないけど、いなくなってもいいなって思ったりする。だってここに居続けたいって思う理由がないんだもん。勉強だって何でするのかって訊かれたら、パパとママがやれって言うからだし。いい大学に行っていい会社に入っていい生活ができるでしょって言われても、別にあたしは『いい生活』っていうのをしたいわけじゃないんだよね。人並みに好きなものとかやってて楽しいことはあるけど、そのために明日も生きていたいと思うわけじゃないし。パパとママに認められたいっていうのもたぶんちょっと違う。ただ怒られたくない、がっかりさせたくないだけ。自分のためだから頑張れって言われても、あたしには自分のために何かをする理由はないの。だからあたしはみんなから変に見えるんだろうね」

 少女がそう言って言葉を切ると、保健医は数秒の沈黙を(はさ)んだあとに「なるほど」と小さく呟いた。

 それを聞いて少女が片眉を上げ、「なるほどって、何」とあきれたような声音で尋ねる。すると保健医はやはり感情の起伏(きふく)のない声で彼女に逆に訊き返した。

「何、とは?」

「そんな風に思うのは甘えだとか向上心がないとか、それとも真剣に考えすぎだってみんな否定するかはげまそうとするのに、ただ納得(なっとく)されたのははじめてだよ」

 その言葉に白衣を着た無表情な青年はわずかに困惑(こんわく)したような素振(そぶ)りをみせて言った。

「気を悪くしたのなら謝るが、興味深いと思ったからそう言っただけで、他意(たい)はない」

 生真面目に謝罪と説明を口にした彼は、自分で自分と周囲の間に違和感を覚える少女の目から見ても変わり者に見えた。

「先生、人から変わってるって言われたり、自分でも変だなって思ったりしない?」

 好奇心に()られて少女がそう訊くと、保健医は考え事をするように細い(あご)に手を当てて首を傾ける。

「変わっているとは言われるが、気にしたことはないな。私からすれば魂はすべて違って見えるから、他人と自分が違うのは当たり前だ。そして魂で見ればその差異(さい)など大した問題にはならない」

「……先生って本当に魂とか幽霊とか見える人なの?」

 その問いに彼は答えなかった。ただじっと見返してくる二つの赤い目がひときわ妖しい輝きを増したように思え、不意(ふい)に恐怖に似た何かを感じて少女は反射的に立ち上がる。

 尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、という後悔が彼女の胸に浮かんだ。まるで見付けてはいけない幽霊船の残骸(ざんがい)を海の底から引き()げてしまったかのように。

 そしてその後悔はたちまち逃げ出したい衝動(しょうどう)へと変わった。

「出て行くのは構わないが、どこへ?」

 静かな声で言って保健医も椅子から立ち上がる。それに合わせて少女は数歩あとずさり、午後のまぶしい光を含んだ分厚いカーテンの方へと無意識に背を寄せた。

 腕を伸ばせば届く距離まで窓際(まどぎわ)に近付き、カーテンの(はし)をぎゅっと(にぎ)る。

 それを追うように保健医が音もなくゆっくりと歩を進め、両者の距離があと二、三歩ほどになったところで少女はわずかにカーテンを引いた。

 薄暗い部屋の中に明るい光の筋が差し込み、床に一本の線が引かれる。

 保健医はその前で立ち止まり、警戒するように自分を見つめる少女をじっと見返した。その二人の間に横たわるのは静寂と一本の光の線だけ。それが自分を守るための境界線なのか、それとも彼女と保健医の存在の違いを示すものなのか、少女には判らない。

 白衣をまとった背の高い青年は一筋の光の向こうから彼女のことを静かに見ていたが、やがておもむろにカーテンの奥――窓の方を向いて独り言のような口調で言った。

「もしあの向こうへ行こうと思うなら、君は一つ大きな覚悟をする必要がある」

「覚悟って、何の……?」

 カーテンの(すそ)をつかんだまま少女は慎重(しんちょう)に尋ねる。

 保健医はそんな彼女の方へと視線を戻し、感情の起伏がない事務的な口調――あるいは淡々と罪状を読み上げるように言葉を返した。

「君を知るすべての者に『あなたは私にとって何一つ価値のない無能な存在だ』と告げる覚悟だ」

 少女はその言葉に意味が判らないと言うように眉根を寄せてみせる。

 しかし彼はそんな彼女の反応を予想していたのか、どういうことかと問い返される前に続く言葉を口にした。

「君がそこの窓から飛び降りて、この世界から脱出したとしよう。そうすると君のことを知っている人の多くが、自分は君にとって相談する価値も助けを求める価値もない、どうでもいい存在だったと知ることになる」

「そ、そんなことないよ。あたしなんかより、みんなの方が価値があるもん」

 少女は思わずカーテンから手を離し、あわててそう言ったが、保健医は小さく首を振って応えた。

「残念ながら、君に見捨てられた人々はそうは思わない」

「見捨てるなんて……」

「私に何も話そうとしなかったのに? 助けてくれとも言わなかった」

 感情のかけらもない声音で言われ、少女は少しひるんだように身をすくませた。

 それから自分よりも頭一つ分以上背の高い彼を上目遣(うわめづか)いに見上げ、ためらいがちに尋ねる。

「……怒ってるの?」

「君がもしそうしたら怒るかもしれないし、多少は恨むだろうな」

「どうして?」

 少女が尋ねると、やはり保健医は抑揚(よくよう)のない語調で「誰でも自分の無力さは知りたくないから」と言った。

「君が私や君を知る者に最期(さいご)(のこ)すもの、告げることがそんなものだというのはひどい話だと思うなら、窓から出ていく選択肢は選ばない方がいい。少なくとももう悲しい思いをせずにすむはずの君が、君を知る者たちにつらい宣告をしたと嘆かなければいけなくなる。それだと誰も幸せになれないままだ」

 そう言って彼は黙り込み、ただじっと様子をうかがうように少女を見つめる。その赤い瞳には、さっき彼女が感じた恐怖をかき立てるものはもう見当たらなかった。

 そのことに少女は戸惑(とまど)い、何かの答えを探すように光を招き込んでいる窓の方へと目を向ける。

 美しい景色は心を(いや)すからと学園内でもっとも高い階に(もう)けられた保健室だが、そもそもの敷地が広く、充分すぎるほどの専用施設や部屋を造ってもそれほどの高さを必要としなかったため、窓の向こうは高層ビルから見るような風景には程遠い。だが、それでも落ちたら怪我ではすまないくらいの高さだ。

 そんな高みから身をひるがえしたら、何もかも忘れ、干からびた胸の奥を(うるお)す何かに()がれながら閉塞感(へいそくかん)におぼれることもないのだろうか。

 そういったことを考えてみた頃のことをぼんやりと思い返し、少女はうつむいて小さく呟いた。

「先生は生きるのをやめることは良くないって思ってるんだね」

 独り言のようにも聞こえる少女の言葉に保健医は軽く肩をすくめて応えた。

「良いか悪いかだけで言えば、決して良いことではないだろう。自ら幕を引くことを考えずに生きられるならその方がいい。その意味で言えば、本当は保健室なんてものもない方がいいと言える。怪我人や病人がいなければ必要ないからな。そんな者がいない天国のような世界が存在するならそれが一番いい。だが現実はそうではないし、時には『悪い』と思える選択が唯一(ゆいいつ)の救いになることもあるだろう。だから()めているわけじゃなく、ただ知っておいて欲しいだけだ。残される側がどう思うかということを」

 彼はそう言うと、うなだれたままの少女から視線をはずすことなくさらに言葉を続ける。

「残された者にそういったものを与えるとしてもなお、君にとってそれをする価値があると言うなら私も止めはしない。怒りもしないし、たぶん恨むこともないだろう。せめて君の行く先がここより住み良い場所であることを願うだけだ」

 保健医の言葉に少女は制服のスカートを握りしめ、かすかに涙のにじむ声音で呟いた。

「でも、じゃあ、あたしにはやっぱりどこにも居場所なんてないみたい」

 それはなんて地獄だろう、と少女は思う。

 そんな話を聞いて、窓の外に出て行くこともできないのなら、この世のどこに居場所なんてあるのだろうかと。

 長身の保健医は何度かのまばたきの間、黙然と目の前の少女を見下ろしていたが、やがて静かに、そして少しだけゆっくりと言葉を(つむ)いだ。

「君は自分を変だと言うが、君ではなく君のいるべき場所が間違っている可能性もある。例えるなら、手の指の骨の中に足の指の骨が一本間違ってはまっているような感じだ。正しい位置にあれば上手く使えるのに、置いてある場所が間違っている。そのせいで指を一本落とさないといけないとしたら、残念な話だ」

「そういう時はどうしたらいいの?」

 顔を上げて不安そうに少女が問うと、保健医は「一番簡単なのは待つことだろうな」と答えた。

「幸い君は学生だ、卒業すれば自然と居場所は変わる。もしも他のコミュニティに入ってからも同じように感じるなら、骨の場所を変えるのと同じくらい苦労するかもしれない。だが、骨の数しか君の選べる場所がないとは思わないことだ。小さな窓より他に行けるところはたくさんあるし、その気になれば自分で新しい場所を作ることも可能だろう。君に必要なのはそういう君に合った場所と、そこを探すのを手伝ってくれる人だと私は思う」

「どっちも見つからなかったら?」

 自信なさげな表情を浮かべ、少女がさらに尋ねる。

 それに保健医は沈黙のまま、血の気のない手を彼女の方へ差し出した。

 驚いた顔で少女が保健医の白い顔と手を交互に見やる。

 真意をはかりかねている少女に、彼は気負(きお)った様子もなく淡白(たんぱく)な口調で言った。

「その時は、君さえ良ければここに来てもいい。ただし、窓から来た場合は本当にその選択が君にとって最善でない限り、いくら私でも君とは話せなくなるということは忘れないで欲しい」

 その言葉を聞いた少女は自分に差し伸べられた手に再びそっと視線を落とした。

 細く長い指の先にカーテンの隙間(すきま)から差し込む光の帯がかかり、作り物めいた彼の手をいっそう曖昧(あいまい)で非現実的なものに見せている。

 輪郭(りんかく)がくすんで見えるのは光のせいだろうか。

 そう考えた少女は次の瞬間、光の当たった彼の指先からうっすらと煙が上がっていることに気がついた。そればかりか、指の間からサラサラと音もなく何かが(こぼ)れ落ちているのが見える。床の上に降り積もるそれは砂か灰のように見え、彼の(くず)れゆく指の先からはわずかに骨がのぞいていた。

 少女はとっさに腕を伸ばし、彼の手を光から隠すように両手でつかんで影の中へと押し戻す。

「何これ……」

 日光の下から逃れた途端(とたん)、引いていた潮がゆるやかに押し寄せるように保健医の手が元に戻っていき、少女はそれを呆然(ぼうぜん)と眺めながら驚愕(きょうがく)混じりに呟いた。

 その短い言葉を言い終わる頃には彼の指は元通りになり、細くたなびく煙もすでに見当たらない。

 保健医は自分のことをまじまじと見つめる少女の問いに答えを返す代わりに数秒の沈黙を返したあと、「カーテンを閉めている理由は」とおもむろに言った。

「窓の向こうの手の届かない景色に見惚れて、そこから飛び出すうっかり者が出ないようにするためだ。だからここはいつも死人の病室のように陰鬱(いんうつ)で独房のように閉鎖的だが、それでも良ければ来て構わない。もしも君とご両親との間で話し合いが上手くいかない時があれば、間を取り持つこともできるだろう。生きる理由がないことと自分の居場所がないと感じることは別の問題かもしれないし、あるいはまだ君が話していない他の問題もあるかもしれないが……何にせよ、良くも悪くも君の心の内は君にしか判らないし、君一人で解決できない時は誰かに頼る必要がある。その誰かの候補が一人増えたと思ってくれればいい。ただ、頭の心配をするならここを訪れるのは休憩時間か放課後の方がいいと忠告はしておく」

 そんな彼の言葉は先ほどの現象を説明するものではなかったが、少女がそれを追及(ついきゅう)するよりも先に高らかな鐘の音が鳴り響いた。

 少女がはっと顔を上げ、室内にしつらえられたスピーカーに目を向ける。

「やば、授業が始まっちゃう」

「今のは終業のベルだ」

 相変わらずの無感動な声音で言った保健医の言葉に少女が驚いて振り向く。彼女には始業ベルの音を聞いた覚えがなかった。

 しかし、あわててスマートフォンを取り出して時間を見ると、確かにそれは授業の終わりの時刻を示している。

「うそ……さぼっちゃった?」

 少女はそう呟いたきり、唖然(あぜん)とした表情でその場に立ち()くす。彼女には学校で勉強をする明確な理由はないが、それでも授業をさぼるなどということをしたのはこれがはじめてだ。クラスメイトの噂話(うわさばなし)をちょっと耳にしただけでわざわざ保健室に来ようと思い立ったこと自体、基本的に自分から何かしようとは思わない普段の彼女からは考えられないことだと言える。

 そんな自分に内心驚く彼女に背を向け、保健医は事務机の方へ歩み寄ると、先ほど何かを書き込んでいた小さな紙片を手に取り、彼女に差し出した。

 不思議そうにそれを受け取った少女は、その小さな紙きれが養護教諭の判断で生徒の授業を休ませたことを示す証明書だと気付いて顔を上げる。

「話せと言ったのは私だからな。それを担任に渡せば君が怒られることはないだろう」

 保健医はそう言うとまた事務机の方に向かい、再び椅子に腰を下ろした。

 それから机の上にある棚の一つに手を伸ばしファイルを取り出すと、何かを探すようにパラパラとめくり始める。

 その手を止めることもなければ顔も上げず、彼は「私が君にとって何かを話す価値があるというならもちろんここにいていいが、単位は落としたくないと思うなら早く戻らないと、ホームルームもさぼることになるぞ」と、(いま)だ窓際で硬直(こうちょく)している少女に言った。

 その言葉が呪いを解く呪文であったかのように少女はようやく我に返り、入ってきたのと同じ扉の方へとあわてて駆け出す。

 しかし、扉を開けて一度振り返り、彼女は「ねえ、先生」と声をかけた。

 そしてどこかいたずらっぽい口調で尋ねる。

「あたしがここに入り(びた)ったらどうする?」

「それは困るな。私は(ひと)りの方が好きだし、君を少しでも早く追い出せるように努力しよう」

 手にしたファイルから顔を上げ、保健医はそう言ってかすかに笑った。

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